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missドラゴンの備忘録  作者: 青背表紙
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閑話 母のない子と子のない母と

少しだけ生活にゆとりが出てきたので、またお話を書いてみようと思います。今回は以前、きょう様から感想でアイデアをいただいた王様の侍女ヨアンナさん視点のお話です。主人公のドーラさんは全く登場しません。続きだと思われた方は本当にすみません。

「新国王ユルス6世陛下万歳!! ドルアメデス王国に永遠の栄光あれ!!」


 尖塔の小さな窓から新国王即位を祝賀する人々の声が遠く聞こえてきます。私は小さく息を吐いて、中断していた荷造りにまたとりかかりました。


 長い間、職場であり生活の場所であったこの尖塔とも今日でお別れです。私は主のいなくなった国王専用の執務机にふと目をやりました。


 明日の午前中には新国王陛下とその近習の者たちがこの尖塔に移り住む準備が始まります。ですから今日の午後までにはこの場所を明け渡さなくてはならないのです。


 頭ではそう分かっていても、荷造りのために品を手に取るたびその一つ一つに残る思い出が心を過るため、片づけは思うように進みません。






 前国王ロタール4世陛下、ヨハン様はわたくしの人生のすべてでした。大変不敬であり、不遜であるのとお叱りを恐れずに言わせていただけるなら、私はこれまでヨハン様の母親になったような気持ちでお側にお仕えしておりました。


 私は若い時分に我が子を死産し、そのことが元で子を成すことができなくなってしまいました。そんな私にヨハン様は居場所だけでなく、母親としての喜びをも与えてくださったのです。ヨハン様には本当に感謝してもしきれません。


 がらんとした執務室をぼんやりと眺めていると、私の胸の中にこれまでヨハン様にお仕えした長い日々の思い出が次々と浮かび上がっては消えていきます。


 私は我知らず熱くなった瞼をそっと指で押さえ、ヨハン様と初めてお会いしたあの日のことをまるで昨日の出来事のように思い出しておりました。











「そなたがヨアンナ殿か? 私はヨハンだ。これからよろしく頼む。」


 王太子ご一家がお暮しになる東宮の離れで初めてお会いした時、ヨハン様はそう言って私に挨拶をしてくださいました。あれは私が17歳になった年の初夏、ヨハン様はまだ7歳でいらっしゃいました。


 ヨハン様はお祖父じい様であられる当時の国王陛下によく似たお顔立ちをしていらっしゃいました。初めてお会いした時の私の印象は、とにかく利発で生真面目そうなお子様だなというものでした。






「母上は今、私の弟か妹を身籠っておられる。私は良き兄となれるよう励むつもりだ。ヨアンナ殿は母上の遠縁だそうだな。どうか私に良き兄としての振る舞いを色々と教えてほしい。」


 目をキラキラと輝かせながら、ヨハン様はまだあどけないお声で私にそうおっしゃいました。


 ヨハン様のお母様、当時の王太子妃様は私の遠縁にあたる王党派貴族家の出身で、私を幼い頃から実の妹のように可愛がってくださっていた方です。そんな私が子供を産めなくなり婚家から実家へ戻されたことを聞きつけた王太子妃様は、ご自身が出産するまでの間だけ、まだ幼いヨハン様の専属侍女の職を私に紹介してくださったのでした。


 その王太子妃様のお心遣いは、当時の私にとって願ってもないことでした。婚家を追われるようにして実家に戻らざるを得なかった私は、死んだ我が子の弔いも十分にできぬまま、針の筵に座らされたような心持で半ば死んだように毎日を送っていたからです。






 この時のヨハン様はこれから生まれてくる弟妹のことをとても楽しみにしておいででした。正直な気持ちを申し上げれば、自分の子を亡くしたばかりの私にとって、新たな命の誕生を待ち望むヨハン様のお言葉は少しだけ心憂く思えました。


 ですが純粋な気持ちで良き兄になろうとしていらっしゃるヨハン様とお話しするうちに、私は自分の心が軽くなっていることに気が付きました。


 それはもしかしたら亡くした我が子の成長した姿を知らず知らずヨハン様に重ねていたからかもしれません。私はいつの間にかヨハン様のために少しでもお役に立ちたいと思うようになっていったのです。






