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missドラゴンの備忘録  作者: 青背表紙
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82 指名依頼 前編

あけましておめでとうございます。今年もゆっくり書き進めていこうと思います。よろしくお願いいたします。

 ようやく長い冬が終わった。毎年恒例の春の神事が終わった後、私とエマはハウル村でのんびりと畑仕事をしながら過ごしていた。


 そんな私のところにヴリトラが尋ねてきたのは、春の最初の月が10日ほど過ぎた頃のことだった。


「ドーラ、ちょっと我らをスーデンハーフという街まで連れて行ってくれないか?」


「うん、もちろんいいけど。でもどうして急に?」


「冒険者ギルドに我ら二人への指名依頼が入っていてな。どうやら依頼主がエマの知り合いらしい。」


「私のですか?」


 驚くエマにヴリトラは一通の手紙を差し出した。手紙にはコルディ商会という署名がしてある。






「これは私の後輩のピエトロくんの実家からの依頼ですね。」


 コルディ商会はスーデンハーフの街を拠点として広く海運業を営んでいる大商会だ。そこの跡取り息子であるピエトロくんは現在、エマと同じように平民でありながら王立学校に通い『平民生徒の会』という集まりを作っている。


 エマの説明を聞いたヴリトラは訳知り顔で大きく頷いた。


「なるほど、船で荷物を運ぶ連中か。ということは荷物の護衛だろうか?」


「詳しい話は商会で、と書いてありますね。」


「こやつらは信用できる相手なのか?」


「うーん、よく分かりません。ただスーデンハーフの街での評判はすごくよかったですよ。」






 それは私も実際に聞いたからよく知っている。コルディ商会は新興商会ながらも誠実な取引が評判で信頼が厚く、現在ではスーデンハーフで商売をしている人たちのまとめ役になっているのだ。


 私がそう言うとヴリトラは少し考え込むような様子をした後、エマの方に向き直った。


「エマ、よかったらおぬしも一緒に来てはくれまいか?」


「いいですよ。春の祝祭が終わって学校が始まる来月までは、まだ少し時間がありますから。」


 エマの新学期が始まるまでにあと15日くらいある。ちょっと話を聞きに行くだけなら十分な時間だ。私は早速《集団転移》の魔法を使い、スーデンハーフの街へと移動した。











「これはエマさん! よく来てくれました。」


 転移先で《不可視化》の魔法を解除してから商会へと向かうと、ぽっちゃりした体型の男の子が人懐っこい笑顔でエマを出迎えてくれた。彼は船員さんたちがよく身につける七分丈の青いズボンと半袖のシャツを着ている。どうやら船に荷物を運んでいる最中だったようで、手に持っていた荷物をその場に置いて私たちの方へ駆け寄ってきてくれた。


「こんにちは、ピエトロくん。」


 エマが彼に事情を説明すると、彼は少し驚いたように目を軽く見開いた。


「まさかこんなに早く、しかもエマさんまで来ていただけるとは思いませんでしたよ。でもエマさんが一緒なら話が早いです。さあ、こちらへ。」


 彼は私たちを商会の建物へと案内してくれた。コルディ商会はスーデンハーフでよく見られる白い石造りの2階建ての建物だ。サローマ領は温暖で雨がほとんど降らないため木材がとても貴重。だからこの街に限らず、サローマ領沿岸の建物はほとんどが石で作られている。





 石造りの壁の上には白い塗料が厚く塗られていた。これは『漆喰』という塗料で、この辺りで採れる石の粉に粘土やのりなどを混ぜて作っているんじゃよと、建築術師のクルベ先生が以前私に教えてくれた。


 この白い壁は夏の暑さから建物を守るだけでなく、水をきれいにする効果もあるそうだ。私はその話を聞いたとき、色まで自分たちの暮らしに役立てる人間の知恵にひどく感心してしまった。やっぱり人間ってすごく賢いです。


