70 歓楽街で大暴れ? 後編
設定とかかなりふわふわです。でも書いててとても楽しかったです。でもいつも以上に長くなってしまいました。
「すごい! ここが賭博通り?」
娼館通りの裏路地を抜けて、私とヴリトラは賭博通りへとやってきた。ここはその名の通り、賭け事に関係するお店や賭博場がたくさん集まっている通りだ。
もうかなり遅い時間だというのに、娼館通りと同じくらいたくさんの人が集まっている。ただ賭博通りには女の人がほとんどいない。どこを見ても男の人ばかりだ。並んでいる店もなんだか地味な感じで、華やかな娼館通りに比べるとかなり薄暗い。
でも、其処かしこに屯している男の人たちからは異様なほどの熱気が漂っている。目もギラギラしているし、なんだかちょっと怖いです。
時折女の人を見かけることもあるけれど、そういう人たちは皆、酒場の下働きをしている女給さんたちばかりだ。しかもどの人も割と年齢が高い感じがする。
そんな中で露出の多い服を着たヴリトラはとても目立っていた。男の人は彼女とすれ違うと皆、ぎょっとした顔をして振り返る。その後は蜂蜜を目の前にしたエマみたいな顔で、彼女の大きな胸や細い腰、形の良い足をじっとりと眺めるのだ。
でもヴリトラはそんなことを気にした風もなく、堂々とした態度で通りを歩いて行った。私は彼女の横を歩きながら、そっと彼女に尋ねた。
「ねえヴリトラ、どこに行くつもりなの?」
「うん? もちろんエッポとやらのところだ。」
「えっ、エッポさんの居場所を知ってるの?」
「いや、知らん。だがこうしていればじきに・・・。」
「よお、ねえちゃん。こんなところで何してんだ。いい店を探してんなら俺たちが案内してやろうか?」
ヴリトラは「ほらな」と小声で私に言った後、彼女に声をかけてきた男の人たちの方を向いた。
「寄るな小蠅ども。我はエッポとやらに用があるのだ。」
「エッポさんに? ・・・分かった、案内してやるよ。ついてきな。」
さっき私を騙した人たちと同じような風体をした男の人たちは、私たちを前後で取り囲むようにして歩き出した。
「早速、案内してもらえそうでよかったね、ヴリトラ。」
私がそう言うと、彼女は唇の端をそっと上げて笑った。
「ああそうだな。こいつらがきっと色々教えてくれるだろう。」
「ぐえええっ!!」
ヴリトラに殴り飛ばされた男の人は裏路地の壁に叩きつけられ、潰されたカエルのような声を出して地面に崩れ落ち、気を失った。
彼らは私たちを裏路地の袋小路に連れ込んだ後、急に襲い掛かってきたのだ。それをヴリトラはあっという間にやっつけてしまった。
彼女は足元に倒れて呻いていた男の人を喉を片手で掴むと、そのまま高く持ち上げた。男の人は必死に手を振りほどこうと藻掻くが、彼女は容赦なく男の人の喉を締め上げた。
「は、離して、ぐ、ぐるじい、死んじまう・・・!」
男の人が口から泡を吹いて懇願を始めたのを見て、私は彼女を止めた。
「ちょ、ちょっと止めて、ヴリトラ! それは少しやり過ぎじゃないの?」
彼女は男の人を投げ捨てて私の方を見た。男の人はひゅうひゅうぜえぜえと荒い息を吐き、石畳の上でのたうち回っている。彼女は私の方を見ながら、その男の人の胸を足で踏みつけた。
彼女は踏みつけられて動けなくなった男の人の側にしゃがむと、男の人の目の前に人差し指を突きつけながら、私に言った。
「なあに、大したことはない。まだ目も抉っておらぬし、耳も削いでおらぬではないか。なあ、そうだろう?」
彼女の赤い瞳が狭まり、竜の虹彩がはっきりと現れる。それにつれて彼女の人差し指の黒い爪が、剃刀のように鋭く尖っていった。それを見た男の人の顔が恐怖に歪む。
彼女は笑いながら爪の先を男の人の右目の縁にそっと触れさせた。男の人は堪らず悲鳴を上げた。
「ひいいいぃい!! か、勘弁してください!!」
泣きながら謝る男の人に、ヴリトラは静かな声で問いかけた。
「エッポはどこにおるのだ?」
「エ、エッポの旦那は、か、格闘場にいます!!」
男の人はすごい勢いで話し始めた。エッポさんは毎晩、格闘場主として賭け試合を開催しているのだそうだ。ただ彼自身はものすごく強い用心棒さんたちに守られ格闘場に潜んでおり、滅多なことでは人前に姿を現さないらしい。唯一出てくるのはその夜、優勝した選手に表彰式で賞金を贈呈するときだけみたい。
話を終えた男の人は、ヴリトラに向かって懸命に命乞いを始めた。
「お、お願い、殺さないで・・・!」
だけどヴリトラはゆっくりと右手を振り上げた。彼女の5本の爪は恐ろしいほどに伸び、月の光を反射して青白く冷たい光を放っていた。
「ヴリトラ!!」
私が声を上げたのと、彼女が爪を振り下ろしたのが同時だった。彼女の爪は男の人の頬を掠めた後、石畳を大きく抉った。男の人は気を失ってぐったりとその場に横たわった。どうやら失禁したらしく、日向臭い匂いが辺りに立ち上る。
ヴリトラは気絶した男の人に興味を失くしたように立ち上がると、つまらなそうに私に言った。
「何をそんなに怒ることがある。人間種など地に満ちるほどいるではないか。一人潰したくらいで、どうということもあるまい。」
両腕を前に組み豊かな乳房をその上に乗せたまま、彼女は試すように私を見た。
「そうかもしれないけど・・・でもやっぱりダメ! 別にこの人は私の敵じゃないもの。」
私の言葉を聞いた彼女は、すっと目を細めた。
「ほう、敵ならば殺してもいいと?」
「そんなの当たり前でしょう?」
敵は殺すし、獲物は食べる。それは竜として当たり前のことだ。でも敵でもない人を殺すのは絶対によくない。私がそう言うと、彼女はガラッと口調を変え、私を心配するような口ぶりで言った。
「・・・それはさっき私が言ったことなんかよりも、ずっと危険な考え方だよ、ドーラちゃん。」
私は訳が分からずポカンと口を開けて彼女を見た。敵を殺しちゃいけないの? なんで?