 ヨハン様は私に手本となる良き兄とはどのようなものかとお尋ねになりました。もちろんそんなことは私がお教えしなくとも、帝王学の専属教師から何度もお聞きになっているはずです。


 ですから私は私にしかお話しできないこと、つまり王太子妃様が私にしてくださった数々のお心遣いについてお話しすることにしました。王太子妃様は私にとっては少し年の離れた姉のような存在であり、私の憧れでもあった方だったからです。


 ヨハン様は子供時代のお母様の話に大変興味を持たれ、私に何度も質問をしながら話を聞いてくださいました。そうやって話すうち、ヨハン様は私自身についても色々と質問なさいました。


 私はヨハン様に問われるままに自分の身の上を語りました。私が我が子を死産したことをお話しすると、ヨハン様は神妙な面持ちで聞いていらっしゃいました。そして聞き終わると、その小さな手をそっと私の手にお重ねになりました。






「辛いことを尋ねてしまってすまなかった。」


 ヨハン様はそう言って私に小さく頭をお下げになりました。


 普通、貴族女性であればこんなとき「もう済んだことでございます。どうぞお気になさらずに」と笑顔で答えるものです。ですがこの時の私は心がどこかおかしくなっていたのでしょう。


 今思い返しても恥ずかしい限りなのですが、私は言葉に詰まってしまい、思わず涙を流してしまったのです。誠心誠意お仕えするべき主の謝罪に対して涙を流すなど、こんなに不調法なことはありません。


 私はすぐに「申し訳ございません」と謝罪して何とか涙を止めようとしました。ですが一度流れた涙は堰を切った川の流れのようで、なかなか止まってくれません。そんな私にヨハン様は黙って手巾を差し出してくださいました。






「私はほんの子供に過ぎないから、今のヨアンナ殿にどんな言葉をかけてよいか分からない。どうか私の不明を許してほしい。その代わり私の前で思う存分泣いてくれて構わない。それでヨアンナ殿の悲しみが少しでも流せるのなら、是非そうして欲しい。」


 手巾を持つヨハン様の手は小さく震えていらっしゃいました。私は「もったいないことでございます。私の方こそお許しください」と言おうとしました。


 ですがそんな思いとは裏腹に、私はいつの間にかヨハン様の差し出した手巾を受け取ってしまっておりました。そして気が付いたとき、私はその場に崩れ落ちるように膝を付き、声を上げて泣いていたのでございます。思えば我が子を亡くしてから声を上げて泣いたのは、これが初めてのことでございました。私はこの時になってやっと、我が子の死を悼むことができたのでございます。


 ヨハン様は側に立って私の様子を見ていてくださいました。私の声に驚いて他の侍女や東宮侍従たちが駆けつけて来ましたが、ヨハン様は「今は部屋に立ち入らないように」とだけ言って彼らを追い返してしまわれたのでした。





 こうして私はヨハン様にお仕えする初日から大変恥ずかしい姿をお見せしてしまったわけです。私はてっきりその日のうちに実家に戻されてしまうだろうと思っていました。ですが、なぜかヨハン様が私を庇ってくださったので、私はそのままお仕えすることになりました。


 私はヨハン様にお礼とお詫びを申し上げた後、どうして私を庇ってくださったのですかとお尋ねしました。するとヨハン様は少し照れた顔をしてこうおっしゃいました。


「ヨアンナ殿を泣かせてしまったのは私の責任だ。そなたが気にすることはない。それよりもその・・・母上様の子どもの頃の話をもっと聞かせてはくれないか?」


 もちろん私は笑顔で「はい!」とお答えしました。その時、私は不覚にもまた涙を一粒零してしまいました。でもそのうれし涙を、ヨハン様はそっと見ないふりをしてくださいました。


 ヨハン様の優しいお心遣いで、私は心の痛みを乗り越えることができました。その日、私はヨハン様に誠心誠意お仕えしようと心に強く誓ったのです。その気持ちは数十年がたった今でも全く変わっておりません。ヨハン様はあの日からずっと、私のたった一人のご主人様なのでございます。











