75 剣術大会 後編
本日3話投稿しています。これは3話目です。
予選は順調に進み、いよいよエマの試合が近づいてきた頃、暗い顔をして隣の闘技台の待機席へと向かうウルスの姿がエマの目に入った。彼女は思わず席を立ち、ウルスの元へと駆け寄って行った。
「ウルス先輩! 大丈夫ですか?」
「エマ!? どうしてここに?」
エマは驚くウルスに、ボーデンによって1年下位組から2年上位組へと移動するように言われたことを伝えた。ウルスはそれを何とも言えない情けない表情で聞いていた。
「先輩、試合に出たんですよね? もしかしてどこか痛めたんですか?」
「大丈夫だ、体はどこも痛めておらぬ。負けてしまった自分の情けなさに打ち拉がれていただけだ。」
肩を落として自嘲の笑みを浮かべるウルス。エマにだけは今の自分の姿を見られたくなかったのにと、彼は思わず運命の神をへ恨み言を言いたくなった。
だがエマはそんなことなどつゆ知らず、彼にぐっと顔を寄せて尋ねた。
「ウルス先輩はどの組なんですか?」
「わ、私か? 私は、その・・・3年の下位チームだ。格闘訓練の授業では一勝も出来なかったからな。」
彼は極まりが悪そうにそう言った。彼は魔法王国王家の血を引く後継者にふさわしく、非常に優れた術師としての才能と魔力を持っている。しかし体を動かすことはあまり得意ではなかったため、これまで剣を取って戦う稽古に熱心ではなかった。
苦手意識が億劫さを誘発しさらに苦手になるという悪循環を繰り返した結果、彼の剣の技量は非常にお粗末なものに成り果ててしまったのである。
だがそんな彼もエマに励まされ、ここ1年ばかりは熱心に体を鍛え真剣に剣を振ってきた。そのおかげで以前とは見違えるほど剣の腕前は上達することができたのだ。
けれど、元々才能がない彼が少しくらいの努力をしたところで、騎士を目指して日夜真剣に訓練に励んできた他の同級生に追いつけるわけはない。これまでに出た予選の試合はすべて、ほとんどいいところなく一方的に打ち込まれて負けてしまっていた。
彼はそのことをエマに話しながら、情けなさと悔しさでいっぱいになった。耳が燃えるように熱くなり、目の端に涙が滲む。嫌いなはずの剣術試合に自分が思いがけず真剣に臨んでいたのだということを、この時、彼は初めて自覚したのだ。
彼はエマの顔を見ていられなくなり、そっと目線を逸らした。するとエマは彼の腕を取り、彼の着けていた革の手袋を外すと、彼の右手の平を両手でそっと包み込んだ。
「え、エマ!?」
「私、先輩がこれまで一生懸命に練習してきたこと知ってます。」
エマは彼の掌に出来た剣胼胝を労わるように撫でた後、彼ににっこりと微笑みかけた。
「全力を尽くした結果なんですから、負けたってちっとも恥ずかしくないです。そうでしょう?」
「エマ・・・!!」
ウルスは言葉を詰まらせ、目の前で微笑むエマを見つめた。「断ち切らなくては」と思い、一度は捨てたつもりのエマへの思慕の念が、彼の心を再びじりじりと焦がす。彼はエマの手をしっかりと握り返すと「ありがとう、エマ」と熱のこもった声で礼を言った。
「頑張ってくださいね、ウルス先輩。私も頑張ります。」
「ああ、お互い全力を尽くそう。」
ウルスは胸を張りしっかりと前を向いてまっすぐに歩いて行った。エマはその後姿に手を振りながら彼を見送った。
待機席から二人の様子を見ていたジョセフィーヌは、隣に座ったゼルマに小声で話しかけた。
「(・・・あれは何かい? エマさんはあの王子様を口説いてんのかい?)」
「(いや、無自覚なのだと思う。エマ様はとても母性の強い方なんだ。)」
「(はあ、そりゃあ、お気の毒様なこった。)」
ジョセフィーヌは何とも情けない顔で、大きく息を吐いたのだった。
観覧席でハラハラしながら試合を見守っていた私のところに、試合を終えたエマが帰ってきた。その後ろには憮然とした表情のジョセフィーヌちゃんもいる。
リアさんが用意してくれた椅子に二人が腰かけた後、私はエマに話しかけた。
