7 隔離農場
新規エピソードまで辿り着かない。宿題を溜めてしまった時の気持ちです。自業自得なのですが。
エマたちの部屋の掃除などをしているうちに、あっという間にお昼ご飯の時間になった。少し早めに授業を終えたニーナちゃんとゼルマちゃんに続き、エマとミカエラちゃんが戻ってきたので皆で食堂に向かう。
その道すがらエマが午前中の授業について皆に話をしてくれた。
「グレッシャー先生、すごく厳しかったよ。でも、とってもいい先生だなって思った。」
「グレッシャー先生ってあの『氷のレイエフ』ですわよね? 色々な噂がありますけど、いい先生っていう話は初めて聞きましたわ。」
ニーナちゃんが興味深げに目をクルクルさせながらそう言った。ゼルマちゃんはその先生のことを良く知らないみたいで、面白そうな顔をして皆の話を聞いている。
「その『氷のレイエフ』さんは有名な先生なの?」
私がそう尋ねると、噂好きのニーナちゃんが嬉しそうに話し始めた。
「グレッシャー領は王国北西部にある中領地です。グレッシャー先生は現当主であるグレッシャー子爵の弟さんだそうですよ。」
グレッシャー領は西をバルス山脈、北をファ族の住む平原に面しているという。山から流れ出るきれいな水が豊富で、沢山の泉や沼、湖があるとても美しい場所だそうだ。土地は起伏に富んでいて麦などの作物が育たない。代わりに緑がとても豊富で、ヤギや羊などの家畜がたくさん飼われているらしい。
またリンゴや梨、ブドウなどの果樹栽培が盛んで、それを使った美味しいお酒がたくさん造られることでも有名なのだとか。いいなあ、お酒。私もグレッシャー領に行ってみたいなあ。
「グレッシャー先生は成人してからずっと王国北方を守護する砦に魔導士として勤務し、長年山賊や魔獣と戦っていたらしいです。でもある魔獣との戦いで体を壊し、第一線を退かれたと聞きました。魔導師団を引退された後、王のたっての頼みで王立学校の教師の職に就かれたそうですわ。」
「そうなんだ。先生があんなに厳しいのは魔導士として戦っていらっしゃったからなんだね。」
エマはうんうんと頷きながらそう言った。そう言えばエマの冒険の先生だったガレスさんも、エマやディルグリムくんが危ないことをしたときには、物凄く怒っていたっけ。
ガレスさんは戦いで目を一つ失くしているし、エマたちには同じ思いをさせたくないって気持ちが強かったんだと思う。そのレイエフ先生もガレスさんと同じ気持ちなのかもしれないね。
嬉しそうな様子なエマに対し、ニーナちゃんはちょっと困ったような顔をして言った。
「グレッシャー先生は術師クラスの授業だけを担当していらっしゃるので、私は直接お会いしたことはありません。でも術師クラスにいる女生徒たちはグレッシャー先生のことを物凄く嫌っていますよ。嫌味で底意地の悪い先生だっていう噂が、私の耳にも入ってきてるくらいですから。」
「うん、先生の授業はものすごく厳しかったもん。その気持ちは分かるよ。私もかなり問い詰められたし。」
「え、そうなのエマ!?」
頑張り屋のエマに意地悪する先生がいるなんて思わなかった。エマをいじめるような先生なら、私がやっつけちゃおうかしら。私がそう言うとエマは笑いながら首を振った。
「大丈夫だよ、お姉ちゃん。先生は厳しいけど間違ったことは一つもおっしゃらなかったもの。それに先生に比べたらお師匠様の格闘指導の方がずっと厳しいし、怒ったお母さんの方がずっとずっと恐いと思うよ。」
テレサさんの指導は何事も『拳で語る』やり方だし、マリーさんが怒った時は夢に見るくらいものすごくおっかない。マリーさんに怒られたときのことを思い出し、私は首の後ろの毛がざわざわと波打つのを感じた。
ミカエラちゃんが苦笑しながら言った。
