60 目覚め
また長くなりました。詰め込みすぎですね、すみません。
赤い魔石の光に照らされた白い花びらが、魔方陣に沿ってできた魔力の結界の中で不気味にうごめき、広い地下空間を妖しく照らす。その結界から少し離れた場所に横たわるエマに、テレサはそっと声をかけた。
「エマ、準備はいいですか?」
「はい、お師匠様。いつでも大丈夫です。」
エマがややぎこちない笑顔で頷くのを確認した後、テレサはエマの胸に手を押し当て小さく祈りの言葉を捧げた。
「生命の還流を司る大いなるものよ。この者の魂を肉体の軛より解き放ち給え。《幽玄なる解放の祈り》」
テレサが祈りを終えると、目を瞑ったままのエマの体が大きくビクンと反り返り、そのまま力なく横たわった。そしてその直後、半透明の姿となった全裸のエマがふわりとその場に現れる。
それを見たカールとラインハルトは慌てて後ろを向き、視線を逸らせた。目の前で起こったことが信じられずあんぐりと口を開けてエマの姿を見ていたヴィクトルは、リアが無理矢理後ろを向かせた。
半透明のエマは空中に浮かんだまま、足元に横たわる自分の姿を見つめた。
「すごい、これが星幽体?」
エマはさっきまで感じていた激しい頭痛から解放され、文字通り軽くなった体でくるりと宙返りをした。まるで水の中を泳いでいるような不思議な感覚だ。
今のエマはテレサの神聖魔法によって意志と姿を保ったまま、魂だけの存在となっている。自分の体の動きを確かめるように空中を泳ぐエマに、テレサが語りかけた。
「今のあなたは魂が剝き出しの状態です。その状態で強い衝撃を受けると魂が霧散して形を保てなくなってしまいます。十分に気を付けてくださいね。」
「はい。分かりましたお師匠様!」
「あとあまり長い時間、肉体から離れていると戻れなくなります。危ないと思ったらすぐに引き返してくるのですよ。」
決意の色を瞳に漲らせて頷くエマを、テレサは心配そうに見つめた。そんな二人にどこからともなく現れた半透明の騎士、ランディの幽体が話しかけてきた。
「我々の中にあるあの方のお力をあなたに託します。どうかあの方に届けてさしあげてください。」
「分かりました。任せておいてください。」
エマがそう言うとランディは嬉しそうに微笑んだ。彼の体が溶けるように消え、残った虹色の小さな光が星幽体となったエマの胸に飛び込んでいく。
彼と共に現れた100名の兵士たちも次々と光に変わり、エマの体の中に入っていった。エマは体の中に、ドーラの生命力が満ち溢れるのを感じた。
これで準備は整った。あとはこれを眠っているドーラの所に届けるだけ。ドーラの魂と特別なつながりを持つエマにしかできない大切な仕事だ。
「では、行ってきます。」
エマは心配そうな仲間を安心させようと努めて明るい声でそう言った後、横たわる自分の胸の上に置かれた竜虹晶のペンダントへ意識を向けた。これはエマとおそろいの意匠になるよう、ドーラが丹精込めて作り上げたもの。まさにエマとドーラの絆が形になったものに他ならない。
ベルトリンデの首飾りを依代にしてドーラがランディたちの魂を封じ込めたのと同じ要領で、魂の状態となったエマならばこのペンダントを通してドーラの魂に直接呼びかけられるのではないか。
それがランディからの提案だった。もちろんこれには多くの危険を伴うことをエマもよく分かっている。だがそれでも彼女はすぐにやってみようと決めた。
それは彼女がそうするしかないと思う以上に、ドーラと自分の間にある絆を信じているからだった。
ドーラおねえちゃんなら、きっとあたしの呼びかけに応えてくれる。
エマはそう強く確信していた。その思いでペンダントを見つめていたエマの星幽体が次第に揺らぎ始める。驚いたテレサが《幽玄なる解放の祈り》を解除するよりも早く、エマの星幽体はペンダントに吸い込まれるように消えていった。
「司祭様。エマはもう行っちまったんですかい?」
死んだように眠り続けるエマの姿を見ながら、ヴィクトルが尋ねる。テレサは残されたエマの肉体の状態を確かめてから、彼の問いに答えた。
「エマの魂はこの場を離れました。おそらくドーラさんのところへ向かったのでしょう。」
「無事に帰ってきますよね?」
「・・・大丈夫です。たとえ何があっても私が全力でエマの魂を連れ戻します。」
その言葉を聞いてヴィクトルはやっと少し笑みを見せ、心配そうにエマの周りをウロウロと歩き始めた。だがテレサは彼に気付かれないよう、そっと両手をきつく握りしめた。
今の言葉はテレサが彼女自身に言い聞かせた言葉だからだ。エマはおそらく今、眠っているドーラの意識の中をさまよっている。いわばドーラの夢に入り込んだような状態だ。
ドーラの魂がいかに強大な力を持っているかは、テレサ自身が以前目の当たりにしたためよく分かっている。巨大な太陽のような輝きを放つドーラの魂に比べたら、人間の脆弱な魂など小さな星の瞬きにすら及ばない。
もしも夢の世界でエマの身に何かあったらたちまち彼女の魂は霧散し、ドーラの魂に取り込まれてしまうだろう。そうなればエマの体を再び蘇らせることは不可能となる。
危険はそれだけではない。ドーラは悠久の時を生きる竜。彼女の意識の奥にはその永い生の記憶が流れているのだ。万が一、その時の流れにエマが巻き込まれてしまったら?
