9 報告
前作「Missドラゴンの家計簿」に新着誤字報告をたくさんいただきました。お礼を申し上げる場がありませんので、ここで言わせていただきます。本当にありがとうございました。
歓楽街の路地裏からエマの部屋の隣にある使用人室に転移した私は、すぐに扉を開けてエマたちのいる部屋に入った。
「お姉ちゃん! よかった、心配したんだよ。」
部屋の真ん中にあるテーブルのいつもの席に座っていたエマは私の姿を見るなり立ち上がり、駆け寄ってきた。私はエマをぎゅっと抱きしめ「遅くなってごめんね」と謝った。
部屋の中にいたリアさんたちも私の様子を見てホッと息を吐いている。皆に随分と心配をかけちゃったみたいだ。次からは気を付けないとね。
エマたちは夕食を終え、これからお風呂に入るところだったようだ。私もまじない師の衣装から侍女服に着替えてエマたちの入浴を手伝うことにする。
使用人室の奥にある竈にはすでにお湯が沸かしてあった。リアさんたちが湧かしておいてくれたみたい。私がお礼を言うと「ドーラさんにはいつも水汲みをしてもらっていますからこのくらいお気になさらないでください」とジビレさんが言ってくれた。
寮で使うお水は侍女さんたちがそれぞれ学校内に設置されている水路から桶で組んで運ぶことになっている。それを各使用人部屋に設置された水瓶に貯めておくのだ。
ちなみに上階へ水を運ぶときは侍女たちさんが専用の『滑車』を使って桶を上まで持ち上げている。この仕事はものすごく大変だ。
私は一度手伝おうとしたのだけれど、相手の侍女さんにやんわりと断られてしまった。リアさんにその理由を聞いたら、毒などを混ぜられないようにするためですよって教えてくれた。
上階に住んでいるのは中級以上の貴族令嬢たちなので、命を狙われる危険を避けるためにそうしているんだって。こんなに小さい頃から命を狙われるなんて、貴族って本当に大変だよね。
私はリアさんたちの沸かしてくれたお湯を桶に移して、お風呂場にある小さな浴槽に運んだ。何回か往復すると浴槽は熱いお湯で一杯になり、小さな石造りのお風呂場は熱々の湯気で満たされた。この湯気で体を温め、お湯で髪や体をきれいにしていくのだ。
だからこのお風呂場には窓がない。その代わりの換気のために、石造りの壁と天井の間に小さな隙間が作ってある。つまり時間が経ってお湯が冷めると、せっかく溜まった湯気も少しずつその穴から外に逃げて行ってしまう。
私は《保温》の魔法を使ってお湯がすぐに冷めないようにしておいた。あと《絶えざる光》の魔法を使って部屋の中を明るくするのも忘れずに。人間は暗い所では物が見えないから、危ないものね!
準備が終わり私がお風呂場を出るのと入れ替わりに、ニーナちゃんと侍女のカチヤさんがお風呂場へ入ってきた。
「ドーラさん、お湯を張ってくださったんですね。いつもありがとうございます。」
「いえいえ、これくらいなんでもないですよ! 私、物を運ぶのは得意なんです!」
お礼を言ってくれたカチヤさんに空の桶を渡して、私はお風呂場の扉を閉めた。
お風呂場には浴槽が一つしかないので、エマたちは順番に一人ずつ使うことになっている。誰がどの順番で使うかはあらかじめ決めてあり、一日ごとに交代するのだ。今日はニーナちゃん、ミカエラちゃん、ゼルマちゃんの順で、エマは一番最後だ。
お風呂を待つ間は皆でゆっくりおしゃべりしたり、勉強や魔法の練習をしたりする。一日の終わりのこの時間はとても楽しい時間だ。私は今日の午後にあった寮の談話室でのお茶会について聞いてみた。
「今年の冬は王都の襲撃事件で冬の社交ができなかったって、皆とても残念がってたよ。」
エマの言葉にゼルマちゃんが頷き、それを補足するように私に言った。
「私たち貴族の子女は10歳になって王立学校に入ると自分たちだけで仲の良い方をお招きしたり、ご招待を受けたりできるようになるんです。」
「それまでは一人じゃダメなの?」
