閑話 希望の匂い
閑話です。本編とは全く関係ありません。書いててすごく楽しかったです。次回は60話の後日譚、その後は小さいエピソードを少しずつ書いて行こうと思っています。
薄明りの射す地下道の中を悲鳴のような音を響かせながら、凍てつく北風が通り抜けていく。あたしは朦朧としたまま、少しでも体を温めようと骨の浮いた手足をぎゅっと体に引き寄せた。
襤褸同然の麻の服でも、いつもならこうすることで多少は寒さを防ぐことができる。だけど冷たい石畳の上に放り出した手足はすでに氷のように冷え切っていて、全然体が温まらなかった。
寒い。ひもじい。痛い。いろいろな思いがぼんやりとした意識の中に浮かんでは消えていく。
最後に物を口にしたのはいつだったかな。もう思い出せないや。頭の中に白い靄がかかったみたいになっていて、考えることすら億劫だった。
そうしているうちにだんだん眠たくなってきた。それにつれてそれまで感じていた寒さや痛みが薄らいでいく。
ああ、なんだかとってもいい気持ちだ。女神様の御使いがやっとあたしを迎えに来てくださったのかもしれない。
耳元で小さな足音とちいちいという鳴き声がする。きっとこの地下道に棲むネズミたちだ。あたしの魂が天に召されたら、残された体をこの子たちがきれいに始末してくれるだろう。
捨てられた食べ物を分け合う仲間だったこの子たちに、最期の贈り物をしてあげられるのだと思ったらなんだかとても愉快な気持ちになった。
「・・女神・・様・・・のお恵み・・が・・あります・・ように。」
かすれた声で祈りの言葉を唱えたら、すごく気持ちが安らかになった。あたしはゆっくりと目を瞑った。冷たい白い靄に覆われていた視界がだんだんと暖かな闇に包まれていく・・・。
その時、縮めた足の方からドシンドシンと振動が伝わってきた。振動は一定のリズムでこちらに近づいてくる。これは誰かの足音?
あたしの周りにいたネズミたちが慌てて逃げだしていったかと思うと次の瞬間、あたしは髪を掴まれてグイっと顔を持ち上げられた。
「・・・チッ。もうくたばりかけてやがる。」
霞む視界の向こうであたしの顔を覗き込んだ誰かがそう言った。よく響く低い声。魔獣に食べられて死んだ父さんの声に少し似ている。
その人は掴んでいたあたしの髪を乱暴に手離した。あたしは無意識のうちに顎を引き、頭が石の床に叩きつけられるのを防いだ。
「・・・ほう。」
遠くで小さく呟くのが聞こえた。そしてその人はあたしにこう聞いてきた。
「おいガキ。死にたくなきゃ俺の手を取れ。出来るか?」
白い靄の向こうで大きな影があたしに手を差し伸べている。あたしはその言葉がとても煩わしかった。
あたしはもう眠りたい。寒いのも、痛いのも、ひもじいのも嫌。女神様のところへ行くのだから、どうかこのまま放っておいてほしい。
だけどそんな気持ちとは裏腹に、あたしの体は生きることを諦めていなかったらしい。気が付いたとき、あたしは残された力を振り絞って差し出された手を必死に掴んでいた。
次の瞬間、あたしは大きな手で体を抱え上げられた。あたしを抱き上げたその人は自分の着ていた外套であたしの体をくるむと横抱きに抱え、黙って歩き出した。
頑丈な腕の暖かさに包まれてあたしの体の力が抜けていく。あたしは厚い胸にそっと頭を預けた。
ああ、父さんと同じタバコの匂いがする。甘くて懐かしい匂いに包まれ大きな腕の中で揺られているうちに、あたしはいつのまにか安らかな深い眠りに落ちていった。
死にかけのあたしを助けてくれたのは、奴隷商人の男だった。頬に大きな傷を持つその男はレドという名で、あたしみたいな浮浪児を集めるのを生業としていた。いわゆる『人狩り』というやつだ。
レドは地下道から救い出したあたしを自分の住処であるオンボロの一軒家に連れ帰ったらしい。
