71 石鹸づくり 前編
いつものことですがまた長いです。しかも読みにくい話ですみません。
歓楽街での一夜を終えた私はハウル村に移動した後、フランツさん一家と一緒に朝ご飯を食べた。
ヴリトラと二人で格闘場に行き、お酒を飲みすぎて失敗したことがマリーさんにバレるのではないかとちょっとヒヤヒヤしたけれど、深く聞かれなかったので何とかやり過ごすことができた。ふう、危ない危ない。
朝ご飯の片づけを済ませた後、昨日と同じように村の中を回って色々な仕事を請け負った私は、受けた錬金依頼を済ませることにした。
フランツ家の屋根裏にある自分の部屋で、あらかじめ集めておいたり買っておいたりした材料を使い、どんどん注文をこなしていく。私のお手伝いをしてくれるのは家妖精のシルキーさんだ。彼女は私の苦手な材料の下拵えや素材の計量などを担当してくれている。
冒険者ギルドから依頼された薬類やカフマン商会に卸す化粧品類、魔道具、鏡やガラスなどを作り終え、最後に村のおかみさんたちに配る石鹸を作ろうとしたところで、シルキーさんが私に言った。
「ご主人様、もう材料がございません。」
彼女の言う通り、石鹸の元になる森の木の実がほとんど無くなってしまっていた。最近、おかみさんたちだけじゃなく、王立学校でエマたちが使う分も作っていたから貯めておいた材料を使い切ってしまったようだ。
当たり前だけど材料がなくては何にも作れない。私たちは作業を一時中断することにした。
「ありがとうございました、シルキーさん。私、村を回って材料を集めてきますから家の仕事に戻ってください。」
私はシルキーさんにお礼を言った後フランツさんのお家を出て、冬支度をしている村のおかみさんたちに会うため村の収穫倉庫へ向かった。
「フェッツの実かい? あんたが使うだろうと思って一杯集めておいたよ。」
おかみさんたちは私に快く実を分けてくれた。この実はフェッツという低木がつけるものだ。
緑色で楕円形をしたフェッツの実はとても苦い上に、食べるとお腹を壊すので食用には向かない。ただ油脂をとても豊富に含んでいるので、村の人たちはこれを石鹸の材料として使っている。
ハウル村は木こりさんたちが暮らす開拓村。男の人たちは木の切り出しの他、炭焼きもするため毎日のお風呂が欠かせない。そこでこの実から作った石鹸が大活躍するというわけだ。
元々村のおかみさんたちはフェッツの実の油と炭焼きの時に出る木灰とを使って石鹸を作っていた。でも私が錬金術を身につけてからは、おかみさんたちの代わりに私が作らせてもらっている。
化粧品づくりで余った素材を使って作る私の石鹸は汚れ落ちや香りがよい上に、肌や髪が艶々になるということでおかみさんたちからの評判も上々なのです!
「ありがとうございます。またこれ、石鹸にして配りに来ますね。」
「いつも助かってるよ。本当にありがとうね。」
私は集まった実を持って、また自分の部屋に戻った。でもシルキーさんに計量してもらったところ、私が作りたいと思っている石鹸の量よりも、集めた実がかなり少ないということが分かった。
「うむむ、おかしいな。いつもならこれで十分足りるはずなのに?」
そう言えばカールさんの副官さんであるステファンさんが、最近村の人が急に増えたって言ってた気がする。おかみさんたちが仕事をしていた村の倉庫の周りにも初めて見る人がいたような・・・。
材料が足りなくなったのは人が増えたせいかもしれないね。でも困ったな。このままだとみんなの分の石鹸が作れない。
フェッツの実の油の代わりになるものがあればいいんだけど、村で作ってる亜麻仁油は石鹸づくりには向かない。亜麻仁油で作った石鹸はすぐにポロポロに崩れてしまうからだ。
亜麻仁油の他に菜種やヒマワリの油もあるけれど、そもそもそれらは全部村の人たちの大切な食糧だ。これから食べ物が少なくなる冬に向かうのに、その油を使うわけにはいかない。
森にフェッツの実を探しに行ってもいいけど、村の人たちが採集地として使っている辺りの実はもう採りつくされているだろう。新しいフェッツの木を見つけなきゃいけないけど、木の実探しの上手なエマは今いないしなぁ。
カフマン商会で買ってもいいけど王都の人たちも冬支度で油を必要としてるだろうし・・・。うーん。
困ってうんうん唸っていたら、ハッと気が付いた。そうだ。自分で分からないことは誰かに聞けばいいんだった。こういうことに詳しそうな人って言うと・・・やっぱりクルベ先生かな?