 その後、ヨハン様のお母様である王太子妃様は次々とヨハン様の弟君、妹君をご出産なさいました。私は王太子妃様が妊娠していらっしゃる間だけの専属侍女だったのですが、ご懐妊が続いたため結局2年余りの間、ヨハン様にお仕えさせていただきました。


 ヨハン様は弟君や妹君のお世話やご公務で忙しくされている王太子妃様に負担をかけまいとして、良き兄となるべく勉強や剣の稽古、それに魔術の訓練に励んでおられました。


 しかしヨハン様自身もまだまだ幼い子供です。思うようにお母様にお会いできず、ヨハン様はいつも寂しい思いをしていらっしゃいました。夜お休みになられる前、ヨハン様はよく私に「ヨアンナ、また母上様のお話をしてくれないか」とお頼みになられました。そして私の話を聞きながら眠りに就かれるのです。


 ヨハン様の目の端に溜まった涙をそっと指で拭い、夜具を直してお部屋から下がる。そんな日が何日も続いたのでした。






 ヨハン様の妹君が生まれて一年が経った頃、ついに私の専属侍女としての勤めが終わる日がやってきました。妹君がある程度成長したことで、王太子妃様は育児を乳母に任せて、またヨハン様と一緒にお暮しになることになったからでございます。


 その時、ヨハン様は9歳。初めてお会いした時とは見違えるほど背が伸びて、もう立派な若君になっておられました。


 東宮離宮からお下がりする日、私はヨハン様にお別れの挨拶を申し上げるため、お部屋を訪ねました。


「ヨハン様、今日まで本当にありがとうございました。ヨハン様が立派な国王となられる日を、ヨアンナも遠くから見守らせていただきます。」


「・・・ああ、そなたも達者でな。」


「??」


 いつもならにこやかにお話ししてくださるはずのヨハン様ですが、この日はなぜかとても不機嫌な様子をなさっていました。と言っても、怒っていらっしゃるという感じではなく、どちらかと言えば少し拗ねたような感じを受けました。私は心配になり、ヨハン様にお尋ねしました。






「ヨハン様、どうかなさったのですか? せっかくお母様と一緒に過ごせるようになられたというのに・・・そんな顔をなさっていてはお母様を心配させてしまいますよ。」


 そんな私の言葉にヨハン様はふいと顔を背けられました。しばらく黙り込んだ後、ヨハン様は吐き捨てるように小さく私におっしゃいました。


「母上様は私がいてもお喜びにならない。ハンスやクラーラがいれば私などいらないのだ。」


 ハンス様とクラーラ様はヨハン様の弟君、妹君でいらっしゃいます。ヨハン様の言葉に私は心底驚いてしまいました。私は驚きのあまり、思わずヨハン様の両腕に縋りつきました。


「どうなさったのですヨハン様!? 良き兄になるとあんなに頑張っていらっしゃったではありませんか! どうかヨアンナに訳をお聞かせください!」






 ヨハン様は私のあまりの勢いに大変驚いたようでした。そしてぽつぽつとお気持ちを話してくださいました。


 ひと月ほど前に王太子妃様の離宮に移られた後、ヨハン様は弟君や妹君と一緒にお過ごしになったそうです。ですがそこでお母様である王太子妃様から大変冷たい応対を受けたというのです。


「私は母上様に、私もこれからはできる限りハンスやクラーラの世話をしますと申し上げた。それなのに母上様は『二人に近づいてはなりません』とおっしゃったのだ。」


 ヨハン様は悔し涙を目の端に浮かべたまま、私にそうおっしゃいました。王太子妃様はヨハン様に「あなたがすべきことは弟妹の世話ではなく、良き国王となるべく努力を重ねることです」と冷たく言い放ったそうです。その言葉と様子に、ヨハン様は大きなショックを受けられたようでした。






「母上様はハンスやクラーラにはいつも優しく笑いかけていらっしゃる。それなのに私には厳しい口調で『もっと努力なさい』とおっしゃるばかりだ。きっと母上様は自分に似ていない私を嫌っていらっしゃるのだ。」


 そう言ってヨハン様は涙を一粒零されました。確かにヨハン様と違い、ハンス様とクラーラ様は美姫として名高い王太子妃様によく似ていらっしゃいます。ですが王太子妃様はそんなことで我が子をないがしろにするような方ではありません。私は思わずその場にしゃがみ込んでヨハン様の両肩を掴みました。


