89 歓楽街の頭目たち 後編
本日2話投稿しています。こちらは後編です。
イゾルデさんの娼館を出た私は、娼館通りを抜けて賭博街へ通じる路地へ向かった。目的の貧民街に行くには賭博街通りの西の端から川沿いに南へ行けばいい。
私は、出来るだけ目立たないようにこそこそと通りを歩いた。《不可視化》を使わなかったのは《人物探索》の魔力の反応を遮断したくなかったからだ。
でも残念なことに、私は早速目つきの悪い男の人たちに取り囲まれてしまった。
「おう、そこのまじない師! 誰の許しでここを通ってんだ、ああ!!」
「ここは俺たちが仕切ってんだ。通行料払ってもらおうか!!」
まだ夜も浅い時間だというのに通りの両側の賭博場には明かりがなく、人通りもまばらだった。いるのは今私を取り囲んでいる男の人たちのように、険しい表情をした人ばかりだ。誰も助けに来てくれる様子はない。
仕方なく私は手にした木の杖を軽く動かした。途端に私の周囲にいた男の人たちが全員気を失ってその場に崩れ落ちる。倒れた人たちの様子を確かめることもなく、私はそそくさと逃げるようにその場を離れた。
迷惑な相手はこうやって《安眠》の魔法で眠らせてしまうのが一番いい気がする。眠らせてしまえば無暗に相手を傷つける心配もない。むしろ幸せな夢を見せてあげられるからとても良いやり方だと思う。
ただ唯一の欠点は周りにいる人をちょっとびっくりさせてしまうことかな。実際、今も幸せそうにいびきをかいて通りに寝転んでいる男の人たちを、怪訝そうに見つめるたくさんの視線を感じるしね。
やっぱり《不可視化》で姿を隠した方がよかったのかしら。でもヴェッツさんを見つけるためには微妙な魔力の反応を確かめながら街の中を探し回らなくちゃいけないしなあ。
私は次から次へと絡んでくる人たちを順番に眠らせながら、ヴェッツさんのいる場所への道を辿って行った。
賭博街の西の外れの裏路地を抜けた先に、王都南門東側にある救民院の高い丸屋根が見えてきた。王都のあちこちにある大地母神の寺院には、どこもこんな風に救民院が併設されている。
救民院の周囲に集まっている粗末な木造の建物群が、ドルーア川の東岸の貧民街だ。王都を守る巨大な城壁にへばりつくように、ありあわせの板切れとぼろ布で出来た小屋が並んでいる。
この辺りは南側を大きな城壁、西側をドルーア川に挟まれているため、一日中に当たりが悪い上に湿気がものすごい。川面を滑る冷たい風が黴臭い匂いを巻き上げて吹き抜けていく。
周囲の木造小屋からはまったく明かりが灯っていない。けれど二つの月が作り出す青白い光に照らされているため、狭い路地はそれほど暗くなかった。
湿った板材で作られた木造小屋の中からは、たくさんの人たちの寝息や気配を感じる。暗闇の中から怯えたようにじっと私を見つめる視線もある。どうやらあんまり歓迎されてはいないみたいだね。
私は街の人たちを怖がらせないように気を付けながら、狭い路地を奥へ奥へと進んでいった。ヴェッツさんはこの街の一番南側、城壁のすぐ近くにいるようだ。
朽ちかけた小屋が折り重なるように建っている辺りまでくるとヴェッツさんの気配をはっきりと感じ取れるようになった。
この《人物探索》の魔法はすごく便利な魔法だけれど、唯一の欠点を挙げるとすれば探す相手の魔力が低すぎると場所をなかなか特定できないってことだ。ヴェッツさんのようにほとんど魔力を持っていない人だと、うんと近くまで行かないと居場所を知ることができない。
まあそれでも、何となくの方角と距離は分かるからこうやって歩いて探せばいいんだけどね。
私は酷い匂いのするぼろ布をめくりあげると、小屋の中の暗がりに向かって話しかけた。
「こんにちはー。ヴェッツさん、いますか?」