「エマちゃんはハウル村で他の子たちと一緒に生活してたから、先生のことをあまり厳しいとは感じないのかもしれないね。でも術師クラスの生徒はほとんどが中級以上の貴族の子女ばかりでしょ。先生の言葉が余計に辛辣に思えるのかもしれないわ。」
「そうですわね。皆さん、王国貴族家の中でも上位に位置する方々ですもの。これまで家族や家庭教師から厳しいことを言われたことなどほとんどないはずですわ。」
ミカエラちゃんに同意するように言ったニーナちゃんの言葉にゼルマちゃんもうんうんと頷いている。
「貴族の中だけで生活しているとなかなか気付かないものですよね。私も今まで父や兄たちから剣術や槍術を学んできましたが、やはり女子だということで手加減されていたのだと思います。カール様に指導を受けるようになってから、特にそれを感じるようになりました。」
ゼルマちゃんがリアさんの方を見ながらそう言うと、リアさんは「カール様は良くも悪くも分け隔てのない方ですから」と言って軽く頭を下げた。
そこでちょうど食堂に着いたので、その話は一旦おしまいになってしまった。すでに席についていた技能クラスの女の子たちがエマに笑顔で挨拶をしてくれる。エマもその子たちに笑顔で挨拶を返していた。
私はエマの後ろについて食事の給仕を頑張った。久しぶりだったのでちょっと戸惑ってしまったけど、周りの侍女さんたちに助けてもらいながら、何とか問題なく食事を終えることができた。
午後からエマたちは寮の同じ階の女の子たちと一緒に談話室に行き、お互いの冬の様子を話し合うことになった。何でもエマの所属する無属性魔法研究室のベルント先生が留守で、研究室がお休みになってしまったかららしい。
私もエマと一緒に談話室へ行って話を聞きたかったのだけど、リアさんから「ドーラ様はご遠慮ください」と言われてしまった。
私がその場にいれば、ハウル村で起きたことを女の子たちに聞かれるかもしれないからだ。うまくごまかせればいいのだろうけど、私は嘘やごまかしが上手ではない。万が一秘密が漏れたら大変だもんね。
だから私はリアさんにエマのお茶の給仕をお願いして寮を離れ、王都東門の外に作られた農場に向かうことにしたのでした。
いつもの目立たないまじない師の長衣と半仮面姿になった私は、《不可視化》の魔法を使って姿を隠し東門の農場に《転移》で移動した。転移先は農場の隅に作られた農具小屋の裏だ。
春の日が降り注ぐ農場には青々とした草が茂り、ヤギたちが忙しなくその草を食んでいる。私が《不可視化》の魔法を解除すると、しきりに地面を掘り返していたニワトリたちが驚いて逃げ出した。
私はニワトリたちに「ごめんね」と声をかけながら東門の側にある農場の管理事務所に向かった。王都は大変な被害を受けたと聞いていたけれど、農場の畑や牧草地を見る限り特に被害を受けた様子はないようだ。
そういえば被害が大きかったのは街道に通じる西門、南門周辺と川港地区だったってニーナちゃんは言っていた。この農場はめったに人が通らない東門の外側だし、被害が少なかったのかもしれないね。変わりない農場の様子を確かめながら、私はホッと胸を撫でおろした。
でもしばらく歩いているうちにおかしなことに気が付いた。農場の中に人がいないのだ。いつもなら草取りや堆肥作りなどに精を出しているはずの貧民街の人たちの姿が全く見えない。
よく見ればジャガイモや豆の畑の周りは草だらけだ。何日も放置されたままになっているみたい。働いていた人たちは一体どこに行ってしまったんだろう。
もしかして農場で働いていた貧民街の人たちに何かあったのだろうか。王都では大規模な火災や爆発があちこちで起きたという。ひょっとして貧民街でも大きな火事が起きて、みんな死んでしまった・・・?
私の胸に黒いシミのような不安が広がり、背中にゾッと寒気が走った。一刻も早く確かめに行かないと!