「ダメですね。年上の家族の同伴という形でしか社交は認められていません。そもそもよほどのことがないと社交の場に10歳未満の子供が出ることはありませんから。」
貴族の子供たちは王立学校に入学する10歳までの間に、家族にしっかりと行儀見習いをさせられる。つまり入学前は社交の資格なしなのだそうだ。私はそれを聞いて、仲良しの子とも自由に遊べないなんてとても可哀想だなと思った。
私がそう言うとゼルマちゃんは「それも民の上に立つ貴族として仕方のないことです」と少し寂しそうに笑った。
「だから今年の冬を楽しみにしていた子たちはとても多かったのですよ。特に私たちのような下級貴族にとって、冬の社交で情報を交換したり、知り合いを増やしたりすることはとても大切なんです。」
貴族の子供、特に女の子にとっては貴族同士の繋がりが何よりも大事なのだそうだ。それが将来の仕事だけでなく、時には自分や家族の命を守ることにもつながるんだって。貴族の子供って本当に大変だよね。
午後のお茶会では冬の間にそれぞれの家であった出来事を話し合ったそうだ。下級貴族はほとんどが王都かその周辺に住んでいるので、話題は王都の襲撃事件のことばかりだったらしい。
エマも村のことを色々聞かれて大変だったと苦笑いしながら言った。村であった戦いのことをごまかすのに相当苦労したそうだ。もし正直に「世界の境を越えて暗黒竜を連れてきました」なんて言ったら、大変なことになっちゃうよね。
きっと私がその場にいたら絶対にしゃべっちゃいけないことまでしゃべってたと思う。行かなくて本当によかったよ。お茶会に出ないように言ってくれたリアさんのおかげだよね。
私はリアさんにそのお礼を言おうとしたけれど彼女はいち早くそれに気付いて、ゼルマちゃんに見えないように口に指をそっと当てた。私は慌てて口を噤む。
そうか。今、ありがとうって言ったら、ゼルマちゃんにも隠し事してるのがバレちゃうもんね。ふう、危ない危ない。
ニーナちゃんが出てきたので、次はミカエラちゃんがジビレさんと一緒にお風呂に向かう。私とジビレさんが浴槽のお湯を取り換えている間、すでにニーナちゃんは動きやすい部屋着に着替え、自分の席に着いていた。カチヤさんが冷たい果実水をニーナちゃんの前に置くと、彼女はお礼を言ってからそれを美味しそうに口にした。
「とっても冷たくて美味しいですわ。これはエマさんが?」
「うん。グレッシャー先生の授業の予習を兼ねて、ミカエラちゃんと一緒に冷却魔法の練習をしてたんだ。」
この果実水は湯冷ましの水に、薄く切ったリメットという緑色の果物を漬けたもの。これはサローマ領の丘陵地帯で昔から栽培されている特産の果物で、王国の料理にはよく使われているそうだ。
ハウル村ではあんまり使っている人がいなかったので私とエマは知らなかったけれど、王都では当たり前のように出てくる果物なんだって。
リメットの実は小さいけれど物凄く酸っぱい。だからそのまま食べることは少ないけれど、こうやってお水に漬けて果実水にしたり、エールの香りづけに使われたりする。
あとリメットの実を塩漬けにしたものは肉や魚の臭みを取るのに使われるし、蜂蜜に漬けた物はお菓子の材料として使われることもある。
船乗りさんたちは蒸留したお酒に漬けたリメットを大樽いっぱい船に積み込んで航海し、食事のたびにかじるそうだ。そうすると病気除けになるんだって。こんなに酸っぱい実が病気除けになるなんてびっくりだ。人間の知恵には本当に感心させられてしまう。
ちなみにハウル村では肉や魚の臭み取りにリモーネグラスという香草や、ショウガ、ニンニクといった香味野菜が使われている。これらの『薬味』はとても美味しいし、村で簡単に手に入れられるのだ。だけれど王都では乾燥したものしか見かけない。
王都では新鮮な野菜を手に入れるのがとても難しいのだそうだ。寮の食事も塩漬けや油漬けの野菜ばかりで、そのせいか野菜が苦手という子が多い。ハウル村みたいに美味しい野菜を食べられないからなんだろうな、きっと。何だか王都の人って可哀想だよね。