私の顔を見た彼女はゆっくりと両手を広げた。
「分かった。謝るよ。ごめんねドーラちゃん。」
「うん、私こそごめん。ヴリトラは私のために頑張ってくれたのに責めるようなこと言っちゃって。」
彼女は少し寂しそうに微笑んで私に言った。
「乗り込んで派手に暴れてやろうとも思ったが、関係ない者を巻き込むのは本意ではないな。もっと穏やかな方法で行くとしよう。」
私は「うん、そうだね」と頷いた。私たちは気を失った男の人たちをその場に残したまま、エッポさんがいるという格闘場に向かった。
「ここだな。」
「随分大きな建物だね。それにすごく人がいっぱいいるよ。」
格闘場は賭博通りの中央付近に面した石造りの建物だった。悲喜こもごもの表情をした男の人たちがひっきりなしに出入りしている正面口の向こうからは、大きな歓声が響いてくる。
「この中からエッポさんを探すのは大変そうだね。どうするの?」
「探す必要はない。向こうから出向いてこさせればよいのだ。我に一計がある。まあ、任せておけ。」
彼女はそう言ってにんまりと微笑むと、私の耳に口を寄せてそっと囁いた。
「ときにドーラよ。お主、今いくら持っておる?」
ヴリトラと別れた私は人波をかき分けるようにして格闘場の観客席に入った。観客席は円形の闘技台の周囲をすり鉢状に取り囲んでいる。屋根のない格闘場はかなりの広さがあり、ざっと見ただけでも1000人以上の人たちがいる。彼らは皆、試合が始まるのを今か今かと待ち構えていた。
私が何とか空いている席を見つけ、満員の観客席の隅っこに座った途端、魔道具で拡声された声が場内に響き渡った。
「さあ、今夜も熱い勝負が続いてる中、新たな挑戦者の登場だ!! 今季絶好調、現在四連勝中の格闘士ダーレスに挑むは、夜の闇を纏って舞い踊る麗しき蝶、戦士ヴリトラ!!」
進行役の男性に紹介され、闘技場の内扉から出てきたヴリトラは大きく両手を上げた。私の周りにいた観客の人たちは彼女の姿を見た途端、失笑と共に野次を飛ばし始めた。
「なんだあ、あの格好は? 踊り子が紛れ込んだのか?」
「おい、ねーちゃん!! 勝負はいいからその服脱いで見せてくれよ!!」
それに対してヴリトラが出てきたのと反対側の扉から対戦相手であるダーレスさんという人が姿を見せると、観客席からは一斉に歓声が沸き上がった。
上半身裸のダーレスさんは、驚くほど逞しい体つきをしていた。盛り上がった筋肉はまるで岩みたいに見える。
ダーレスさんはその場でいろいろな突き技、蹴り技を披露して観客にアピールし始めた。さっき出場受付で聞いた話によると、お客さんが買った『賭け札』の枚数に応じて出場選手には報酬が出るそうだ。だからああやって、自分の強さを見せつけているのだろう。
それに引き替え、ヴリトラは格闘場の受付で借りたボロボロの片手剣を手にして立っているだけだ。時折観客に手を振ったり片目をつぶってみせたりしているけれど、剣を振る様子はない。
それを見た私はすごく不安になってしまった。ヴリトラは出場前の受付で「剣は一応かじったことがある」と言っていたけれど、まさかあれって本当に『齧った』ってことじゃないよね?