私は長衣の裾が乱れるのも気にせず駆け出した。ジャガイモ畑に鼻先を突っ込んで芋を掘り出そうとしていた豚たちが私に驚いて四方に逃げ去って行く。
誰もいない農場を一気に駆け抜けた私は、飛びつくように管理事務所に通じる東門横の通用口の扉へ手をかけた。
「ドーラさん!? おい皆、ドーラさんが来てくれたぞ!!」
私が扉に着くのと同時に、東門の見張り台の上から声が上がった。それに応えるように多くの人の声が東門の向こう側から聞こえる。私に気付いて声を上げたのは顔見知りの衛士さんだった。彼はすぐに門の内側にいた仲間に声を掛け、通用口を開いてくれた。
「おお、ドーラさん!! ちょうどいいところに来てくださいました。これも大地母神様のお導きに違いありません。」
私が扉をくぐると、貧民街にある大地母神殿の祈祷師さんが私に駆け寄り、祈りを捧げ始めた。彼の後ろにはたくさんの衛士さんたちと魔術師さん、それに農場の管理を任されているカフマン商会の代理人さん、そしてルウベ大根を育てることに夢中になって自分の農場を失くした農夫のノーファさんが立っている。
私は周囲を見渡し、農場で働いていた貧民街の人たちを探したが、彼らの姿は見当たらなかった。私は代理人さんに駆け寄ると、顔をぐっと近づけて彼に尋ねた。
「代理人さん、農場に人がいませんでした! 貧民街の皆さんはどこにいるんですか!? まさか・・・!」
「ちょ、ちょっとドーラさん! 落ち着いてください!」
私がすごい勢いで詰め寄ったせいで、普段は冷静な代理人さんが珍しく声を上げ両手で私を制した。私はハッと我に返り彼に「すみません」と謝った。
彼は急に動いたせいで乱れた衣服を直すと、いつものように落ち着いた表情で私に言った。
「ご心配には及びませんよ。東門の貧民街ではほとんど被害が出なかったんです。住民たちはみんな無事ですよ。」
小火騒ぎなどがあったものの人の被害は全くなかったと彼が教えてくれた。ホッとして体の力が抜けた私は、大きく息を吐き出した。
「でもそれならどうして農場に人がいなかったんですか?」
「実はそのことでちょうどドーラさんに連絡を取れないかと思案していたところだったんですよ。」
代理人さんは困った顔をして私にそう言った。隣にいるノーファさんは土気色の顔で茫然と立っている。彼は憔悴しきっていて、今にも倒れてしまいそうに見えた。
私はノーファさんに声をかけようとした。でもそれを遮るように代理人さんが話し始めた。
「実は冬の間、王都全体が襲撃事件の後始末に追われていたせいで、ドーラさんが作ってくださったあの隔離農場の点検ができなかったんですよ。」
隔離農場というのは農場の南東の隅にある、石造りの壁を巡らした畑のことだ。その中で私はルウベ大根とスクローラ草という危険な植物を栽培する実験を行っていた。
ルウベ大根は別名『飢饉大根』とも呼ばれる作物で、腐蝕地虫という土地を腐らせる魔虫を呼び寄せる非常に厄介な大根だ。ルウベ大根自体は無害でとても美味しいんだけどね。
スクローラ草は『死の揺り篭』の異名を持つ猛毒草。物凄く甘い花蜜が採れるのだけれど実はこの蜜は猛毒で、花の香りを嗅いだだけでほとんどの生き物は幻覚や頭痛を起こし、やがて昏睡状態に陥ってしまう。
ルウベ大根はノーファさんが、スクローラ草はエマとベルント先生がそれぞれ栽培実験をしたがっていたのだけれど、どちらも危険すぎて普通の農場では栽培できない。だから私が《領域創造》の魔法で結界を作り、周囲の空間から隔離した農場で栽培をしていたのだ。
農場の管理も当然普通の人には出来ないので、私が魔法でやっていた。ガブリエラさんが残してくれた様々な魔法薬や試薬を使って安全に育てられるようになる環境を調べていたのだ。
どちらも万が一農場から外に出てしまったら甚大な被害が出る植物なので、育てるために王様から特別な許可をもらっている。その代わりに王様が派遣する魔術師さんと祈祷師さんが定期的に点検をすることになっていたのだけれど。
その点検が王都襲撃のせいで出来なかったらしい。