 建物の外壁に沿って作られた広い階段を上っていく。フェルスは大きな体を小さく屈めて階段をのぼりながらも、階段の脇に作られた花壇を興味深げに眺めていた。


 花壇には南国でよく見られる赤や黄色の色鮮やかな花々が咲き乱れている。まだ雪の残るハウル村とは大違いだ。


 スーデンハーフの人たちはこうやって建物の周りで花や植物を育てている人がとても多い。街には花の苗を専門に扱う職人さんもいて、割と安い値段で買うことができるのだ。植物があまり育たない土地だからこその風習なのかもしれないね。






 階段の先の青く塗られた木の扉をくぐって中に入ると、正面の事務机に座っていた恰幅のいい男性が立ち上がり私たちに挨拶をしてくれた。彼はピエトロくんと驚くほどよく似ている。


「わざわざご足労いただきありがとうございます。コルディ商会会頭のエゴンと申します。」


 どうやら私たちが来ることをあらかじめピエトロくんが知らせておいてくれたらしい。そんな素振りも見えなかったので、私は少し驚いてしまった。彼は見た目よりもずっと目端の利く人のようだ。


「我々は一体何をすればよいのだ?」


 小さな窓際に置かれた応接机の席に着くなり、ヴリトラはエゴンさんにそう尋ねた。エゴンさんは事務机から持ってきた大きな紙を広げながら私たちに説明を始めた。






「皆さんにご依頼したいのは海賊共を討伐するための情報収集です。こちらをご覧ください。」


 縦横に細かく線が入った紙には、一面に絵が描いてあった。さらにあちこちに印があり、その横に小さな文字で地名が書かれている。私はすぐにそれが何なのか分かった。


「あ、これこの辺りの海と陸を書いた地図ですね。」


 私がそう言うと、彼は驚いたように、半仮面とフードで顔を隠した私の方を見た。


「ええ、その通り。これはスーデンハーフ近辺の『海図』です。しかしよく一目見ただけで分かりましたね?」


「だっていつも上から見てますから。」


「「・・・上から?」」


 私の答えを聞いたエゴンさんとピエトロくんが同時に首を捻る。それで私は自分がとんでもない失言をしたことに気が付いた。






「!! あっ、いえ、その・・・ず、図鑑の地図をですね! そ、それにしてもすごく細かく描かれてますねぇ、この海図!!」


 慌ててごまかすようにそう言った私を見て、隣に座っているエマがくすくすと笑いだす。エゴンさんは少し不思議そうに私とエマを見比べた後、明るい声で笑い出した。


「はっはっは、そうでしょう。海を行く我々にとってはこれが命綱ですからな。」


 でも彼はすぐに表情を引き締めると、海図の一部分を指さしながら私たちに言った。


「ここを見てください。」


「陸が小さくくぼんでおるな。これは入り江か?」


「はい。カッテ領の南端、国境付近に位置する入り江です。我々船乗りは『ネズミの巣』と呼んでいます。」






 その入り江は周囲を峻険な断崖に囲まれた場所で、海賊たちの隠れ家になっているらしい。地形と水流の関係で、海からも陸からもこの入り江に近づくのはとても大変なのだそうだ。


「最近、海賊による被害が急増しているんです。」


 エゴンさんは真剣な表情で私たちにそう教えてくれた。


 一年前の王都襲撃事件でたくさんの船が燃やされ港湾施設が破壊されたことで、王都の水運業は大打撃を受けた。水運は王都の生活を支えるために欠くことのできないものだ。


 サローマ伯爵も領内の船を王都に派遣するなど援助を行った。それに伴って王国水軍の船員たちの多くが王都に動員されてしまっているのだそうだ。そのため水軍の武装船団が思うように動けない状況が起きてしまっているらしい。






「しばらくはそれで問題なかったのですが、最近になってゴルド帝国の方から流れてきたと思われる海賊たちがネズミの巣に住み着いてしまったらしいのです。」


 帝国出身の海賊たちはネズミの巣を拠点とし、周辺を通る船や沿岸部の街を次々と襲撃しているそうだ。


「積み荷だけならまだしも、船員を船ごと連れ去る事件も頻発しています。そのせいでどの商会も迂闊に船を出せなくなっているのです。このままでは我々の商売が立ち行かなくなるばかりか、王国民の生活にも大きな影響が出てしまうでしょう。どうか我々を助けると思って、引き受けていただけないでしょうか?」


