90 女神は地にあり すべて世はこともなし
最終回です。一応、本編の178話に続く内容になっています。
ヴェッツさんが賭博街の新しい頭目となってからおよそ1年後の冬。私はエマとベルント先生と一緒に王城にやって来ていた。新しい甘味料で作った試作のお菓子を王様に食べてもらうためだ。
王立学校の4年生になったエマとベルント先生は、ついに『甘味料』を安価で大量に作り出す術式の開発に成功した。今日はそのお披露目と報告を兼ねた謁見というわけだ。もっとも私は二人の付き添いで来ただけなんだけどね。
今日の謁見会場は通常使われる大広間ではなく王様の客間が使われている。新しい術式の秘密を他の人に知られないようにするためらしい。
だから部屋の中にいるのも私たちと王様の他には、限られた数の侍従さんと護衛騎士さんだけだ。おまけに王様が魔力で結界を作っているので、この部屋の中の様子を外から知ることは絶対に出来なくなっている。それだけこの術式が重要なものだということなんだろうね。
初めて王様に会うことになったエマは昨夜からずっとがちがちに緊張していた。今朝も朝ご飯が喉を通らなかったせいで、ここに来るまですごく青い顔をしていたのだ。
私はエマが気を失って倒れてしまうんじゃないかと心配で仕方がなかった。王様はそのことを察してくれたらしく、挨拶を終えたエマに自分から進んで言葉をかけてくれた。
「エマ、ずっと君に会いたいと思っていたんだ。いつもドーラさんから君のことを聞かされていたからね。今日はいろいろと君の話を聞かせてもらえると嬉しい。ここなら口うるさい貴族たちの邪魔は入らないからね。」
王様はそう言ってエマに悪戯っぽく笑いかけた。その言葉を聞いた侍従さんは苦虫を嚙み潰したような顔をしたけれど、王様はそれを無視してエマに学校のことをいろいろ尋ねた。そしてエマが勉強を頑張っていることを後見人として誇りに思うとたくさん褒めてくれた。
エマは恐縮しつつも、そのおかげで少し落ち着くことができたみたいだった。
一通りのやり取りが終わった後、私たちと王様は幅の広いテーブルを挟んで向かい合わせに座った。テーブルの上にはさっきエマが《収納》から取り出したばかりの皿がいくつも並べてある。《収納》の中では時間が経過しないので、『熊と踊り子亭』の料理人ハンクさんが作った試作のお菓子は皿の上でまだホカホカと湯気を立て、甘く香ばしい匂いを辺りに振りまいていた。
王様は小さく唾を飲みこんだ後、そのお菓子を指さした。
「これがそなたらの作った『甘味料』、スクラ花蜜を使用して作った揚げ菓子か。」
「はい。是非お召し上がりください陛下。」
ベルント先生がそう言うと、王様の脇に控えていた侍従さんがハウル領名物の揚げ菓子『熊の贈り物』を一つ、別の皿に取り分けた。彼はそれを4つに切り分け、エマとベルント先生、毒見役の人の前に置いた。
皆が見つめる中、三人はそれぞれ自分の皿からお菓子を食べてみせる。お菓子を口に入れた瞬間、エマは蕩けるような笑顔を見せた。
お菓子を食べた三人に異常がないことを何度も確認してようやく、侍従さんは王様の前にお菓子を差し出した。でもせっかくホカホカだったお菓子はもうすっかり冷めてしまっている。
私はこっそりと《加熱》の魔法を使い、王様のお菓子を温め直した。それに気づいた王様は私の方をちらりと見て、目だけで笑ってみせた。王様はわざと大げさに《毒物鑑定》の魔法を詠唱してみせた後、温かいお菓子を口に入れた。その途端、王様は軽く目を瞠った。
「むう。これは素晴らしい! 僅かこれだけの量でこの甘さを出しているとはとても信じがたいな。」
王様はテーブルの上に置かれた別の二つの皿を見比べて唸った。一つの皿にこんもりと盛りあげられている白い粉は遠くの国から輸入された砂糖。これだけで銀貨数十枚分の価値がある超高級品だ。
その隣の皿には小さなティースプーンが載せてある。そのスプーンに半分ほど入っている透明な液体がエマたちの作った『甘味料』スクラ花蜜だ。