ドーラと共に長い長い時間を追体験することに、果たしてエマの精神が耐えられるのか。テレサには確証が持てなかった。最悪の場合、たとえ魂が無事であっても精神が焼き切れ、エマは廃人になってしまうかもしれない。
エマ、どうか無事でいて。ドーラさん、エマを守ってください。
テレサは横たわるエマの胸に両手を押し当てた。そしてエマの魂を少しでも守れるように、神聖魔法によって作られた魔力の経路を通じ、自分のあらん限りの神聖力をエマの体に注ぎ込んでいったのだった。
どこまでも続く豊かな緑の大地を、明け始めた朝日が美しく輝かせる。夜と朝とが混ざり合う美しい紫色の空の下で、私はたくさんの仲間の竜たちと一緒に大空を舞っていた。
私たちの《竜の飛翔》によって生まれた魔力のうねりが美しい金色の波となって地上へ、海へと降り注ぐ。
羽を持つ妖精たちはその波の上を滑るように飛び、大地の竜の背中で踊る羽のない仲間たちの間を次々と通り過ぎては笑い声を立てている。
この飛翔を始めてからもう何度、朝日を見ただろう。数えきれないほど多く見たのは確かだけれど、それでも私は登り始めた太陽の光に飲み込まれていく星の輝きに心を震わせてしまう。
今、私は飛翔を心ゆくまで楽しんでいた。
一緒に踊る仲間を誘うように地上すれすれまで急降下した後、翼で風を捕えて雲の上まで飛び上がった時、私はふとあるものが気になって其方に首を傾けた。
「ん?」
「どうしたの虹色ちゃん?」
仲良しの黒い竜が私に話しかけてきた。私は飛びながら、尻尾で自分が気になったものを指し示した。
「あの花の妖精、あんまり見かけない子だなあって思って。」
黒い竜と共に私の側を飛んでいた銀色の竜が、私の言葉に立派な角を持つ頭を傾げる。
「そうか? よく見分けがつかないな。私は妖精たちがあまり好きでないから・・・。」
「銀ちゃんは真面目だもんねー。そんなんだから、いつも風の妖精たちにからかわれるんだよー。」
長い体を持つ白い竜がくすくす笑いながら銀色の竜に言う。北風の吹きすさぶ氷の大陸をねぐらにしている彼女は風の妖精たちととても仲良しなのだ。
「それにしても危うい飛び方だな。あれ、本当に妖精か?」
炎の河に住む赤い竜が私の見つけた花の妖精を見て呆れたように呟いた。確かに私たちの飛翔が巻き起こす風にあおられ、ふらふらと上空を彷徨っている。
他の仲間たちはまたすぐに飛翔に夢中になってしまったが、私はなぜかその妖精から目が離せなかった。なんだかあの子が私を探しているような気がしたからだ。
でもそんなはずないよね? 気のせいだろうと仲間の後を追おうとした時、私の視界の端を光輝く巨大な物が横切った。
「危ない!!」
私は咄嗟に飛翔を中断し、全速力でその小さな妖精の下に向かった。私が彼女の小さな体を翼の下に隠したのと同時に、光の神が操る戦車がその場を通りぬけ虚空へと消えていった。
まさに危機一髪だ。もう少し遅かったら、戦車を引く馬の脚にこの妖精が巻き込まれていた。8本の足を持つあの馬を光の神はものすごく自慢していて、いつもああやってものすごい速さで空を駆け回っているのだ。
彼が言うには地上を照らすための大事な仕事らしいのだけれど、私にはただ面白半分に走り回っているようにしか見えない。雲の隙間から急に飛び出てくるし、本当に危ないんだからもう!!