「そんなことはありません。王太子妃様がそんな方でないことは、ヨハン様が一番よくご存じのはずでしょう? 王太子妃様がヨハン様に厳しく当たられているのは、それだけヨハン様に期待なさっているからです。」


 ヨハン様は顔を背け、歯を食いしばったまま私の言葉をじっと聞いていらっしゃいました。私はきっと分かってくださるだろうと信じて、ヨハン様の肩に手を置いたまま、その横顔を見つめました。





 

 ところがヨハン様はその私の手を振り払われたのです。余りの勢いに私は姿勢を崩し、その場に座り込んでしまいました。強かに腰を床にぶつけた私を見て、ヨハン様はハッとした顔をされました。その時のヨハン様は、今まで見たこともないほど痛ましい表情をなさっていました。


「ヨハン様!!」


 私は心配のあまり自分の腰の痛みも忘れ、ヨハン様に呼びかけました。ヨハン様は一瞬、私の方を躊躇うようにご覧になりましたが、すぐに踵を返すとお部屋から飛び出して行ってしまわれました。私はすぐにヨハン様を追いかけようとしましたが、倒れた時に足を捻ってしまったせいで立ち上がることができませんでした。


 その後、何とか立ち上がってヨハン様を探しましたが結局お会いすることができないまま、私は王宮から下がることになりました。私は実家に帰って兄嫁の仕事の手伝いをしながらも、ヨハン様のことをずっと気にしていました。


 ヨハン様のお祖父様であらせられる国王陛下が何者かに暗殺され、それに巻き込まれたヨハン様が大怪我をなさったという知らせが私の元へ届けられたのは、それからふた月ほど後のことでございました。












 新たな国王となられたヨハン様のお父様から直々に依頼され、私はまたヨハン様の元でお仕えすることになりました。私は依頼の使者が屋敷を出るよりも早く実家を飛び出すと、すぐにヨハン様の元へと駆けつけました。


「ヨハン様!!」


 ヨハン様は東宮内にあるご自身の寝室にいらっしゃいました。左半身に火傷を負い、包帯を巻かれた状態で寝台に横になっていらっしゃったのです。私の声を聞いたヨハン様は、包帯に覆われていない右目を薄く開けると、私の方を見て僅かに微笑まれました。


「ヨアンナ殿か、よく来てくれた。」


「ヨハン様、陛下と王太子妃様が・・・!」


「分かっている。あれだけの爆発だ。皆、亡くなったのだろう? ハンスやクラーラも・・・。」


 ヨハン様はそれだけ言うと、再び目を閉じてしまわれました。私はなんと言葉をお掛けしてよいか分からず、お顔にかかっている焼け焦げた前髪をそっと指で払いました。


 ヨハン様はそのまましばらくじっとしていらっしゃいましたが、やがて独り言のようにポツリとおっしゃいました。


「あの瞬間、母上様が私を炎から守ってくださったのだ。」


「王太子妃様が・・・!」


 私は思わず息を呑み、その後の言葉を続けることができませんでした。






 前国王陛下がお隠れになられたのはつい3日前のことでした。来年王立学校への入学を控えたヨハン様の祝賀の宴に出席するため、馬車に乗っていらっしゃるところを襲われたのです。


 護衛のために随伴していた魔導士が突然、自らの魔力を暴走させ陛下の乗っていらっしゃる馬車ごと自爆したと聞いています。その威力は凄まじく、すぐ後ろを走っていた王太子妃様の馬車まで焼き尽くしたそうです。


 この襲撃では前国王陛下だけでなく、王太子妃様と二人の幼いお子様、それに王党派の主だった騎士たちの多くが命を落としました。2台の馬車の周辺で助かったのはヨハン様ただお一人だけだったのです。