スクラ花蜜は僅かこれだけの量で隣の皿の中の砂糖と同じくらいの甘さがあるらしい。しかもティースプーン一杯分の花蜜製作にかかる費用はおよそ銀貨一枚分。砂糖に比べて格段に安い値段で手に入れることができるのだ。
王様は王城の料理人さんが砂糖を使って作った揚げ菓子と『熊の贈り物』を食べ比べた後、何度も満足そうに頷いてみせた。その後で、傍ら控えていた文官さんが持っていた分厚い資料を手にして言った。
「ただ惜しむらくは、この甘味料をいくら舐めても飢えを満たすことができないということか。」
その言葉にベルント先生は少し不本意そうな顔をして頷いた。
「その通りでございます、陛下。その報告書にあります通り、このスクラ花蜜には全く栄養が含まれておりません。現時点ではあくまで『甘み』を楽しむための魔法薬に過ぎないのです。」
その言葉を聞いた王様は眉を寄せ、またエマの書いたスクラ花蜜に関する研究報告書を読み始めた。
このスクラ花蜜は元々、スクローラ草という猛毒草の蜜から作られている。スクローラ草は甘い蜜の香りで獲物を引き寄せ、二度と覚めることのない眠りに誘うことで哀れな犠牲者を養分に変えてしまう。別名『死の揺り籠』と呼ばれるほど危険な植物だ。
二人はその猛毒を無害化して甘みの成分だけを取り出すことに成功した。ただ研究の結果、スクローラ草の蜜は本当に甘いわけではなく、蜜を舐めた生き物に『甘い』という味を錯覚させているだけということが分かったのだ。
そのことが分かるきっかけになったのは、実は私だ。私はエマから完成したスクラ花蜜を舐めさせてもらったけれど、全然甘いと感じなかった。
竜である私はこの世界のほとんどすべての毒物を受け付けない。お酒を飲み過ぎて寝てしまったり、精霊たちが特別な方法で作った薬の影響を受けたりすることはあるけれど、それはほんの例外だ。
私にはスクローラ草の毒も効かない。だから私はこの花蜜を食べても『甘い』と感じられないのだろう。私の話を聞いたエマはそう結論付け、それを元に私やベルント先生と実験を繰り返してスクローラ草の甘みの秘密を突き止めたのだった。
ちなみにヴリトラとフェルスも実験に協力してくれたのだけど、二人はほんのりとスクローラ草の甘みを感じることができるそうだ。これは二人の体が分身体で、元々持っている竜としての力が弱くなっているからじゃないかとエマは言っていた。
流石は私のエマ。エマは本当に賢くて、可愛くて、研究熱心だよね。
私がそんなことをぼんやりと思い出していたら、エマの隣に座っているベルント先生が困ったような声で話しているのが耳に入ってきた。
「・・・という訳で、栄養価を高められるように現在研究を進めておりますが、難航しております。」
エマも神妙な顔で一緒に頷いていた。二人はこの甘味料を砂糖と同じくらい栄養のあるものにしたと思っている。でも元が毒なので、なかなかうまくいかないみたいだ。
申し訳なさそうにする二人に対して王様は鷹揚な笑みを浮かべた。
「まあ、そう気に病むこともあるまい。これで多くの民が『甘み』を楽しめるようになるのは間違いないのだから。二人とも本当によくやってくれた。」
王様はそう言って二人を労ってくれた。そして二人の研究を高く評価し、王国魔術院に命じてこのスクラ花蜜を量産する準備を進めることを約束してくれたのでした。
その後しばらくして、二人が開発した術式によってスクローラ草を量産できるようになり、スクラ花蜜を安定的に生産することができるようになった。
出来上がった花蜜はカフマン商会を通じて上級貴族限定で売りに出された。原液だと甘みが強すぎるこの蜜を、カフマンさんは水で何倍にも薄めて美しいガラスの容器(もちろん私が魔法で作ったものだ)に詰め、高級食材として売り出したのだ。ただ高級食材とはいっても、砂糖に比べたら断然安いんだけどね。