お風呂上りに冷たい果実水で一息ついたニーナちゃんに、さっきの皆で話したことを話しているうちにミカエラちゃんがお風呂から上がってきた。私がお湯を取り換え、エマがミカエラちゃんに《冷却》の魔法で冷やした水を手渡す間に、今度はゼルマちゃんがお風呂に向かう。
そうやっているうちにゼルマちゃんも上がり、最後にようやくエマの番になった。私はエマと一緒にお風呂場に入り、浴槽に新しいお湯を張った。
《保温》の魔法の効果と立ち上る湯気でお風呂の中がたちまち温かくなっていく。私はエマの服を脱がせ、浴槽の脇にある小さな寝台に座らせた。
「じゃあエマ、寝ころんで浴槽の方に髪を出してくれる?」
エマは素直に頷いて裸のまま仰向けに横になった。こうするとちょうど頭が浴槽の横に来るようになっているのだ。私は手桶でお湯を汲んでエマの髪を流し、石鹸を泡立てて洗った。
この石鹸は私が作ったものだ。主な材料はフランツさんが作った木灰と、村の森で採れた木の実の油と香草。それに加えて肌や髪の潤いを保つ薬効がある香油、ルーファの実の汁、ヤギの乳のクリームなどが少しずつ入っている。
よく混ぜ合わせたそれらの材料に、仕上げとして水属性の魔力中和液を加えて水の魔力を流し込んで作った。
これらの材料は、私がカフマンさんに売っている魔法の化粧水を作った時に余ったものを再利用している。だから一種の魔法薬なのだけれど、一番肝心な水属性の魔石が入っていないので魔法の化粧水ほどの効果はない。
でも普通の石鹸に比べたらずっと汚れがよく落ちる上に、肌はしっとり髪は艶々になる。私はこの石鹸を定期的に作って、ハウル村のおかみさんたち全員に配っている。
ガブリエラさんにはタダで物を配っちゃダメって言われてた。けれど、大部分の材料である木の実の油はおかみさんたちが集めてくれたものだし、木灰は村の炭焼き場でいくらでも採れる。他のは余った材料だからタダで配っても全然問題ない、気がする。
一度に沢山出来るのでついでだからと、このお風呂場にも置いてエマの部屋のみんなにも使ってもらっているというわけだ。これくらいは大丈夫ですよね、ガブリエラ様?
泡立てた石鹸でエマの髪を優しく洗っていく。最初はなかなかうまくできなくて、エマに痛い思いをさせてしまったこともあるけれど、今ではかなり上手に洗えるようになった。
癖のある白に近い金色の髪の間に指を入れ、エマの頭皮をゆっくりと揉み解していく。うっとりとエマが目を瞑るのを見て、とても嬉しい気持ちになった。うん、いい感じだね!
お湯で泡を洗い流した後は、湯気で温まったエマの体を洗っていく。エマに寝台に腰かけてもらい、髪を頭の上でまとめて布を巻いてもらう。本当はこれも侍女さんがしなくてはいけないのだけれど、私にはまだ難しいのでエマに自分でやってもらっている。
座ったエマの体をルーファの実を乾燥させて作ったスポンジで優しくこすっていく。ふわふわした石鹸の泡で撫でるように上半身を洗った。背中を洗い終わって前に回り、胸に触れるとエマは少しビクッと体を震わせた。
「あ、ごめんエマ。痛かった?」
「ううん、大丈夫。ちょっとくすぐったかっただけ。」
エマは赤い顔でそう言った。エマは今年で11歳。去年よりもまた背が少し伸びた。平らだった胸も少しずつ膨らみ始め、だんだん女性らしい体つきになっている気がする。もう少しで今の私の胸よりも大きくなりそうだ。
エマのお母さんのマリーさんは胸がすごく大きい。だからエマも大人になったらマリーさんみたいになるかもしれないね。きっとエマもよいお母さんになるに違いない。
どんどん大きくなるエマに比べ、私は全く変わりがない。成長していくエマを見るのは本当に嬉しいけれど、反面なんだがエマに取り残されてしまっていたような気がして少し寂しい気持ちになってしまった。
「?? どうしたの、お姉ちゃん? 服が濡れちゃうよ?」
「・・・ううん、なんかね。エマを抱きしめたくなっちゃったの。」