不安はあるけれど、私は自分の役目を果たさなくてはならない。私は打ち合わせ通り、賭け札売り場に向かった。
ヴリトラ側の賭け札売り場には全然人が並んでいなかった。長蛇の列ができているダーレスさん側とは大違いだ。私は暇そうにしている売り場の男性に声をかけた。
「あのー、すみません。賭け札が欲しいんですけど。」
「お、初めて見る顔だな。奇特な奴がいたもんだ。賭け札は一枚40Dだぜ。何枚欲しいんだ?」
私が「25枚ください」と言ったら、彼は凍り付いたように笑顔を引き攣らせ、もう一度私に聞き返してきた。
「今、25枚くださいって聞こえたんだが・・・。」
「はい。お願いします。」
私は懐に手を入れ《収納》の中からピカピカに磨いた銀貨を25枚取り出して彼に渡した。
「あんた、正気かよ。止めるんなら今だぞ!?」
「大丈夫です。絶対に勝ちますから!」
私がそう言うと、彼は可哀そうなものを見るような目で私を見て、賭け札を渡してくれた。賭け札は魔道具で刻印がされた小さな木の板だった。
賭け札の販売が締め切られると同時に売り場に賭け率が表示された。その倍率はヴリトラ10に対して、ダーレスさん1.025。つまりヴリトラが勝てば賭け金は10倍になる。一方ダーレスさんが勝てば賭け札一枚につき1D分だけ儲かるわけだ。
ほとんど儲けが出ないにも関わらず、賭け札の販売が締め切られ買うことのできなかった人たちからはすごい怒号が飛んでいた。
「こんな鉄板試合、買い逃すなんてマジかよ!!」
「一人一枚限定販売って、こりゃあただのご祝儀だ。エッポの奴、お気に入りのターレスに金を回したかっただけだろ!!」
すごい野次が飛び交う中、私は賭け札を大事に抱えてまた観客席に戻った。人波をかき分けて硬い石の長椅子に腰かけた途端、大きな鐘の音が格闘場に響く。いよいよ試合開始だ。
試合開始と同時にターレスさんは猛然とヴリトラに突進した。ヴリトラはすぐに剣を構えたが、ダーレスさんの鋭い蹴りでたちまち剣を遠くへ飛ばされてしまった。
そこからは一方的だった。ダーレスさんはすごい勢いでヴリトラを追い詰めていく。対してヴリトラは防戦一方、鋭い攻撃を何とか紙一重で躱している状態だ。
「おいおい、しっかりしろよ! 逃げ回ってばかりじゃ勝負にならねえぞ!」
観客からもすごい野次が飛ぶ。でも私にはちゃんと分かっていた。彼女はわざと攻撃をギリギリまでひきつけて躱すことで、ダーレスさんを思い通りの位置に誘導しようとしているのだ。
あ、今ヴリトラがわざと足をもつれさせた。攻撃が当たらないことに業を煮やしていたダーレスさんはその誘導に見事に引っかかり、姿勢を崩したヴリトラに組み付いて彼女をそのまま石の床の上に押し倒した。
「いいぞ、ダーレス!! そのままひん剥いちまえ!!」
観客の歓声が一層大きくなる。ダーレスさんは仰向けになったヴリトラに馬乗りになったまま、その歓声に応えるように両手を高く上げた。
ダーレスさんはヴリトラの胸を隠している上着に手をかけた。どうやら本当に服を脱がすつもりのようだ。ヴリトラは彼の手を振り払おうと出鱈目に手を振り回した、ように見えた。
次の瞬間、ダーレスさんは白目を剥きヴリトラの上に覆いかぶさるように倒れて気を失った。それを見た観客たちは皆、悲鳴のような叫び声を上げた。彼らは口々に「一体何が起きたんだ?」と叫んでいる。
でも私にはちゃんと見えていた。ヴリトラは自分の胸に伸びてきた彼の手を鋭く跳ね上げ、それを彼の顎先に直撃させたのだ。狙いすました見事な一撃だったけど、それに気づいた人は私の他には誰もいなかったみたい。
「勝者、戦士ヴリトラ!!」
彼女がダーレスさんの体を押しのけて這い出し、服の汚れを払いながら立ち上がると、会場内に彼女の勝利を告げる宣言が響き渡った。
今の試合で賭け金を失った人たちからは凄まじい怒号が巻き起こる。一方、ただ試合を観戦しに来た観客たちからはヴリトラの健闘(?)を称えて、やんやの声援が送られていた。
この格闘場はお金をかけるだけでなく、こうやって試合を観戦することもできるのだ。観戦のための入場料は1D。売店では飲み物なども買うことができるため、エールの酒杯を片手に観戦している人たちも多い。
その中には友達同士で飲み代を賭けている人たちもいる。というか観客席いる人は観戦目的で試合を楽しんでいる人たちが大多数だ。
なにしろ正式な賭け札は一枚40Dもするからね。40Dと言えば、平均的な4人家族の一か月分の生活費に相当する額だ。そんな額を娯楽のために使えるのはよほどのお金持ちか、賭け事好きくらいだろう。
ちなみに私は試合に出場するヴリトラの付添人ということになっているので、入場料は払っていない。まあ、その代わりに試合の登録料として10Dも取られたんだけどね。
外れ札の回収と賭け金の払い戻しが終わった後、観客席で周りの人たちの様子を眺めていたら、また進行役の人の声が会場内に響いてきた。次の試合が始まるらしい。
「まさかの大番狂わせで勝利した戦士ヴリトラだが、今度の相手はもっと手強いぞ!! その爪で引き裂いた相手は数知れず! 血に飢えた獣人王リィーカント、見参だ!!」
どうやらヴリトラは連戦することになったみたいだ。扉から出てきたヴリトラには応援の歓声が少しだけ飛んでいた。でもあとは激しい野次ばかりだ。
そんな中、彼女と反対側の扉から姿を見せたのは立派な鬣を持つ獅子の獣人さんだった。彼の身長はヴリトラの1.5倍くらい。筋肉が盛り上がった上半身は金色の短い毛で覆われ、腰からは鞭のようにしなる尻尾が生えている。
逞しい肉体を見せつけるためか、身に着けているのは革の腰巻だけだ。武器は持っていない。その鋭い爪と長い牙が武器代わりなのだろう。
彼は両手を振り上げると、ヴリトラを挑発するように大きく吠えた。彼の咆哮によって空気がびりびりと震えるのが、離れていても伝わってくるほどだ。その声に思わず耳を塞いだ観客の人たちだったがすぐに立ち直り、大きく腕を上げながら彼の名前を呼び始めた。
「「「リィーカント! リィーカント! リィーカント!」」」
リィーカントさんはかなり人気のある人らしい。私はそそくさと席を立ち、賭け札を買うためにまた売り場へ向かった。