らしいというのは、あたしにはその時の記憶がないからだ。救い出された直後、あたしはかなりひどい状態だったようで、何日も熱を出して生死の境を彷徨っていたらしい。
後になってその時のことを聞いてもレドは「うるせいぞ、クソガキ!!」って怒鳴るばっかりで、詳しく教えてくれなかった。あたしがそのことを知ったのは、あたしと同じように狩り集められた仲間がこっそり教えてくれたからだ。
「レドおじさんね、ミシュアのためにあちこちから卵や果物を集めてきては、一生懸命看病してたんだよ。」
くすくす笑いながらそう言ったのは、あたしより一つ年下の仲間の女の子だった。彼女もあたしと同じように魔獣に村を滅ぼされ、森の中を逃げまどっていたところをレドに捕まったらしい。
レドの家にはあたしと同じような子供が10人いた。来年の春で10歳になるあたしが一番年上で、一番小さい子は4歳。レドには女房がいなかったので仲間たちは協力して互いの面倒を見、家事をこなしながら生活していた。
レドはとても体が大きかった。少し白の混じった無精髭で顔が覆われている代わりに、頭には一本の髪もない。
恐ろしく無口で、仕事をさぼる子供や騒ぐ子供に対しては容赦なく拳を振るった。あたしを含め仲間たちはレドを怒らせないように、気を付けて過ごしていた。
ただ昼間のうちレドはほとんど外出していて、夜遅くに帰ってくる生活だったため、あたしたちは割とのびのびと生活することができていた。
狩り集められた奴隷同士にもかかわらず、あたしたちはいつの間にか姉弟のような関係になりつつあった。
レドの家での生活は決して豊かとは言えなかったが、少なくとも寒さや飢えで苦しむことはなかった。
これから奴隷として売られてしまうのだと分かっていても、あたしたちは誰一人としてレドの家から逃げ出したりはしなかった。
たとえ古くなった固いパンでも萎びた芋でも、毎日ちゃんと食べられるのがどんなに素晴らしいことかが、あたしたちは痛いほど身に染みていたからだ。
そんな暮らしにもかかわらず、彼はあたしたちを頻繁に水浴びさせた。
「おめえたちは大事な売りもんだからな。小汚ねぇ恰好じゃ値が下がっちまう。」
彼はあたしたちの頭を乱暴に洗いながら、口癖のようにそう言った。冬でもわざわざ湯を沸かして、あたしたちに体を拭かせた。時にはよい匂いのする石鹸を使わせることもあった。
この石鹼は王都領の辺境にあるハウルとかいう村で作られているそうだ。家族と一緒に暮らしている時でさえ、こんなものを使ったことはない。あたしの仲間たちもそれは同じだ。
それまで清潔に過ごすということを意識したことない暮らしだったが、あたしはレドと暮らすようになって身ぎれいにすることの大切さがなんとなく分かるようになった。
あたしを含め仲間たちはレドをとても慕っていたが、彼はそれを酷く嫌っていた。
「売りもんの分際で、俺に馴れ馴れしくまとわりつくな!!」
彼は必要最低限のかかわりを除いて、あたしたちのことを極力避けようとした。
でもあたしはレドが、眠っているあたしたちを起こさないようにこっそりと、毎晩あたしたちの寝床を見回っていることに気が付いていた。
身を寄せ合う仲間たちを無言で見つめ、乱れた粗末な夜具をそっと直すのが彼の日課だった。その時、レドはとても辛そうな顔をしていた。
レドの所で暮らし始めて半年が過ぎた頃、その男は突然やってきた。その時あたしはレドの家の狭い庭先で育てている鶏たちに、余った野菜くずをあげていた。
「お前、レドのところの奴隷か?」
「・・・そうだけど、あんたは?」
肉の付きすぎた豚みたいな顔をしたその男はあたしの答えを聞くと「ほうほう」と言いながら、あたしの体を舐めるように見回した。あたしはギラギラした男の目を見て、背筋がぞっとするのを感じた。
すぐにでもその場から逃げたかったが、もしかしたらレドの大事な客かもしれないと思たので、我慢してその場に立っていた。するとその男はいきなりあたしの服の裾を掴んで引き上げ、むき出しになった体をペタペタと触りはじめた。