クルベ先生は王立学校の先生だったし、建築術師としていろんな素材のことをよく知っている。石鹸の素になる油にも心当たりがあるかもしれない。
この時間なら先生は村の集会場で小さな子供たちに読み書きを教えているはずだ。私は先生に会うために、集会場へ行くことにした。
「クルベ先生、聞きたいことがあるんですけど・・・。」
「あー、ドーラねえちゃんだ!!」
私が集会場を尋ねると、村の子供たちがわーっと私の周りに集まってきた。その中にはエマの弟妹であるアルベールくんとデリアちゃんもいる。
文字の書き取りをした石板をしきりに私に見せてくる子供たちを順番に誉め、頭を撫でていく。でも中にはその様子を少し遠巻きに見ている子供たちもいた。
匂いに覚えがないから多分私が初めて会う子たちだと思う。その子たちはまじない師姿の私のことを怖がっているみたいに見えた。
「おお、ドーラさん。子供らは皆、がんばっておるよ。」
子供たちに囲まれる私にクルベ先生が話しかけてきた。先生はいつも被っている黄色い頭巾のずれを手で直しながら、子供たちに書き取りの続きをするように言った。
子供たちが自分の椅子に戻って書き取りを始めたのを見てから、私はクルベ先生に話しかけた。
「知らない子たちが随分増えましたね。」
「うむ、この子たちは新しい移住者の子どもたちじゃよ。これ以上増えたら、近いうちに子供が溢れてしまうかもしれん。それに今は良いが儂一人では手が回らなくなるじゃろう。カール殿に相談せねばなるまいて。」
ふむふむ、新しい校舎と先生が必要ってことか。村が大きくなることでいろいろなことが必要になりそうだね。私もお手伝いできることがないか、カールさんに聞いてみよう。
「それはそうと、今日はどんな用件かな?」
私はクルベ先生に訪ねてきたわけを話した。先生はふうむと首を捻り、その拍子でずり下がってきた頭巾をまた直すと私に言った。
「なるほどのう、石鹸の素材になる油か。村の採集地で獲れるフェッツの実だけでは足りなくなってきたということかの。」
「そうなんです。みんなに配ろうと思ったら全然足りなくて・・・。」
「儂も錬金素材にはあまり詳しくない。だが油分の豊富な植物は、暖かい地方に多いと聞いたことがあるのう。」
「この辺りで暖かい場所ってというとサローマ領ですか?」
「そうじゃな。スーデンハーフの街で探してみてはどうかな? 石鹸の材料になる油が豊富にあるやもしれんぞ。」
スーデンハーフはサローマ領の領都で、王国最大の港町だ。私もエマたちと一緒に少しだけ住んでいたことがある。確かにいろんなものが集まるあの街なら、代わりになるものが見つかるかもしれないね。
私はクルベ先生にお礼を言って集会場を出た。そしてすぐに《転移》の魔法を使って、スーデンハーフの街へと移動した。
スーデンハーフの街は秋の終わりとは思えないほど暖かかった。燦燦と降り注ぐ太陽がどこまでも青い海原と白い砂花をキラキラと輝かせている。長い長い砂浜にはガブリエラさんの作った製塩の魔道具が点々と並び、多くの人たちがその周りで働いていた。
私はスーデンハーフの港沿いにある市場へと向かった。街でも一番人通りが多く賑やかな場所だ。南風が運んでくる潮の香りの中、たくさんの人たちが持ち寄った自慢の品を売るため、道行く人に声をかけている。
私は大きな赤い瓜をかご一杯に抱えた女性に、油を取る為の植物はどこにあるか聞いてみた。日に焼けた肌をした彼女は人の好い笑顔で私に教えてくれた。
「植物油を探してる? それならあの通りに行くといいよ。」
彼女は市場のすぐ側にある通りを指さした。なんでもそこには油を扱う店がたくさん集まっているらしい。私は彼女にお礼を言い、通りに入ってすぐのところにある店の扉を叩いた。
「いらっしゃい。お、あんたまじない師さんか? ちょうどよかった。《錆除け》のまじないをかけてもらいたいんだよ。出来るかい?」