私はあの神が苦手だ。兄弟神である闇の神と喧嘩ばかりしているのも気に入らない。今度会ったら一言、言ってやらないとと思っている時、翼の下から私の目の前に花の妖精が飛び出してきた。
花の色と同じ髪色をした他の妖精たちとは違い、この子は薄茶色の髪をしている。私の顔の前でくるくると回る彼女に私は話しかけた。
「大丈夫だった?」
彼女は私の鼻の先にちょこんと腰かけると、まるで花が綻ぶようににっこりと微笑んだ。
「助けてくれてありがとう、ドーラおねえちゃん。」
彼女はそう言うと私の鼻先にそっと唇を触れさせた。そして朝日に溶けるように、彼女の姿は虹色の光になってその場から消えた。
彼女が唇を触れさせたところから私の体にじんわりと熱が広がっていく。こんなことは初めてだ。すごくびっくりしたけど、私はなぜかとても嬉しい気持ちになった。
「ドーラおねえちゃん? それって一体・・・?」
私がそう呟くと同時に周囲の景色が暗転していく。私はそのまま意識を失い、眠りの海の中に沈んでいった。
「きゃあああっ!!」
轟音の後に続く悲鳴で私はハッと目を覚ました。私はねぐらの入り口をふさぐように翼を動かし、魔力を使って外の衝撃から翼の下にいる妖精たちを守った。
「みんな、大丈夫? 私の翼の下に隠れていてね。」
妖精たちは身を寄せ合い、不安そうな表情で私に語りかけてくる。
「ねえ、虹色ちゃん。森やお花畑は大丈夫かな?」
「私たちの泉はどうなっちゃうんだろう?」
私が答える前に、私のねぐらの山に巨大な炎の槍が降り注ぐ。妖精たちが悲鳴を上げて蹲ったので、私は周囲に自分の魔力を広げ、ねぐらである山が崩れないようにしっかりと支えた。
光と闇の神の些細な小競り合いから始まった争いは、あれよあれよという間にすべての神々を巻き込んだ大きな戦いへと発展してしまった。
ねぐらの外は今その真っ最中だ。光の神に味方した銀色の竜を筆頭に、私の仲間たちも戦いに参加している。
でも私は戦いに参加しなかった。争いごとは嫌いだし、何より私がいなくなったらこの妖精たちが行き場を失くして困ってしまうからだ。それに大事なお宝をしまってあるねぐらを離れるのも嫌だしね。
戦いが始まってから7回目の朝を迎えた後、外が静かになったのを確認して私は妖精たちと共にねぐらを出た。
「私たちの森が・・・!!」
「そんな・・・!!」
世界の様子は一変していた。豊かだった緑の大地は焼き尽くされ、美しい泉や川は腐った臭いを放つ毒の沼地に変わってしまっていた。
多くの恵みを生み出していた海の水は干上がり、炎渦巻く瘴気の海になっている。地上にいた動物たちもすべて死に絶え、燻り続ける捻じれた木々の間に無残な躯を晒していた。
その光景を見た妖精たちは声を上げて泣いた。私は世界の隅々に魔力を張り巡らしたが、神々や精霊の気配を感じ取ることは出来なかった。彼らの姿と共に、地上から彼らの恩恵は消え去っていた。
私は毒の風にやられて次第に弱っていく妖精たちに向かって言った。
「みんな、私に任せて。」
私は上空に飛び上がると、大空に向かって吠えた。弱々しいけれど、私の咆哮に応える仲間の声がいくつか聞こえた。どうやら生き残った仲間たちも少しはいるようだ。
なら私がいない間、彼らが妖精たちを守ってくれるだろう。私はねぐらの山のてっぺんに降り立つと、大きく息を吸い込んだ。そして自分の持つ魔力を息に変え、地上のすべての方向へ向けて何度も何度も吐き続けた。
私の魔力は虹色の炎の息に乗って地上を覆いつくした。魔力の炎が地上の毒を浄化していくつれ、大地に再び緑が芽吹き始め、見る見るうちに美しい森へと変わっていった。
死んでしまった動物たちも蘇り、森に、空に、泉に、海に、川に命が満ち溢れていく。
最後に私は再び大きく息を吸い込み、魔力を使って風の中に漂う毒をすべて体内に吸収した。私はどんな毒を受けても死ぬことはない。ただ世界を滅ぼす毒をすべて体に取り入れるのは、流石に骨が折れた。
結局、大地の端の方に毒が少し残ってしまった。けれど残りは仲間の竜たちに託すことにした。私の体はもう限界だったからだ。
毒を消し去るだけなら私よりも友達の黒い竜の方が得意だしね。彼女の《消滅》の息はあらゆるものを塵に帰し消し去る力がある。彼女がいればきっと大丈夫だろう。
