80 忍び寄る悪意 前編
忙しい時でも、書くのはやっぱり楽しいです。後編はもう少しかかりそうです。
ハウル村にヴリトラとフェルスがやってきた日から10日ほど後、王都にあるデッケン伯爵の屋敷の一室では2人の男が向かい合っていた。
窓のない薄暗い室内で豪奢な椅子に深く腰かけた伯爵は軽く息を吐いた後、目の前で跪いているフード姿の男にゆっくりと話しかけた。
「お前ほどの男が失敗するとはな。完全に予想外だった。」
「ご期待に沿えず申し訳ございません。」
敬愛する伯爵の言葉に男は平伏して詫びた。伯爵は男に顔を上げさせると鷹揚な口調で労いの言葉をかけた。
「いや、お前の力量は私が一番よく知っている。私の想定が甘かったということだ。それよりも無事に抜け出してくれて本当によかった。」
伯爵にとってこの男は最も信頼できる密偵の一人。だが逆に言えば伯爵の秘密を知り尽くしている男でもある。そのため彼の身柄が確保されるとかなり不味いことになるのだ。
万が一のことを考え、この男には魔法から身を守るための高価な魔導具も持たせている。だがその魔導具の効果を上回るほどの魔法を受けて、男は衛士たちに捕らえられてしまった。
男が決死の思いで脱獄してくれたおかげで今回は事なきを得たものの、かなり際どい状況だった。伯爵の言葉の裏にはそういう思いが込められている。
「もったいなきお言葉、ありがとうございます閣下。」
フードの男は深々と頭を下げた。彼にも主人の気持ちは十分に伝わっている。平伏する男に対し、伯爵は軽く頷いた。
「しかし厄介だな。その黒衣の女と大男は。」
「強盗に見せかけてエマとドーラの身柄を確保するつもりでしたが、周辺の村で集めたゴロツキでは全く歯が立ちませんでした。恐ろしく腕の立つ二人組です。」
「その二人の素性はまだ知れぬのか?」
主人の言葉にフードの男は申し訳なさそうに頷いた。
「仲間たちが総力を挙げて調べておりますがまだ一向に。女の風体や所持していた銀貨から見て西方諸国、おそらく都市同盟か首長国出身ではないかと思うのですが、どこから入国したのか足取りすら分かっておりません。まるで忽然と王国内に現われでもしたかのようです。」
信頼する密偵の言葉にデッケン伯爵は眉を顰めて首を傾けた。
ハウル村は王都領辺境の開拓村だったにも関わらず、この数年間で急速に発展した。さらには村の規模には不釣り合いなほどの衛士隊が配置されている上に、あの目障りな平民判官家の息子が二人も常在している。
しかもそのうち一人は実質上の領主として、国王から独自の捜査権とある程度の自治権まで与えられている。そのカール・ルッツに、伯爵はこれまで数々の企みを潰されてきた。
ハウル村に対して王がこのように破格の扱いをしている原因は、明らかにエマがいるからだ。それはすでに王国の貴族の間では周知の事実であり、エマを守る為に王はあの村を作ったのだと認識されている。
ただしそう思われるようになったのはここ2年ほどのこと。それまでのハウル村は、王が秘密裏に魔法実験を行うための実験場であると思われていた。
数年前、不滅の薔薇姫と呼ばれた天才錬金術師ガブリエラと結託し、王があの村で数々の大規模儀式魔法を行ったことは当時から広く知られていた。その結果、それまで頑なに中立を守っていたサローマ伯爵家が王党派の筆頭貴族となり、均衡していた王党派と反王党派の力関係は大きく王家優位へと傾いたのだ。
王党派への寝返りを画策し始める者が現れるなど、一時期は反王党派瓦解の危機が実しやかに囁かれる始末だった。だが王都で行われた聖女教徒による大規模な動乱と旧グレッシャー領で起こった内乱により、膨れ上がった王家の力は再び大きく減少した。
それにより再び王国を二分する貴族派閥は均衡を取り戻したのだ。しかしどちらの事件でも伯爵の真の狙いであった王の殺害と王家の断絶には、残念ながら至らなかった。