あたしは驚いてその手を振り払った。
「何すんだ、この豚野郎!!」
「ヒヒヒ、相変わらずレドの奴隷は聞き分けがなってねぇなぁ。だがこれくらい元気のある方が躾甲斐があるってもんだ。」
豚野郎は豚そっくりの顔で嬉しそうに舌舐めずりすると、ふごふごと鼻を鳴らしながらあたしに組み付いてきた。
「ちょ、離せ、この野郎!」
豚野郎の腕から逃れようと抵抗するあたしの頬を、奴は思い切り引っ叩いた。自分の顔よりも大きい掌の一撃を食らって、一瞬頭が真っ白になる。口の中に鉄の味が広がった。
あたしは豚野郎の肩へ荷物みたいに抱え上げられた。ぼうっとした頭のまま、あたしは手足を必死に動かして豚野郎の体を蹴ったり叩いたりした。
でも細いあたしの手足をいくらぶつけても、奴の分厚い肉には何の効果もない。あたしは家の前から連れ出され、通りに止めてあった豚野郎の馬車に乗せられそうになった。
もうダメだと思ったその時、豚野郎が突然動きを止めた。
「おい、そいつを離せ。そりゃあ、俺の奴隷だ。」
不自由な体勢で顔を上げると、レドの禿げた頭がちょうど目の前にあった。レドは短剣を豚野郎の首に押し当てていた。
「レド!!助けて!!」
あたしは必死に助けを求めた。豚野郎は抱えていたあたしをレドに向かって放り投げた。レドは豚野郎を軽く突き飛ばして、あたしを器用に空中で受け止めた。
「久しぶりだな、レド。それにしちゃあ、随分なご挨拶じゃねえか。」
あたしをそっと地面に立たせたレドに向かって、豚野郎は嫌な笑顔でそう言った。レドは無言のまま短剣を構えている。あたしはただただ恐ろしくて、レドの大きな体の陰に隠れた。
「お前がなかなか奴隷を卸に来てくれねえから、俺の方からわざわざ買い付けに来てやったのさ。感謝してもらいてえもんだ。なあ、そうだろ相棒?」
豚野郎はニヤニヤ笑い、あたしの顔をじっと見ながらそう言った。レドは豚野郎を睨みつけ、唸る様な声で答えた。
「お前とは金輪際、取引しねえって言ったはずだ。」
すると豚野郎は呆れたように肩を竦めた。
「まだあの娘のことを怒ってんのか? ありゃあ運が悪かったんだよ。俺もまさかあの貴族にあんな趣味があるなんて知らなかったんだからなぁ。」
「・・・サラには墓も作ってやれなかったんだぞ。」
「ああ、酷い有様だったらしいな。だが死んじまった商品のことなんかいつまでも気にしたって、今更どうにもならねえだろう。それよりいい儲け話があるんだよ。そのガキ、俺に売ってくれ。な?」
豚野郎はそう言うと自分の懐に手を入れ、短い指で何かを取り出して地面に投げ落とした。
澄んだ音で立てて地面に転がったのは3枚の銀貨だった。きらきら光るその輝きに驚いて、あたしは一瞬それまでの恐怖を忘れてしまった。
銀貨3枚と言えばとんでもない大金だ。村で暮らしていた頃はもちろん、王都に流れてきてからだってこんなもの見たことがない。
あたしは金勘定ができないけれど、それがあたしみたいな子供の奴隷には到底不釣り合いな額であるということくらいは分かる。
レドはその銀貨をじっと見つめていた。彼にとってはまさに破格の取引だ。あたしはこの豚野郎に売られることになる。そう思ったら途端に目の前が暗くなるような気がした。
レドはしばらく黙ってその場に立っていた。あたしはどうかこのまま彼が動かずにいてくれますようにと願った。
だけどその願いは叶わなかった。レドはあたしをその場に残してゆっくりと歩き出し、地面に落ちた銀貨を拾い集めた。豚野郎は唇を歪め、今にも涎を垂らしそうな顔であたしの体をねっとりと見つめた。
あたしはすっかり震え上がってしまった。立っていられなくなりその場にへたり込むと、継ぎの当たった麻のスカートのすそを握りしめた。目の奥から次々と湧いてくる涙を止めるため、あたしは目をギュっと瞑った。
