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missドラゴンの備忘録  作者: 青背表紙
87/93

85 インゴくんの魔法 前編

なんかいつもより長いなーと思って書いていたら、30000字超えてました。仕方がないので3つに分けることにしました。


※ 拙作「ゴブリン先生、荒野を行く」にたくさんの誤字報告をいただきました。お礼を申し上げたいのですが、お伝えする場所がないのでここで書かせていただきます。本当にありがとうございました。

 王様が大儀式建築魔法『六星の守護塔』を行った日から3か月。自由自治領ハウルは夏の真っ盛りを迎えていた。明るい太陽の日差しが照り付ける中、たくさんの人たちが新しくなった街道を行き交っている。


 街道から少し離れた新しい農地付近では建物の建築が今もまだ続いていた。作業に従事しているのは新たにハウル領の住民となった移住者さんたち。


 カールさんが積極的に援助しているとはいえ、新しい土地で生活を始めるのはとても大変なことだ。それでも彼らは未来への希望に目を輝かせ、一生懸命に家づくりや農作業を頑張っている。


 苦労する中でも笑い合う彼らの姿を見て、私は人間ってやっぱり素敵だなと思った。私も彼らに協力したいので、夜中にこっそり魔力で加工した建材を補充したり重い荷物を運んでおいたりしている。


 表立って手伝わないのはもちろん、カールさんとの約束があるからだ。彼は「彼ら自身の手で生活を切り開くのが大切なのです」と言っていた。キラキラした瞳で汗を流している人たちの姿を見て、私は彼がそう言った理由が分かる気がした。


 




 フランツさんの家がある旧ハウル村の農地ではこれから始まる雨の季節に向けて、おかみさんたちが麦の刈り入れとジャガイモの植え付け作業に追われている。エマの一番下の妹グレーテちゃんが乳離れをしたので、今年はマリーさんも他のおかみさんたちと一緒だ。


 今年8歳になったデリアちゃんとアルベールくんも、他の子どもたちと一緒に大人たちの手伝いで忙しそうに動き回っている。私の作った土人形ゴーレムのゴーラたちも収穫物運びに大活躍だ。私も魔法で農具の手入れなどをして、ほんの少しだけ手伝わせてもらった。


 フランツさんは村の男の人たちを率いて、毎日木の切り出しを頑張っている。最近フランツさんは食事中によく「切っても切っても木が足りねえ」と言っている。もちろんそれは春になって王都の復興工事が再開されたこと、そしてハウル領でたくさんの建物を建てていることが原因だ。


 おまけにこの春からは新しい木こり見習いの人たちが大勢加わったので、その人たちに仕事を教えなくてはならないんだって。でも忙しそうにしながらも、仕事の様子を話すフランツさんはとても楽しそうだった。






 カールさんは新しく王都から派遣されてきた文官さんたちを率いて、ハウル領の生活を安定させるための陣頭指揮を執っている。最近の彼はいつもステファンさんと一緒だ。


 どうやら領地貴族家出身の彼に教わりながら、領主の仕事をしているみたい。以前のように自分で仕事を抱え込まなくなったせいか、近頃のカールさんは少し気持ちにゆとりが出てきたように感じる。なんていうか、貫禄が付いて頼もしくなったって感じかな。


 私はそうやって成長している彼の様子を見るのが、なんだかとっても嬉しかった。


 王都からは文官さんだけでなく、衛士さんたちも大勢やってきた。その衛士さんたちをヴィクトルさんが中心になって組織し子爵直属の衛士隊ができたことで、ハウル領の治安が急速に回復したそうだ。


 確かにヴィクトルさんみたいな大男が自分の背丈くらいある大剣を背負って駆けつけてきたら、大概の人たちは大人しくなっちゃうだろうからね。






 王様の大魔法のおかげで、ハウル領の暮らしは安定し始めている。ただ心配なこともなくはない。


 それは領の周辺に迷宮が同時に3つも出現してしまったことだ。おそらく魔獣の森周辺で巨大な魔力を行使したことが原因ではないかと、クルベ先生は話していた。


 迷宮は近くに人が多く住んでいて、なおかつ魔獣を引き寄せる魔素が濃いところに発生しやすいらしい。大魔法のせいでハウル領周辺の魔素を根こそぎかき集めてしまったから、普段よりも迷宮が発生しやすくなってしまったのだろう。