それに加えて、グレッシャー領の内乱の余波でパウル王子の妃であったベルトリンデが王室を離れることになったのは、伯爵にとって大きな痛手となった。
現王と王太子を除いた後パウル王子を即位させることで、ゆくゆくはパウルの子リンハルトの外戚として王家を牛耳ろうという目論見が崩れてしまったからだ。
王家の力の源は、稀少な魔法資源の宝庫であるドルーア山に他ならない。伯爵はそれを手にすることで、現在は東ゴルド帝国領となっている父祖の領地を奪還したいと考えている。そのためにはどうしても現王と王太子を廃する必要があるのだ。
伯爵の計画はどれも長い時間をかけ秘密裏に準備してきたものだった。計画は着実に実を結び、王家を弱体化させつつあと一歩で王の命を奪えるところまで進んでいた。
にもかかわらず、あのカール・ルッツ令外子爵の活躍によって寸でのところで阻まれてしまったのである。
カールは一下級貴族の三男であり、貴族社会においては取るに足らない存在だった。だが彼奴は数々の功績により王の信頼を得、目覚ましい栄達を果たした。今や彼の動向は王党派・反王党派に関わらず、王国のすべての貴族の注目を集めている。
魔力をほとんど持たず平民と同一視すらされていた男が、多くの貴族家に影響力を持つほどの存在に成りあがったのである。これまでの貴族の常識であれば、彼は今後王家のための多数派工作や反王党派貴族への妨害工作などに活躍するだろうと思われていた。
しかしカール自身はハウル村を離れることはなく、王家の一官僚として村を守り続けた。その理由は何か?
答えは明白だ。多数派工作など以上に重要な王家の秘密があの村には隠されている。貴族たちはそう考えるに至った。それがここ一年ほどの話だ。
多くの貴族が情報を得ようと必死になる中、おのずと浮上してきたのがエマの存在である。エマは平民として初めて王立学校への入学を果たした少女。ハウル村はその彼女の出身地であるとされている。
彼女の後見人は王であるため、当初これは王による貴族社会改革の一環であると思われていた。魔力の弱い平民を王立学校に入学させ、将来、王家の手駒として働く人間を増やそうとする王の策略だと考えられていたのである。
しかしいざ入学してみると、エマは上級貴族をも上回るほどの全属性の魔力を持っていることが分かった。貧しい木こりの娘だという触れ込みで入学したにもかかわらず、彼女の魔力は周囲の並み居る上級貴族家の生徒たちを圧倒していたのだ。
貴族たちはエマについての我先にと情報を集めた。もちろん伯爵もだ。彼が特に注目したのはエマの出自である。だがいくら調べても、エマは確かに貧しい木こりの娘としてハウル村で成長したという事実しか出てこない。
エマと王家が深くつながっていることは彼女の魔力や王のこれまでの態度を見れば明白。なのにその証拠を掴むことが誰も出来なかったのだ。あまりにも実りがないため貴族たちの多くは情報を集めることを諦め、今後のエマの動向を注視しながら身の振り方を思案する方向へと移り変わっていった。
しかし伯爵は諦めなかった。彼にとっては王家の弱点を見つけることが何よりも重要だったからだ。そこで彼が注目したのは常にエマの側にいる彼女の姉、ドーラだった。
実はエマが王立学校に入学した直後、彼女はほんの一時期、貴族の間で話題になったことがある。エルフ族を彷彿とさせるほど整った容姿を持つ彼女に、あの女好きで有名なパウル第二王子が声をかけたからだ。
ただそれはあくまで「あの第二王子は見境なくも平民の女にすら手を出そうとしたそうだ」という貴族間の噂として広まっただけ。決して彼女自身に注目が集まったわけではなかった。
王国中で浮名を流す王子の新たな醜聞の相手として取り上げられただけで、ドーラ自身は単に美しいだけの平民の女としか思われていなかったのだ。