「お、幸運のまじない師じゃねえか。今度はどうする? やっぱりリィーカントに賭けるのか?」
「いえ、この勝ち分全部、戦士ヴリトラにお願いします!」
私はさっき買った賭け札をそのまま売り子さんに渡した。彼は私に手招きすると囁くような声で話しかけてきた。
「あんた、賭け事は初めてなんだろう?」
「?? そうですよ。よく分かりましたね。」
「あんたみたいな賭け方をする奴を俺は何人も見てきたんだ。賭け事ってのは不思議なもんでな。最初に大きく勝っちまうと、その後なかなか勝てないもんなのさ。それで身を持ち崩す奴が本当に多いんだよ。」
「へー、そうなんですか。」
「ああ、だから悪いことは言わねえ。この金持ってさっさと家に帰りな。そして賭け事とは金輪際、縁を切るんだ。それが一番、冴えたやり方だぜ。」
彼は私のことを本気で心配してくれてるみたいだ。私はとても嬉しくなり彼にお礼を言った。
「心配してくれてありがとうございます。でも大丈夫なんですよ。安心してください。」
私は彼の手に賭け札を押し付けた。彼は心配そうな顔で大きく息を吐いた。
「仕方ねえ。俺はヴェッツって言うんだ。この先なんか困ったことがあったら俺を頼ってきな。少しは力になるからよ。」
私はヴェッツさんにもう一度お礼を言った後、彼から新しい賭け札を受け取った。さっきここに来たのは私だけだったけれど、今度は私の他にも何人かの人がヴリトラの賭け札を買っていた。
賭け札の販売が終わり、また賭け率が発表された。今度はヴリトラ5に対して、リィーカントさんが1.05。ヴリトラが勝ったら掛け金は5倍、リィーカントさんが勝ったら賭け札一枚につき2D儲かることになる。
観客席に戻ると同時に試合が始まった。野生の獣のような動きで襲い掛かるリィーカントさんをヴリトラは剣を使って牽制している。さっきよりも少し剣がうまくなっているように見えるのは気のせいかな?
少なくとも一試合目よりはまともな戦いになっているようだ。観客の人たちも口から泡を飛ばしながら必死に声援を送っていた。
「殺れ! 殺っちまえ、リィーカント!!」
「頑張れ、ヴリトラ!! 俺たちはお前に賭けたぞ!! さっきの負けを取り返させてくれ!!」
さっきよりヴリトラを応援する人たちが少し増えている。多分、ヴリトラの動きが良くなっているからだろう。
リィーカントさんもそれを警戒しているようで、かなり慎重に攻撃をしているように見えた。彼が迂闊に近寄ってこないので、互いに決め手を欠いているようだ。
このまま試合が長引くのかなと思った時、突然ヴリトラが剣をめちゃめちゃに振り回しながらリィーカントさんに突進していった。それを見た観客さんたちは大きな失望のため息を吐いた。
「ああ、緊張に耐えられなかったか。こりゃあリィーカントの勝ちで決まりだな。」
リィーカントさんもそう思ったようだ。万全の態勢でヴリトラを迎え撃つべく、彼はぐっと体に力を込めた。ヴリトラは目を瞑ったまま剣を左右に激しく振り回し、リィーカントさんにまっすぐ近づいて行く。
十分に間合いを測った後、リィーカントさんは右手を大きく振るった。体重を乗せた鋭い爪の一撃がヴリトラを捉えた。
ヴリトラが引き裂かれ、格闘場に鮮血が飛び散る。誰もがそう思った。
だが次の瞬間、ヴリトラは振り回していた自分の剣の重さに引きずられるようにして、よろりと体を右側に傾けた。それによりリィーカントさんの必殺の一撃はヴリトラの体をわずかに掠めて外れた。思いもよらない動きで大きく空振りしたことで彼は体勢を崩した。
何とか体勢を整えようとし、両足でしっかりと踏ん張るリィーカントさん。そのため彼は一瞬、動きを止めてしまった。そこへ出鱈目に振り回していたヴリトラの剣が偶然、彼の顔に思い切りぶち当たった。
剣腹(両刃の片手剣の刃のない部分)で鼻先を思い切り引っ叩かれたことで、彼は思わず「うがあ」と声を上げてその場に蹲った。その声に驚いたヴリトラは瞑っていた眼を開けて、キョロキョロと周囲を見回す。
「おい、ねえちゃん!! 後ろだ後ろ!!」
観客の野次で後ろを振り返ったヴリトラは、蹲って鼻を押さえているリィーカントさんに恐る恐る近寄っていった。そして大きく剣を振りかぶると、剣腹を使って彼の頭を後ろから思い切りぶん殴った。リィーカントさんは崩れ落ちるように倒れ、気を失った。
それを見て観客の人たちは皆、大爆笑。彼女への勝利宣言が掻き消されてしまうほどの声援が会場中から飛び交うこととなった。
すごい偶然で二連勝を果たした彼女の幸運を目の当たりにして、皆は大興奮している。でももちろん、これはすべてヴリトラの思惑通りだ。
偶然よろめいたように見せてリィーカントさんの攻撃を躱した後、彼女は剣を持っていない左手を使い、すれ違いざまにすごい速度で彼の鼻先を殴っていたのだ。その後でわざと剣が当たったように見せかけた。
そうでなければ、たまたま剣腹が当たったくらいであの屈強な獣人さんがあんなに痛がるはずがない。すべてはヴリトラの計算ずくの行動なのだけれど、観客の人たちは興奮しすぎて誰もそれに気が付いていないみたい。
剣なんか持たなくてもヴリトラなら素手だけでリィーカントさんを圧倒できる。でもあえて使い慣れていない剣を持っているのは相手を油断させるためだ。
私はヴリトラがあんなすごい動きができるなんて思っていなかったので、すっかり驚いてしまった。もちろん同じことをやれって言われたら私にもできる。手先の器用さはともかく、単純な身体能力なら複製体を操っている彼女よりも、直接本体でいる私の方がずっと上だからね。
けれど私にはあんなに自然に相手を騙すようなことは出来ない。そもそもあんな風に戦うなんて思いつくこともないだろう。さすがは数千年、人間種と関わってきただけはあるなあと私は素直に感心した。
会場内の熱気がすごいことになっているためか、お酒が飛ぶように売れている。面白い試合が見られたと興奮する人たちは、互いにエールを御馳走し合っては次の試合の予想を声高に話し合っていた。
隣に座っていた男性から奢ってもらったエールを舐めながらそれを聞いていると、ヴリトラの人気がすごく高まっているのが分かった。彼女の戦いに期待する人たちが増えているのだ。もしかしたら、これも彼女の計算の内だったのかな?