黒い口髭を生やした体格のいいご主人は、私の姿を見るなりそう言ってきた。どうやらお客さんじゃなくて、仕事を探しに来たまじない師だと勘違いされたらしい。でも仕事を頼まれるのは嬉しいことなので、私はすぐにそれを引き受けた。
「もちろんできますよ。」
ご主人に案内されて店の奥に入ると、そこには把手のついた大きな金属製の道具が置かれていた。でも把手や歯車の一部には少し錆が浮いている。きっと潮風にさらされているからだろう。
私は木の杖を軽く掲げすぐに《素材強化》と《研磨》の魔法を使った。もちろん《錆除け》のおまじないもしっかりとかけておく。
「おお、すごい! まるで新品同様じゃないか!! あんたすごい腕前だな!」
ご主人は大喜びで私に代金はいくらかと尋ねてきた。私は銅貨3枚を受け取った後、ホクホク顔のご主人に聞いてみた。
「それよりこの道具ってもしかして・・・。」
「ああ、オリーブの油を搾る為のものだよ。ん? あんたもしかしてオリーブ油を買いに来たのかい?」
私が「そうです」と答えると、彼は申し訳なさそうな顔で「そりゃあ悪かった。サービスするから勘弁してくれよ」と言った。私は笑って「いえいえ、こちらこそ仕事をもらえてありがたいです」と答えた。
彼は私を改めて店に案内してくれた。大きな甕の中を覗き込むと、中にはさらさらした油が一杯に詰まっていた。
「金色に光ってる! すごくきれいな油ですね!」
「ああそうだろう? この辺りは昔からオリーブ油の生産が盛んだったんだよ。でもほら、何年か前に王様がすごい魔法で海辺に森を作ったことが有ったろう? それからますますオリーブの木が良く育つようになったのさ。本当にありがたいこったよ。」
ご主人は自慢げに私にそう言うと、木の柄杓で甕の中の油を掬い取ってみせた。
「これは今朝、漉し取ったばかりなのさ。掛け値なし、正真正銘の特別な上物だぜ。あんた入れ物を持ってきたかね?」
私は「ちょっと待っててください」と断り、長衣の中に手を入れて《収納》から塩を入れておくために作った壺を取り出した。でもご主人はその壺を見た途端、顔を顰めた。
「ああ、それはダメだよ。そんなもんに入れたらせっかくの油が空気に触れて傷んじまう。もっと口の小さいのはないかい?」
でも生憎、他に油を入れられそうなものは持っていない。私はご主人に「今はこれしかないけど、すぐに帰って別の容器に移します」と約束し、何とか納得してもらった。
本当は移さずに《収納》にしまっておくんだけど、傷まないことには変わりないから多分大丈夫だよね?
私は彼に代金として銅貨10枚を支払った。これが高いか安いか私には分からない。けど、王都で菜種の油を買うよりはずっと安い気がする。
店のご主人の「なるべく早く別の容器に移しておくれよ」という心配そうな声に送られながら、私は店を出た。とりあえずいい油が手に入ったしこれで一度、石鹸づくりを試してみるとしよう。私は《転移》で再びフランツさんの家の屋根裏部屋に戻った。
早速オリーブ油を使って石鹸づくりをする。ご主人が自慢していただけあって、このオリーブ油はとっても香りがいい。なんだかすごくいい石鹸が出来そうな気がする。
私がそう思った通り、灰汁液を加えて混ぜてみるととても滑らかで艶のある石鹸が出来上がった。香りも上々でこのまま食べてしまいたいくらいだ。
だた最後の工程になって、私は大きな壁にぶつかってしまった。
「あれぇ? なんだか固まりにくいや。なんで?」
いつも通りの作り方をしているのに、石鹸はなぜかちっとも固まらなかった。とろみのある液状にはなるのだけれど、型に流し込めるほどには固くならない。試しに魔力を加えてみたりしたけれど、ほとんど変化がなかった。
私はすっかり困ってしまった。これが固まりさえすれば、きっと最高の石鹸ができるのに。
シルキーさんに心配されながらうんうん唸っていた私は、またまたハッと閃いた。そうだ。ガブリエラさんならこんな時どうすればいいか知っているはず。彼女に聞きに行けばいいのだ!