いつかこんな日が来ることは覚悟していたつもりだった。でもいざその時になってみると、自分の覚悟とやらがいかに役立たずなものかを思い知らされた。
瞑った瞼の裏に、あたしを姉のように慕ってくれている小さい仲間の顔が浮かんでは消えていく。あたしは震えを止めるため、カタカタ鳴る奥歯を噛みしめ、自分の体を強く抱きしめた。
でもその時、全く予想していなかった声がして、あたしはハッと顔を上げた。
「痛ってぇ!! いったい何のつもりだレド!!」
仰向けに地面にひっくり返った豚野郎が、尻もちをついたままレドに叫んでいた。豚野郎の額には赤いあざのようなものができている。奴の周りにはさっきレドが拾っていた銀貨が散らばっていた。
「聞こえなかったみてえだな。お前とは金輪際、取引しねえって言ったはずだ。その金を持ってとっとと失せろ。」
レドはよく通る低い声で豚野郎に言った。あたしと豚野郎は呆気に取られてレドを見つめた。
「何座ってんだ。さっさと立ってチビどもの面倒見にいけ。」
レドはそう言ってあたしを立たせると、あたしの手を引いて家の方に歩き始めた。あたしは何が何だか分からずバカみたいに口を開けたまま、差し出された手に縋りつくようにして彼と一緒に歩いた。
「おいレド!! てめえ、自分が何したか分かってんだろうな!!」
豚野郎が大声で怒鳴ったのであたしはビクッと竦みあがって足を止めてしまった。膝ががくがくして今にもへたり込みそうなあたしを、レドは大きな腕でさっと抱き上げ、また黙って家の方に歩き出した。
レドに無視された豚野郎は癇癪を爆発させた。
「奴隷上がりの傭兵風情がいい気になるんじゃねえぞ!! てめえと同じ境遇の孤児を集めて家族ごっこか? 奴隷商人のくせに何様のつもりだ! てめえは俺と同じ穴の貉なんだよ!!」
あたしは驚いて無精髭に覆われたレドの顔を見上げた。レドも孤児で奴隷だったことをあたしはこの時初めて知ったのだ。
でもレドはあたしの顔を見るどころか、立ち止まることも振り返ることもせず、黙って家の扉を開けた。扉が閉まる瞬間、豚野郎が「このままで済むと思うなよ!」と叫ぶのが聞こえた。
でもレドの腕の中にいるあたしはもう、それをちっとも怖いとは思わなかった。あれほど酷かった体の震えは、いつの間にか止まってしまっていた。
こんなことがあってしばらくしてから、レドはあたしたちを王都東門貧民街の大地母神殿に通わせるようになった。そこでは貧民街の子供たちに簡単な読み書きを教える学校が無料で開かれていたのだ。
「読み書きができるほうが高く売れるからな。サボらずちゃんと勉強しろ。」
レドはそう言ってあたしたちを毎朝、神殿まで連れて行ってくれた。あとから聞いた話ではあたしたちをこの学校に通わせてもらえるよう、神殿の祈祷師様に彼が頼み込んでくれたのだそうだ。
学校の先生をしているのは元商人の爺さんで、教え方がとても上手かった。この爺さんは東門の外に出来た新しい農場の持ち主に雇われているらしい。
わざわざ人を雇って見も知らない貧民の子供に勉強を教えさせるなんて、おかしな奴がいるものだとあたしは呆れてしまった。
でもその農場主にとってはこれも商売の一環なのだそうで、ちゃんと儲けが出る仕組みになっているらしい。世の中にはいろんな商売があるもんだと、あたしはとても驚かされてしまった。
あたしは一度だけ、その農場主に会ったことがある。農場主は粗末な長衣と木の杖を持ったまじない師の女だった。
その女はフードを目深にかぶり、顔の上半分を覆う仮面で顔を隠していた。あたしが石板に文字を書くための白墨を切らして困っていたら、その女がさっと差し出してくれたのだ。
あたしはなんだか恥ずかしくって、小さな声でお礼を言った。するとその女はあたしの頭をポンポンと撫でて「頑張ってて偉いね」と言ってくれた。女はすべすべでとってもきれいな手をしていた。