ほんの少しで強い甘みを出すことができる手軽さと価格の安さから、花蜜水は瞬く間に王国貴族の間で人気になり、お茶会などで使われるお菓子に欠かせない品となった。
それは徐々に上級貴族から他の貴族たちへそして平民へと広がっていき、やがて王国に空前のお菓子ブームが巻き起こることになった。それまで甘みに飢えていた王国の人たちは、様々な食材を使って競うようにいろんなお菓子を考え始めた。
その中でもエマは、泡立てたヤギのミルクと花蜜水を冷凍の魔法で凍らせた氷菓子がとても気に入っている。私も食べてみたけれど滑らかになったミルクが口の中でほんのりと溶けるのは、何とも言えない楽しさがあると思った。ただし私は全然甘くは感じなかったんだけどね。
あと、いろいろな素材に甘みを付けられるようになったことで、それまで食用に適さないとされていた果物や木の実、野菜などが食べられるようになったのは思わぬ収穫だった。花蜜水は王国の食文化を大きく発展させただけでなく、次第に貧しい人たちの生活にも欠かせないものへとなっていった。
花蜜水が飛ぶように売れたことで、カフマンさんは莫大な額のお金を手に入れることができた。
それまでカフマン商会は王国各地の荒廃した領の復興事業に積極的に関わっていたため、ここ数年はずっと資金繰りに苦しんでいた。花蜜水の売り上げはその状況を一変させ、カフマン商会を押しも押されぬ大商会へと成長させた。
カフマンさんは復興事業で培った販路を活用し、王国内だけでなくエルフ族やドワーフ族、そして北方の平原にすむ遊牧部族とも交易を進めた。花蜜水はエルフさんやドワーフさんにもとても好評だったみたい。
このことをきっかけに、いろいろな異種族の人たちが王国にやって来るようになった。彼らは王国で魔法や魔導具などについて学ぶとともに、自分たちの種族の文化や技術を広めていった。彼らもたらした技術をもとに更なる魔法や魔導具が開発されるようになり、王国の魔法技術はますます発展していったのでした。
すばらしい甘味料を開発したことで、エマの名は王国中に知れ渡ることになった。花蜜水の発売から1年後、エマが5年生になった春の祝祭で、王様はエマの功績を称え王立学校の特別講師に任命すると発表した。
王立学校の先生になるということは、王国の貴族籍に入ることを意味する。爵位こそないけれどその扱いは子爵位以上。つまりエマは平民から上級貴族に準ずる身分と俸禄を手に入れることになったのだ。
春の祝祭から10日後、王城で行われる春の祝賀の宴にエマは王様の招待を受けて参加することになった。王様から贈られたドレスを着たエマは、宴の会場である王城の大広間でたくさんの人たちに囲まれている。みんなエマにお祝いを言いに来てくれている人たちだ。
春の祝祭の後、ドルーア山のねぐらで人間の姿に戻った私は、エマの付き添いの侍女として後ろからその様子を眺めていた。
今年で14歳になったエマはもう私とほとんど変わらないくらいの背丈になり、すっかり女性らしい見た目に成長している。
金色に近い薄茶色の長い髪は魔法の照明の光を受けて艶々と輝いていた。普段のエマは髪をきちんとまとめているけれど、今日は軽く編み込んだだけで背中に流してある。
だからエマが動くたびにさらさら流れてとてもきれいだ。私が毎日せっせと手入れしている髪は、光に透けるたびに内側から輝くような七色の光沢を発していた。
薄桃色のドレスの胸元からはマリーさん譲りの大きな胸の谷間がくっきりと見えている。エマは周りの同級生に比べて自分の胸が大きいことを少し悩んでいるみたいだけど、私はとてもいいと思っている。だってエマもきっとマリーさんみたいな素敵なお母さんになるに違いないからだ。
薄化粧をして私が作った魔法銀の装身具を身につけたエマは、本当に輝くほどに可愛らしい。次々とお祝いを言いに来る貴族の男性たちもそう思っているようだ。彼らは花に群がる蜜蜂のようにエマの周りに集まり、口々にエマのことを褒めていた。