 冒険者ギルド長のガレスさんによると、現在確認されている迷宮は東側に2つ、西側に1つ。もしかしたらもっとあるかもしれないので、冒険者さんたちは迷宮を攻略する傍ら領周辺の探索を続けているそうだ。


 私は迷宮に近づくことができない。近づくと怯えた迷宮が暴走してしまうからだ。だから薬や巻物、魔導具を作ることで、冒険者さんたちの手助けができたらいいなあと思っている。











 その日、王立学校での午前中の仕事を終えた私は、いつものようにハウル領の職人街へと《転移》で移動した。槌音の響く通りを抜け、路地を少し入ったところにある小さなお店の扉の前に立つ。扉に付けられた素朴な看板には、巻物や薬瓶を示す絵と共に『ドーラ魔術工房』と書かれている。


 そう、ここは私が経営するお店なのです!


 扉を開いて真新しい木とガラスをふんだんに使った明るい店内に入ると、魔法薬特有の少しツンとする香りと共に明るい声が私を出迎えてくれた。


「いらっしゃいませ! ・・・ってなんだ、ドーラお姉ちゃんか。エマちゃんはもう授業に行っちゃったの?」


 ハンナちゃんはそう言ってカウンターから出てくると、弾けるように笑いながら私のところへ駆け寄ってきてくれた。王都の服飾職人ドゥービエさんがデザインしてくれた若草色のエプロンドレスが、花のようにかわいらしい彼女にとっても似合っている。


「うん。今朝は朝ご飯を食べたらすぐに研究室に走って行っちゃった。このところ、なんだかすごく忙しそうなんだよ。」


 私がそう言って彼女にエマの様子を話していると、カウンターの奥にある入り口から利発そうな男の子が顔を覗かせた。






「ドーラさん、新しい注文がどっさり来てますよ。」


 そう言って私に紙束を手渡したのはハンナちゃんの一つ上のお兄さんで、このお店の事務と商品管理を担当してくれているイワンくんだ。今年14歳になった彼は私よりもずっと背が高く、ほとんど大人と変わらないくらいの身長だ。


 彼はハンナちゃんの着ているドレスと同じ若草色のズボンと白いシャツ姿だ。細身の彼が着ているとすごくすっきりした感じがする。私は彼にお礼を言ってから、一緒に奥の工房兼商品倉庫に入った。


「ありがとうイワンくん。じゃあ早速材料を揃えに・・・。」


 私がそう言いかけると、彼はにっこりと笑いながら部屋の壁いっぱいに作られた棚の一角を指し示した。






「もう準備してありますよ。あとこれ、この間の分の売り上げです。材料費と僕たちの給金は差し引いてありますけどね。」


 そう言って彼は私にハウル銀行の預かり証を手渡してくれた。魔法の刻印をされた預かり証を確認し、改めて彼にお礼を言うと、彼は控えめに微笑んだ。


「任せておいてください。そのために僕がいるんですから。」


 この数か月の間、イワンくんはカフマン商会で働きながら事務や会計について学んだ後、商会を辞めて私のお店にやってきてくれた。今では私がいない間、兄妹二人でこの工房を切り盛りしてくれている。






 私は彼と一緒に注文書にある魔導具や巻物、魔法薬の材料を一つ一つ確かめていった。別の棚には魔力付与を依頼された道具や武具、修理を依頼された魔導具などがきちんと整理されて置かれている。


 早速注文された依頼を片付けようとしたところで、お店の扉が開いて来訪を告げる呼び鈴の鳴る音が聞こえる。まもなくカウンターの方からハンナちゃんが顔を覗かせ、イワンくんに声をかけた。