侍女服を着たまま泡だらけのエマに抱き着いた私を、エマは黙ってぎゅっと抱き返してくれた。
いつまでもこうしてエマと一緒にいられたらいいのにな。細いエマの肩に頭を乗せながら、私は心からそう思ったのでした。
いつもならお風呂から上がると寝る支度をしてそのまま寝てしまう。でも今夜はエマたちが私の話を聞きたがり、テーブルで少しの間だけおしゃべりをすることになった。
私は皆に聞かれるままに、今日あった出来事を話した。
「ええ!? ルウベ大根を育てられるようになるの? それってすごいね!」
「陛下もさぞお喜びになるでしょう。でも絶対に他の人に知られないようにしなくてはいけませんね。」
エマとミカエラちゃんが私の話を聞いてとても嬉しそうに顔を輝かせた。それに対してニーナちゃんとゼルマちゃんは不思議そうな顔をしている。
「陛下がお喜びにって・・・。エマ様、それはそんなにすごい大根なんですか?」
「そんな大根の話なんて聞いたことがありませんわね。王都ではそもそも野菜が手に入りにくいですし・・・。」
二人はルウベ大根のことを知らないそうだ。考えてみればルウベ大根は危険な野菜なので、畑に生えてきてもすぐに取り除いてしまう。王都暮らしの貴族の女の子が目にする機会はないよね。
エマがルウベ大根のことを説明すると、二人はそれにとても驚いていた。
「そんな危険な野菜があるなんて、初めて知りましたわ。なんて恐ろしいんでしょう!」
土地を腐らせる魔虫を呼び寄せると聞いたニーナちゃんが顔を青ざめさせながら言った。そんな彼女を落ち着かせるようにエマは明るい声で笑った。
「でもね、ルウベ大根はとっても美味しいんだよ。シチューやスープにするとね、すっごく甘くなってトロトロで最高なんだー。」
「えっ、そんな危険な植物を食べて大丈夫なのですか!?」
ゼルマちゃんがびっくりして声を上げた。エマはきょとんとした顔で「大丈夫だよね?」とミカエラちゃんに視線を向ける。彼女はこくんと頷いて言った。
「ルウベ大根の実自体に毒性はないの。花には毒があるけどね。繁殖力がとても強いし痩せた土地でもどんどん増えるから、野菜としてはとても優秀だってお姉さ・・・ガブリエラ様はおっしゃっていたわ。」
ミカエラちゃんの説明を聞いて、ニーナちゃんとゼルマちゃんは感心したように頷いた。でもエマとジビレさんは少し心配そうにミカエラちゃんを見ていた。
「ところでドーラさん、歓楽街の娼館の件はどうするつもりですか?」
突然、ミカエラちゃんが私の方に向き直ってそう聞いてきた。急に聞かれてドギマギしながら、私は自分の考えたことについて皆に聞いてみた。
「えっとね、最初はお金を渡してあげようと思ったんだ。けど、それじゃダメかなって思って誰かに相談することにしたの。ほら、前にジビレさんが『お金は人の心を狂わせる』って言ってたでしょ?」
私がエマにそう言うと、エマはうんうんと頷いた。
「そうだよね。村にいるときはお金のことってほとんど考えたことなかったけど、王都に来てからはお金ってすごく大事なんだって思うようになったよ。」
エマの言う通り、ハウル村ではお金がなくても生活に不便を感じることがほとんどなかった。必要なものはみんな畑や森、そして川へ行くことで手に入れていたからだ。そういうところは私たちの暮らしにちょっと似てるかもしれない。
でも王都では薪一つ手に入れるのにもお金が必要だ。お金がないと生きていけないのだから、皆がお金を欲しがるのも仕方がないと思う。
「でも私はイゾルデさんにお金を渡してあげたいの。どうすればいいと思う?」
「うーん、お姉ちゃんが直接渡すのは良くないと思う。カフマンお兄ちゃんが作ってくれたハウル銀行にお願いしてみたらいいんじゃない?」
「そうだね! こういう時のためにハウル銀行があるんだった! 私、明日カフマンさんのところに行ってみるよ。」
お金のことなら商人のカフマンさんに相談するのが一番だ。流石は私のエマ。エマは本当に可愛くて、賢くて、頼りになるよね!