魔法の効果でいるのは分かっているけれど、初めてのお家を訪ねるのだから一応こう呼びかけるのが人間のマナーというものだ。私も随分人間らしい振る舞いができるようになったと思う。
でも私の呼びかけにヴェッツさんは応えてくれなかった。
小屋の中は真っ暗なので、もし私が普通の人間だったら誰もいないのかと思ってこのまま帰ってしまったかもしれないね。
でも私は暗闇でも割と普通にものを見ることができる。だから壊れた物入の陰に隠れている彼の姿もはっきりと見えていた。彼は私の方を窺いながらじっと息を潜めている。私の耳には彼の浅い息遣いや早い心臓の鼓動がはっきりと聞こえていた。
「ヴェッツさん、入りますよー。お邪魔しまーす。」
私はぼろ布の下を潜り抜けるようにして小屋の中に入った。部屋の中にあるのは今、彼が隠れている壊れた物入と床に敷かれたぼろ布の塊だけだ。多分これは彼の寝床だろう。ぼろ布の脇に置いてある端の欠けた陶器からは、すえた食べ物の匂いがしていた。
私は寝床を踏まないように気を付けながら物入にまっすぐ近づいた。すると彼は刃物を構えて物陰から突然飛び出し、私に向かって叫んだ。
「ち、畜生!! ただでは殺られねえぞ!! 俺は絶対生き延びてやるんだ!! 死にたくなければそこをどけっ!!」
私は咄嗟に《小さな灯》の魔法を使って小屋の中を明るく照らした。薄汚れた顔のヴェッツさんは一瞬眩しそうに眼を細めた。
「あ、ヴェッツさん!」
私がそう言うと、彼はお化けにでも会ったみたいに大きな声を上げた。
「あの時のまじない師!? お前、生きてたのか!!?」
「そりゃあ、生きてますよ。すごく元気です。それより実はヴェッツさんにお話があってここに来たんです。」
「俺に話だと!? いや、そんなことはどうでもいい。お前、手形はまだ持ってるのか!?」
「手形?」
私は訳が分からず頭を捻った。すると彼は苛立たし気に私を怒鳴りつけた。
「お前が闘技場の賭けで手に入れた10万D分の手形だよ!!」
「ああ! 思い出しました。もちろん持ってますよ。ほら、これでしょ?」
私は長衣の懐に手を入れて魔法の《収納》から闘技場でもらった手形を差し出した。魔獣の皮紙に刻印されているのは10万Dの額面とハウル銀行の印章。これをハウル銀行に持っていくとお金と引き換えてくれるのだ。
彼は目を皿のようにして私が差し出した手形を確かめた後、「よかった・・・」と呟いてへなへなとその場に崩れ落ちた。でもすぐにバッと立ち上がると、頭を抱えて狭い小屋の中をウロウロし始めた。
「いや!! 全然よくねえよ!! もしこのことがあの二人に知れたら、ただじゃ済まねえ。 あああ、一体どうすりゃいいんだ!?」
彼はぶつぶつ言いながら苦悶の表情を浮かべた。彼はとても困っているみたいだ。心配になった私は彼に尋ねてみた。
「ヴェッツさん、あの二人って誰ですか?」
「あの大年増の蛭女と鼻削ぎ好きの変態野郎に決まってんだろ! だいたいなんでそんなに暢気なんだよ! この手形を持ってるって知られたら、お前も二人に殺されるかもしれないんだぞ!?」
彼は必死の表情で私に訴えた後、慌てて声を潜めて辺りを見回した。私も声を潜めて彼に尋ねてみた。
「蛭女と鼻削ぎって・・・もしかしてイゾルデさんとザラマンドさんのことですか?」
「そうだよ!! あの二人の部下たちがエッポの残した隠し金を血眼になって探してる。だから俺もこんなとこに隠れなきゃならなかったんだからな。お前もすぐに逃げた方が・・・。」
彼はそう言った後、すぐに頭を振った。
「いや、ダメだ。まずは手形を何とかしねえと。」
・・・えーっともしかして、イゾルデさんたちが探していた隠し金っていうのはまさかこの手形のこと?