エマは自分を取り囲んでお祝いを言ってくる男性たちに対して、丁寧な言葉でお礼を返していた。でもその数があまりにも多いのでちょっと困っているようだ。
エマを褒めてもらえるのは嬉しいけれど、困らせるのは許せない。彼らを魔法で蹴散らしてしまおうかと思っていたら、急に彼らは何かに気が付いたような顔をして慌ててその場から引き下がっていった。
「エマさん、講師任官おめでとう。」
引き下がった男性たちの代わりにエマの元に進み出たのはサローマ伯爵の一人息子、ニコルくんだった。もともとは背が高くてひょろりとしていたニコルくんだったけれど、5年生になった今では礼服の下から盛り上がるほどの筋肉がついてすごく逞しい体つきになっている。
彼はこの数年間、王立学校にいる間はもちろん、長期休暇で領にいるときもずっと剣の鍛錬を続けていたらしい。王国でも屈指の英雄であるお父さんから直接鍛えてもらっていたそうで、今やリンハルト王子と並ぶ剣士として王国内でも広く知られた存在となっていた。
ちなみにミカエラちゃんがこっそり教えてくれたところによると、彼がそんな風に体を鍛えるようになったのはエマが原因なんだそうだ。
エマのお父さんであるフランツさんは木こりの親方で、村の誰よりも逞しい体つきをしている。エマはそんなお父さんが理想の男性だといつも周りの友達に話していた。彼はそれをどこからか聞きつけたらしい。
エマもそんな風に自分に好意を寄せてくれている彼のことが好きになったみたいで、最近は私によく彼との会話のことを話してくれている。ただエマは彼を思いながらも、身分差や自分の夢である魔法の研究のことですこし悩んでいた。私はエマが悩みを話してくれることがとても嬉しかった。
ただ恥ずかしがりながらも嬉しそうに彼のことを話すエマを見ていると、なんだかエマを取られてしまうような気がしてほんのちょっとだけ複雑な気持ちだったのも事実なんだけどね。
ニコルくんにお祝いを言われたエマは少しはにかみながら彼にお礼を言った。
「ありがとうニコルくん。でも本当に今でも信じられないの。だって私、ただの木こりの娘なのに・・・。」
するとそれを隣で聞いていたイレーネちゃんがくるりとエマの方に向き直った。
「今のエマさんをそんな風に思う人間など、一人もおりませんわ。あなたは自分の力ですべてを勝ち取ったのですから。」
その言葉にエマが私をちらりと見る。私がうんうんと頷くとエマは花が綻ぶように微笑んだ。
気持ちを切り替えたエマはすっと胸を張り、ニコルくんと視線を合わせた。その頬はほんのりと赤く染まり、瞳はキラキラと七色の輝きを放っている。それを見た貴族の男性たちは落胆の表情を浮かべて黙ってその場から遠ざかっていった。
ニコルくんとエマはしばらく無言で見つめ合っていた。けれど突然、ニコルくんがエマの前に片膝をついて跪いた。周囲の人たちが驚いた様子で動きを止め、二人から少し距離を取る。側で演奏していた楽師さんたちが手を止めたため、大広間の一角に張り詰めた沈黙が下りた。
小さな人垣の真ん中で、ニコルくんは真剣な口調でエマの名前を呼んだ。
「エマさん。」
「は、はい。」
エマは戸惑ったような表情でニコルくんと周りの様子を何度も見た。ニコルくんはエマが自分の方を向いたのを確かめてから、周りにはっきりと聞こえるほどの声でエマに言った。
「私はあなたを妻として迎えたい。どうか私の求婚を受け入れてください。」
彼の言葉に周囲の人たちから驚きの小さなざわめきが起きた。その途端、私は胸の奥がずきりと痛むのを感じた。
「え、あの、私・・・。」
真っ赤になって俯くエマ。エマは困った顔をしてすぐ後ろに立っていた私の方を振り返った。私は激しい胸の痛みを堪えて、そっとエマに寄り添った。
「エマ、大丈夫だよ。普段私に話してくれているエマの気持ちを、彼にちゃんと伝えればいいと思う。」
「お姉ちゃん・・・!」
エマの表情がぱあっと明るくなったのを見て、私の胸の痛みはさらに大きくなった。エマは私にくるりと背を向けると、ニコルくんに向き直った。私を含め、皆が固唾を飲んで見守る中、エマは堂々とした声でニコルくんの求婚に応えた。