私が手にしたエールを飲み終わり少し気持ち良くなってきた頃、再び会場に進行役の人の声が響き渡った。
「会場にお集まりのくそ野郎ども、俺は今信じられないものを目にしているぜ!! 獣人王を倒した新人の登場に、会場の熱気も最高潮だ!! だが次の相手は幸運だけじゃ勝てないぞ! 目にも止まらぬ神速の剣はすべてを切り裂く! 戦士ヴリトラは彼の剣を受けきれるのか!! 魔剣術士ザッカ!!」
今度の相手は両手剣を使う剣士さんのようだ。剣を振ってアピールしている様子を見てみると、紹介にあった通り魔力を帯びた斬撃を使ってるみたい。
みたいって言うのは、彼の魔力が低すぎて分からなかったからだ。普通の人の魔力って私には差が小さすぎてその違いがよく分からない。王様やガブリエラさんくらい魔力が多い人だと割とはっきり分かるんだけどね。
ザッカさんもヴリトラの相手にはならなそうだ。私は早めに席を立ち、賭け札売り場のヴェッツさんのところに向かった。
驚くことに、賭け札売り場にはすでに人が並んでいた。私が順番を待っている間にも、続々と私の後ろに人が並んでいく。ヴリトラの戦いぶりに賭けようと思う人が増えていることを実感した。
ヴェッツさんは私の顔を見ると「やっぱりまた来たのかよ」と小さく呟いた。私は「はい!」と元気よく返事をした。
「えーっと、まさかとは思うけどよ?」
「はい、戦士ヴリトラに全額で。」
「・・・。」
ヴェッツさんは心配そうに私を見たけれど、結局何も言わず賭け札を渡してくれた。ちなみに賭け率はヴリトラ2に対してザッカさん1.2でした。
観客席に戻ろうとしたら、きちんとした服を着た男の人がすっと私に近づいてきた。
「大口購入のお客様は貴賓席へご案内させていただいております。こちらへどうぞ。」
私は彼に案内されて最前列の一段高くなった場所へ向かった。赤い絨毯の敷かれたその場所には、私の他にも何人かの人たちが談笑しながら試合が始まるのを待っていた。
ゆったりと配置されたテーブル席に座ると、頼んでもいないのにドレスを着た女の人が私にエールを持ってきてくれた。
「あのー、私、これ注文してませんけど・・・。」
私が遠慮気味にそう言うと、彼女はすごくきれいな笑顔で私に言った。
「これは格闘場主からお客様へのサービスでございます。どうぞ遠慮なくお召し上がりください。」
なんとタダでお酒を御馳走してくれるらしい。エッポさんて、もしかしたらいい人なのかしら。
彼女にお礼を言ってからエールをちびちび舐めているとまた鐘が鳴り響いた。試合が始まるみたい。
「ザッカ、頼む! 勝ってくれ! でないと俺は無一文になっちまう!!」
「ありがとうヴリトラ!! お前のおかげで大儲けだ!! 今度も頼むぜ!!」
私の後ろの観客席からは悲喜こもごもの叫び声が聞こえてくる。私は少しふわふわした気持ちでそれを聞いていた。うーん、少し酔っぱらってきちゃったかも?
よく考えたらここに来る前にイゾルデさんのところでもエールを飲んだんだった。てことは今、これ何杯目だっけ? 5杯? いや6杯目だったかな?