その時は知らなかったけれど、後になってその女が農場主だと聞かされた。あたしはその時のことを振り返って「金持ちってやっぱりどっか変なんだな」って思った。
でもそのとき女があたしに言ってくれた言葉と優しい手の感触は、小さい頃に死に別れた母さんのことを思い出させ、あたしの心にいつまでも残ったのだった。
あたしたちの通っている貧民街の学校には、よい成績を取った子供はご褒美がもらえる仕組みがあった。その日に先生が出した問題のうち、ある程度以上できると銅貨を一枚もらえるのだ。
それを知ってからあたしは死に物狂いで勉強した。もらった銅貨はレドに渡した。あたしが初めてレドに銅貨を差し出した時、彼はちょっと困った顔をした。
「こんな端金、酒代の足しにもなりゃしねえ。」
彼はそう言ってあたしの銅貨を大切に懐に仕舞い込んだ。そしてあたしの金色の髪をぐしゃぐしゃとかき回した後、「行くぞ」と言ってさっさと歩き始めた。あたしは「うん!」と返事をして他の子たちと一緒に彼の後を追い、あたしたちの家に帰った。
それからというもの、夕方になってあたしたちを迎えに来るレドに銅貨を一枚渡すのが、あたしの何よりの楽しみになった。
その年の冬のことだ。その日は朝からちらちらと薄い雪の舞うとても寒い日だった。あたしたちは学校でレドが迎えに来るのを待っていた。でもレドはいつまでたってもあたしたちの所に現れなかった。
小さい仲間たちが不安そうな顔で泣き始めたので、あたしはみんなを励まし家でレドの帰りを待とうと言った。神殿の人たちはあたしたちのことを心配してここで待ってもよいと言ってくれたが、あたしはみんなで家に帰ると言ってそれを断った。
本当は神殿で待っている方が安全だということは十分分かっていた。でもそうしなければあたしの方が不安で泣き出してしまいそうだったからだ。
あたしたちの家に帰りさえすれば、きっとレドが待っていてくれる。今日は雪が降ってたまたま仕事が遅くなっただけだ。
あたしは自分に言い聞かせるように、泣きべそをかく仲間たちを励ました。
あたしたちの家には誰もいなかった。明かりの灯っていない寒々とした家を見た時、あたしの心に嫌な予感が過った。暗闇の中に横たわる冷たい空気は、家族を亡くしたあの時のことをあたしに思い出させた。
そんなはずはない。あのレドに限ってそんなはずあるもんか。
あたしはそれを打ち消すように、懸命に明るい声で仲間たちを急き立て、家を温めてレドを迎える準備をさせた。でもその日の夜中を過ぎてもレドは帰ってこなかった。
夜明け前、あたしは家の入り口が開く音で目を覚ました。レドが帰ってきたんだ!
あたしは喜び勇んで寝床を飛び出し玄関に向かった。でもそこにいたのはレドではなかった。
「よお、久しぶりだなぁ。会いたかったぜ。」
あたしの姿を見た豚野郎は、イヒヒと嫌な声で笑いながらそう言った。
「何しに来たんだ、この野郎!! またレドにやっつけられたいのかよっ!?」
精一杯の虚勢を張り、あたしは震える声で豚野郎に怒鳴った。だが豚野郎はニヤニヤ笑いながら、手に持っていたものを床の上に放り出した。
冷たい雪明かりが照らし出したそれは、レドの短剣だった。短剣は赤黒い染みでべっとりと汚れていた。
「『鉄牛のレド』なんて大層な二つ名を持ってたって所詮は人間だ。ちょっとした仕掛けをすりゃあ、この通り。呆気ないもんだったぜ。」
奴が何を言っているのか全く頭に入ってこなかった。その場に立ち尽くしていたあたしは、豚野郎に思い切り平手で殴られた。自分の体が激しく床に叩きつけられ転がるのを、あたしはまるで他人事のように意識していた。
「おい、残りのガキどもを馬車に乗せろ。こいつは俺が連れていく。依頼主に引き渡す前に、ちゃんと躾をしなきゃならんからなぁ。」