ついでに最近の王国の様子も教えてあげたい。彼女が心配していたオキーム花毒薬の事件が解決したことを知らせてあげなきゃだしね。
でも急に訪ねて行っても、ガブリエラさんはいないかもしれない。だから私は《通信》の魔法を使い、彼女に「これから研究室に行きますね」と知らせることにした。
《通信》の魔法は離れた相手に自分の声を直接届けることができるとっても便利な空間魔法だ。ただ通信距離が長くなると、ただでさえ大きな魔力消費がとんでもないことになる。
だから彼女から返事をもらうことは出来ない。残念なことにこれは一方通行の魔法なのだ。
この魔法に代わる新たな魔法を今、エマとその先生であるベルント学長さんが研究している。精霊魔法を術式に組み込むことで消費魔力を減らそうと頑張っているのだ。
一応、遮蔽物のない場所で、短い距離でなら通信に成功しているみたい。だけど距離が長くなったり、建物が密集したりする場所だとなかなかうまくいかないそうだ。
この魔法が出来上がって、早くみんなと自由にお話しできる日が来るといいなあと思う。
私はガブリエラさんの離宮の地下にある、彼女の秘密研究室へ《転移》の魔法で移動した。私が部屋に入ると同時に実験机の上にあった明かりの魔道具が作動し、部屋を薄暗く照らす。
誰もいない部屋はがらんとしているけど、部屋の中に残っているガブリエラさんの匂いはまだ新しい。きっと昨夜も遅くまでここに籠っていたんじゃないかな。
整頓された部屋の中に置いてある実験の記録や資料をぼんやり読んでいたら、扉の向こうからがたんと大きな音がした。この部屋に続く隠し扉が開く音だ。
程なく部屋の扉が開き、きれいな衣装を着て白い髪をキチンを結い上げたガブリエラさんが姿を見せた。彼女は私の姿を見るなり、切迫した表情で私に問いかけてきた。
「急に《通信》の魔法が来たから驚いたわ。もしかしてミカエラに何かあったの?」
「いいえ、ミカエラちゃんはとっても元気ですよ。今、エマと一緒に追試験を受けに行ってます。」
私がそう言うと彼女は「追試験ですって?」と小さく呟いた。たちまち彼女の透き通るように白いこめかみに、はっきりと青筋が浮かぶ。彼女はにっこり微笑むと、一言一言確かめるようにゆっくりと言った。
「ドーラ、その話、もっと詳しく、聞かせて頂戴。」
すごくきれいな笑顔なのに、細めた目の奥の瞳にははっきりとした怒りの色が見える。私はたちまち震えあがり、ごく自然にその場へひれ伏した。
「ひえっ!! は、はい! 分かりました!!」
「そんなことがあったの。でも皆が無事で本当によかったわ。」
私の話を聞き終わった彼女がそう言って怒りの色を解いたことで、私はようやく大きく息を吐くことができた。ふう、危ない。いつガブリエラさんに怒られるかと、本当にヒヤヒヤしちゃったよ。
旧グレッシャー領で起きた事件にミカエラちゃんが巻き込まれたことを知ると、ガブリエラさんの怒りがすっと解けた。ミカエラちゃんやエマが勉強をさぼって追試験を受ける羽目になったのではないと分かってくれたみたいだ。
「そうなんです。大変だったんですよ。あのー、ところでガブリエラさん・・・。」
彼女は私の言葉をそっと遮り、軽く親指の爪を噛みながら何事か考え始めた。これ、村でよく見た考え事をするときのガブリエラさんの癖だ。
滅多に人前ではやらないけど、私やエマは彼女のこの姿を割とよく見ている気がする。それだけ私たちの前では気を許してくれているのかもしれないね。
決して私が彼女の頭を悩ませてばかりいたからではないと信じたい。
「立て続けに大規模な争乱が二つも。王国はかなり混乱しているでしょうね。」
憂いを含んだ表情で呟くように彼女は言った。私はすぐにそれに応えた。
「意外とそうでもないですよ。街の皆は楽しそうにしてます。王様だけはかなり困ってましたけど・・・。」
「それはそうでしょうね。私が同じ立場だったらと考えたら・・・。ドーラ、このことは他の人には絶対に喋ってはダメよ。分かった?」
強く念を押すようにそう言った彼女に、私は気まずい思いでおずおずと答えた。
「分かりました。でも、あの、ガブリエラさん?」