「すごく頑張ってたね、エマ。」
「うん。でもやっぱり、ちゃんと訓練を受けてる男子には敵わないね。」
エマはちょっと悔しそうにそう言った。エマの戦績は3勝3敗1分けで予選6位。大きく攻撃を受けることはなかったものの、相手に攻撃を仕掛けることができなかったため、負けた試合すべてが『判定負け』だった。
それでも2年上位組男子に混ざっての6位はかなり頑張ったと思う。私がそう言うとエマは少し照れたように笑って「ありがとう、ドーラおねえちゃん」と言ってくれた。
予選の試合でエマは、対戦相手が振るう模擬剣をひらりひらりと躱しながら、懸命に短刀で反撃する隙を窺っていた。最初の方の試合ではエマが素早い動きで相手を翻弄していたのだ。
けれど、予選が進むにつれてエマの動きは対戦相手に読まれていたみたい。後半は反撃の隙をなかなか見つけられないまま、試合が終わっていた。エマが悔しがっているのはきっとそのせいだと思う。
観戦していた私もエマの応援に夢中になり過ぎて、何度かリアさんに止められてしまったくらい悔しい試合だったからね。
それを話したらエマはくすくすと楽しそうに笑った。エマはもう気持ちを切り替えられたみたいだ。エマの笑顔を見たことで、私の悔しい気持ちもどこかに消えて行ってしまった。
「でもさー、魔法を使っていいんだったら、絶対にエマが勝ってたのにね。」
私の言葉にエマは笑いながら首を振った。
「それは規則だからねぇ。それに皆すごく動きが素早いから、魔法を使う暇はなかったかもしれないよ?」
エマはそう言うけれど、私はそうは思わない。エマは簡単な魔法なら動きながら無詠唱で使うことができるからだ。元々エマはそうやって魔獣と戦ってきたし。魔法を使っていい規則なら、エマはもう少したくさん勝てていたと思う。
そうやって二人で試合の感想を話し合っていたら、それまで黙って隣で聞いていたジョセフィーヌちゃんが不意にエマに話しかけてきた。
「ねえ、エマさん。なんで魔力格闘術を攻撃に使わなかったんだい?」
エマは一瞬キョトンとした顔をした後「ああ、そのことかぁ」と小さく呟いた。
「私、魔力格闘の攻撃技をほとんど知らないんだ。お師匠様が教えてくれなかったの。」
エマの魔力格闘の師匠はテレサさんだ。エマが王立学校に入学する前、テレサさんは自分の流派である聖女流格闘術の基礎をエマに教えてくれた。
けれど彼女がエマに教えたのは防御や回避の技ばかりで、攻撃を仕掛けるための技はほとんど教えてもらっていなかった。それは特別な事情があるわけではなく、単純に時間がなかったからだ。
「迷宮で自分の身を守る為に最低限の技を習っただけなんだよ。あの時は本当に時間がなかったし。迷宮を倒してお師匠様が自分の国へ帰った後、カールお兄ちゃんから本格的な格闘訓練を受けたんだけど・・・。」
エマとずっと格闘訓練をしてきたカールさんとゼルマちゃんは下級貴族で魔力が少ないため、魔力格闘術を使ことができない。だからエマの教わった攻撃の技は魔力に頼らない体術ばかりなのだ。
エマの話を聞いたジョセフィーヌちゃんはなんだか納得いかない顔をしていた。けれどやがて大きく息を吐き、大きく両手を広げた。
「事情は分かったよ。だけど本当に勿体ないね。あれだけ動けるんならまだまだ強くなれるはずなのに・・・。」
「私も今日初めて試合に出てみて、強くなりたいって思ったよ。ジョセフィーヌちゃんの剣捌き、本当に凄かったもん。あれは魔剣術なんでしょう?」
エマとジョセフィーヌちゃんは引き分けだった。彼女は恐ろしく早い動きでエマに攻撃をしていたのだけれど、最後までエマを捉えることができなかった。ただし、エマの方も彼女に全然攻撃を当てられなかったんだけどね。
「ああ、親父の直伝だよ。だけどゼルマには通用しなかったけどね。」
ジョセフィーヌちゃんはそう言って悔しそうに唇を噛み、手をぐっと握りしめた。予選で2人が対戦した時、彼女はゼルマちゃんの槍の前に手も足も出ずに負けてしまったのだ。