ということは、お金を持ち逃げしていた犯人は私ということだ。二人だけじゃなくヴェッツさんもすごく困っているみたいだし、私、また失敗しちゃったみたい。
とにかく皆に訳を話して謝らないと。でもなんて話したらいいんだろう?
私がなんて話そうかと考えていたら、頭を抱えていたヴェッツさんが急に叫び出した。
「ああああ、だけどどうすりゃいいんだ。のこのこ出ていきゃあ殺されに行くようなもんだし・・・くっそ!」
ヴェッツさんは私が二人に頼まれて彼を探しに来たと知らない。私は彼に申し訳ない気持ちでいっぱいになった。まずはヴェッツさんに事情を話そう。彼を早く安心させてあげなきゃいけないものね。
「大丈夫ですよ、ヴェッツさん。だって私、さっきその二人と会って話を聞いてきたんですから。」
「はあ? お前何言って・・・?」
彼は呆気にとられた顔でそう言った後、急にハッとして再び短剣を構えた。
「お前、やっぱり俺を捕まえに来たんだな!!」
「ち、違いますよ! 私はただ二人がヴェッツさんを探してるって聞いてそれで・・・。」
「俺を探してるだと? くそっ、お前あの連中の手先だったのか!! おい、刺されたくなきゃそこをどけ!!」
彼は素早い動きで私に短剣を突きつけた。その短剣さばきや身のこなしを見ただけで彼がものすごく短剣の扱いに慣れているというのが分かった。同じように短剣を使うエマとは比べ物にならない動きの鋭さだ。
ただ彼からはあんまり凄みを感じなかった。逆に彼の目に僅かに迷いの色が見える気がする。どうやら本気で私を傷つけるつもりはないみたいだ。
「ヴェッツさん、ごめんなさい。」
私は彼が反応するよりもずっと早く彼を私の魔力で包み込んで眠らせた。《安眠》をかけられた彼は安らかな表情で軽いいびきをかいている。彼の頬は以前よりかなりやつれて見えた。よほど疲れていたようだ。
私は心の中で彼に何度も謝りながら、意識を失くした彼を両腕に抱え上げた。そして《不可視化》と《集団転移》の魔法を使ってイゾルデさんの娼館へと移動した。
私がヴェッツさんにかけた眠りの魔法を解くと、彼はゆっくりと目を開けた。目の前の光に眩しそうに眼を細めた彼は、ハッとして辺りを見回した。
「こ、ここは!?」
彼はすぐに椅子から立ち上がろうとした。けれどそれは出来なかった。彼の手足は丈夫な椅子に革紐でしっかりと縛りつけられていたからだ。
窓のない薄暗いこの部屋は娼館の地下にある『尋問室』。私が彼を娼館に連れ帰ると、イゾルデさんはここに彼を運ぶようにと私に言った。部屋の中にある恐ろし気な道具類が私の灯した《小さな灯》の光を受けて不気味な輝きを放っている。
「よお、ヴェッツ。久しぶりだな。ドルトンの親父が生きてた時以来じゃねえか?」
椅子の後ろから声をかけられたヴェッツさんは不自由な体を捩じって後ろを振り返った。
「ザラマンド・・・!!」
ザラマンドさんの手に握られた剃刀のように鋭い短刀を見て、ヴェッツさんの目に恐怖の色が宿る。額に冷や汗をかきながら、彼は絞り出すようにザラマンドさんに尋ねた。
「・・・俺を殺すのか?」
ザラマンドさんは、短刀の刃に軽く指を触れさせながらヴェッツさんの前に立った。
「ふん。ついさっきまでは卑怯な裏切り野郎をこいつで一寸刻みにしてやるつもりだったがよ。すっかり興が冷めちまった。」
その言葉に彼は訝し気な顔をした。すると私の隣に立っていたイゾルデさんが、ザラマンドさんの姿を遮るように彼の前に進み出て穏やかに話し始めた。