「どうしたのドーラ、そんな変な顔して?」
「それもう、ちょっと遅いかもしれません。」
「?? どういうこと?」
「だって、あの、後ろに・・・。」
私の言葉で彼女はパッと後ろを振り向いた。
「義母上様!? 一体いつから其処に?」
後ろにそっと腰かけていた帝妃クオレさんに、ガブリエラさんはようやく気が付いた。クオレさんはニコニコしながら彼女に言った。
「あなたの妹さんが追試験を受けたという辺りからですよ。」
「・・・ほとんどはじめからじゃないですか。」
呆れたように呟いた彼女は、何かに気が付いたようにハッと顔をあげた。
「さては!」
彼女はすぐに辺りを探し始め、実験机の下にある敷物をめくった。
「やはり隠し通路!! いつの間にこんなものを!」
「あらあら。バレてしまいました。せっかく苦労して作ったのに。」
クオレさんは驚くガブリエラさんを見てコロコロと楽しそうに笑った。
「結界呪符はちゃんと機能している。一体どうやって・・・。」
疑いの目で自分を見つめるガブリエラさんに、クオレさんは扇子で口元を隠しながら笑いかけた。
「ほほほ、この世に完璧な策などありませんよ。策を講じれば講じるほど、抜け穴もまた増えていくものなのです。少し頭を捻って探せば、抜け道などいくらでも見つけられますよ。」
クオレさんは釈然としない表情のガブリエラさんから目を離すと、私の方を向き直った。
「王国で起きた争乱の顛末、しっかりと聞かせていただきました。そこでドーラさんに聞いていただきたい話があるのです。よろしいですか?」
クオレさんが私に? 一体何だろう? 私は分からないまま「はい」と頷いた。するとクオレさんは、すっと笑顔を消して真剣な調子で話し始めた。
「王国は二度に渡る未曽有の危機を乗り越えたばかり。国力もさぞ落ちていることでしょう。もし王国の侵略を企てている者がいるなら、今は千載一遇の好機ですね。」
「?? 言われてみればそうかもしれませんね?」
何のことを言っているんだろう? 私がポカンとしながらもそう答えると、クオレさんは小さく頷いた。
「そして東ゴルド帝国と王国とは、婚姻による講和を結んだとは言え、つい最近まで仇敵関係でした。これがどういうことか分かりますか、ドーラさん?」
彼女は私を試すように言葉を止め、じっと私の目を見つめた。ここまで言われたら流石に私だってピンとくる。
「クオレ様は王国に戦争を仕掛けるつもりなんですか?」
クオレさんは口元を扇子で隠し、きゅっと目を細めた。
「それも選択の一つですね。もしこの機に我が国が王国を手中に収めることができれば、西ゴルド帝国との戦いに向けて後顧の憂いを立つことができます。それに加え、王国の優れた魔法技術をも手に入れることができる。それは我が国にとって決して悪くない選択でしょう。そして我が国にはそれを行うだけの力があります。」
彼女は一度、ちらりとガブリエラさんを見た。ガブリエラさんは青い顔でクオレさんの口元をじっと見つめていた。彼女はまた私を見ながら話し始めた。
「そんなに怖い顔をなさらないで。このお話は王国側にも利があるのですよ。」
「利? 戦争をするのにですか?」
彼女は黙ってゆっくりと頷いた。
「二つの国の境がなく一つになれば、ガブリエラ様もミカエラ様と堂々と会えるようになるでしょう? あなただってこんな風にこっそり訪ねてくる必要はありません。多くの民が自由に行き来できるようになれば、きっとその暮らしも豊かになるとおもいますよ。もちろんあなたが大切にしているハウル村だって例外ではありません。」
むむむ。言われてみればその通りな気がする。でも戦争をすればたくさんの人が死んだり傷ついたりすることになる。それは嫌だ。私がそう言うとクオレさんはにっこりと笑った。
「すべて平和的に解決する方法がありますよ。」
「?? どうすればいいんですか?」
「ロタール4世陛下が我が国に降伏し王位を明け渡してくださればいいのです。そうすれば民に危険が及ぶこともありません。」
クオレさんの言葉を聞いてガブリエラさんはぎょっとしたように目を見開いた。クオレさんはそれを無視して私に言った。