私がエールを飲み終わるたびにドレスの女性がすぐお代わりを持て来てくれるので、数が分からなくなってしまった。このエールは泡の肌理が細かくてものすごく美味しい。ちょっと甘みが少ないけれど、グレーテさんの作っていたエールとよく似た味だ。
私が女性に何度目かのお礼を言った時、会場内に割れるような歓声が響いた。あらら、どうやら試合が終わったみたい。エールに夢中でよく見ていなかったよ。ごめんね、ヴリトラ。
まあ、結果はもちろんヴリトラの勝ちだった。私が何杯目か分からなくなったお代わりのエールを飲んでいると、また進行役の人の声が会場に響いてきた。
「うおおおおおぉ、俺は今猛烈に感動しているっ!! この勝負が見られたことを大地母神様に感謝するぜ!! ついに最終戦、格闘場主エッポさんの切り札登場だ!!」
ヴリトラの最後の対戦相手はなんと魔獣だった。あの魔獣、なんて名前だったかな?
ああそうだ、蠍獅子だった。背中に蝙蝠の羽が生えた大きな獅子の魔獣で、蠍の尻尾を持っている複合獣。ガブリエラさんから貰った図鑑にそう書いてあったっけ。
前に一度だけ食べたことがあるけど、尻尾の毒がピリピリして美味しかった記憶がある。甘いエールに合いそうな味だ。でも今この格闘場にいるのは私が食べたのに比べると随分小さいから、あんまり食べ応えはなさそう。
蠍獅子の首には魔力のこもった首輪が付けられていて、首輪につながった鎖を手にした人がその横に立っていた。どうやらあの人がこの魔獣を操っているみたい。
魔獣はヴリトラを見てものすごく興奮し、しきりに声を上げて威嚇していた。多分、彼女に怯えているからだろう。でも観客の人たちはそれが分からないようで、狂ったような獅子の咆哮にかなり驚いているようだった。
選手の紹介が終わったので私が賭け札を買うために立ち上がろうとしたら、また案内係の男の人が私のところにやってきた。
「こちらで賭け札の購入を代行させていただきます。どちらにお賭けになりますか?」
私の代わりに買ってきてくれるらしい。なんて親切なんだろう。私は彼にお礼を言った。
「どーも、ありがとーごじゃまふ。ヒック! 戦士ヴリトラにじぇんぶ、賭けましゅよ! ヒック!!」
私はさっきの賭け札を彼にすべて渡した。彼と入れ替わるようにドレスの女性がまた飲み物を持ってきてくれた。
「あれ!? これお酒じゃないれふね? ヒック!!」
「少しお酒が進んでいらっしゃるようですので、代わりに蜂蜜とリモーネの果実水をご用意させていただきました。」
彼女はにっこりと笑ってそう言ってくれた。柑橘の爽やかな香りとさっぱりとした甘さがあって、とても美味しい。そのおかげでふわふわしていた頭が少しすっきりしたような気がする。
そうだ、これ今度エマにも作ってあげようっと!
彼女にお礼を言いつつこの果実水の作り方を聞いていたら、歓声が沸き起こった。ありゃまた試合を見逃しちゃったよ。まあ結果は予想通り、ヴリトラの勝ちだったんだけど。
試合が終わって賭け金の清算をしてもらった。全部で12万D。最初に賭けたのが銀貨25枚1000Dだったから、120倍になったってことになるね。
額が大きいのでとりあえず銀貨で500枚2万D分受け取って、残りは後日受け取ることになり『手形』っていう紙を受け取った。あとは優勝した選手の表彰式がある。
うっかり忘れそうになっていたけれど、今日の目的はこの表彰式だ。エッポさんてどんな人なんだろう?
「優勝賞金の受け渡しをいたします。戦士ヴリトラは付添人の方と一緒に格闘場中央へおいでください。」
私はふらふらする足取りを杖で支えながら貴賓席を降り、格闘場の関係者用通路を通って格闘場への出口に向かった。私が出口に着いたとき、すでにヴリトラは私を待ってくれていた。
「優勝おめでとう、ヴリトラ! 作戦通りだね! ヒック!」
「・・・おぬし、何をしておったんじゃ。大丈夫か?」
「だいじょーぶ! さあ、行こー行こー!」
ヴリトラを急かして私たちは格闘場に入った。中央に作られた仮設の表彰台にヴリトラが昇ると、満員の観客から万雷の拍手と歓声が贈られた。私は表彰台の下から彼女を見守る。拍手が波の音みたいに聞こえて、なんだかとってもいい気持ちだ。
ヴリトラの準備が終わると格闘場に続く扉が開いて、立派な服を着た男の人がたくさんのお供の人を引き連れて姿を現した。
先頭に立っている立派な服の人がきっとエッポさんだろう。彼の身長は男の人にしては驚くほど低かった。多分エマと同じくらいじゃないかと思う。
体格もどちらかというと貧弱な感じであんまり強そうには見えない。その彼が胸を反らし、ふんぞり返って歩く姿はなんだか痩せたアヒルの王様みたいで、私は思わずけらけらと笑ってしまった。
私が笑っているのに気が付いたのか、エッポさんは私の方をじろりと睨んだ。すると彼の後ろにいたお供の一人が私の方を指さして叫んだ。
「て、テメエは!! イゾルデのところのまじない師!!」
その人は私から銅貨を騙し取った、額に大きな傷を持つあの男の人だった。エッポさんは彼を呼び寄せ、私のことを尋ねた後、甲高い大きな声で叫んだ。
「やっぱりそうか! お前らなんか仕組んでやがったな!! イカサマだ!! この試合は全部イカサマだぞ!!」
拡声の魔道具で大きくなった彼の声が場内に響くと、観客の人たちは「どういうことだ?」と顔を見合わせ始めた。でもそのうち誰かが「ヴリトラ!」と叫んだのをきっかけにして、会場内の人たちが一斉に彼女の名前を連呼し始めた。