「私、今は貴族の奥方様になるよりも、やりたいことがたくさんあるんです。」
エマの言葉に周囲の貴族の人たちがどよめく。サローマ家は王国の中で最も勢いのある大貴族家。いくら上級貴族並みの地位を手に入れたとは言っても、元平民のエマがその嫡男の求婚を断ったのだからその驚きは当然なのだろう。
でも当のニコルくんや、周りで見守っているミカエラちゃん、イレーネちゃんは少しも動揺せず、エマの次の言葉を待っていた。エマは小さく息を呑みこむと、意を決したようにニコルくんに言った。
「それでも・・・いいですか?」
エマの出した前代未聞の答えに、周りの貴族の人たちからさらに驚きの声が上がる。中にはあからさまにエマを非難する目を向ける人たちもいた。でもニコルくんは初めから分かっていたという顔でにっこりと笑い、エマに両手を差し出した。
「あなたならそう言うだろうと思っていました。どうかあなたの夢と共に私の元へ来てください。」
今や大広間のすべての人間が二人を見つめる中、エマはニコルくんの差し出した手をそっと取った。
「はい、喜んであなたの元へ参ります。」
その後、広間中がすごい騒ぎになったけれど、私は頭がくらくらして周りの様子がよく分からなかった。皆に祝福される二人を残して私はそっとその場を離れた。
胸の中から嬉しさとも悲しみともつかない気持ちがどんどん湧き上がって来て、私はすっかり混乱してしまった。大広間の外にある回廊まで出て柱の間から空を見上げると、登り始めたばかりの大きな青い月とそれに寄り添うように佇む小さな白い月が見えた。
ぴったりと同じ速度で登っていく月を眺めているうちに、私は堪らなく寂しい気持ちになってしまった。
「お姉ちゃん!!」
突然後ろから声をかけられ振り向くと、そこには心配した顔のエマが立っていた。エマはドレスの裾が乱れるのも気にせず、私のところに駆け寄ってきてくれた。
「急に姿が見えなくなったからすごく心配したよ。」
「心配かけてごめんねエマ。なんだかちょっとびっくりしちゃって・・・。」
私が言葉を濁しながらそう言うと、エマは黙って頷いて私の両手を取った。
「ありがとうお姉ちゃん。私が自分の夢を追いかけようって思えたのは全部お姉ちゃんのおかげだよ。」
エマの目にはきれいな涙が光っていた。私はエマの乱れた髪を震える指先で軽く直しながら、ゆっくりと頭を振った。
「ううん、そんなことないよ。私、エマが人一倍頑張ってたのをずっと見てたもの。本当におめでとう、エマ。」
そう言った私をエマは驚いた顔で見た。
「お姉ちゃん、涙が・・・!」
そう言われて初めて、私は自分がポロポロと大粒の涙を零していることに気が付いた。
「え? どうして?」
私は慌てて自分の目を両手で拭った。でも涙は後から後から溢れてきて、私の手の隙間からどんどん零れていった。
「私・・・う、嬉しいはずなのに、涙が止まらないよ。へ、変なの。え、えへへ。」
私は笑おうとしたけれど、うまくいかなかった。零れ落ちる涙は虹色の欠片となって私の周りに散らばった。
「私、ちょっと向こうに行ってるね!!」
「お姉ちゃん!!」
私はエマが引き留めるのも聞かず、後ろも見ないでその場から走り出した。私の名前を呼ぶエマの悲痛な叫びがどんどん遠くなっていく。エマの声が小さくなるにつれ、エマを泣かせてしまったことへの後悔の気持ちがどんどん強くなる。
でも胸の奥から沸き上がって来る黒いもやもやした気持ちを抱えたままエマの側にいるのはもっと辛かった。無意識に人を避けながら走っているうちに、私は王城内の人気のない小さな中庭に入り込んでしまっていた。
私は小さな泉の側にある白い石でできた東屋へ向かった。まだ隅の方に雪の残っている中庭には、これから開こうとする花々の香りがかすかに漂っている。私は東屋の中にある石のベンチに腰掛けた。