 近々いくつかの商会と王国水軍、それにカッテ領軍が協力して、極秘に大規模な掃討作戦を計画しているらしい。ただその前に作戦を海賊たちに悟られるわけにいかない。そこで水運とは全然関係のない冒険者に依頼を出したのだそうだ。


 アジトの様子を探り、海賊たちの戦力や侵入経路の情報収集をしてほしいというのが今回の依頼内容だった。エゴンさんの話が終わると、それまで黙って聞いていたヴリトラがおもむろに口を開いた。






「それは構わん。だがなぜ我らを指名したのだ?」


「それは私がお二人を父に紹介したからですよ。」


 全員の視線が明るい表情でそう言ったピエトロくんに集まった。


「ピエトロくんが?」


 エマが尋ねると、彼は大きく頷いて言った。


「お二人がエマさんやドーラさんとつながりがあることは少し前から分かっていましたから。それならば間違いなかろうと思ったんです。」






 彼は商会の人たちを通じて私たちの噂を耳にしたことがあったらしい。難しい依頼をこなせる冒険者を選定する会議の中でピエトロくんはヴリトラたちの名前を見つけ、二人を採用してくれるようにとお父さんに進言してくれたそうだ。


「あとはお値段的な問題ですかね。もっと高名な冒険者さんたちは指名料も高額ですから。」


 なるほどと感心する私たちに彼はおどけた様子でそう付け加えた。ヴリトラたちは新進気鋭の冒険者として評判になっているけれど、まだそれほど実績があるわけじゃない。ギルドへ支払う指名料が他の冒険者さんに比べると格段に安かったらしい。


 話を聞き終えたヴリトラは不敵に笑って、エゴンさんとピエトロくんに言った。






「ふふ、なるほど面白そうだ。是非引き受けさせてもらおう。ただし条件がある。」


「何でしょう? 追加報酬でしたら依頼達成後に交渉させていただきます。あと事前経費は・・・。」


 そう説明を始めたエゴンさんに指を突きつけて黙らせた後、ヴリトラはさっと立ち上がり芝居がかった様子で私とエマの方を指し示した。


「金など問題ではない。我の条件はただ一つ。この二人も今回の探索に同行させてもらうぞ。それでよいな?」











 翌日の早朝、私たちはスーデンハーフの街の桟橋に立っていた。桟橋には二本の帆柱を持つ美しい帆船が横付けされている。たくさんの船員さんたちが出港準備のために動き回る中、引きしまった体の男性が私たちに近づいてきた。


「俺があんたらを乗せる『春風の女神フリューリングスルフト』号の船長、メルナンだ。よろしく頼む。」


 メルナンさんは白いものの混じった薄赤色の髪をした逞しい男の人だった。頬に傷のある厳めしい顔は髪と同じ色の短い髭で覆われている。彼は私たちを眺めた後、呆れた調子で腰に手を当てた。


「しかし俺が言うのもなんだが、『ネズミの巣』に海から乗り込んでいこうなんて正気の沙汰じゃないぜ。てっきり陸回りでカッテ領から入り込むと思ったのによ。」


「陸を行けば二か月以上かかると言われたのでな。それではエマの新学期に間に合わん。」


 澄ました調子でそう言うヴリトラの言葉を聞いて、私は昨日の悶着を思い出した。






 あの後、エゴンさんたちは今回の任務の危険性をヴリトラに訴え、彼女を説得しようとした。でも彼女はそれを一切聞き入れようとしなかった。長い話し合いの末、最終的にフェルスの「エマに聞いてみるのがいいんじゃないかなあ」という言葉に従うことになった。それで今、私たちがここにいるという訳だ。