会場をぐるりと見回したヴリトラは、表彰台の上からエッポさんを見下ろして言った。
「どうやらこの者たちはそうは思っておらぬようだ。見苦しいぞ、エッポとやら。おとなしく賞金を渡せ。」
するとエッポさんは火が付いたように彼女に怒鳴り返した。
「やかましい、俺を見下ろすんじゃねえ!! テメエらこっから生きて帰れると思うなよ!!」
彼の言葉を合図にお供の人たちが武器を構え、表彰台の周りをぐるりと取り囲む。それを見た観客たちは一斉に抗議の声を上げ始めた。
ヴリトラは表彰台の上から手を伸ばして私の手を掴むと、私を台に引っ張り上げた。彼女は私の腰に手を回して自分の体にぎゅっと抱き寄せた。私は少し眠たくなっていたので、彼女の背中にそっと自分の体を預けた。うーん、とってもあったかくて、このまま眠ってしまいそうです。
「ほう、我ら二人に歯向かうというのか?」
ヴリトラが余裕たっぷりにそう言うと、エッポさんはものすごく怒った様子でキイキイと叫んだ。
「うるせえ! おい、魔獣調教師たちに魔獣を全部出させるんだ!!」
格闘場の内側に作られた鉄格子が開き、中から様々な魔獣たちが姿を見せた。どの魔獣たちもとっても美味しそうだ。私は思わずぺろりと舌なめずりをして彼らに視線を向けた。
その途端、首輪と鎖で繋がれた魔獣たちは落ち着きを失くし暴れ出した。鎖を握った人たちが私に怯えて興奮する魔獣を抑えようと必死になっている。
私が側にいても逃げ出さないのは、あの首輪で縛られているからだろう。暴れる魔獣を観客の人たちは怖そうに見つめていた。
でもエッポさんは、魔獣たちが怯えているとは思わなかったようだ。彼は満面の笑みで魔獣たちを指さし、ヴリトラに向かって怒鳴った。
「見ろ! 魔獣たちもやる気十分で血に飢えていやがる! さっきまでは汚い手を使って勝てたようだが、今度はそうはいかねえぞ! 存分に思い知らせてやるからな!!」
「・・・ほう、どう思い知らせるというんだ?」
ヴリトラが腕組みしながら静かにそう言うと、彼は狂ったように笑いながら叫んだ。
「ははは、お前ら二人とも、楽に死ねると思うなよ! 散々に嬲った後、生きたまま魔獣の餌にしてやる!! お前らだけじゃねえ、お前らの家族も一人残らず殺してやるから覚悟しとけ!!」
それを聞いたヴリトラは彼に何か言おうとしたが、急に私が体を離したことでビクッと手を震わせた。
「ちょ、ちょっと、ドーラちゃん・・・!!」
私を引き留めようとする彼女をその場に残し、私は表彰台から飛び降りてエッポさんの前に立った。
ついさっき言った彼の言葉のせいで、私がそれまで感じていた気持ち良い感じはもうすっかり吹き飛んでいた。私はふつふつと沸き立つような怒りをぐっと抑えたまま、彼に尋ねた。
「・・・ちょっと確認させてください。今、家族も、って言いました?」
急に目の前に現れて問いかけた私に、彼は一瞬怯むような表情を見せた。でも固唾を飲んで成り行きを見守っている手下と観客の視線に気づき、彼は一際大きな声で私に向かって叫んだ。
「ああ、そうだ!! 動けなくなったお前らの目の前で一寸刻みにして殺してやるよ! 俺に恥をかかせた報いを受けさせてやる!!」
彼がそう叫んだ瞬間、私の後ろでヴリトラが「あちゃー」と小さく呟くのが聞こえた。
「私の家族を・・・殺す?」
エマを、マリーさんを、フランツさん一家を殺すって言ったのか?
このゴミくずが? 私の大切な人たちを傷つけると?
あまりにも激しい怒りで一瞬、視界が昏くなったような気がした。私は必死に息を止め、今すぐにでもこのゴミを消し飛ばしてしまいたいという衝動を懸命に抑えた。
私の怒りに応えるかのように、ドンという激しい地鳴りと共に大地が大きく震えた。それを合図に格闘場にいた魔獣たちは死に物狂いで鎖を振りほどき、少しでも私から離れようと観客席に飛び込み始めた。
地鳴りと魔獣の暴走により格闘場は大混乱に陥った。このままではケガ人が出る。私は格闘場全体を自分の魔力で包みこみ、目の前の小男を除くその場にいた全員を《集団安眠》の魔法で眠らせた。
深い眠りに落ちたことで、魔獣も人も折り重なるようにその場に倒れていく。私は目の前で呆然と立ち尽くす小男に近づいた。信じられないという顔で辺りを見回していた小男は、へたり込むようにその場に座り込むと、私から遠ざかるため必死に地面を這い始めた。
私は逃げる小男の首根っこを右手で掴み、そのまま持ち上げた。
「ゆ、許してください、謝りますからこのとおり・・ぎゃあああぁ!!」
目の前で命乞いする小男の横面を私は平手で軽くはたいた。彼は口と鼻から盛大に血を噴き出した。さらに一発、そしてもう一発。
目がくらむような怒りを抑えるため、私は彼の顔を軽く叩き続けた。
「・・・-ラちゃん、ドーラちゃんってば!!」
ヴリトラに強く肩を揺さぶられ、私はハッと気が付いた。
「あれ、私、一体何を・・・?」
「もうそのくらいにしてあげて? ね?」
彼女に言われて私は初めて、自分が左手で掴んでいる誰かのことに気が付いた。びっくりするぐらい顔が腫れあがったその人は完全に意識を失っていた。
「た、大変!! すぐに治療しなきゃ!!」
私はその人を石の床に横たえると懐から上級回復薬を取り出し、血塗れになったその人に振りかけた。たちまち腫れが引いて、顔が元通りに戻る。
あれ、この男の人どっかで見たことがあるぞ? 誰だっけ? うーん?