「そんなに怯えることないさ。暴れられたら困るんで一応拘束させてもらったけどね。ちゃんと話を聞いてくれるんならすぐに自由にしてあげる。どうだい?」
問いかけられた彼は私たちの姿を順番に見つめた後、小さく息を吐いた。
「・・・選択の余地はねえようだな。」
「物分かりが良くて助かるよ。」
彼女は薄く微笑んだ後、ヴェッツさんの手足を縛っている革紐を解いていった。彼は自由になった手足を解すように軽く動かした。その様子をザラマンドさんは獲物を狙う蛇みたいな目つきで油断なく見つめていた。
「まあ、これでも飲んで落ち着きなよ。」
イゾルデさんはヴェッツさんに葡萄酒の入った酒杯を差し出した。彼はそれをじっと見ていたけれど、やがて覚悟を決めたように目に力を入れると葡萄酒を一気に飲み干した。そして大きなげっぷをすると、汚れた服の袖で口元を拭ってから酒杯を彼女に返した。
「いい酒だな。ありがてえ。」
お礼を言った彼を意外そうに見つめながら、イゾルデさんは酒杯を受け取った。
「あんた、思ったよりずっと肝が据わってんだね。」
「この状況でジタバタするほど馬鹿じゃねえ。俺に聞きたいことがあるんだろう?」
ヴェッツさんがそう尋ねると、イゾルデさんとザラマンドさんは顔を見合わせた。イゾルデさんが目で合図したのを見て、ザラマンドさんは露骨に顔を顰めた後、短刀を懐に仕舞いこんだ。
「いや、そりゃもう無くなっちまったんだ。こいつが手形のことを説明してくれたからな。」
ヴェッツさんが私の方を見たので、私はこくこくと無言で頷いてみせた。さっき私は二人に自分が10万D分の手形を持っていることを話した。すると二人はちゃんと事情を分かってくれたのだ。
ただ苦笑いを浮かべるイゾルデさんの隣で、ザラマンドさんがあんぐりと口を開けて物凄く呆れた顔をしていたので、かなり恥ずかしかったけどね。
私が頷くのを見たヴェッツさんは、ほんの少しほっとした顔をした。
「そ、そうか。ならよかったぜ。俺が金を持ち逃げしたんじゃねえって分かってもらえたってことだよな?」
「・・・まあな。」
「そうか。世話をかけたな。じゃあ俺は帰らせてもらうぜ。」
面白くもなさそうにザラマンドさんが呟いたのを見て、ヴェッツさんはすぐに椅子から立ち上がろうとした。でも立ち上がりかけたヴェッツさんの肩にイゾルデさんがそっと手を置いた。
「待ちなよ。あんたにはまだ相談したいことがあんのさ。」
「相談?」
ヴェッツさんは探るような目でイゾルデさんとザラマンドさんを見た。イゾルデさんはその視線を正面から受け止めると小さく頷いて言った。
「あんた、賭博街があのままでいいと思ってんのかい?」
「・・・どういうことだ?」
「隠し金が見つかって街が元通りになる、とはお前も思ってねえだろう?」
問い返したヴェッツさんにザラマンドさんがそう言うと、彼はむっつりと黙り込んでしまった。それを見たザラマンドさんは「ふん」と小さく鼻を鳴らした。
「俺もイゾルデもな、正直参ってんだよ。金が見つかったとなりゃあ、今度はそれを誰が手に入れるかって話になる。もちろんその金はこいつのもんだが、それに納得しねえ連中も多いはずだ。こいつも含めて、このままじゃどっちがあの街に手を出したって血が流れることになるのは間違いねえからな。」
ザラマンドさんは私の方を左手の親指で指し示しながらそう言った。この10万Dは私には必要のないお金だ。元々ヴリトラの試合の賭け金で手に入れたものだし、それに今まで忘れていたくらいだからね。