実際、調べさせてみてもドーラはエマほど強い魔力を持っているわけではなく、せいぜいまじない師として生計を立てられる程度の力しか持っていないとのことだった。
一部の好色な者を除く多くの貴族たちにとってドーラは、天賦の才をもつ優秀な妹のただの侍女でしかない。いわばエマの『添え物』に過ぎなかった。
だがいろいろと調べていくうちに、伯爵はドーラに関して不可解な点が多くあることに気が付いた。
最もおかしな点は、彼女に関する情報は不確かな噂や出所不明の伝聞ばかりだということだ。彼女のことを明確に知る者が誰一人として存在しなかったのである。
このことから伯爵はドーラの存在が何者かによって、貴族たちから巧妙かつ慎重に隠されていたのではないかと考えた。そんなことが可能なのはこの王国においてただ一人。国王ドルアメデス4世その人に他ならない。
王があんなにも必死になって守りたがっているのはエマではない。ドーラの存在こそが王家が最も隠したい秘密なのではないか? 伯爵はついにその結論に至ったのだ。
しかし伯爵がそのことに気が付いたときにはもう、迂闊に手を出せないほど姉妹に対する王家の守りがしっかりと固められた後だった。
多くの結界と魔導具で守られた王立学校内はもちろんのこと、王家の膝元である王都のありとあらゆるところに二人を守る為の密偵が配置されていたのだ。王都内でドーラの秘密を探ろうとする試みは、これまでのところすべて王家の密偵たちによって阻止されている。
このままでは埒が明かないと、伯爵は二人を手中に収めるために少々強引なやり方を用いることも計画した。だがそもそもエマもドーラも王都にいる間は、基本的に王立学校から出ることがない。そのため王都での襲撃は諦めざる得なかった。
ちなみに奇妙なことだが、貧民街や歓楽街など王都のあちこちでドーラらしきまじない師を見たという報告が多数上がっている。だがドーラが王立学校に出入りした形跡は全く見当たらないのだ。
おそらくは王家の密偵の手引きによるものか、もしくはその目撃情報自体が攪乱のための工作の可能性が高いと思われるが、そのからくりは一向にしれないままだった。
それゆえ信頼する密偵から不可解な二人組のことを聞かされた伯爵は、内心「またか」と思わずにはいられなかった。だがそれをおくびにも出すことなく、彼は自信に満ちた口調で部下へ語りかけた。
「王家の差し向けた傭兵かもしれぬな。わざわざ素性の知れぬ者を護衛に使うとはあの姉妹、やはり王家にとって余程都合の悪い者たちなのであろう。」
「閣下、恐れながら申し上げます。姉妹が王都に戻ってから攫うわけにはいかないのでしょうか?」
伯爵は少し考えるそぶりをしてから口を開いた。
「少しでも王の目から遠い場所で身柄を確保したい。そのためにこれまでの2年間、情報を集め機会を伺ってきた。村に潜伏させた者たちと協力し、今度こそ確実に二人を拉致するのだ。」
伯爵は目の前の男が頭を下げるのを見て一度、言葉を止めた。そして軽く目を瞑った後、再び話し始めた。
「もし拉致することが不可能だとお前が判断したなら、姉の方は殺してしまっても構わん。妹は今後利用することができそうだが、姉は王家の秘密を聞き出すくらいしか価値がないからな。それに・・・。」
「それに・・・何でございますか、閣下。」
「いや、あの女には何か底知れぬものを感じる。大事の前に不確定な要素は出来るだけ排除しておきたい。期待しておるぞ。」
「仰せのままに、閣下。」
フード姿の男は代々彼の一族が仕えてきた貴族家の主に深く頭を下げると、音もなくその場から姿を消した。そしてドーラとエマの身柄を確保するため、再びハウル村へと向かう準備を始めたのだった。
王都を出発して10日後。フード姿の男は、今回の拠点となる東ハウル村の安宿の一室に一人、座っていた。その手には小さな紙片が握られている。