ゼルマちゃんは彼女が攻撃しようとするタイミングで槍の長さを上手に使い彼女の足を徹底的に狙った。そのせいで彼女はゼルマちゃんの槍の間合いに入ることが出来ず、焦って攻撃しようとしたところに一撃を入れられてしまった。
自分の攻撃を完全に封じられ、ほとんと何もできずに負けてしまったから、それが余計に悔しいんだろうね。
二人の魔力を比べるとジョセフィーヌちゃんの方がゼルマちゃんよりもずっと多い。というかゼルマちゃんは私が感じられるほどの魔力を持っていない。多分、カールさんよりも少し多いくらいじゃないかと思う。
ただ身のこなしはゼルマちゃんの方が遥かに優れていた。単純な身体能力では魔力で強化しているジョセフィーヌちゃんの方が圧倒的に高いはずなのにだ。それはゼルマちゃんが相手の動きを読んで動くのがとってもうまいからだと思う。
これはカールさんの戦い方によく似ている。ゼルマちゃんはずっとカールさんに格闘術を教わっていたから、そのせいかもしれない。結局エマのいた組では2年生の男子が1位、ゼルマちゃんが2位で決勝に進出することになった。
「あ、おねえちゃん! ゼルマちゃんが出てきたよ!」
エマが指さした闘技台を見ると、審判に名前を呼ばれたゼルマちゃんが相手に一礼をしたところだった。思いもかけない女子選手の登場に観戦していた人たちから驚きの声が上がる。
「両者構え。始め!!」
審判の宣言と共にゼルマちゃんの対戦相手は剣を構えてまっすぐに突進していった。ゼルマちゃんは悠然と短槍を構えて相手を待ち構えている。私たちは三人で声を合わせ、一生懸命にゼルマちゃんを応援したのでした。
決勝戦は予選を勝ち抜いた36名と昨年の上位入賞者、そして事前の選抜で選ばれた選手を加えた総勢64名が出場した。試合は一瞬で終わってしまうようなものから、互角の戦いが続いて緊迫したものまで様々で、見ていてとても楽しかった。
ゼルマちゃんは善戦したものの、3回戦で6年生の男子と対戦し惜しくも負けてしまった。それでも女子選手が2年連続で決勝に進出したのは王立学校始まって以来の快挙だそうで、がんばった彼女に対して観覧席からは暖かい拍手が送られていた。
私たちと同じくらい彼女のことを一生懸命に応援していたのは彼女のお父さんとお兄さんたちだった。衛士隊の中隊長を務めている彼女のお父さんは、彼女の活躍ぶりに涙を流して喜んでいた。
試合が終わった後、ゼルマちゃんはすぐに家族のところへ行き、皆に肩を叩かれたり頭を撫でられたりして、とても嬉しそうにしていた。
私はこの様子を見てとっても素敵だなと思ったのだけれど、周りの観客の人たちの中には眉を顰めている人も少なくなかった。どうやらこういうのは貴族としてはあまりふさわしくない振る舞いなのだそうだ。貴族ってなんていうか、本当にめんどくさい人たちだなって私は思った。
私たちがゼルマちゃんを迎えようと少し離れたところで待っていたら、ウルス王子がエマのところへやってきた。お辞儀をしようとする私たちを軽く手で制した後、王子は少し申し訳なさそうにエマに話しかけた。
「エマ。せっかく応援してもらったのに予選で一回も勝つことができなかった。すまん。」
王子はそう言ってエマにぺこりと頭を下げた。それを見たジョセフィーヌちゃんは目玉が飛び出るのではないかと思うくらい、大きく目を見開いていた。
でも王子はそんなこと全然気にしていない様子で、エマに向かって微笑みながら言った。
「だが私は全力を出し切ったぞ。今はとても清々しい気分だ。」
ウルス王子の笑顔はとても晴れ晴れとしていた。王子は全敗だったものの、有効打を何本か決めることができたそうだ。それを聞いたエマもとても嬉しそうに「お疲れさまでした、ウルス先輩」と笑っていた。
二人はゼルマちゃんがやって来るまでの間、しばらく楽しそうに互いの試合の様子を話し合っていた。その間ずっと、ウルス王子の顔は秋の夕焼け空みたいに真っ赤っかだった。それを見て心配になったのか、エマは「先輩、大丈夫ですか?」と王子に尋ねた。