「あなたが口添えしてくだされば、陛下はご決断してくださるでしょう。多くの民のため、二つの国を一つする。どうですか? 悪くない話でしょう?」
クオレさんは扇子で口元を隠したまま、私の顔をじっと見つめている。私は少し考えた後、彼女に尋ねた。
「もしそうなったとして、その時、王様はどうなっちゃうんですか?」
クオレさんは少し驚いたように細めていた眼を開いた。
「現王家には王都領を出ていただき、別の領地へ転封していただくことになるでしょう。おそらく帝都オクタバ近郊の小領地の領主となっていただきます。そして王都領には我が国の有力貴族を配置し、帝国による統治が始まることになりますね。」
それを聞いた私は、迷うことなくすぐに彼女へ言った。
「それはだめですねー。全然だめです。」
「・・・なぜですか?」
「王様は毎日、フラフラになるまでお仕事を頑張っています。それは王国の人たちを自分のことよりもずっと大事にしているからです。私、そんな王様が大好きなんです。」
クオレさんは私の言葉を微動だにせずに聞いていた。扇子の上に覗いている二つの目からは何の感情も読み取ることができない。私は彼女に問いかけた。
「クオレさんはその新しい貴族さんが、王様と同じくらい皆を大事にしてくれると思いますか?」
クオレさんは少し考えた後、扇子をぱたんと畳むと僅かに口元を緩ませた。
「いいえ、思えませんね。」
「じゃあやっぱりダメです。もしクオレさんが王国に戦争を仕掛けてくるつもりなら、私はこの場でガブリエラさんを連れて王国へ帰りますよ。そして私が全力で王国を守ります。」
クオレさんと私は無言で互いの目を見つめ合った。まるで空気が凍ってしまったみたいだ。ガブリエラさんが小さく唾を飲みこむ音がはっきりと聞こえた。
やがてクオレさんは私に深々と頭を下げた。
「正直に話してくださって、ありがとうドーラさん。お詫びを兼ねて私も今、あなたへこの話をした理由を正直にお話ししますね。」
彼女はそう言って研究室の小さな丸椅子に腰かけた。私とガブリエラさんも同じように座ったのを確認した後、彼女は話し始めた。
「はっきり言えば今、東ゴルド帝国は一兵卒も王国に差し向けるつもりはありません。単純に言えばその余力がないからです。」
彼女は西ゴルド帝国との戦いの様子を事細かに話してくれた。現在、皇帝ガイウスさん率いる東ゴルド軍はエリス大河を越え、西ゴルド帝都へ続く拠点を次々と攻略しているそうだ。
ただ補給路があまりにも長く伸びた上に、西ゴルド軍が『堅壁清野』という焦土作戦を実行したため、進軍できない状態に陥っているそうだ。
前線では物資が常に不足していて、せっかく攻略した城塞都市を手放さなくてはならない事態も発生しているらしい。今は補給体制を大急ぎで構築中だそうで、焦土作戦を免れた現地の住民たちを懐柔しつつ、前線基地の建設に全力を尽くしているという。
「よく分かりませんけど、あんまりうまくいっていないってことですか?」
「あらかじめこのような事態を想定して補給路の構築を進めていたので、今のところは問題ありません。ただ敵軍の焦土作戦によって進軍を止められた以上、拠点を守り切ることが出来なければ戦う前に敗退することになるでしょう。」
彼女は淡々とした口調でそう言った。まるでこのことをあらかじめ予想していたような口ぶりだなと私は思った。
「今のお話をドルアメデス国王陛下に伝えてください。そしてぜひ助力をお願いしたいと。」
「つまり戦争に味方しろってことですか?」
彼女は口元に手を当て小さく微笑んだ。
「ふふ、そう出来たらどんなにか有難いでしょう。王国の誇る魔法騎士団と魔導士団が来てくだされば、攻防両面で大きな戦力になります。ただそれは現実的ではありません。」
今、戦争が行われているのは王国からものすごく離れた場所。とてもじゃないけれど騎士団の人たちが出かけて行けるようなところではないらしい。じゃあ、クオレさんの言う助力って一体何なんだろう?
私の疑問を察したように、クオレさんは口を開いた。
読んでくださった方、ありがとうございました。