 言葉に詰まる私の手を、ヨハン様は包帯に覆われていない右手でそっとお取りになりました。






「本当に一瞬だったのだ。アッと思った時にはすでに炎が眼前に迫っていた。私は母上やハンスたちを守ろうとしたが何もできなかった。私は死を覚悟したよ。」


 ヨハン様は横になったまま私の方に頭をお向けになり、そうおっしゃいました。それは私に話しているというより、ご自分に言い聞かせていらっしゃるような感じがしました。


「炎の熱を左の頬に感じたその時、母上様は私を抱きしめてくださった。そしてご自身の魔力を振り絞って私を炎から守ってくださったんだ。」


 私はいつの間にかヨハン様の手を握りしめたまま涙を流しておりました。ヨハン様は痛む体を起こされ、まだ新しい火傷の跡が残る右手で私の涙をそっと拭ってくださいました。






「ヨハン様、まだ起きられては・・・!」


 私はすぐにヨハン様のお体を再び横たえようとしました。しかしヨハン様は静かに首を振って私を押しとどめられました。


「よいのだ。それよりもヨアンナ殿。其方が私の元から下がったあの日、酷いことをして済まなかった。どうか許してほしい。」


「いいえ! ヨハン様、いいえ・・・!!」


 私はヨハン様の目を見つめながらただ首を振ることしかできませんでした。ヨハン様は少し目を伏せながら、私におっしゃいました。


「私は愚か者だ。最期まで母上様の思いを分かっていなかったのだから。あの時、私を守ろうと抱きしめてくださった母上様の目を見て、私はやっと母上様が私を誰よりも愛してくださっていたのだと気が付くことができた。」


 そこまでお話しされたところで、静かに話していたヨハン様はくしゃりと顔を歪められました。そして両手で顔を覆いになると、食いしばった歯の間から言葉を絞り出すように言葉を発せられました。






「いや、本当は最初から分かっていたのだ。だが未熟な私は母上様のお気持ちを受け止めることができなかった。わた、私は・・・母上様に何も・・おこたえ、で、出来ずに・・・出来ないままで!!」


 ヨハン様は自分のお顔をぎりりと爪をお立てになりました。食いしばった口の端から血が滲むのを見た私は、大変不敬なことですが思わずヨハン様を抱きしめてしまいました。


 ヨハン様はびくりと体を震わせ、私から体を離そうとなさいました。しかし私は自分の胸にヨハン様の頭をしっかりと抱き寄せました。


「何もお応えできなかったはずはありません! 現にヨハン様はこうやって生きていらっしゃるではありませんか!」






 私がそう申し上げると、ヨハン様の体からすっと力が抜けました。薄い麻のドレスを着た私の胸にヨハン様の熱い涙が滲んでいくのが分かりました。私は小さく震えるヨハン様の背中をそっと撫でました。


「・・・ヨハン様がこの先、生きて幸せになられること。それこそが王太子妃様が一番、望まれたことです。私はそう確信しております。」


 私が背中を撫でているうちにヨハン様は小さく嗚咽を漏らし始めました。嗚咽は次第に大きくなっていき、やがてヨハン様は声を上げて泣き出してしまわれました。


 その日、私は自分も涙を流しながら、私の体に縋りつくようにして泣きじゃくるヨハン様が泣きつかれて眠るまで、そうやって背中を撫で続けたのでした。











 その後、私は正式に王太子付き専属侍女としてヨハン様にお仕えすることになりました。そして二人で涙を流し合ったあの日以来、ヨハン様は私に色々なことを相談してくださるようになったのです。私はこれまでずっと一番お側で、ヨハン様の日々を見守って参りました。


 親友のハインリヒ様との派手な喧嘩と仲直り。将来お后となられるフェリスベアータ様との出会い。今でも目を瞑ると、理想の王国を作ろうと三人で語り合っていらっしゃった学生時代のお姿をはっきりと思い出すことができます。


 国中が湧いたヨハン様の結婚式。お世継ぎであるユリス殿下とその弟君パウル殿下の誕生。仲睦まじい御家族の姿。思えばあの頃がヨハン様にとって一番幸せな時期だったように思います。


 しかしその後に起きた父王陛下の暗殺をきっかけとして、ヨハン様の人生は波乱に満ちたものになっていったのです。






 ヨハン様がロタール4世として即位された直後、バルシュ侯爵家の反逆とそれに続く反王党派貴族との暗闘で王国の政治は大いに乱れました。ヨハン様はそれを何とかしようと奔走されましたがそんな折、追い打ちをかけるようにお后であるフェリスベアータ様が病死なさったのです。