「お兄ちゃん、一緒にお客さんの話を聞いてもらえる?」


 イワンくんは「すみませんドーラさん」と私に断ってからお店の方へ出て行った。値段の交渉していると思われる男性の話し声につられて、私は戸口からそっとお店の様子を窺った。






 応接用に置かれた小さなテーブルには行商人風の男性が座っている。その前の席に座ったイワンくんと男性がしきりに何かを言い合い、書字板を手にしたハンナちゃんがそのやり取りを記録しながら時折男性に質問をしていた。


 やがて男性が「まいったなぁ」と言いながら立ち上がった。イワンくんは「この度は誠にありがとうございます」と言って彼に右手を差し出した。二人ががっちり握手を交わしたところで、私の視線に気が付いたハンナちゃんがこちらを振り返り、パチリと片目を瞑ってみせた。どうやら交渉はうまくいったみたいだ。


 私も半仮面越しにハンナちゃんへ片目を瞑り返した。二人で同時ににこりと笑い、私はまた工房に戻った。


 二人はしっかりとお店を切り盛りしてくれている。よし、私も頑張ろう!!


 すっかり安心した私はイワンくんが作業台の上に並べておいてくれた素材を手に取った。そして彼がまとめておいてくれた注文書に従い、次々と依頼をこなしていったのでした。











 その週の終わり、私はエマたちと一緒に王立学校の社交棟へと赴いた。『平民生徒の会』の交流会に出席するためだ。新学期が始まってからというもの、すでに何度もこの交流会は行われている。私が参加するのはこれが3回目だ。


 参加者は3年生のエマと、2年生の平民生徒4人、それに今年新たに入学した1年生の平民生徒16人だ。それに加え、エマの招待客ゲストとしてミカエラちゃん、イレーネちゃん、ニーナちゃん、ゼルマちゃんも出席している。


 さらには私のように給仕役として侍女さんたちが大勢いるため、大広間を貸し切って会場を作っているのに少し窮屈な感じがした。


 今回の会場費はエマがすべて負担している。春の初めにあった海賊退治で、エマはすごい額の報酬をコルディ商会とサローマ伯爵からもらった。そのお金を使っているのだ。


 ちなみに私とヴリトラ、フェルスもエマと同じだけの報酬をもらっている。私は銀貨だけでなく金貨までもらえてすっかり有頂天になってしまった。


 ただそれだけ私たちに報酬を払っても、本来出兵するはずだった討伐軍派遣費用の50分の1にも満たない額らしい。私はそれを聞いて軍隊を動かすのってすごいお金がかかるんだなととても驚いてしまった。






 交流会に参加している生徒たちは会場いっぱいに置かれた丸テーブルに、いくつかのグループに分かれて座っている。礼服やドレスに身を包み着飾っている生徒がほとんどだけれど、制服で参加している子もいた。エマもその一人だ。


 王立学校の交流会は貴族の社交の練習を兼ねているため、本当は季節に合わせたドレスなどを準備して参加しなくてはならない。ただ平民の生徒にとって、その準備はかなり大きな経済的負担になる。


 平民の生徒は王様から制服や学用品などの援助を受けられるけれど、それ以外のものは全部自分で用意しなくてはならないからだ。


 だから去年、エマが最初の交流会の直後に「次回からは制服で参加できるようにしたい」と提案したらしい。確かに貴族になるわけではない生徒たちにとって、着飾ることに意味はないものね。






 それ以来、エマはこの会の時だけは制服を着て出席している。もちろん制服着用は強制ではないので、礼服やドレスを着るのも自由だ。


 例えばジョセフィーヌちゃんはお父さんが毎年季節ごとのドレスをわざわざ贈って来るので、毎回ばっちり着飾って参加している。今日も金色のものすごく派手なドレスに、黄金の装身具をいっぱい身につけていた。


 彼女の両親は王都でも1,2を争う冒険者で、英雄と呼ばれるほどの人たちだ。それにヒムヤルという国から来た彼女のお母さんにとって、金色は太陽を表す神聖な色らしい。だからお金に糸目をつけず、娘のためにとわざわざ黄金の装身具をいくつも誂えてくれたんだって。