「まあいいさ。今回は偵察に行くだけなんだしな。たとえ相手に見つかったとしても、この船に俺とピート坊がいれば絶対に逃げ切れるぜ。」


 彼はそう言って傍らに立つピエトロくんの背中をバンバンと叩いた。


「ピエトロくんは船を操縦できるんだね! すごいや!」


 エマがそう言うと、ピエトロくんは澄ました顔で答えた。






「操縦するのはメルナン船長や船乗りたちですよ。僕は方角を見たり潮目を読んだりするだけです。」


「かわいい嬢ちゃんの前だからってそんなにかっこつけんなよ、坊。」


 メルナンさんはそう言うと、ピエトロくんの髪をくしゃくしゃと撫でながらガハハと大きな声で笑った。


「ピート坊はエゴンの旦那と一緒に生まれた時から船に乗ってるからな。海のことならなんでもござれさ。」


 エゴンさんは中級貴族家出身のれっきとした貴族だけれど、早くに家を飛び出し一介の船乗りから一代で今の商会を作り上げた。メルナンさんはその頃からずっとエゴンさんと一緒に居たのだそうだ。


 船の上でピエトロくんが生まれた時にも立ち会っていたらしい。照れくさそうな顔をしたピエトロくんがメルナンさんを止めようとしたところで、ちょうど出港準備が整ったという知らせが届いた。


 こうして私たちは海賊たちが潜む『ネズミの巣』を目指して、船に乗り込んだ。






 春の静かな海の上を帆船は滑るように進んでいく。波はそれほど高くないけれど、やはり沖に出ると船は上下に大きく揺れた。


 エマには事前に乗り物酔い除けの魔法薬を飲ませておいた。出航直後の薬が効き始めるまでの間、エマは少し青い顔をしていた。心配になった私は横になったエマにずっと付き添っていた。


 でも昼を過ぎたくらいにはすっかり揺れにも慣れたようで、エマは元気を取り戻した。私はホッと胸を撫で下ろした。


 ちなみに私とヴリトラ、それにフェルスは全く船に酔わなかった。地上で暮らす人間と空や海で暮らす私たち竜では感覚が違うからかもしれない。






 固焼きパンと干したチーズの昼食を終えた私たちは、エマと共にピエトロくんの所に行ってみた。彼は奇妙な金属の球体と海図を使って船長さんに船の現在位置を伝えているところだった。


 真剣な顔で海図を眺めていた彼は、私たちに気が付くとすぐにエマの元へと駆け寄ってきた。


「エマさん、具合はどうですか?」


「うん。薬も効いてきたし、もうすっかり揺れにも慣れたよ。ありがとう。」


 エマがそう言うのを聞いて彼は安心したように笑顔を見せた。そして私たちに机の上に固定された海図を見せてくれた。






「今いるのはこの辺りですよ。目的地の『ネズミの巣』にはおよそ7日で着くはずです。」


 ピエトロくんはこれから進む方向を海図の上を指でなぞることで教えてくれた。その道筋は随分とグネグネしている。


「どうしてこんなにグネグネなの?」


「それは潮流や浅瀬を避けるためですね。」


 航路は陸地から少しだけ離れたところを進むため、場所によっては座礁の危険もあるのだそうだ。私は疑問に思ったことを彼に尋ねてみた。


「?? じゃあ、陸地から離れればいいんじゃない? こっちを通ればすぐに着くのに、どうしてまっすぐに進まないの?」


 私が陸地から離れた海図の上を指でまっすぐになぞると、ピエトロくんはたちまち苦笑した。






「確かにそうすれば航海はしやすいですけどね。でも陸地から離れると大型の海洋魔獣と遭遇しやすくなるんです。」


 陸地から離れれば航海はずっとしやすくなるけれどその分、魔獣との遭遇率も格段に高くなってしまうらしい。大型の海洋魔獣はこの船を一飲みにしてしまうほど大きいので、出会ったらまず助からないのだそうだ。するとそれを聞いたヴリトラが彼の背中をバンと叩いて言った。