「ありがとうエマ。私は大丈夫だ。それよりもニコルとリンハルトの試合が始まる。応援に行くといい。」
ニコルくんの名前を聞いた途端、エマはハッとした顔になり頬が少し赤くなった。多分さっきの彼とのやり取りを思い出したからだろう。エマはちょっとどきまぎした様子で視線を逸らした。
「そう、ですね。じゃあ、私、応援してきます。」
「ああ、そうするといい。私は父上たちと一緒にリンハルトの応援をするとしよう。」
エマは私たちのところにやって来るとゼルマちゃんに「おめでとう」を言った。その後、私たちは決勝最終戦を見るために格闘練習場の中央にある闘技台の方へみんなで向かった。
私もエマたちと一緒に歩き出したのだけれど、ふと視線を感じてそっと後ろを振り返った。
その視線の主はウルス王子だった。王子はちょっと泣き出しそうな顔でエマのことをじっと見ていた。けれどやがてくるりと背を向けると、人ごみの間を抜け、どこかに歩き去って行ってしまったのでした。
決勝の最終戦が行われる闘技台の周りはたくさんの選手や観覧の人たちでごった返していた。私たちはリアさんに案内されてあらかじめ彼女が準備してくれていた席へ向かった。
その途中、選手控席の辺りにとても華やかな人だかりができていることに私は気が付いた。
「ねえエマ、あそこ見て。女の子たちが一杯集まってるよ。」
「本当だね。一体なにがあるんだろ・・・あっ!!」
エマが声を上げると同時に、女子生徒の中心にいたニコルくんもエマのことに気が付いた。彼はきれいに着飾った女の子たちをかき分け、まっすぐにエマのところへやって来た。
彼はエマに何か言おうとして口を開きかけたけれど、それよりもずっと早くエマが笑顔で彼に話しかけた。
「ニコルくん、女の子にすごく人気があるんだね。」
「い、いや、これはその、それはですね・・・。」
彼はすごく慌てた様子でエマに何かを言おうとしたけれど、うまく言葉が出てこないみたいだった。それを見たジョセフィーヌちゃんは「うわあ、こりゃやべえ」と小さく呟き、苦笑するゼルマちゃんと目線を交わしていた。
ニコルくんはすらりとして背が高く、お母さんのアレクシアさんによく似た顔だちをしている。アレクシアさんは王国でも指折りの美女として有名な人で、『白百合姫』という異名で呼ばれているのだ。
人間の美醜をはっきり見分けられない私でも、彼がとても整った顔立ちをしているのは分かる。女の子たちが彼に夢中になってしまうのも無理ないのかもしれないね。
「私もあっちでみんなと応援してるね。頑張ってニコルくん。」
エマはニコニコ顔でそう言ってその場を立ち去ろうとした。でもニコルくんは後ろからさっとその手を掴んでエマのことを引き留めた。
「「ええっ!?」」
エマと、エマのことを怖い目で見ていた女の子たちから同時に同じ声が上がった。ニコルくんはエマの肩を掴んで自分の方に向かせると、真剣な調子で語りかけた。
「あなたのために必ず勝ちます。見ていてくださいね。」
「う、うん。」
エマは頬を赤く染めて困ったように頷いた。ニコルくんは自分に群がる女の子たちに目もくれず、一目散に闘技台の方へ移動していった。
彼を涙目で見送った女の子たちから、エマはすごい目で睨まれた。でも後ろでゼルマちゃんとジョセフィーヌちゃんが怖い顔をしているのに気が付いて、すぐにそそくさと観覧席の方へ逃げて行ってしまった。
私は呆然とするエマの手を引き、リアさんの後について観覧席に向かった。つないだ手から伝わってくるエマの心臓の音はものすごく早い。
私はエマがこのまま倒れてしまうんじゃないかと心配になってしまったのでした。
「それまで! 勝者リンハルト殿下!!」
最終戦の決着を告げる審判の声が夕暮れの会場に響くと、観覧席からは割れんばかりの歓声が上がった。荒い息を吐いたリンハルトはニコルの首筋に当てていた自分の模擬剣の切っ先をそっと下げ、その場から一歩下がった。