これは仲間がこれまでに集めたエマとドーラの情報をまとめた報告書だ。暗号で書かれた文章を彼は蝋燭の薄明りを頼りにしながら丁寧に読み取っていった。
報告書は箇条書きに二人の情報が書かれている。その内容はにわかには信じがたいものばかりだ。
特にエマに関する情報はありえない。上級貴族に匹敵するほどの魔力を持ち、全属性の魔法を無詠唱で使いこなす平民など聞いたことがない。9歳で迷宮討伐を成し遂げたということを考えるなら、迂闊に手を出せば間違いなくこの間の二の舞になる。
詳細に書かれたエマについての報告に対して、姉のドーラに関しては不確かな情報ばかりだった。その中には彼女がとんでもない怪力の持ち主だという眉唾物の噂まで混じっている。もしこれを仲間から酒場で聞かされていたなら、彼はきっと一笑に付して絶対に相手にしなかっただろう。
しかし彼自身、伯爵から授けられた防魔の魔導具をドーラの魔法によって打ち破られている。ドーラの魔力も妹に決して引けを取らないようだ。怪力の噂も、魔力による身体強化によるものかもしれない。二人の魔力を侮ることは出来ない。
ただ身のこなしなどを見る限り、ドーラには体術や格闘などの経験はほとんどないようだ。エマは多少の心得があるようだが、彼や仲間の相手になるほどではない。つけ入るスキがあるとすればそこだ。だが、そうなると今度は二人を守る護衛が厄介だ。
この間の黒衣の女と大男に加え、衛士や冒険者、それに王家の密偵やエルフ族までが二人の周囲を警戒している。前回は偶然を装いごろつきたちに二人を襲わせようとしたがうまくいかなかった。あんな強引なやり方はおそらくもう通用しないだろう。
物理的に考えても姉妹が一緒にいる時を狙うのは難しい。一人になったところで密かに接触し、周囲の人間に悟られないよう身柄を確保するのがよい。
仲間の報告書によれば妹のエマは常に家族や村の人間と一緒に行動しているようだが、姉のドーラは単独で村のあちこちに姿を見せるとある。つまり狙うなら姉の方だ。
「少々古典的だが、密かにとなればやはり・・・。」
彼はそう小さく呟くと暗号文の書かれた紙片を細かく裂き、それを蝋燭の炎で丹念に燃やし尽くした。そしてそのまま蝋燭を吹き消すと、部屋の中に降りた闇に溶けるように姿をかき消したのだった。
冬も半ばを過ぎ、ずっと降り続いていた雪が一段落してきたある日のこと。いつものように注文された薬を届けるために朝早く人気のないハウル街道を歩いていた私は、後ろの路地から不意に声をかけられた。
「ちょっと、そこのまじない師さん!」
そこにいたのは黒い外套を着た小さな女の人だった。酷く腰が曲がっているし、髪も白くなっているから多分すごく年を取っている人だと思う。
曲がった枝をただ切っただけの杖を握った彼女は、体を小さく震わせながら立っていた。
「はい。おまじないをご希望ですか?」
私がそう尋ねると、彼女はうんうんと何度も頷いてみせた。
「雪で濡れて体がすっかり冷えてしまってね。《雪除け》のまじないをかけてもらえないかい?」
そう言われてみると彼女の擦り切れた外套は、雪でびっしょりと湿っている。一枚の銅貨を差し出した彼女の手はひどく震えていた。
「大変! すぐに私が乾かしますね!」
私は持っていた杖を掲げると、適当なおまじないを唱えながら《乾燥》と《雪除け》それに《保温》の魔法を使った。すると彼女の黒い外套はたちまちのうちに乾いて、くすんだ灰色に変わった。どうやら濡れたせいで黒く見えていたようだ。
彼女は大きく目を見開いて自分の体を何度も見た後、驚いたように声を上げた。
「ほお! たまげたね! こんなに凄いまじないは初めて見たよ!! あんたもしかして貴族様の血筋だったりするのかい?」