「ふむ、それならば大丈夫じゃ坊主。今回の旅ではその危険はない。まっすぐに進むがよい。たとえどんな魔獣が出たとしても我らが追い払ってくれるわ。」


「し、しかし・・・。」


「何じゃ? 我らの力が信用ならんというのか?」


 彼はすぐに何か言いかけたが、エマが大きく頷いたのを見てその言葉を飲み込んだ。






「分かりました。そう言えばエマさんは《索敵》の魔法を使えるんでしたね。もし魔獣を感知したらすぐに知らせてください。僕が必ずみんなを逃がしてみせます。」


 するとそのやり取りを聞いていたメルナン船長が悲鳴のような声で彼に怒鳴った。


「おいおい、本当にまっすぐ進むつもりかよ坊!!」


「エマさんの魔法は信頼できます。お願いしますメルナン船長。」


 メルナンさんは苦いものを噛んだ時のように顔を顰めたけれど、やがて大きく息を吐いて肩を竦めた。


「坊にそう言われちゃあ、断れねえな。おい、いつもより見張りを増やすぞ!」


「へい、船長!!」


 メルナンさんは配下の船乗りさんたちに号令をかけると、自分も操舵するためにその場を離れた。こうして春風の女神号は陸地を離れ、一路西を目指して大きく帆を膨らませたのだった。











 出発してから3日が経った。私はこの間ずっと、少しでも船が速く進めるようにと魔法で風を起こし水流を操作している。船乗りさんたちはそれをかなり不思議がっていたけれど、私たちには何も言わなかった。


 どうやらピエトロくんが彼らに何か言ってくれたらしい。のちにエマから聞いたところによると「余計なことをあえて詮索しないのもよい商人の条件なのですよ」と彼は笑っていたそうだ。


 彼はこの風や水流は私ではなくエマの仕業だと思ってるようだった。王立学校での私は侍女姿だし今はまじない師の格好だから、私が魔力を使っているとは思っていないのだろう。


 もちろんそう思ってくれていた方が私には都合がいい。エマも「お姉ちゃんが目立つよりはいいよね」と言って話を合わせてくれているみたい。本当にエマには感謝しかないです。





 

 昼食後の昼下がり。私はヴリトラ、フェルスと一緒に船の舷側に立って遠くの海を眺めていた。このところエマはピエトロくんと一緒に過ごしていることが多い。彼から船や航海のことを色々教えてもらっているみたいだ。


 ちなみにこの船での食事は一日3回。献立はいつも同じで固焼きパンと干したチーズが一切れだ。朝にはそれにリメットという酸っぱい柑橘の実が必ずついてくる。船乗りさんたちは航海の間、この実を必ず食べることにしているそうだ。


 これを食べずに長い間船に乗っていると、全身が解け崩れる恐ろしい病気に罹ってしまうらしい。だからこの実は度数の高いお酒と一緒に樽の中に詰め込まれ、どの船にも必ず積んであるんだって。


 あと船に乗ってから今まで一度も水が食卓に出たことはない。代わりに出されるのは熟成させた麦酒エールや果実の蒸留酒だ。一応水の入った樽も積んであるけれど、水はものすごく貴重なので滅多なことでは使わないんだって。


 当然、顔を洗ったり顔を拭いたりすることもほとんどできない。船の上の生活はとても過酷なものなのだ。






 エマは苦い麦酒や酒精の強い蒸留酒があまり得意でない。だから私はこっそり《水生成》の魔法を使ってエマの分の水を準備していた。


 あと夜、船室に私たちだけでいるときには《どこでもお風呂》の魔法を使ってエマの体をきれいにした。もちろん他の人たちには《洗浄》の魔法を使っているんですと言っておいた。


 ちなみについでなので他の船員さんたちにも《洗浄》の魔法をかけてあげたら、すごく感謝されました。船員さんたちも自分の体の汚れや匂いが気になっていたみたいです。


 他にも私に何か出来ることがあるといいんだけどなあ。






 私がそんなことを考えながらぼんやり海を眺めていたら、横に立っていたフェルスが大きなため息を吐きながら言った。


「船の旅は楽しいねえ。やっぱり人間の作るものってすっごく面白いよ。」


「確かにこうやって人の身になって体験すると、この船旅もなかなか心躍るものがあるな。自分の翼で空を駆けるのとはまた違った趣じゃな。」


 ヴリトラの言葉に私とフェルスはうんうんと頷いた。


「それにしてもあれ以来、全然魔獣が出ないね。」


 私がそう言うと今度はヴリトラとフェルスが大きく頷いた。


「ああ、あの美味うまそうなタコ。ちと小さかったがな。」






 ヴリトラがタコと呼んでいるのは、昨日の夕方に出会った海洋魔獣のことだ。夕暮れの海が突然湧きあがるように盛り上がったかと思ったら、突然巨大な触手を持つタコが海の中から現れた。