「先月の終わり、今から6日前ですがやっと魔術師たちが派遣されてきたんです。でも農場の周りを調べに行った彼らが、泡を喰って逃げ帰ってきたんですよ。」
農場を隔離していた私の《領域》が消えてしまっており、石壁の周囲にスクローラ草の甘い香りが漂っていたというのだ。
「魔術師たちは《毒除け》の魔法を使っていたので無事でした。でも農場で働いている連中はそうはいきません。被害が広がるといけないと思い、すぐに全員を避難させ農場は閉鎖しました。」
農場で働いていた貧民街の人たちは今、王都の復旧作業を手伝っているという。王都南門周辺の被害は甚大で、人手はいくらあっても足りないらしい。そのおかげで農場で働けなくなっても、貧民がの人たちがすぐに生活に困ることはなかったそうだ。
「問題なのは隔離農場の方なんですよ。中が一体どんなことになっているか想像もつきません。」
代理人さんは弱り切った表情でそう言った。それを聞いたノーファさんはますます俯いてしまった。今にも崩れ落ちそうだ。
私は二人の様子を見て胸が痛くなった。原因は間違いなく私がハウル村の襲撃で眠り込んでしまったせいだからだ。私のそんな思いを察したかのように、代理人さんが言った。
「今度の襲撃は誰にも予想できるものではありませんでした。誰のせいでもないのです。」
その言葉を聞いたノーファさんは弾かれるように顔を上げた。
「だが、だが私が、おかしな夢に憑りつかれなければ・・・。もし農場に被害が出たらその時には私が・・・。」
熱に浮かされたように呟くノーファさんを代理人さんは「おい、おかしなこと考えないでくれ」と叱りつけ、私に向き直った。
「ちょうどこれから隔離農場の中を確かめてみようって話になっていたんです。王立調停所を通じて王立学校にも応援を頼んであります。ドーラさんも一緒に来てもらえませんか?」
「もちろんです! というか、皆さんが行くのは危険すぎますよ。私が一人で様子を見てきます!」
私には一切の毒が効かない。様子を見るだけなら私が行けば十分。でも代理人さんはすぐにそれを否定した。
「いえ、ドーラさんに万が一のことがあればそれこそ取り返しがつきません。それに腐蝕地虫が繁殖していたら穢れた土地を浄化する必要もあります。ここにいる祈祷師様たちと我々も同行します。」
代理人さんはきっぱりとそう言った。正体を明かすわけにいかないから、毒の効かない理由を説明できないのがもどかしい。でもみんなを危険な目に遭わせるのは嫌だ。私と彼の主張は食い違い、結局押し問答のようになってしまった。
「ならば石壁の外まで全員で行き、農場内をドーラさんに確かめてもらえばよかろう。何かあればすぐに助け出せばよい。私が全員に《毒除け》の魔法を使おう。」
言い争う私たちに向かってそう声を掛けたのは、王立学校のベルント先生だった。王立学校から来る応援っていうのは、ベルント先生のことだったらしい。無属性魔法研究室がお休みだったのはこのせいだったのか。
「ゴルツ学長、お忙しい中ご足労いただきまして、本当にありがとうございます。」
代理人さんを始め、その場にいた衛士さん、祈祷師さんたちがベルント先生に膝まづく。そう言えばベルント先生は貴族だったね。私も慌ててその場に跪いて頭を下げた。先生は私たちに頭を上げさせ言った。
「スクローラ草栽培実験の責任者は私だから来るのは当然だ。陛下からの正式な要請も受けておる。其方らが恐縮する必要はない。」
ベルント先生は私たちを立たせると、さっき自分で言ったように様子を見に行く人たちを選び出し、全員に《毒除け》の魔法をかけた。
「ドーラさんにもお願いできるかな?」
私は先生に言われた通り、先生の魔法の上からさらに思いっきりの魔力を込めて《毒除け》の魔法をかけた。先生はそれを確かめ、満足そうに頷いた。
「流石はエマくんの姉上殿。見事な魔法だ。だが花蜜の毒はこの魔法でも完全に防ぐことは難しい。農場内で行動できる時間は限られるであろう。皆、気を引き締め素早く行動するように。」
この場で最も身分の高い先生が積極的に指示をしてくれたおかげで、私たちはすぐに行動を開始することができた。