私は半仮面の内側で笑いながら、彼女に大きく手を振った。
「いいえ、そんなんじゃありません。私に魔法を教えてくれた人は貴族でしたけど、私は平民ですよ。」
私がそう言うと彼女は感心したように、また何度も頷いてみせた。
「そりゃあ、いい師匠に巡り会えなさったんだねえ。それにしても、こんなにしてもらったのにお礼が銅貨一枚だけなんて、なんだか申し訳ないねえ。」
「いえいえ、大丈夫ですから。」
私がそう言って銅貨を受け取ると、彼女はハッとした顔で手をパチンと叩いた。
「そうだ! 行商で手に入れた珍しい酒があるんだよ。ちょっぴりしかないんだけど、もしよかったらお礼代わりに飲んでもらえないかい?」
「お酒ですか!? 大歓迎です!!」
おばあさんは外套の下に持っていた荷物袋から革の水入れ袋を取り出すと、私に差し出してきた。
「申し訳ないんだけど、袋は返してほしいんだよ。今ここで飲んでもらえるかい?」
「もちろんです! いただきまーす!!」
私は水入れ袋の吸い口に差してあるコルクの栓を外した。熟成した果実の甘い香りがふんわりと漂い、思わず口の中によだれが溢れる。私はすぐに吸い口に唇を付けて、中身を全部飲み干した。
「すごく甘くって美味しい!! それにちょっとピリッとして刺激的な味のするお酒ですね!! これなんてお酒ですか?」
「そ、それかい? それはヤシ酒を蒸留して作ったものでね。船乗りたちにとっても人気があるのさ。い、いやー、気に入ってもらえて何よりだよ!」
彼女はなんだか少し焦ったように早口でそう言った。私はちょっとふわふわした心地で彼女にお礼を言い、水入れ袋を返した。彼女はそんな私の様子をしばらくまじまじと見ていた。
「?? どうかしたんですか? まだ何かおまじないが必要なんですか? ヒック!」
「い、いや、なんでもないよ。それより、あんた、何ともないのかい?」
彼女は半仮面で隠れた私の顔を下から覗き込むようにしてじろじろと見た。
「はい! とってもいい気持ちです! ヒック!」
「そ、そうかい。それならよかった。じゃ、じゃあ、あたしはこれで!!」
彼女はそう言い残すと、雪の降る街道を一目散に駆けて行った。私は小さくなる彼女の背中に《雪除け》の魔法をかけた。せっかく乾かしたのに、また濡れたらかわいそうだもんね。
私は楽しい気持ちのまま、冒険者ギルドとカフマン商会に薬を届けた。そしてお昼ごはんの準備に間に合うように、急いでフランツさんのお家に戻った。
「ただいまー! 帰ってきましたよー!」
「お帰り、ドーラお姉ちゃん。随分ご機嫌だね・・・って、お酒くさっ!! 一体どうしたの?」
エマが鼻をつまんで顔を顰めたので、私は思わず自分の口を押えた。自分では気が付かなかったけど、そんなにお酒の匂いがするのかしら?
私はエマに街道で会った女性におまじないを頼まれ、お礼にお酒を御馳走になった話をした。
「そうだったんだ。そのおばあさんのこと、助けられてよかったね・・・あっ!!」
「どうしたの、エマ?」
エマが急に声を上げたので、私はエマに聞き返した。するとエマは黙って私の後ろを指さした。振り向いてみると、そこには額に青筋を浮かばせたマリーさんが右手におたまを握りしめて立っていた。
「お帰りドーラ。ご機嫌で帰ってきたと思ったら、あんた、そんなことしてたのかい?」
「ひえっ!!?」
マリーさんの声を聞いた私は、反射的に床の上に座り込んだ。マリーさんはすごくいい笑顔をしてるけど、その目は全然笑っていない。それを見た途端、私の酔いはいっぺんに覚め、ふわふわした気持ちはどこかに吹き飛んで行ってしまった。
「ドーラ。あたしが普段、あんたになんて言ってるか覚えてるかい?」
「えっと、あの、し、知らない人から貰ったものを簡単に口にしちゃダメって・・・言われてます・・・。」