 そしてそれが元で、あんなに仲の良かった二人の王子殿下は互いに反目し合うようになってしまわれました。ヨハン様が自分の魔法で王国を豊かにするという夢を諦め、若い頃から続けていらした研究を止めてしまわれたのはちょうどこの頃のことです。


 ヨハン様は自分の理想を押し殺し、弱ってしまった王家の力を強めるために貴族との駆け引きに力を注ぐようになります。ハインリヒ様のご協力でかろうじて王党派の結束を保つことができたものの、それは非常に危ういものでした。


 いつ内乱が起きて王国が瓦解するか分からない。ヨハン様は恐怖と戦いながら、歯を食いしばって毎日の政務を続けていらっしゃったのです。


 魔法薬で無理矢理体を動かし、酒精で不安を薄める。そんな生活が何年も続きました。あの頃、私はヨハン様が心配でなりませんでした。そしてヨハン様のために何もできない我が身の無力を本当に口惜しく思っていました。






 しかしいつの頃からかヨハン様はかつてのような精力を取り戻し、溌溂と政務に臨まれるようになりました。そしてそれに伴うように王国内の情勢も次第に安定していったのです。


 振り返ってみるとそれは、ドーラさんという不思議な女性がヨハン様のお部屋に現れるようになった時期と重なっています。彼女は見たこともないような癒しの術を使って、ヨハン様の心と体を癒してくれていたのです。


 ヨハン様は彼女を「私の大切な友人であり、専属の介護術師だ」と笑いながら紹介してくださいました。私ははじめ、あまりにも美しい容姿を持つ彼女のことを警戒しておりました。しかし少し話してすぐに、彼女が驚くほど純粋で無垢な女性であることに気が付いたのです。


 彼女が何者なのか結局私には分からずじまいでしたが、私は今でも彼女にとても感謝しています。






 そのドーラさんは数年前にカール・ルッツ伯爵様と結婚して、ハウル領の領主夫人になりました。でもそれからもドーラさんは夜中にこっそり、ヨハン様を訪ねてきました。


 彼女が話すハウル領の発展の様子や、彼女の妹であるエマさんが嫁いだサローマ領のことなどを、ヨハン様はニコニコしながら聞いていらっしゃいました。


 夜中にこの尖塔で開かれていた秘密のお茶会。そこへ給仕役として参加することを、私も心から楽しみにしていたのです。


 ですがそれももう二度と開かれることはありません。私は主のいなくなったヨハン様の書斎に目を向け、再び大きくため息を吐きました。











「どうしたヨアンナ。そんなに大きなため息など吐いて。それにまだ荷物の片づけが終わっていないようだが?」


「申し訳ありません、陛下。」


 もうすっかり旅支度を整え終えられたヨハン様に、私は丁寧にお詫びを申し上げました。


「お部屋の物を手に取るたびに色々なことが思い出されてしまって・・・。」


 私が目の端に溜まった涙を指で押さえながらそう申し上げると、ヨハン様は足元にあった小さな箱を拾い上げられました。


「・・・これはまた懐かしいな。」


「王妃様がお輿入れの際に持ってこられた香箱でございますね。」


 私の言葉にヨハン様は小さく頷かれると、鍵呪文をお唱えになりました。すると香箱の魔法鍵がカチリと音を立てて開きました。


 ヨハン様は香箱の中に入ったたくさんの手紙をご覧になると、嬉しそうに目を細められました。幼い字で書かれたこの手紙はすべて、まだ小さかった頃の両殿下が王妃様に宛てて書いたものです。ひとしきり手紙に目を通された後、ヨハン様は丁寧に手紙を箱にお戻しになりました。






「この香箱は婚約の時に私が作って彼女に贈ったものだ。まだ残っているとは思わなかったよ。」


 目をしばたたかせながらそうおっしゃったヨハン様の言葉に、私は大きく頷いてお応えしました。


「王妃様はお亡くなりになる直前までその箱を手元に置いて大切にしていらっしゃいましたから。他の家具はほとんど処分されてしまいましたけれど、それだけはどうしてもと無理を言って私が引き取らせていただいたのでございます。」