だから二人に事情を説明した時、私はこのお金をイゾルデさんに渡しますと言ったのだ。でも二人からそれでは困ると断られてしまった。どうやらこのお金はそれくらい皆にとってとても『厄介な代物』らしい。
ザラマンドさんの言葉を受けて、今度はイゾルデさんが左頬に手を当てながら小さくため息を吐いた。
「正味な話、あたしの娼館街もこいつの奴隷市場街も、賭博街をかけて抗争をおっぱじめる程のゆとりはないんだよ。かといってエッポみたいな馬鹿がまた出てきても困る。そこであんたに相談って訳さ。」
イゾルデさんはすごくいい笑顔でにっこり微笑むと、ポンとヴェッツさんの肩を叩いた。
「なあヴェッツ、あんたが賭博街を仕切ってくれないかい?」
その言葉を聞いたヴェッツさんは、椅子から転がり落ちるんじゃないかと思うほど驚いて、大きな声を上げた。
「はあああ!? 何言ってんだ、あんた!? 正気か?」
イゾルデさんは真剣な顔で頷いた。
「もちろん正気さ。お前さんはドルトンの金庫番だったんだろう? 実際、賭博業の仕切りはほとんど全部あんたがやってたって言うじゃないか。」
ヴェッツさんは彼女の顔をじっと見ていたけれど、そのうちふいっと視線を逸らして小さく呟いた。
「・・・俺はドルトンの旦那が死んだ後、エッポの野郎に寝返ったんだぞ。」
彼の暗い声を聞いて、ザラマンドさんはぐっと眉を引き寄せた。イゾルデさんはその場にしゃがみ込むと、座ったまま俯いているヴェッツさんの顔を覗き込むようにして彼に語りかけた。
「そりゃあ王都に残ったドルトン一家の連中を守るためだったんだろう? クレアがあたしにそう教えてくれたよ。」
それを聞いた彼はハッとしてイゾルデさんの顔を見た。クレアさんというのはこの娼館で働いている女性。クレアさんは私がヴェッツさんを連れてきたというのを聞きつけて、ついさっきこの尋問室に押しかけてきたのだ。
彼女はもともとドルトンさんの経営する小さな酒場で女給兼娼婦として働いていたのだそうだ。彼女はイゾルデさんの足元に体を投げ出すように平伏すと、どうかヴェッツさんの命を助けてほしいと涙ながらに懇願し始めた。
彼女によると、エッポさんは賭博街を支配する過程でドルトン一家の勢力を王都から排除するため、ドルトンさんの手下の人たちを次々と捕らえたり殺したりしていたのだそうだ。クレアさんも他の人たちと一緒にエッポさんに捕まり、とても酷い目に遭わされたという。
それを助け出しに来たのがヴェッツさんだった。彼は自分が身代わりになるから仲間を解放するようにとエッポさんに交渉した。
ヴェッツさんはドルトン一家の金庫番で、賭博業の実務に精通している。小さな賭博場主だったエッポさんが賭博街を仕切っていくために、彼は喉から手が出るほど欲しい人材だったのだ。
エッポさんはヴェッツさんの提案を受け入れ、捕らえていた人たちを解放して王都から追放した。彼は仲間を助けるため、憎い仇の配下になるという屈辱を受け入れた。でもそのおかげで元ドルトン一家の配下だった多くの人たちの命が助かったのだ。
ただ代わりにヴェッツさんは事情を知らない人たちから一家を裏切った卑怯者として誹りを受けることになった。クレアさんはエッポさんが王都から逃げ出したと聞いて、ウェスタ村の歓楽街から王都に帰って来た。そこでようやくそのことを知ったという。
「ヴェッツの頭は裏切り者なんかじゃありません! むしろ頭を見捨てて逃げたあたしたちの方がよっぽど酷い裏切り者なんです!!」
クレアさんはそう言って、彼を殺さないでほしいと泣きながらイゾルデさんに頼んだのだった。