私がしどろもどろになってそう言うと、マリーさんの目がたちまち吊り上がった。それを見た私の体はガタガタと震え出した。奥歯がカチカチと鳴り、思わず涙が溢れそうになる。
マリーさんの様子を見たエマは小さな声で「お姉ちゃん、ごめん!!」と呟くと、末妹のグレーテちゃんを揺り籠ごと抱え、隣の部屋に逃げこんだ。その後をデリアちゃんとアルベールくんが追っていく。視界の端で家妖精のシルキーさんがそっと自分の耳を両手で塞ぐのが見えた。
「ドーラっ!!!!!!!!!!!!」
「はひぃ!! す、すみませんでしたっ!!!!!」
雷鳴のように降り注いだマリーさんの声に合わせて、私は床の上に平伏した。その後、私はフランツさんが昼休みに帰ってくるまでの間ずっと、マリーさんにこってりとお説教を食らわされてしまったのでした。
ドーラがマリーに叱られているちょうどその時、東ハウル村の外れではドーラに酒を飲ませたあの老婆と、フード姿の男が向かい合っていた。
「・・・おい、あの女ピンピンしてたじゃないか? お前、本当に飲ませたのか?」
「間違いないよ。あたしの目の前で美味そうにゴクゴク飲んだんだ。あんただって遠くから見てたんだろう?」
「・・・信じられん、死神蠍の尾から抽出した猛毒だぞ。」
死神蠍は小型の虫型魔獣だが、その尾の毒は巨大な雄の六足牛すらも瞬時に麻痺させるほどの猛毒として知られている。そのため誘拐などによく用いられているのだ。
「残った酒袋を寄越せ。俺が中身を確かめる。」
男はそう言って老婆から酒袋を奪おうと手を伸ばした。だが老婆は袋を握りしめてそれに抵抗した。
「あんた、あたしを疑ってるのかい!? あたしはあんたに頼まれた通り、仕事をしたんだよ! あんた、ゴネて礼金を払わないつもりじゃないだろうね!?」
「ば、馬鹿! そんなに強く振ったら・・・!!」
男がそう言った途端、酒袋の栓が外れて中の酒が飛び散った。男は慌てて自分の口と鼻を覆ったが、揮発した毒を吸い込んだ老婆は泡を吹いてその場に倒れた。
「・・・なるほど、効果は確かなようだ。」
男は意識を失った老婆の顔を革靴で軽く蹴り上げた。泥混じり冷たい雪に顔を埋めた老婆は、それでもピクリとも動かない。この老婆は彼の密偵仲間ではない。端金で雇った質の悪いただのコソ泥だ。
「始末する手間は省けたが・・・足が付くのは不味いな。」
顔を見られている以上、彼は仕事の成否に関係なくこの老婆を殺すつもりだった。彼は気を失った老婆を抱え上げると人目を避けてドルーア川の川べりに向かい、そのまま凍てつく水の中に老婆を投げ落とした。これなら遺体が見つかっても、不運な老婆が雪で足を滑らせて川に落ちただけだと思われるはずだ。
顔を下にしたまま浮き沈み、ゆっくりと川を流れ下っていく老婆を何の感情もない目で見送る。踵を返して背を向けた時にはもう、彼の意識から老婆の存在は完全に消え去っていた。
「理由は不明だが毒が効かないと分かった以上、別の手段を講じなくては。さて次はどうするか・・・。」
誰ともなしに口の中でそう呟いた後、彼は何食わぬ顔で東ハウル村の拠点に戻った。彼はそこで次の計画のための準備を仲間に依頼するための暗号文を作り始めた。
ドーラは思った以上に手強い相手のようだ。これ以上、失敗を重ねれば流石に王家の密偵たちにこちらの存在を気取られてしまう。生きて身柄を確保するのが難しいとなれば。
「・・・殺すか。だが直接手を下すのは不味い。何人か巻き込んでしまうかもしれんが・・・。」
少し考えた後、男は仲間への伝聞を小さな紙片に書き込んでいった。仲間と共にじわじわとドーラを追い詰めていく。そのための計画がそこには記されている。
白い雪に落とした黒い毒液のように、悪意が形となってハウル村に広がりつつある。だがそのことに気が付いている者は、今はまだ誰もいなかった。
読んでくださった方、ありがとうございました。