私を先頭にベルント先生、魔術師さんと祈祷師さんたち、衛士さんたち、そして代理人さんとノーファさんが一塊になって隔離農場に向かって歩いて行く。
隔離農場の周囲には私の背丈の2倍ほどの石壁に囲まれているので、ここからでは中を見ることができない。けれど空気の中にうっすらと甘い香りが漂っていることを、その場の全員がすぐに感じ取った。
私たちは唯一の出入り口である金属製の扉の前に立った。ここは荒野の只中と言っていいほど東門の農場から離れている。すぐ南側では野生の六足牛たちがのんびりと草を食みながら、私たちの様子を興味深げに窺っていた。
「では扉を開きます。皆さんは離れていてください。」
私は《領域創造》の魔法を使って農場の石壁をすっぽりと覆う目に見えない壁を作り出した。事前に打ち合わせていた位置まで皆が下がったのを確認して、一部分だけ領域を解除し扉を開ける。スクローラ草の花蜜が発する甘い香りが一気に私に向かって流れてきた。
農場内は一面緑に覆われていた。青々と葉を伸ばす大根の陰、そこかしこに青紫色の可愛らしい花が見える。この花がスクローラ草だ。
冬が来る前までは植物が混ざり合わないよう二つの畑の間に《領域》の壁を作っておいた。でも私が眠ったことでそれがなくなり、植物は互いの住処を侵食しあってしまったようだ。
祈祷師さんに事前にお願いされていた通り、私は畑の土を慎重にスコップで掬い取るとそれを小さな壺に入れ、扉を閉めて皆のところに戻った。
「土を持ってきましたよ。」
「ありがとうございますドーラさん。土に触れませんでしたか? 腐蝕した土に触れると穢れが元で病気になることがあるのです。」
祈祷師さんは私の手を見ながら心配そうに尋ねた。
「はい。気を付けて作業をしましたから大丈夫ですよ。それよりも聞いていたような感じとはだいぶ違ったんですけど・・・?」
私はそう言って壺に入った土を祈祷師さんに見せた。
「!! この土は全く腐蝕していない! それどころか大地の恵みに溢れています!!」
祈祷師さんが驚いて声を上げる。それを聞いた途端ノーファさんが奇声を上げて突然走り出し、農場の扉を開けて中に飛び込んでいった。
「い、いかん!! 中は花蜜の毒で溢れているはずだ!!」
ベルント先生の叫び声で皆が動き出すよりも早く、私はノーファさんを追って農場に飛び込んだ。ノーファさんは地面に手をついて四つん這いになり懸命に体を動かしていた。
「ノーファさん、大丈夫ですか!?」
ノーファさんに声をかけたが、彼は振り返ることもせず一心不乱に手で固い土を掘り続けていた。やがて土から丸々と太った赤紫色のルウベ大根の実が姿を現す。彼はその大根の株に縋りつくと、おいおいと声を上げて泣き始めた。
「同じだ!! あの冬とまったく同じだ!! やったぞ、ついに同じことが起こったんだ!!」
私がどうしたらいいかとオロオロしていたら、ベルント先生たちも中に入ってきてくれた。
「うむ、花蜜毒は石壁に阻まれてこの中に留まっていたようだな。拡散しなかったのは何よりだが、ここは毒がかなり濃い。これ以上ここにいるのは危険だ。すぐに外に・・・。」
そう言いかけたベルント先生の言葉に重ねるように祈祷師さんが声を上げた。
「見てください!! ルウベ大根がこんなに育っているのに腐蝕地虫が一匹もいない! 奇跡だ!!」
祈祷師さんの言う通りだった。農場を埋め尽くすように広がったルウベ大根の周りには、私が見ても分かるくらい元気のよい土で一杯になっていた。
いろいろなことが起こりすぎて私たちはすっかり混乱してしまった。でも代理人さんとベルント先生が的確な指示を出してくれたおかげで、壺いくつか分の土とルウベ大根を数本採って無事に農場から脱出することができた。
心配された花蜜毒も《毒除け》の魔法の効果と滞在時間が短かったことが幸いして、ノーファさんと衛士さんの一人が軽い吐き気に襲われるだけで済んだ。
私は興奮するノーファさんを農園管理事務所の控室に運んで簡易寝台に寝かせ《安眠》の魔法で眠らせた。私が皆のところに戻った時、代理人さんはちょうど衛士さんや祈祷師さんたちに話をしているところだった。