 そのタコは春風の女神号を触手にからめとろうとすごい速さで近づいてきた。それに気づいた船員さんたちは大パニック。すぐに迎撃の準備をしようと船の上は大変な騒ぎになった。私もエマたちと共に船室を飛び出した。


 でもそのタコは舷側に立っていた私に気が付いた途端、体をびくっと震わせて一目散に海の底へと引き返してしまった。竜の姿ならそのまま海に飛び込んですぐに捕まえるのだけれど、人間姿の今ではそういう訳にはいかない。


 私は美味しそうな獲物が逃げていくのを見送るしかなかった。船員さんたちは「大魔蛸クラーケンが何もせずに帰るだなんて奇跡だ!」って涙を流して喜んでいたけれどね。






 私がその話をするとフェルスはくすくすと可笑しそうに笑った。


「タコ美味しいからねえ。でも僕はクジラも好きだなあ。この辺りにはいないのかな?」


「クジラは氷の大陸の辺りまで行かないと見つからないかなー。今度、皆で一緒に狩りに行こうよ。」


「おお、いいな! 我はあのでかいウミヘビを捕まえたいぞ!」


 ヴリトラが顔を輝かせた。皆で狩りをするなんて神々の戦いが始まる前以来のことだからね。楽しみで仕方がないのだろう。私も彼女と同じ気持ちだからそれがよく分かった。






「いいね! それじゃあさ・・・!」


 私が二人に狩りの提案をしようとした時、帆柱の上で見張りをしていた船員さんが手に持っていた銅鑼を打ち鳴らし始めた。


「入り江が見えたぞー!!」


 船の上がたちまち騒がしくなる。ヴリトラは振り返ってその様子を眺め、軽く顔を顰めた後、私たちに向き直った。


「まったく無粋なことじゃ。では一仕事片付けてから続きを話そうとするかの。」


 私たちは頷き合い、忙しなく動き回る船員さんたちをかき分けながら、ピエトロくんやメルナン船長の元へと向かった。






「では入り江に近づくための策をお話しします。」


 私たちと主だった船員さんたちがいる前で、ピエトロくんが海図を示しながら話し始めた。


「まずこのまま西へ進んでいったん入り江を通り過ぎます。半日ほど進んだあたりで陸地へと近づき、この浜に船を隠しましょう。」


 彼と視線を合わせたメルナン船長が軽く頷く。彼はホッとしたような表情で続きを話し始めた。


「夜の間は浜に身を潜め、夜明けとともに再び船を走らせます。あの入り江周辺は潮流が複雑ですが、この方向からなら帆を掲げなくとも、潮流に乗って比較的容易に入り江へ入り込めるはずです。それに万が一相手に気付かれたとしても、潮の流れを使ってすぐに脱出できますから。」






「入り込んでどうするのじゃ?」


 ヴリトラの問いかけにピエトロくんは海図から顔を上げて答えた。 


「岩陰にこの船を隠し、小舟を使って入り江に侵入してください。地形と建物の数、停泊している船の数と種類、そして相手の戦力と軍の侵入経路を記録し終えたらすぐに戻ってきてください。私たちはここで待機していますから。」


 ピエトロくんは一度言葉を切り、エマにちらりと目を向けた後、話を続けた。


「くれぐれも見つからないように気を付けてください。もし万が一見つかったら即時撤退です。すぐにここへ戻って・・・。」


 ヴリトラは彼の言葉を途中で遮った。






「見つかるなじゃと? 何をバカな。それでは海賊共と戦えぬではないか。」


 彼女の言葉にメルナンさん以下船員さんたちはギョッと目を瞠った。すぐにメルナンさんが大きな声でヴリトラを怒鳴りつけた。


「バカはあんたの方だぜ! 最初に言ったろう? 今回は偵察だけだ。たった船一隻でアジトの連中全員相手に出来るわけない。アジトの様子を出来るだけ探り、陸路と海路両方から討伐隊を差し向ける計画なんだぞ。それがバレたら元も子もねえだろうが!!」