石の冷たさが薄い侍女服を通して伝わってくる。私はこれまでどんな寒さでも凍えたことがない。でも今は、硬い石の感触で魂が凍り付いてしまうように感じられた。
胸の中で心臓が早鐘のように音を響させている。心が冷えたことで涙は止まったけれど、その代わり目の前がくらくらと回ってる感じがする。まるで世界が歪み、視界の端から少しづつ崩れて消えてしまうような感覚だ。不滅の存在であるはずの私は、それが恐ろしくて仕方がなかった。
視界が冷たい闇に染まっていく。私の足元が崩れ落ち、私はその闇に落ち込んで・・・。
その時、冷たい闇を打ち払うような、暖かいものが私の肩に触れた。
「カールさん・・・!」
ハッと顔を上げると目の前にカールさんの顔が見えた。彼は私の正面にしゃがみ込み、心配そうに顔を覗き込んでいる。
「どうしてここが・・・?」
「この剣が教えてくれました。あなたがここにいることを。」
彼はそう言って右の腰に佩いた魔法剣を指し示した。魔法剣の柄に埋め込まれた竜虹晶が薄く七色の光を放っていた。
彼は黙って私の隣に座った。ほんの少し離れているにも関わらず、彼の体からは確かな熱が伝わってくる。私はその熱に惹かれてそっと彼に自分の体を寄りかからせた。彼は私の背中に腕を添えて体を支えてくれた。私は彼に体を預け、目を瞑ったまましばらくそのままじっとしていた。
彼の心音を聞いているうちに波立っていた気持ちが少し落ち着いてきた。私は独り言のように彼に向かって呟いた。
「私、エマにおめでとうを言ったんです。それなのに涙が・・溢れて・・・。」
言葉に出した途端、また涙が溢れて先が続けられなくなってしまった。彼は私の体を腕で支えながら体を起こすと、座っている私の前にしゃがみ込んだ。彼は私が泣き止むのを待ってから、ゆっくりと頷いた。
「私も少しだけ、その気持ちが分かりますよ。」
私は思わず彼の目を見た。今の私はとても混乱していて自分で自分の気持ちがよく分からない。自分を混乱させているこの気持ちの正体が知りたい。私は縋るような思いで彼の目をじっと見た。
すると彼はまるで知らない誰かの噂話をするような口調で私に語りだした。
「エマは本当に立派になりました。王国の誰もがエマのことを称賛し、多くの人が彼女の将来に期待している。」
カールさんはそこで言葉を切ると、私の目を覗き込みながら問いかけた。
「まるで私たちの知っているハウル村のエマではなくなってしまったみたいですよね?」
その言葉を聞いた途端、私は胸が張り裂けてしまうかと思うほどの痛みを感じた。私は自然と彼に向かって声を荒げていた。
「そんなことありません!! エマはいつだって村の皆のことを一番に・・・!」
そこまで言ってから、私は自分の言葉に驚いて口を閉ざした。彼は穏やかに微笑んで頷くと、いつもの優しい口調で話し始めた。
「そうですよドーラさん。どんなに姿や身分が変わっても、たとえ遠くに離れていったとしても、エマはエマなんです。彼女はあなたの大切な妹。それだけは決して変わることはありません。」
私の大切な妹。その言葉を確かめるようにゆっくりと口に出した時、私の視界は白い光に閉ざされた。
『あたしが女神様に名前を付けてあげる! いい?』
白い光の向こうから私の脳裏に初めて出会った頃の幼いエマの声が響いた。
私の目の前に初めて会った時の、小さい小さいエマが現れた。無邪気に微笑みながら小さな手を私に伸ばしてくれたエマ。私はその手に引かれて人間の世界に入ることができたのだ。それからもずっとエマは私に色々なことを教えてくれた。
エマと過ごした日々が次々と白い光の中に浮かんでは消えていく。
『そうだ、ドーラおねえちゃん! あたし、いいこと考えちゃった!』
私はエマが私のために考えてくれる『いいこと』が本当に大好きだった。時には二人でマリーさんからこっぴどく叱られることもあったけれど、それでもエマの『いいこと』はいつでも私を本当に幸せな気持ちにしてくれた。
あのエマはもういなくなってしまった?