ニコルもリンハルトの胸のすぐ下にあった剣を引き、後ろに下がって姿勢を整えた。互いに一礼したあと、ニコルは息を弾ませたままリンハルトに近づいた。
「優勝おめでとうございます、リンハルト殿下。最終戦のお相手を務めさせていただいたこと、この上ない喜びです。ありがとうございました。」
ニコルは内心の悔しさを押し隠してそう言うと、リンハルトに右手を差し出した。リンハルトはその手をじっと見つめていたがやがて自分も右手を差し出し、ニコルの手をしっかりと握った。
「・・・君の鍛錬の結果を見せてもらった。素晴らしい一撃だった。」
ぼそりと呟くように言ったリンハルトの言葉を聞いて、ニコルは驚きのあまり言葉を失くした。去年の剣術大会で戦った時にもこうして握手を求めたが、その時には素っ気なく頷くだけで無視されてしまったからだ。
互角の戦いを自分を認めてくれたリンハルトの言葉はニコルを喜ばせた。だがそれは同時に、彼が懸命に心の中で押さえ込んでいた悔しさを一気に噴出させてしまった。彼は俯いてぐっと奥歯を噛みしめると、口の中にたまった塩辛い涙を懸命に飲み下した。
それを見たリンハルトは握っていたニコルの手を強く握りしめた。ハッと顔を上げた彼にリンハルトは言った。
「春になったら、また立ち合おう。」
「・・・はい。是非お願いします。」
二人は固い握手を交わした。数十合に渡る凄まじい打ち合いを演じ、長い長い試合を戦い抜いた二人に、会場からは惜しみない拍手が送られた。
表彰式の後、ニコルたちが笑顔のエマたちに迎えられているのを尻目に、リンハルトは会場を後にした。侍従たちが準備した馬車から降り、供回りの者たちの同行も断って一人で母の離宮の扉をくぐる。
すでにこの離宮に母はいない。ついこの間まで居た父もすでに西方の守りに就くため王都を旅立った後だ。人気のない離宮は閑散としており、僅かに置かれた明かりの魔道具の作り出す光が寒々とした薄暗がりを作り出している。
彼は病床の母を見舞うためにほぼ毎日通っていた廊下を通り、母の自室へと向かった。母が使っていた家具はすでにすべて運び出されているため、室内には何も残っていない。彼は空っぽの室内を横切り、小さな中庭へと続く扉を開いた。
扉を開いた瞬間、冷たい夜風が彼の顔を叩き、柔らかい金色の髪を揺らした。青と緑の月の光が照らす白樺の庭を彼は迷うことなく歩いていく。行く先は庭の一角に設けられた魔法の花園だ。
魔道具によって一年中枯れることなく咲き続ける白雪草の花の香りが、彼の冷えた体を優しく包んだ。
彼は母の愛した花をしばらく見降ろしていたが、やがて顔を上げると夜空に浮かぶ緑の月に目を向けた。その美しい緑色の光は彼の胸の裡に一人の少女の面影を思い起こさせた。
彼は胸元を探り、首にかけていた首飾りを取り出した。小さな楕円形をした銀の首飾りだ。彼が首飾りの横にある小さな突起に触れると首飾りは二つに開いた。
二枚貝のように開いた首飾りの中には、この首飾りの贈り主である緑の髪をした少女の肖像画があった。自領へと旅立つ前、彼女は手紙と共にこの首飾りを彼へ送り届けたのだ。
ミカエラ殿、春になったらあなたに話したいことがたくさんあります。
彼はそう思い、首飾りを閉じると大切に懐にしまった。再び強い風が吹き、彼を包んでいた甘い花の香りを引き剝がしていく。秋の終わりの寒風は心まで凍てつかせるほどに冷たく、じきにやって来る雪の季節を告げているようだ。
だが彼は、胸にある小さな首飾りが伝えてくる温もりを確かに感じていた。それは春の日の優しい宵闇のように、彼の心を安らかにしてくれた。
彼は母の部屋を出た。扉を閉めると部屋の中から漂っていた白雪草の香りがふっと消えた。だが彼はもう、それを悲しいとは思わなかった。
彼はまっすぐに顔を上げると暗い廊下を一人、確かな足取りで歩き始めた。
読んでくださった方、ありがとうございました。