「ちっ、あの娘!」
その話を聞いたヴェッツさんは吐き捨てるようにそう言うと、それきり黙り込んでしまった。
「お前さん、なかなか漢気のあるいい男じゃないか。あたしとしたことがすっかり誤解しちまってたよ。」
イゾルデさんがからかうようにそう言うと、ヴェッツさんはふいと目を逸らした。
「そんないいもんじゃねえ。俺はただ自分の命が惜しくてエッポの足元に縋っただけだ。」
彼は唸るようにそう言った。そんな彼にザラマンドさんはゆっくりと言葉をかけた。
「なあヴェッツ、あんたもう一度ドルトン一家を興しちゃくれねえか。あんたが動けば散り散りになっちまってたドルトン一家の連中だってまた王都に戻ってくるはずだぜ。」
ヴェッツさんは俯いたまま黙ってそれを聞いていたけれど、やがてゆっくりと頭を横に振った。
「・・・俺はあんたらとは違う。それに俺にはドルトンの親父みてえな力はねえよ。若も死なせちまったからな。」
若というのはドルトンさんの息子さんで、一家の跡取りと目されていた人だったらしい。でも16歳になったばかりの彼は、王都襲撃に巻き込まれた賭博街の人たちを助けようとしてドルトンさんと同じように命を落としてしまったそうだ。
ヴェッツさんは彼を年の離れた弟のように可愛がっていたので、彼が死んだときの嘆き様は大変なものだったという。
盤石の勢力を誇っていたドルトン一家が弱小勢力だったエッポさんに追い込まれたのも、彼の死の影響がかなり大きかったのだと、ついさっきクレアさんが私たちに話してくれた。
「俺は一家を裏切ったんだ。もう親父にも若にも顔向けできねえよ。そんな俺がもういちど一家を興す? そんなことできる分けねえだろうが!!」
静かに話していたヴェッツさんは急に立ち上がると、私たちに向かって怒鳴った。するとすぐにザラマンドさんは彼の胸倉を掴んで怒鳴り返した。
「じゃあ、このままあの街の連中を放っておくっていうのか? 抗争になりゃあ、関係ない街の連中の血が流れることになるっていうのにか?」
ヴェッツさんはザラマンドさんに胸倉を掴まれてもろくに抵抗もしなかった。そんな彼にイゾルデさんが静かに言葉をかけた。
「揉め事になればいの一番に狙われるのは王都に戻ってきてる元ドルトン一家の連中さ。それこそさっきのクレアみたいなね。それはあんたが一番よく分かってるだろう?」
ヴェッツさんは顔を上げると無言で二人と睨み合った。でもしばらくすると自分を掴んでいるザラマンドさんの手を振りほどいて吠えた。
「お前ら、やり方が汚ねえぞ!!」
それを聞いたイゾルデさんはしなやかな身振りで腕組みをした後、大きな胸を見せつけるように持ち上げながらコロコロと声をたてて笑った。
「そりゃどうもご愁傷様。だがお前さん、あたしらを誰だと思ってんだい? 哀れな女の生き血を啜る蛭女に、見せしめに奴隷の鼻を削ぐのが大好きな頭のおかしいイカレ野郎だよ。」
それを聞いたザラマンドさんは怒ったように彼女を睨みつけたけれど、すぐにフッと笑って「・・・まあ違えねえか」と呟いた。そしてヴェッツさんの正面に立って彼に語りかけた。
「ヴェッツ、もういいだろう。このままじゃドルトンの野郎だって浮かばれねえぜ。頼むからあいつの遺したもんを引き継いじゃあくれねえか。この通りだ。」
ザラマンドさんはそう言ってヴェッツさんに頭を下げた。ヴェッツさんはギョッとした顔をしてその様子をまじまじと眺めた。
「・・・あんた、親父とはずっと仲違いしてるもんだとばっかり思ってたぜ。」