私がニコニコしながらエマの頭をなでなでしていたら、ミカエラちゃんが私に言った。
「私もエマちゃんの意見に賛成です。でも王都の復興に直接関わることですから、一度陛下にお知らせしておいた方ががいいのではないでしょうか?」
「あ、そうだね。私、今から王様のところに行ってくる。ありがとうミカエラちゃん!」
私がそう言うとニーナちゃんとゼルマちゃんはハッと息を呑んだ。お礼を言った私にミカエラちゃんは「陛下によろしくお伝えください」と言ってにっこりと微笑んだ。
あ、今の笑い方、ガブリエラさんにすごくよく似てた。性格は違うけど、こういうところを見るとやっぱり二人は姉妹なんだなって思う。
まもなくジビレさんが「ミカエラ姫様、そろそろお休みになりませんと」と言ったので、おしゃべりはそこでお開きになってしまった。
私はリアさんと一緒にエマが寝るための準備をした。ニーナちゃんとゼルマちゃんは二人で顔を見合わせて、私に何か言いたそうにしていたけれど、結局何も言わず寝台に入ってしまった。私はジビレさんたちと交代でお風呂に入った後、皆が寝静まるのを待ってから《転移》の魔法で、王様の部屋に移動した。
私が移動したとき、王様はちょうど寝台に入ろうとしているところだった。急に現れた私を見て驚きながらも、王様は歓迎してくれた。
王様は隣の部屋に控えていた侍女さんにお茶の準備をお願いしてから、私をいつものテーブルに案内してくれた。襲撃の後、目覚めてから私は何日かおきに王様の部屋を訪れていた。だからこの侍女さんとももうすっかり顔見知りだ。
お茶を出してくれた侍女のヨアンナさんにお礼を言って、いつも通り美味しいお茶を一口飲んだ。それから私は王様に今日来た用件を話した。王様はそれを黙って聞いた後、私に言った。
「ルウベ大根の件は報告を受けていたが、ドーラさんのおかげでより詳しく知ることができた。ありがとう。今後の研究は王立学校のゴルツ学長が中心になって進めるよう、明日秘密裏に勅書を発行しよう。ドーラさんも引き続き協力をお願いしたい。頼めるかな?」
「もちろんです! エマも一緒に研究するはずですから。任せといてくださいね!」
私が胸を張ると、王様はちょっと曖昧な笑顔でうんうんと頷いた。
「歓楽街の件だが、女性たちが風呂に入れず困っているという点には思い至らなかった。まだ寒い日が多いし大丈夫だろうと思っていたが、考えが足りなかったな。防疫のためにもすぐに対策をしたい。だが民間の娼館への援助を王家が直接するわけにはいかない。こちらもぜひドーラさんにお願いしたい。よろしく頼みます。」
「分かりました! カフマンさんに相談してみますね。」
「うむ。これを機に公営の娼館を造成しようとも考えたが、貴族のあずかり知らぬ平民の生活に関わること。事情に精通している者が差配した方がうまくいくだろう。」
「そうですね。フランツさんも『貴族様は何にも分かっちゃいねえ』ってよく言ってます。」
私がそう言うと、王様は「まったくその通りだよ」と苦笑いしながら頷き、「それに・・・」と呟いた。
「公営となればいらぬ罪を作ってしまわぬとも限らないからな。」
「?? どういうことですか?」
「人の欲には限りがないということだよ、ドーラさん。それを法で縛ることはとても難しいんだ。」
「?・・・すみません。よく分かりません。」
公営って王様が娼館を経営するってことだよね? それと人の欲がどう関係してるんだろう?