「腐蝕地虫がいなかったのは本当によかったです。花蜜毒についてはドーラさんが魔法で封じてくれていますし、とりあえずは一安心というところですね。明日にでも農場を再開することができそうです。各所への報告はこの後、私と配下の者でいたします。皆さん本当にありがとうございました。」
今回の任務に参加した人たちにはカフマン商会から追加の謝礼が支払われるそうだ。それを聞いた衛士さんたちは嬉しそうな顔で目線を交わし合っていた。
代理人さんは皆を解散させた後、後に残ったベルント先生と私に言った。
「ゴルツ学長、ドーラさん。腐蝕地虫が発生しなかったのは、やはり花蜜毒のせいなのでしょうか?」
どうなんだろう。私はベルント先生に視線を向けた。先生は銀色の片眼鏡を直しながら、代理人さんに言った。
「調べてみるまでは何とも言えないな。今後、私の方で研究を引き継がせてもらおう。はっきりとした結果が出るまでこの件は・・・。」
「心得ております。陛下と一部の関係者を除いては他言無用ということで。」
どうやらルウベ大根のことは皆には内緒のようだ。私は不思議に思ってその理由を尋ねてみた。
「それはですねドーラさん。これが王都領が長年抱える悩みを解消するきっかけになるかもしれないからですよ。」
代理人さんの言葉にベルント先生も黙って頷いた。王都領の悩み。それは『食糧の自給問題』なのだそうだ。
王都領は深い森に囲まれているため耕作面積がとても少ない。ところが王国の根幹ともいえる魔法技術産業は王都に集中している。
王都を運営するためにも外敵から守るためにも多くの人手が必要だ。そして人が集まる場所には新しい仕事を求めて、さらに多くの人が集まるようになる。そのため王都領は常に食糧不足に悩まされてきたのだという。
これまで王都領では不足した分の食糧を他領からの買い入れに頼るほかなかったのだ。
「ですがルウベ大根を安全に育てられるとなれば、それがかなり解消されます。少なくとも冬に餓死するものを大きく減らすことができるでしょう。」
「それは最高ですね!! じゃあすぐ多くの人に知らせた方がいいんじゃないですか?」
私がそう言うと、先生が苦笑しながらそれを否定した。
「いや、そう簡単にはいかんよ。この試みの見返りは大きいが、危険も計り知れない。おいそれとやり方を広めてしまっては、欲につられて不完全な状態で栽培を始める者が出ないとも限らんからな。」
ふむふむ、言われてみればその通りだ。ルウベ大根もスクローラ草もかなり危険な植物にも拘らず、森や野原を探せば比較的に簡単に入手出来てしまう。今回の結果だけを聞いて、うっかり街に持ち込まれでもしたらそれこそ目も当てられないよね。
今回採取した土とルウベ大根はベルント先生が王立学校に持ち帰り、調べてくれることになった。きっとエマと一緒に研究をするつもりに違いない。よし、エマにお願いして私も手伝わせてもらおう!
代理人さんとベルント先生が今後のことを話すのを聞きながら私は、ルウベ大根を抱きしめて泣いていたノーファさんの姿を思い出した。今回のことがうまくいったら、ノーファさんの長年の夢が叶うかもしれない。
冬の間、食べ物が足りなくて困っている人はもちろん、麦を育てられないような痩せた土地でも作物が作れるようになるだろう。本当に素晴らしいことだ。
人間の時間は短い。でもその短い時間の中でも人間は大きな夢を抱いている。そして誰かの夢が他の誰かの希望になる。そうやって人間たちは自分たちの世界をよりよく変えていく。
滅びることも死ぬこともない私たち竜は、世界を変えようなんて思わない。私たちはおそらくこの世界が終わるその時まで、世界と共にあり続けるからだ。その意味では私たちは世界そのものと同じと言えるかもしれない。
世界を変えるのは誰かの幸せを願う人間の気持ちなんだと、私は思った。それが夢となり、希望となり未来へと繋がっていく。なんて素敵なんだろう。
私もその夢に少しでも関われたらいいな。そう思いながら私は薄雲のかかる明るい春の空を見上げたのでした。
読んでくださった方、ありがとうございました。