ザラマンドさんは頭を上げると、ふと遠い目をして言った。
「ドルトンとは昔からの腐れ縁でな。若え時分は一緒につるんでたこともある。だがあの頃みてえに付き合うには、俺もあいつも抱えてるもんがでかく成り過ぎちまった。」
彼は言葉を切るとちらりとイゾルデさんに目を向けた。その一瞬、私の目には二人の姿に全く別の誰かが重なっているように見えた。
素朴な化粧をした美しい娘さんと目つきの鋭い痩せぎすの若者。そして娘さんを挟んで若者の向かい側に立つがっしりした体つきの偉丈夫。二人の若者の間に挟まれた彼女に、彼らは自分の夢を競うように語っていた。
やがて言い争いがつかみ合いの喧嘩が発展すると、娘さんはたしなめるように彼らを叱った。不満顔で頭を掻く二人の若者を彼女はそれぞれ順番に抱きしめ、その頬に軽い口づけをする。
彼女は蕩けるように魅力的な笑顔で2人に片目を瞑ってみせた。すると若者たちは頬を真っ赤に染めて、再び彼女に自分の思いを話し始めた。
そんな二人の話を娘さんは本当に楽しそうに聞いている・・・。
私はその不思議な光景に驚き、思わず瞬きをしてしまった。すると次の瞬間には、もう彼らの姿は消え去っていた。
私が今見た幻は何だったんだろうと考えていると、幻の中で見た娘さんと同じ蕩けるような笑顔でイゾルデさんがヴェッツさんに語りかけた。
「あたしからも頼むよ。この厄介な仕事をどうか引き受けちゃくれないかい?」
彼女がそう言ったのに合わせて、私もヴェッツさんの元に駆け寄って彼にお願いした。
「私からもお願いします、ヴェッツさん!」
私は10万Dの額面が入った手形を彼に差し出した。ヴェッツさんは私と手形を何度も見てから確かめるように尋ねた。
「・・・お前、本当にいいのかよ。10万Dだぞ?」
「もちろん、いいですよ。だってこんな紙切れ、全然きれいじゃないですもん。ピカピカの銀貨の方が私は好きなんです。だからこれはヴェッツさんが使ってください。」
「いや、だからって言われてもよ・・・。」
まだ迷っている様子の彼の手に、私は無理矢理手形を押し付けた。
「ヴェッツさん、あの時言ってくれたじゃありませんか。『困ったことがあったら俺が力になる』って。だからこれで困っている皆を助けてあげてください!!」
私がそう言うと、彼は目を白黒させて私に手形を返そうとした。
「いや、確かに言ったぜ? 言ったけどそれとこれとは話が・・・。」
彼はしどろもどろになって言い訳を始めた。その様子を見たイゾルデさんは急に可笑しそうに笑い始めた。驚いて動きを止めた私たちに、彼女は目の端に溜まった涙を拭いながら言った。
「おやおや、この娘とそんな約束してたのかい? じゃああんたの負けだよ、ヴェッツ。」
訝し気な顔をするヴェッツさんに対して、彼女は私の方を手で示して見せた。
「あんたも博徒の端くれなら幸運の女神との約束を違えればどんなことになるか、知らないわけないだろう?」
それを聞いたヴェッツさんは魂が潰れたのかと思うほど驚いた顔をした。彼は掴みかかるような勢いで私に尋ねてきた。
「な、何!? おい、まじない師! お前、もしかしてドーラって名前なのか?」
「え、そうですよ。私はドーラ。自由自治領ハウルのまじない師です。」
名乗った私の顔を仮面越しにまじまじと見つめた後、彼はがっくりと項垂れて大きなため息を吐いた。
「・・・ああ分かったよ。富と幸運の女神ドーラの名に懸けて、これが俺の運のツキってわけだ。おいドーラ、お前の頼み、俺がちゃんと引き受けてやるよ。」
「本当ですか!?」