「そうか・・・。」


 ヨハン様は呟くようにそうおっしゃった後、小さな香箱を愛おしそうにご覧になりました。


 その後、私たちは馬車の準備が整ったとの知らせが来るまでの間ずっと、ご家族の思い出を語り合ったのでございました。











 新王即位の祝賀に沸く王都を発った私とヨハン様は、小さな荷馬車に乗って街道を旅しました。こうして旅をするのは初めてではありません。ヨハン様が王として領内を行幸されるとき、私も何度か同行させていただくことがあったからです。


 ただその時には多くの侍従や従者と共に、近衛騎士団や魔導士たちに守られながらの旅でした。こんな風に荷馬車の御者台に二人で座って旅をしたことなどあるはずがありません。私は王都を発つ前、この身軽な旅に少し不安を感じておりました。


 ですが私が想像していたよりも荷馬車の旅はずっと快適なものでした。広々としたレンガ敷きの街道は美しく整備され、多くの旅人が護衛もつけずに行き交っています。彼らと笑顔で挨拶をしながら、これがヨハン様の御治世の成果なのだと私は心底嬉しくなってしまいました。






 街道沿いの村々で宿を取りながら旅をすること10日。ついに私たちは目的地に到達しました。傾きかけた日に照らされてキラキラと輝く白い街壁と巨大な門を森の向こうに見たヨハン様は、馬の手綱を繰りながら私の方に顔をお向けになりました。


「ヨアンナ、大分疲れたろう。腰の具合はどうだ?」


「お気遣いありがとう存じます。昨晩いただいた湿布のおかげで大分痛みが引きました。陛下こそお疲れではございませんか?」


 私がそうお尋ねすると、ヨハン様はたちまち顔をお顰めになりました。


「ヨアンナ、私はもう国王ではない。隠居した一介の錬金術師ヨハンだ。頼むから金輪際、陛下と呼ぶのは止めてくれ。」


「あらまあ、そうでございました。大変失礼いたしました陛下・・・あらあら、私ったら。」






 恐縮する私の様子を見てヨハン様は可笑しそうに苦笑なさいました。けれどすぐに表情を引き締めると真剣な調子でおっしゃいました。


其方そなたまで王都から連れ出してしまって済まなかった。本来なら王都の離宮で安穏と過ごせるはずだったのに、私の我儘でこんなところまで連れてきてしまった。」


 すっかり白くなった眉を下げてそうおっしゃる様子が、幼い頃いたずらを叱られた時の面影にそっくりだったので、私は思わずクスリと笑ってしまいました。怪訝な顔をして私をご覧になるヨハン様の頬にそっと手を差し伸べると、私は小さくかぶりを振ってから申し上げました。






「陛下・・いえ、ヨハン様のいらっしゃるところがわたくしの居場所でございます。私に居場所をくださって、本当にありがとう存じます。」


 ヨハン様はハッとしたように目を見開かれた後、何も言わずにゆっくり大きく頷かれました。そして馬車の行き先にまっすぐ顔を向け、馬を走らせました。私はそのヨハン様の横顔をじっと見つめました。


 春の初めの川風がざっと吹いてオークの葉をざわざわと揺らします。まだ冷たいその風は私の体をひやりと凍えさせました。けれど私は少しも寒いとは思いませんでした。それは心の中から湧き上がってくる何とも言えない暖かさを感じていたからかもしれません。


 じんわりと滲む夕焼けの中、私とヨハン様を乗せた荷馬車はコトコトと音を立てながらゆっくりゆっくりと走り続けたのでした。










 自由自治領ハウルに旅の老錬金術師が小さな工房を開いたとの噂がたったのは、その年の春の終わりごろだった。ドーラ魔術具店を通じて販売される彼の魔法薬は、病やケガに苦しむ多くの人々を救った。


 美味いエールと楽しいおしゃべりを心から愛し、職人通りの端にある工房で腕を振るう彼のことを、街の人々は親しみを込めて「ヨハン先生」と呼んだ。気さくな彼はどこに行っても多くの人に歓迎された。


 そしてそんな彼の側にはどんな時でも笑顔を絶やさない老侍女が一人、いつも影のように寄り添っていたという。

完結後、たくさんの誤字報告をいただきました。今後も直せるところは少しずつでも直していこうと思います。本当にありがとうございました。

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