いくら考えても、私には分からなかった。うんうん唸りながら頭を捻る私に、王様は優しい口調で言った。
「いつかドーラさんにも分かる日が来るかもしれない。いや、分かってほしくないというのが偽らざる気持ちなのだがね。」
王様は椅子から立ち上がり、私の肩にそっと手を置いた。
「とにかく街の復興を担当している文官にも話を通しておこう。困ったことがあったらまたこうして知らせてほしい。」
「分かりました!」
「あとそれから、これも渡しておこう。」
そう言って王様は机の引き出しから、数枚の紙を取り出して私に差し出した。紙は黄ばみ端の方が傷んでいる。どうやらかなり古いもののようだ。
「これは・・・魔道具の図面ですよね?」
「やはり分かるかね。流石はガブリエラ殿のお墨付きだな。」
王様は満足そうに微笑むと、座った私の頭をポンポンと軽く撫でてくれた。嬉しくなって思わずにへへと笑ってしまった。
「随分大きな魔道具みたいですね。火と水の魔法陣・・・これってひょってしてお湯を沸かす魔道具ですか?」
「うむ。魔道具で大量のお湯を作ることができたら、民の生活を少しでも楽にしてやれるのではないかと思って考えたのだ。私が今のエマくらいだった頃に描いたものだよ。」
こんなに細かい図面をエマくらいの年に描いたと聞いて、私はびっくりしてしまった。ガブリエラさんが以前、王様は王国で一番の錬金術師だって言ってたけど、本当にその通りだと思う。
私が王様にそう言うと、王様は少し遠い目をして寂しそうに笑った。
「私の錬金術でこの国の問題をすべて解決してみせる。これを描いた頃はそんな風に思っていたよ。今ではもう過ぎ去った、遥か昔の私の夢の一つさ。」
私はそれを聞いてなんだか王様のことを放っておけない気持ちになってしまった。王様が必死に涙を堪えている小さな男の子のように見えたからだ。私は椅子から立ち上がると王様の手をそっと取った。
「ドーラさん・・・?」
「王様、夢は終わりません。だって誰かの夢は他の誰かの希望になるじゃないですか。人間はそうやって夢を繋いで来たのでしょう?」
王様はひどく驚いた顔をした後、ぐっと奥歯を噛みしめた。そして私から少し顔を背け、震える声で言った。
「そうだな。ドーラさんの言う通りだ。私の夢は終わらない。同じ夢を見てくれる者がいる限りな。」
「そうですよ、王様! 王様の夢を応援してくれる人がこの国にはいっぱいいるじゃないですか。」
王様は目をぱちぱちさせた後、しばらく黙っていたけれど、やがて「この図面をクルベ老師に見せて欲しい。あと製塩の魔道具を作った二人の職人たちにも。彼らならこの図面で私のやりたかったことを察してくれるはずだ」と力強い声で私に言った。
王様の後ろで私たちの話を聞いていたヨアンナさんは王様のその晴れやかな顔を見て、そっと涙を拭っていた。
その後私たちは、しばらくお茶を飲みながら話をした。私は王都の川港の荷運び人さんから聞いた話を王様にした。
「そういえば川港の倉庫で働いていた男の人たちが、王様のことをすごく褒めてましたよ。冬に飢え死にする人が出なかったのは、王様が火事で燃えそうになってた倉庫の中身を街の人たちに開放するって言ってくれたおかげだって。」
私がそう言うと王様はちょっと苦笑いをした。
「うむ。そうすることで民が一丸となって備蓄用の食糧を守ってくれたのは本当にありがたかった。結果的に多くの食糧を無駄にせずに済んだしな。ただ・・・。」
「ただ?」
「実はそのことでちょっと困ったことになっていてね。いや、ドーラさんに聞かせる話ではないな、これは。」
王様は茶器を持ったままじっと考え込んていたけれど、やがて大きく息を吐いた。
「今夜は少し疲れてしまった。それにそろそろヨアンナを休ませてやらなくては。」
王様は後ろに立っているヨアンナさんを振り返り、彼女と目を合わせて優しく微笑んだ。ヨアンナさんは王様よりもうんと年上みたいだ。彼女が王様を見るときの目は、ミカエラちゃんを見るときのジビレさんの目によく似ている。きっと小さい頃から王様のことを見てきたのかもしれないね。
「じゃあ、私、そろそろ王立学校に戻りますね。」
「うむ。ドーラさん、よい話をたくさん聞かせてもらった。本当にありがとう。」
私はいつものように王様とヨアンナさんを《どこでもお風呂》の魔法で癒した後、《安眠》で眠らせたまま寝台へと運んだ。そして王様がテーブルにおいてくれていたピカピカのドワーフ銀貨を一枚《収納》にしまい込んで、《転移》でエマのところに帰った。
エマの寝顔を確認し乱れた寝具を直した後、私は使用人室に入った。自分の寝台までそろそろと移動して、ぐっと両方の手を握る。
明日は早速、カフマンさんのところに行かなくちゃ。そして困ってる人たちを助けるんだ。
「よし!! がんばるぞ!!」
永遠の時を生きてきた私にとって、夜が明けるまでの僅かな時間なんてあっという間だ。でも今夜はそれがとても長く感じられる。
眠れない私は自分の寝台に腰かけてクルベ先生に貸してもらった建築魔術の本を取り出した。そしてそのまま夜が明けるまで、空中に作り出した小さい《領域》の中で建築魔法の練習をして過ごしたのでした。
読んでくださった方、ありがとうございました。