 実際、金色は彼女の濃い褐色の肌に映えてとっても綺麗だ。ただ本人は「こんなヒラヒラしたもん着なきゃならないだなんて」と、お父さんのドレスに不満があるらしいけどね。






 招待されて出席しているイレーネちゃんも、王国でも1,2を争う名家カッテ伯爵家令嬢にふさわしくきれいに着飾っている。彼女はエマが制服を着てこの交流会に出ることを最初とても嫌がっていた。


 彼女が言うには「着飾ることも貴族にとっては大切な仕事の一つ」なのだそうだ。そうやって服飾に関わる職人さんを育てたり、王国に文化や流行を広めたりするという意味がちゃんとあるらしい。


 交流会に関わる楽師さんや料理人さんを育てるにしても同じ。だからはじめはエマの考えがなかなか理解できなかったみたい。


 でもこの交流会で、平民の生徒たちから直接それぞれの家の実情などを聞くうちに、エマの意図を分かってくれたようだ。さすがに自分が制服で参加することはないけれど、エマに対してうるさく言うことがなくなったからね。






 もちろんエマだって他の貴族が主催する交流会に招待された時にはちゃんと着飾っていくようにしている。他の生徒だってそうだ。だけどよほどのことがない限り、平民の生徒が貴族の交流会に招待されることはない。


 コルディ商会のピエトロくんのように実家の都合で貴族との関係を持ちたいと思っている生徒は別にして、ほとんどの平民の生徒は貴族の生徒とあまり関わりを持ちたがっていないように見える。


 先生方やイレーネちゃんたち上級貴族の生徒が目を光らせているから、平民の生徒が貴族の生徒から表立って意地悪されることはほとんどなくなっている。でもだからと言って、必ずしも優しく接してもらえるわけではない。


 平民の生徒にとって王立学校ここは純粋に詠唱魔法について学ぶ場所。将来、貴族社会で生きていくために仲間を増やす場所ではないってことなんだと思う。


 




 いつものことだけど今回の交流会も、各テーブルごとにかなり話が弾んでいた。貴族の交流会だと実家の家格や爵位によって席次がきちんと決められているけれど、この『平民生徒の会』では毎回くじ引きで席を決めている。


 木こり村の出身であるエマを除いて、今いる生徒たちは皆似たような境遇だ。だから自然と会話が進むみたい。彼らは一緒に魔力の鍛錬をしようと約束し合ったり、授業で分からないところを教え合ったりしている。


 そんな中、主催者であるエマは各テーブルを回って積極的に皆に話しかけていた。王都で大人気の劇『救済の聖少女シュッツェンゲルエイミの物語』の元になったエマの活躍は(主にピエトロくんのせいで)生徒たちに広く知られているので、どのテーブルに行ってもほとんどの生徒たちはエマを歓迎してくれている。


 中にはちょっと険のある視線を向ける子もいるけれど、それはごく一部だし表立ってエマに何か言うこともない。ゼルマちゃんによると「エマ様が嫉妬されるほどの実力をお持ちだという証です」ということらしい。


 エマは王国内では『下民』と呼ばれることもある木こりの娘。エマ自身はそれを隠そうともしていない。それなのに最上級貴族であるイレーネちゃんやミカエラちゃんと仲良くしている。そのことに対していろいろ思うところがある生徒もいるのですよ、とゼルマちゃんは私に教えてくれた。






 平民生徒の会の交流会では貴族の交流会みたいに楽師さんの演奏に合わせてダンスをすることはほとんどない。大抵はお茶やお菓子を楽しみながら皆でゆっくりおしゃべりをするだけだ。


 その日の交流会もいつものように穏やかに進み、昼ご飯を知らせる鐘と同時にお開きになった。参加していた生徒たちはお別れの挨拶を終えると、食器類の片づけを終えた侍女さんと共に会場を出て行く。


 思い思いの表情で出て行く生徒たちを、エマと2年生の平民生徒4人、それにミカエラちゃんたち貴族の生徒たちが見送る。ほとんどの生徒が退出したのを確認したところで、エマはその場に残った皆にお礼を言った。