豚野郎の後ろから現れた男たちが泣き叫ぶ仲間たちを次々とあたしたちの家から連れ出して行った。あたしは豚野郎に鉄の首輪と手枷を付けられた。
豚野郎は首輪の鎖を乱暴に引いてあたしを歩かせた。あたしは足に力が入らず何度も薄く積もった雪の上で転んだ。後ろ手に拘束されていたので、あたしはその度に体のあちこちを酷くぶつけることになった。
豚野郎は転んだあたしを汚い言葉で罵り、手にした木の棒であたしの体を何度も打った。でもあたしは全く痛みを感じなかった。まるで悪い夢の中にいるみたいだった。
でも夜が明けて顔を見せた太陽が積もった雪を少しづつ照らし始めても、その夢が醒めることは決してなかった。
その後、あたしは目隠しをされたままどこかに運ばれた。途中何度も棒で打たれ、ようやく目隠しが外された。あたしがいたのは鉄格子の嵌った薄暗い地下室だった。
「春になったらお前の新しい飼い主様が、領地から王都にいらっしゃる。お前はある高名な貴族様の奴隷になるんだ。光栄に思えよ。」
豚野郎は冷たい床に転がされたあたしの顔を靴で踏みつけながら言った。
「冬の間、俺が奴隷としての心得ってやつをたっぷり仕込んでやる。貴族様に気に入られて少しでも長生きできるよう、精一杯励むこった。」
奴はそう言い残して鉄格子に錠をかけ、地下室を出る階段を上り始めた。でも数段も登らないうちに突然轟音が響き、地下室が全体酷く揺れた。
あっと思う間もなく地下室の天井が崩れた。豚野郎は崩れた天井に押しつぶされ、汚い呻き声と体液を撒き散らして死んだ。瓦礫はあたしの上にも崩れ落ちてきたが、折れ曲がった鉄格子が作った小さな隙間のおかげで死なずに済んだ。
でも閉じ込められていることには変わりない。嵌められた首輪や手枷もそのままだ。身動きが取れずにいると、瓦礫の向こうから人の叫び声と怒号が響いてきた。
「船員が急に爆発した! 船に燃え広がるぞ!!」
「火を消せ!! 早くしないと積み荷の入った倉庫まで・・・ぐわぁ!!」
立て続けに爆発音が響き、多くの男たちの悲鳴が上がる。何か分からないけれど、大変なことになっているのは間違いない。
程なく瓦礫の向こうからごうごうと炎の燃える音が響き始めた。すでに人の声はしない。あたしの周囲の空気が次第に熱を帯び始め、少しずつ息苦しくなってくる。あたしはこのまま焼け死んでしまうのだろうか。
王国で一番重い刑罰は火焙りの刑だ。あたしも今、それと同じ状況にいる。焼け死ぬのはきっとすごく痛いだろうな。そんな他人事のような思いが心に浮かぶ。
でも不思議と怖い気がしなかった。あの血塗れの短剣を見た時から、心のどこかが痺れたようになっていて、あまりものを感じられないのだ。きっと体よりも先に心が死んでしまったのだろう。
あたしは熱を帯びていく石の床に顔を押し付け、そっと目を瞑った。
こうやっていると地下道で死にかけていたあの日のことを思い出す。あの時、レドがあたしに手を差し伸べてくれたんだっけ。
自然とレドの家で暮らしていた間のことが思い出された。あたしのことを本当の姉のように思ってくれている仲間たち。そして無口で不器用だけれど、本当は優しいあの人のことが。
焼け焦げた空気があたしの鼻を付く。もう目を開けるのも辛いほどだ。
その時、不意に懐かしい匂いを感じて、あたしは目の前に迫った炎をしっかりと見た。あれはそう、甘いタバコの匂い。レドの胸に抱かれた時にいつも感じていたあの匂いだ。
それを意識した途端、あたしの脳裏にかつてレドの言ってくれた言葉が閃いた。
『おいガキ。死にたくなきゃ俺の手を取れ。出来るか?』
次の瞬間、あたしは死に物狂いで不自由な体を動かし、声の限りに叫んでいた。
「助けて!! あたしを助けて、レド父さん!!」
迫りくる炎の中であたしは必死に助けを求めた。こんなところで死んじゃだめだ。レド父さんに助けてもらった命をそんなに簡単にあきらめるもんか!!