お酒を飲み過ぎたせいかよく思い出せない。果実水を飲んだ辺りまでは何とか覚えてるんだけど・・・。
私がその顔をじっと見降ろしていたら、やがて彼が意識を取り戻した。でも彼は私の顔を見るなり「ひいい!! もう絶対に悪さはしませんからぁ!!」と叫んで逃げ出し、あっという間にいなくなってしまった。
「?? 一体何がどうなってるの?」
私がそう尋ねるとヴリトラはクックっと可笑しそうに笑って「イゾルデのところに帰ってからゆっくり話してあげるよ、ドーラちゃん」と言った。
訳が分からないながらも私はヴリトラと一緒に会場の後片付けをすることにした。
まずは眠っている魔獣たちを二人で格闘場の奥にある鉄格子の中に放り込む。眠っている魔獣たちは皆、とっても美味しそうで本当は食べてしまいたかった。私とヴリトラはよだれを我慢しながら、何とかその作業を終えた。
次にヴリトラは表彰台の周りで寝ていた人たちを格闘場の控室の小部屋に放り込み、扉にしっかりと鍵をかけた。その中には私の銅貨を騙し取った額に傷のある男の人もいた。私は眠っている彼からこっそりと自分の銅貨を回収しておいた。
「うむ、これくらいでよいであろう。目的は果たした。ドーラ、引き上げようぞ。」
私たちは格闘場を出て、イゾルデさんの娼館に戻ることにした。
格闘場を後にする前、私は会場にいる人たちにかけた《集団安眠》の魔法を解いた。いつ魔法を使ったのかも覚えていないので、なんか少し変な気分だ。目を覚ました人たちは何があったのかと不思議そうな顔で辺りを見回している。
「本当にこのまま帰って大丈夫なの、ヴリトラ?」
私がそう尋ねると、ヴリトラは「うむ」と大きく頷いた。
「敵の首魁は逃げ去り、奴の仲間たちも排除したからな。あとは人間どもがいかようにでもするだろう。その後のことの相談も兼ねて、イゾルデに事の顛末を報告しようではないか。」
「そうだね、そうしよう!」
その後、娼館へ戻ったヴリトラは、イゾルデさんに格闘場であった出来事を面白おかしく話して聞かせた。そん時に私は酔っぱらって記憶がなくなっている間のことを聞かされ、赤くなったり青くなったりすることになった。
ものすごく危なかった。また怒りに任せて格闘場を灰にしなくて本当によかったよ。でも一応、ぎりぎり自制心が働いてたみたいだし、私も少しだけ成長したって事かもしれないね!
エールを飲みつつ(私は果実水だけど)ヴリトラが話を終えた頃にはすでに、東の空が少しずつ白み始めていた。私たちはごちそうになった飲み物のお礼を言って娼館を後にした。
「あんたたちが無事で何よりだったよ。なんか大変なことになったみたいだけど、後はあたしらが何とかするさ。二人とも、本当にありがとうね。」
別れ際、イゾルデさんは私たちにお礼を言ってくれた。上り始めた朝日を受けながら、私はヴリトラに尋ねた。
「この後、どうするの? 私と一緒にハウル村に来る?」
「いや、我は一度、闇の領域へ戻る。あまり長く遊び歩いておるとイルァツメがうるさいからな。ではまた近いうちに会おうぞ。」
彼女がそう言って目を瞑ると、彼女の姿は朝の光に溶けるように掻き消えた。彼女が複製体の操作を止めて、竜の体に戻ったからだろう。
複製体として竜の体から離れていられる時間は3日ほどが限度だと彼女は言っていた。それ以上になると複製体を維持できなくなるらしい。この魔法(?)、思った以上に魔力をたくさん消費しているのかもしれないね。
ちなみに彼女の複製体は消えた場所付近に再び現れることができるらしいので、しばらくしたらまた王都で会うことが出来そうだ。
私はあらかじめかけておいた《警告》の魔法で、エマの居場所を確かめた。エマは王都の西、すぐ近くの森の中にいるみたいだ。きっと魔獣探索のために野営をしているところなのだろう。
たしか実技試験は3日間って言ってた気がする。流石に今日はまだ戻ってこないよね。早くエマが戻ってくるといいなあ。
私はエマがいない今日一日をどう過ごそうかと考えた。そうだ。この時間ならそろそろマリーさんが朝食の準備を始めているはず。私も一緒に手伝わせてもらおうっと。
村へ《転移》をする前、私はふと思いついて自分の長衣をふんふんと嗅いだ。お酒とタバコの煙、それに香水の移り香がかすかにする。
私はすぐに《消臭》の魔法を使ってそれらの臭いを念入りに消した。そして今日のことがどうかマリーさんにバレませんようにと祈りながら、《転移》の魔法を使ってハウル村へと移動したのでした。
読んでくださった方、ありがとうございました。