「本当にありがとう、みんな。色々助けてもらってすごくうれしかったよ。」


 すると丁寧に頭を下げるエマの前に、イレーネちゃんがすっと進み出て言った。


「遠慮なさらないでください。親友のエマさんが主宰する交流会なのですから、協力するのが当然ですわ。」


 イレーネちゃんが『親友』という言葉を強調して軽く胸を反らす。その様子を見てミカエラちゃんは、マルグレーテちゃんと視線を合わせて小さく微笑んだ。イレーネちゃんはエマに「ありがとう」と両手を握られていたので、それに気が付いていなかったけどね。


 2年生になったマルグレーテちゃんは錬金術研究室に所属している。最近ミカエラちゃんと仲良くしてるのはきっとそのせいなのだろう。






「楽しい時間を終わらせるのは本当に名残惜しいですねえ。でもいつまでもこうしていてはお昼ご飯を食べ損ねてしまいます。そろそろ我らもお暇するとしましょう。」


 ピエトロくんがおどけた様子で自分の丸いお腹を軽く叩きながらそう言うと、皆は声を出して笑った。彼が交流会の間ずっと、出されたお菓子を美味しそうに食べ続けていたのをみんな知っていたからだ。


「エマさん、ありがとう。今度また魔力格闘訓練に付き合っておくれ。」


「うん、いつでも相手になるよ。ゼルマちゃんも一緒にね。」


 ジョセフィーヌちゃんの言葉にエマが頷く。エマがゼルマちゃんに視線を送ると、ゼルマちゃんは生真面目な顔で大きく頷いた。


 ジョセフィーヌちゃんとエマの模擬戦績は今のところエマがちょっとだけ勝っているみたい。でもそんなエマでもゼルマちゃんには全然敵わなくなっているらしい。


 三人は固い握手を交わした。ジョセフィーヌちゃんは二人の目をぐっと見てニヤリと笑った後、私の隣に控えていた大柄な侍女さんの方を振り返った。






「シャーリー、潮時だ。引き上げよう。」


「あいよ、お嬢!!・・・じゃなかった。かしこまりました、ジョセフィーヌお嬢様。」


 慌てて言い直したシャーリーさんの様子を見て、皆はまた笑顔になった。他の侍女さんたちは控えの間に荷物を取りに引き上げていった。私はもう片付け済みなのでエマの後ろに立ってそれを見送った。


 するとそのタイミングを待ちかねていたかのように、2年生の男子生徒、インゴくんが思いつめた表情でエマの前に素早く進み出た。






 いち早く彼の動きに気づいたゼルマちゃんが彼の前に立ち塞がる。彼女はドレスの裾をさっと翻し、エマを守るように格闘の構えをとった。一歩遅れてジョセフィーヌちゃんもゼルマちゃんと同じようにインゴくんの前に立つ。


 ピエトロくんはその体型からは想像もつかないようなしなやかな動きで、その場にいた他の女の子たちを自分の背中に庇い、すっと身構えた。


「あっ・・・!」


 行く手を塞がれたインゴくんは小さく呟き、戸惑った表情でその場に立ち竦んだ。皆の動きが一斉に止まったことで室内に緊張が走る。






 その時、エマが自分の前に立っているゼルマちゃんとジョセフィーヌちゃんをそっと手で制した。エマは二人の間を通り抜けると、インゴくんの正面に立った。


「どうしたの、インゴくん。私に何か言いたいことがあるの?」


 エマは優しい声でインゴくんに話しかけた。そう言えばインゴくん、交流会の間中ずっと暗い顔をして黙り込んでいたっけ。それはいつものことだけれど、今日はいつもよりずっと落ち着きがなかった気がする。


 でも別に武器を持っている様子はない。エマもそれが分かっているから彼の正面に立ったのだろう。






 インゴくんはちらりと周囲に目をやった。自分を非難する視線を感じた彼は、何かを諦めたように視線を逸らした。でもその直後、両手の拳をぎゅっと握ってもう一度エマを正面から見つめた。