するとその声に応えるように、炎の中から二本の太い腕が突き出された。その腕はあたしの目の前にあった鉄格子を掴んで、思い切り左右に広げた。赤熱した鉄格子と掌が触れ合い、革の手袋の焦げる嫌な音が響く。
次の瞬間、あたしの体はその腕に摑まれ、外に引っ張り出されていた。
「無事か、ミシュア。」
「レド父さん!!」
全身焼け焦げだらけの革鎧を着た父さんは、私の体を濡らした外套でしっかりとくるみ、強く抱きしめた。
「お前の声、聞こえたぞ。よく頑張ったな。」
焦げてちりちりになった髭に覆われた顔で父さんは言った。
「息止めて、目を瞑ってろ。」
そう言ったかと思うと父さんは、燃え盛る炎に飛び込んで走り出した。あまりの炎の激しさに、あたしは父さんが焼け死んでしまうのではないかと思った。
父さんに抱えられているうちに、あたしは気を失った。闇に飲まれる寸前、最後にあたしが感じたのは父さんの腕のぬくもりと、あの懐かしいタバコの匂いだった。
あたしが目を覚ましたのは、貧民街の神殿に併設された施療院の中だった。
目を覚ました時、周りではあたしの小さな弟妹たちが心配そうな顔であたしを見つめていた。
「ミシュア姉ちゃん!!」
起き上がろうとしたが、全身が痛くて手を動かすことすらできなかった。あたしに取りすがってわんわん泣く弟妹たちに、あたしは尋ねた。
「レドおじ・・・父さんは?」
弟妹たちは場所を空け、あたしの隣の寝台を指し示した。寝台の上で全身布でぐるぐる巻きになった父さんが大きないびきをかいていた。布の隙間から少しだけ見える肌は黒い煤で酷く汚れていた。
困ったような笑い声がしたのでそちらに目を向けると、この神殿を取り仕切る祈祷師のセーコン導師が苦笑しながらあたしに話しかけてきた。
「まったく、あなたを助けるためとはいえ随分な無茶をしたものです。《耐火》の水薬も万能ではないって言ったんですけどねえ。」
そうしてセーコン導師は、あの日の父さんのことを話して聞かせてくれた。
あたしたちが神殿を後にしたあの日の夜、父さんは血塗れになって神殿の前に倒れていたそうだ。父さんはセーコン導師から治療を受けるとすぐ、導師が止めるのも聞かずあたしたちを探しに飛び出して行ったという。
「傷が塞がっても体は回復してないといくら言っても全然取り合わなかったんです。まあ、頑固なのは昔からなので、止めても無駄だって分かってましたけどね。」
父さんは豚野郎の店からあたしの弟妹たちを救い出した後、奴の手下からあたしの居場所を聞き出して助けに来てくれた。ちなみにセーコン導師も父さんに同行してくれたそうだ。
「たまたまドーラさんからいろいろな魔法薬の試供品をもらっていたのが役に立ちましたよ。」
導師はそう言って懐から何本かの陶器の瓶を取り出してあたしに見せてくれた。瓶にはどれも驚くほどきれいな文字で書かれたラベルが付いている。
《水中呼吸》や《暗視》《落下速度軽減》などの瓶に混じって、《耐火》と《聴力強化》と書かれた瓶がある。その二本だけが封を切られていた。
「レドは私が止めるのも聞かず、魔法薬を飲み干して炎に飛び込んで行ったんです。まあ、それでちゃんと生きて帰ってこれたんですから、『鉄牛』の二つ名は伊達じゃないってことですかね。」
導師はそう言って笑いながら、いびきをかく父さんの顔を眺めた。
「導師様は父さんのことを昔から知ってるんですか?」
「ええ。ずっと昔に少しだけ一緒に仕事をしていたことがあるんですよ。」
導師様はそう言って遠くを見るような目をした後、癒しを求めて施療院を訪れる人たちの所に行ってしまった。
あたしは隣の寝台で寝ている父さんの牛の唸り声みたいないびきを聞きながらそっと目を瞑った。そのせいだろうか。その日見たのは六足牛の引く荷車で、父さんや弟妹達と一緒に旅をする夢だった。
その後、父さんの体が癒えるまでの間あたしたちは、東門の農場の仕事を手伝いながら貧民街にある共同住宅で暮らすことになった。あたしたちは毎日交代で父さんの世話をしに施療院へ通った。
父さんのケガは思ったよりずっと酷かったようで、まともに動けるようになったのは春の祝祭が終わった頃だった。あたしたちに世話をされている間、父さんはずっと怒ったような顔をしていた。