ううん、そうなことはない。エマはいつだって、いつまでだって私の大好きなエマなのだ。カールさんの言う通りエマは私の大切な、たった一人の妹。たとえどんなに時が流れたとしても、それだけはいつまでも変わることがない。
私は自分にそう言い聞かせてそっと目を瞑った。瞼の裏に見えるのは私の手を引いて歩く小さなエマの姿だ。
私の記憶の中の小さなエマはどんどん成長していき、やがて現在のエマの姿に重なった。
『ありがとう、ドーラおねえちゃん。』
そう言って私に背を向けたエマの向こう側には、光り輝く限りない大空が広がっていた。エマはそこで向かって踏み出そうとしている。それはまるで翼を広げた若い竜が飛び立とうとしているようだった。
私は思わずエマの背中に向かって「どこにも行かないで! ずっと私の側にいて!」と叫んだ。でもその声はさっと吹き抜けた強い風にかき消され、エマに届かなかった。
エマは遠くを見つめたまま、まっすぐに歩いていく。私はエマを追いかけることも出来ず、その場にがっくりと膝をついて崩れ落ちた。
「エマ!!エマっ!!ううっ・・・エマぁ!! 」
ふと気が付いたとき、私はいつの間にかカールさんの腕の中で声を上げて泣いていた。彼は泣きじゃくる私の体をしっかりと抱きしめ、優しいリズムで私の背中を叩いてくれていた。
その穏やかな拍動は荒れ狂っていた私の心を次第に落ち着かせていった。泣き止んだ私はそっと彼の胸から頬を離した。彼は手巾で私の顔を丁寧に拭った。
たくさん涙を流したせいか、そのときの私はもうすっかり澄み切った気持ちになっていた。
私はカールさんの顔を見た。彼は私の大好きないつも通りの優しい眼差しで私のことを正面から見つめている。私はまた胸に強い痛みを感じ、その痛みに引きずられるようにそっと瞳を伏せた。
「・・・エマは巣立っていくのですね。」
私が俯いたままそう呟くと、彼はこくりと頷いた。
「そうです。人は誰しもそうやって自分の人生を歩んでいくのです。でもそれは別れではありませんよ、ドーラさん。」
私は彼に向かって少し首を傾げてみせた。すると彼は小さく私に笑いかけた。
「だって私たちは皆、同じ空の下を歩んでいるのですから。いつだって、どこにいたって、私たちは繋がっているんです。そうでしょう?」
私はハッとして彼の顔を見上げた。優しい微笑みを浮かべる彼の後ろには、東屋の柱の間にある輝く月と果てしない星空が見える。その瞬間、私は閉ざされていた視界がさっと開けたような気がした。
永遠の時間を生きる竜にとって、エマと過ごす時間はあの星の瞬きにも等しいほど僅かなもの。それでもエマと私は今、同じ時間、同じ世界を共有しているのだと確信することができたからだった。
その確信は私の心に小さな光と温もり、そして泣きたくなるような痛みを湧きあがらせた。私は再びカールさんの胸に顔を埋めた。彼の早い心臓の鼓動は私の胸の痛みを少しづつ癒してくれるようだった。
「ありがとうございました、カールさん。」
私は彼にお礼を言って再び体を起こした。私を心配そうに見つめたまま小さく頷いた彼に私は言った。
「私、今ならエマに笑っておめでとうを言える気がします・・・まだ少し寂しいですけど。」
にこりと笑ったはずの私の目から涙が一粒だけポロリと零れた。彼は私の目の端を指で軽く拭った後、私を強く抱きしめた。私を想う彼の気持ちが伝わって来て、私の胸はまた少しずきりと痛んだ。
人間である彼が竜である私と一緒にいられる時間は限られている。私はそれを分った上で彼に囁いた。
「カールさん、どうかいつまでも私と一緒にいてください。」
彼は体を離すと、私の目をまっすぐに見つめた。
「私はずっとあなたと一緒にいます。たとえこの体が滅んで魂だけになったとしても、いつまでも永遠に。」
その約束が、私の胸の痛みを和らげてくれた。きっとこの痛みは決して消えることはないのだろう。でも彼が私の側にいてくれるという言葉だけで、私はこの痛みに耐えていける気がした。
彼の温もりが私を包む。私の心を覆っていたあの恐ろしい冷たさはもうどこにもなかった。
彼は私の大好きなあの優しい眼差しで私を見つめ、黙って私の頬に手を触れさせた。私はそれに応じるようにそっと目を瞑った。
青白い月の光の中、私たちは口づけを交わした。その控えめで優しい口づけは私に、人間の世界に来ることができて本当によかったと心から思わせてくれた。
私はカールさんと二人でエマのところに戻った。エマはすぐに駆け寄って来て胸に飛び込んできてくれた。私は泣きじゃくるエマの涙をそっと拭った後、エマに心からのおめでとうを言うことができた。
エマは言葉に詰まって何度も何度も無言で頷いた。私はエマの背中をそっと撫でながら、穏やかで幸せな気持ちがどんどん湧き上がってくるのを感じたのでした。