「ああ、仕方がねえ。幸運の女神に背いた賭博師って汚名を被るくらいなら、そっちの方がまだずっとマシだからな。」
彼はそう言って大きく息を吸い込むと、私の手から手形をひったくるように奪い取った。そしてニヤニヤ顔のイゾルデさんとザラマンドさんに向かって、勢いよく啖呵を切った。
「やいやいあんたら、よくもこの俺に大変な厄介事を押し付けてくれたな! この借りはいつか返させてもらうぜ! 覚悟しとくんだな!!」
ヴェッツさんの啖呵を聞いたザラマンドさんは、ゾッとするような凄みのある笑みを浮かべた。
「ああ、望むところだ。ただしうちのシマに手出ししたら容赦しねえからな。鼻を洗って待ってろよ。」
彼らはお互いの息がかかるくらい顔を近づけて睨み合いを始めた。するとイゾルデさんは呆れたように両手を広げた後、蕩けるような笑みを浮かべて二人に言った。
「ああ、やだねえ。男どもはすぐに角突き合わせるんだから。まあせいぜい頑張って稼いで、うちの店で遊んで行っておくれよ。あたしの娘たちが一滴残らず搾り取ってあげるからねえ。」
三人は互いに視線を交わすとニヤリと笑い合った。そしてヴェッツさんとザラマンドさんは、そのまま無言で部屋を出て行ってしまった。
私は何が起こったのかさっぱり訳がわからず、その場に立ち尽くしていた。するとイゾルデさんがポカンと口を開けている私を見てくすくすと笑い始めた。
「なんて顔してるんだい、ドーラ。話がまとまったんだからもうこんな辛気臭い場所からはさっさと出ようじゃないか。さあ、上階の酒場で飲み直そう。あんたにはとっておきの葡萄酒をご馳走してあげるよ。どうだい?」
「とっておきの葡萄酒!? 是非いただきます!!」
私はイゾルデさんについてウキウキしながら部屋を出た。そして美味しい葡萄酒を存分に味わった頃にはもう、さっき地下室で聞いたやり取りのことなんかすっかり頭から消えてしまっていたのでした。
その後、ヴェッツさんは旧ドルトン一家の手下の人たちを集めて新しいドルトン一家を立ち上げた。いくつかの悶着があったものの、イゾルデさんとザラマンドさんの協力もあり、賭博街は新ドルトン一家によって秩序を取り戻した。そのおかげで街は以前にも増して賑わうようになったそうだ。
そんな平和になった賭博街でヴェッツさんは今、3歳なったばかりの小さな女の子を引き取って育てている。彼女は亡くなったドルトンさんの遠縁の娘さんなのだそうだ。
ヴェッツさんは一家を立ち上げた直後からドルトンさんの血を引く人間がいないかと、ずっと探しまわっていた。その結果、両親を亡くし身寄りがいなくなって王都から遠く離れた別の領の孤児院にいた彼女をようやく見つけ出したのだそうだ。
ヴェッツさんは将来彼女にドルトン一家を引き継がせたいと思っているみたい。彼は私が会いに行くたびに「俺が親父に受けた恩を返す方法はこれくらいしかねえからな」と口にしている。
引き取られた女の子もヴェッツさんを本当のお父さんのように慕っているみたいだった。私も何度か彼女と会って話をしたことがある。その時には、とても可愛らしいけれど年の割に大人びた言葉遣いをする少し変わった子だなと思った。
前世の記憶を持つというこの不思議な女の子はやがて、王都中にその名を轟かす伝説の女博徒に成長することになる。でもそれは今よりほんのちょっと未来の、また別のお話なのでした。
読んでくださった方、ありがとうございました。次回最終回になります。よかったら最後まで読んでいただけると嬉しいです。よろしくお願いいたします。