 ビリリと空気が震えるほどの彼の声に、エマが思わず小さく首を竦める。でもヴリトラはそれをどこ吹く風と受け流して言った。






「話にならぬ。」


「な、何!?」


「そのような小細工など必要ない。ピエトロとやら。このまま正面から船を乗り込ませるがよい。」


「そんな、無茶です! 相手は十数隻もの強襲船を有する海賊団なんですよ! とてもじゃないですが太刀打ちできません。」


 ピエトロくんは必死の表情で海図を示しながら彼女に訴えた。


「それに潮流の関係でここからだと一度、入り江深くまで入り込まないと脱出できなくなります。死にに行くようなものですよ。」


 その場に沈黙が下りる。潮騒が響く中、海鳥の鳴き交わす声が遠く聞こえた。ヴリトラは彼としばらく睨み合っていたけれど、そのうちフッと息を吐いて両手を広げた。






「では我らだけで行く。小舟を貸せ。」


 その後、押し問答の末、メルナンさんが小舟を貸してくれることになった。いざとなったらエマの魔法で脱出できるからという言葉が決め手になったのだ。


 私たちは小舟に乗りここから入り江に侵入することになった。ピエトロくんたちは事前の計画通り、翌朝を待って西から入り江に侵入する予定だ。船員さんたちが小舟を海に下ろす準備をする間、私たちはメルナンさんたちとその段取りを何度も話し合った。


 小舟の準備ができたので私たちは春風の女神号から小舟に乗り移った。私とエマ、それにヴリトラが乗った船が船員さんたちによってそろそろと海面に下ろされる。私たちはその間、激しく揺れる小舟から振り落とされないように小舟を固定する綱をしっかりと掴んで揺れに耐えた。


 海面に降りた小舟は木の葉のように揺れ動いている。私は《水流操作》の魔法を使って小舟の動きを安定させた。揺れが少なくなったことで、エマはようやくホッとしたように息を吐いた。






 体の大きなフェルスは私たちとは別に小舟へ乗り込むことになった。船員さんたちはフェルスの大きな体を見て心配そうに言った。


「大丈夫か? あんたが乗っただけであの小舟ひっくり返りそうなんだが・・・。」


「平気だよー。」


 彼はそう言うと舷側から小舟目掛けてひらりと飛び降りた。私は《浮遊》の魔法でこっそりと彼の体を支えた。彼が音もなく小舟に飛び乗ったのを見て、船員さんたちは目を丸くしていた。


 それを見たヴリトラは「我らも最初からその魔法で乗ればよかったのう」と言いながら、乱れた自分の服を直していた。






「よしでは出発じゃ! エマ、魔法を頼んだぞ。」


 ヴリトラの言葉にこくりと頷き、エマは短杖を掴んで小舟の舳先に立った。エマは私と目を合わせるとおもむろに詠唱を始めた。


「大いなる力の源、母なる水よ。その優しきかいなで我らの道を示せ。《水流操作:潮流変化》」


 エマの杖が薄青色の光を放つと小舟はひとりでに走り出し、入り江に向かってすごい速度で一直線に進み始めた。もちろん私も手伝っているのだけれど、それは内緒だ。皆にはエマ一人の力で小舟を動かしているように見えるはず。


 すると遠ざかっていく船の上から呆然と呟く人の声が、波の音に混じって私の耳に聞こえてきた。


「・・・なあ、ピート坊よ。魔法ってのは本当に凄いもんだな・・・。」


「そうだね。王立学校に入ったのは、ただ貴族とのつながりを作るだけのつもりだったけど。あれを見たら僕も真剣に魔法を勉強してみたくなったよ。」

読んでくださった方、ありがとうございました。

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