でもあたしたちはこれが怒っているんじゃなくて、照れているのだということがちゃんと分かっていた。もちろん父さんには言わなかったけど。
そして夏になった今、あたしたちは六足牛の引く荷車に乗って街道を南下している。目的地は王都領の南の端っこにあるハウルっていう村。いい匂いのする石鹸が作られてるあの村だ。
あの日、聖女教徒が起こした事件で王都にあったあたしたちの家は燃えてなくなってしまった。それで父さんは思い切って王都を離れ、仕事と家を求めてハウル村に行くことにしたのだ。
なんでもハウル村にはいろんな仕事の口がある上に、がんばれば自分の畑を持てるようになるらしい。
父さんは最初にそれを聞かされた時、そんなうまい話があるなんてとても信じられなかったと言っていた。
けどセーコン導師様が絶対に大丈夫と勧めてくれたので、頑固な父さんもようやく決心したらしい。私たちが乗っているこの牛と荷車も導師様が、カフマン商会っていう店から借りてくれたものだ。
あたし、旅をするのはこれが初めてだ。魔獣に追われて村から逃げ出した時もあちこち彷徨い歩いたけど、あれはとても旅って呼べるようなもんじゃなかったしね。
牛の引綱を引きながらのんびり街道を歩くのはとても楽しい。荷車に乗った弟妹達もはしゃいでいる。すれ違う隊商の馬車に積まれた珍しい敷物や衣類を眺めていたら、隣を歩いていた父さんが怒ったような口調であたしに話しかけてきた。
「おいミシュア。おめえのせいで俺は持ってたもん、全部失くしちまった。残ってんのはお前らだけだ。今まで食わせてきた分、しっかり働いて稼いでくれよ。」
むっつりとしていかにも機嫌の悪そうな表情。あたしは父さんのそのむくれた顔を見て無性におかしくなってしまい、笑いながら答えた。
「分かってるって。助けてもらった分は、頑張って稼ぐからさ。その代わり、ちゃんといい買い取り手を探してよね。あたし、どうせ買われるんならお金持ちがいい。お金持ちの奴隷になって、毎日美味しいもの食べさせてもらうんだ。カチカチのパンや萎びた芋はもうたくさんだよ。」
上目遣いで父さんの顔を覗き込むと、父さんは目を真ん丸にしてあたしを見た後、苦虫をかみつぶしたような顔をした。
「・・・ふん。クソガキめ。口だけは達者になりやがって。」
父さんはそう毒づいた後、また黙って歩き始めた。あたしも黙って父さんの隣を歩いた。
最近、父さんはあたしたちのことを『商品』って呼ばなくなった。それがどうしてなのかは分からない。でもあの大火事の日を境にして、父さんの中で何かが変わったような気がしている。
あたしは深い森の中をまっすぐに続く貫く街道の先を見つめた。王都を出たのが10日前。今朝早くノーザン村を出たから、目的地のハウル村に着くのは多分、今日の夕方くらいだろう。
街道にはあたしたちの他にも、ハウル村を目指している人たちがたくさん歩いていた。みんな家財道具を一杯に抱えて歩いている家族連ればかりなので、一目見ればすぐに分かる。
この人たちはあたしたちと同じように王都の火事で家や仕事を失くした人たち。大人はみんな父さんみたいにむっつり黙って歩いている。
でもその周りにいる子供たちの目は明るい光に満ちていた。きっとあたしも同じ目をしているに違いない。
ハウル村で何が待っているかなんて、あたしには分からない。王都にいた時みたいに辛い目に遭うかもしれない。でもあたしはちっとも心配していなかった。
だってあたしには家族がいるから。あたしはまた、家族を持つことができたのだから。
すこし傾斜になっている道を上ると、視界がさっと開けた。夏の太陽の下で火照った体を癒すように、川面を滑る涼しい風が爽やかな香気を含んで吹き抜けていく。あたしは風の行く先を追って顔を上げた。
長く続く街道の先に白い石で作られた高い壁が見えた。あれがきっとハウル村だ。あたしは隣を歩いている父さんの手をそっと握った。父さんは黙ってあたしの手を握り返してくれた。
「行くぞ。」
「うん!」
短い言葉のやり取り。でも今のあたしにはそれが何よりも嬉しい。
あたしは父さんと手を繋ぎながらあたしたちの行く先に目を向けた。街道を挟んで目の前に広がる豊かな森は、明るい日差しを受けてどこまでも青くきらきらと輝いていた。
読んでくださった方、ありがとうございました。