 

「エ、エマさん。」


 彼は震える声でエマの名前を呼んだ。声変わりしていない彼の声はか細く、まるで怯えている女の子みたいだった。エマは「なあに?」と泣いている弟を安心させる時のように、ゆっくりと頷いてみせた。


「ぼ、僕を・・・!」


 彼は一度言葉を留めた。そして息を大きく吸い込むと、意を決したようにぐっと目を瞑った。






「僕を・・・買ってください!!」


 彼がそう言った時、その場の空気が凍り付いたのが私にもはっきりと分かった。ただエマは言われたことが理解できなかったようで「え、なに?」と呟いた。私も訳が分からず周りの人の様子をそっと見た。


 ゼルマちゃんとジョセフィーヌちゃん口をあんぐりと開け、その場に立ち尽くしている。イレーネちゃん、ニーナちゃん、マルグレーテちゃんは顔を真っ赤に染めてエマとインゴくんを代わる代わる見つめていた。ただニーナちゃんはなぜだかとても嬉しそうな顔をしているように見えた。


 当のインゴくんはと言うと「いや、あの、えっと、僕・・・」と呟きながら、涙目になっている。


 そんな中、一番最初に立ち直ったのはピエトロくんだった。彼はこほんと小さく咳ばらいをした後、困ったような、面白がるような表情をしながら皆にこう切り出した。


「とりあえず皆さん、お昼が終わってからもう一度集まりませんか?」











 その日のお昼が終わってすぐ、エマたちは錬金術研究室の休憩室に集まっていた。ここなら誰にも邪魔されずにゆっくりと話すことができるからだ。


 いつもなら研究に勤しんでいるはずのウルス王子や他の研究生たちも、それぞれ週末の社交に行っているため今はいない。


 研究室の主であるマルーシャ先生なら一応いるけれど、彼女は「週末は自分の好きな研究が思う存分できる大事な時間だから」という理由で、自分の個室に閉じこもったまま出てくる様子がなかった。


 エマたちはいつも研究生たちが休憩に使っているテーブルに、インゴくんを取り囲むようにして座った。私が皆の分のお茶とお菓子を準備した後、エマは彼に詳しい話を聞かせてと穏やかに問いかけた。


 すると彼は怯えた表情をしながらも、聞かれたことを一つ一つ丁寧に話し始めた。






「つまりまとめると、私にあなたが自立するためのお金を貸してほしいっていうことなのね?」


 エマが首を傾げながらそう尋ねると、インゴくんは耳まで真っ赤になって何度も頷いた。


「はい、その通りです。さ、さっきはすみません、変なことを口走ったりして。なんていうかその、言葉が出てこなくなってしまって・・・。」


 彼は泣きそうな顔でそう言うと、そのまま俯いてしまった。彼の話を聞き終えたイレーネちゃんはふうと大きなため息を吐いた。






「本当に人騒がせなことですわ。わたくしはてっきり・・・。」


 彼女はそこでハッとしたように言葉を切った。エマは不思議そうな顔をして彼女に尋ねた。


「?? てっきり、何?」


「な、何でもありません! それよりも彼のお話を聞きましょう! そもそもどうしてエマさんにそんなことをお願いしようと思ったんですの?」


 イレーネちゃんは赤くなった頬をごまかすように、勢い込んで彼に尋ねた。彼は何度か口を開いたり閉じたりした後、ようやく小さな声で彼女に答えた。






「ほ、他に頼ることのできる相手がいなかったからです。それに・・・。」


「それに?」


 ミカエラちゃんが静かに言った言葉にインゴくんはびくりと体を震わせた。彼女の顔をちらりと見た後、彼は泣きそうな声で言った。


「貴族の皆さんには知られたくなかったんです。でも僕にはお金が必要だったから。」


 彼の返答を聞いて、皆は無言で視線を交わし合った。インゴくんはその雰囲気を察したらしい。覚悟を決めたように息を小さく吸い込むと、背筋を伸ばし前を向いて話し始めた。

読んでくださった方、ありがとうございました。

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