その後しばらくして、エマの後見人である王様とサローマ伯爵の間でエマとニコルくんの婚約について話し合いが行われた。それによると、二人ともまだ学生だしエマも研究員としての仕事があるから、正式な婚約は二人が卒業してからということになったらしい。
ただ王立学校の周りの生徒を含め貴族の人たちは皆、エマのことを将来のサローマ伯爵夫人として見ているみたい。周りの人たちの自分への接し方が少し変わったことで、エマは戸惑っているようだった。
エマは平民の身分から王国の中でも一番の大貴族の家に嫁ぐ。だからこれからはきっと大変なことがもっともっといっぱいあることだろう。
私はそのことをマリーさんに話してみた。するとマリーさんは少し寂しそうに笑いながら言った。
「エマをお貴族様のところにやっちまうのは確かに心配だよ。でもあの子は自分の夢を掴むために村から出ようとしている。だからあたしは黙って背中を押してやるつもりさ。」
私はマリーさんの言葉を聞いて無性に寂しくなり、またポロリと涙を零してしまった。マリーさんは泣いている私をぎゅっと抱きしめてくれた。
「まったくしょうのない子だね、あんたは。」
マリーさんは「ありがとうよ、ドーラ」と言って私の背中をポンポンと優しく叩いてくれた。私はマリーさんの大きな胸に顔を埋めた。マリーさんの胸からは独特の甘い香りがする。小さい頃エマがよく言っていた『大好きなお母さんの匂い』だ。
マリーさんは私の顔を両手でごしごし擦ると、にっこりと笑った。
「安心おしドーラ。なんだかんだ言ったってあの子はあたしたち開拓民の娘だ。どんな時だって生き延びることに関しちゃ誰にも負けやしない。あたしはそう信じてるよ。」
マリーさんの言葉を聞いて、胸の中の不安がさあっと消えてなくなった。確かにマリーさんの言う通りだ。エマならきっと、どんなに大変なことでも努力と根性で乗り越えていくに違いない。
だって私の自慢のエマだもの。エマはいつだって賢くて、可愛くて、頑張り屋さんだからね。
私が「そうですね!」と頷くと、私の顔をじっと見ていたマリーさんが急にクスクスと笑いだした。
不思議そうな顔をする私に、マリーさんは小さく息を吐きながら言った。
「あたしはあの子よりもあんたの方が心配だよ、ドーラ。」
「えっ、私ですか?」
「ああ、そうさ。あんただってカール様と結婚するんだろう?」
そう言われた私はすっかり言葉に詰まってしまった。ほっぺたと耳が物凄く熱くなっていく。
「ま、まだ正式に決まったわけじゃないんですけど・・・。」
何とかそう言った私の頬を、マリーさんはそっと両手で包んだ。
「もし困ったことがあったら、またこうやって相談に来ておくれ。あたしに出来ることなら何だってしてあげる。遠慮なんかするんじゃないよ。あんたもあたしの大切な娘なんだからね。」
胸から熱いものがこみ上げ、私はまた涙を流した。でもこれは悲しさや寂しさの涙じゃない。マリーさんが私を人間として受け入れてくれたことへの感謝と喜びの涙だ。
私は両手の甲で涙をごしごしと拭い、大きな声で「はい!」と返事をした。マリーさんも自分の目の端を指でそっと拭ってから私に言った。
「あんたが貴族として側にいてくれればエマだって安心だろう。どうかあの子を守ってやっておくれ。」
私はマリーさんに向かって「任せてください!」と胸を叩いた。そう、これからだって私にできることはまだまだたくさんあるのだ。私の大切な人たちが傷つかないように、私が全力でみんなを守らないとね。
私が人間の世界にやって来てからまだ10年とちょっとしか経っていない。私はこれからも人間としていろいろなことを体験し学んでいく。そして大切な人たちと同じ時間を、同じ人生を歩んでいくんだ。
窓からさっと吹き込んできた温かい風が、芽吹き始めたばかりの木々の香りを運んできた。
大きく開いた窓の木戸の向こうに目を向けると、広くて大きな春の青空が広がっているのが見えた。外から聞こえてくるのは畑仕事へ向かうおかみさんたちの賑やかなやり取りと、学校へ向かう子供たちの笑い声。
その明るい調子からは長い冬が終わって春になった喜びが伝わってくる。また新しい年が、新しい朝がはじまるのだ。私はマリーさんと笑い合ってから一緒に立ち上がった。畑仕事に向かうための支度をしながら、私は遠くに聞こえる子供たちの声に合わせて祈りの歌を小さく口ずさんだ。
女神の恵み大地に満ち 我らの歌は響き合う
芽吹け芽吹け 巡る命よ いつの日か再び この地で見えるために
読んでくださった方、ありがとうございました。これでドーラさんのお話はおしまいになります。もう少し時間ができたら、以前リクエストいただいた閑話をいくつか書きたいと思っています。もしよかったらまた読んでいただけると嬉しいです。