翼がすっかり萎えてしまったので、私は足を引きずりながらゆっくりねぐらまで戻った。ねぐらではたくさんの妖精たちが私を待っていてくれた。
「ありがとう虹色ちゃん!」
口々にお礼を言う妖精たちに、私は軽く頷くことで答えた。今は声を出すのも億劫だったからだ。
「私、ちょっと疲れちゃったみたい。すこし休むね。」
「うん、またね虹色ちゃん!」
妖精たちが元気で森に帰っていくのを見て、私は本当によかったと思った。あとはねぐらの奥に潜り込んで眠るだけだ。体の中の毒が消えて、減った魔力が戻ればそのうち自然に目が覚めるに違いない。
いつもの場所に潜り込んで翼を畳んだ後、ふと気配を感じて前を見ると花の妖精が一人、私のすぐ鼻先に立っていた。どこかで見たことがあるような気がするけれど、どこで会ったのか思い出せない。
私は眠気を堪えて彼女に話しかけた。
「あなたはみんなと一緒に行かないの?」
「うん。あたし、いつまでも待ってるよ。ドーラおねえちゃん。」
彼女は私の鼻にそっと自分の唇を触れさせた。わたしの体に熱が広がり心地よい眠気が全身を覆う。
「・・・ドーラ? それ、確か前にもどこかで・・・・?」
彼女の姿が虹色の光になって消えると同時に、私は再び深い深い眠りへと落ちていった。
「んう? この香りは・・・?」
私は大好きな花の香りを感じて、閉じていたそっと目を開いた。ねぐらの入り口から薄く弱い光が差し込んでいる。光の感じからしておそらく冬が終わったばかりだろう。
ねぐらから出られなくなってもうすでに数えきれないほど季節を巡ってきたけれど、この花の香りをこんなに近くで感じたのはこれが初めてだ。
不思議に思って瞼の間からそっと周囲の様子を探ると、私の目の前に妖精に似た小さな生き物がいるのに気が付いた。
これは時々私のねぐらに入り込んでは私の固まった涎を集めていく変な生き物だ。今、ここにいるのは多分メス。体には動物の毛皮を巻き付けている。
むき出しの手足が酷く汚れていた。その手には私の大好きな白い花が握られていた。
妖精に似ていると言っても、羽も魔力もないつまらない生き物だ。矮小で醜い彼らのことが私はあまり好きではなかった。彼らを見ていると私の大嫌いな光と闇の神のことを思い出すからだ。
なのに今目の前に立っているこのメスからは、なぜか愛おしくて目が離せなかった。
羽も翼も持たない彼女が、雪をかき分けてこの山に登ってくるのはかなり大変だったはずだ。なのにどうして彼女はここにいるんだろう。
私がそう思っていると彼女は私の顔のすぐ前にやってきて、手に持った白い花をその場に置いた。摘み立ての花の香りが鼻をくすぐる。久しぶりに嗅ぐ花の香りを楽しんでいたら、彼女はいつの間にか私の鼻にそっと手を触れていた。
「あたし、ずっと待ってるからね。ドーラおねえちゃん。」
彼女はそう言って私の鼻先に口づけをした。その瞬間、彼女の姿は虹色の光になって消えた。
体の中に熱が満ち、失くした力が溢れてくるような不思議な感覚がする。そう思った瞬間、私の視界は闇に閉ざされ、穏やかな眠りに包まれたのだった。
しゃらんしゃらんという鈴の音が響き、私はゆっくりと目を開いた。目の前の祭壇に山積みになった果物やお酒からは美味しそうな匂いが漂ってくる。
あの鈴は王や巫女たちが神殿を出ていくときに鳴らすものだ。私は再び目を瞑り、さっきまで祭壇の上で舞を舞っていた巫女たちの様子を反芻した。
「(はあ、今年の踊りも最高だったなあ。)」
王国の人間たちがこうやって大地母神に祈りを捧げるようになってすでに数百年。私は毎年春の初めの日に行われるこの神事を、心待ちにするようになっていた。
今、私には夢がある。それは人間たちが使う魔術を使って人間の姿になり、彼らの王国に行ってみることだ。そのための魔法《人化の法》を研究することが、今の私の一番の楽しみなのだ。
早速今年の果物とお酒を味わってから魔法の練習をしようと思っていたらふと、祭壇の影に小さな人の気配があることに気が付いた。
「(どうしたのかしら、この子。)」
そこにいたのは巫女の従者の衣装を着た女の子だった。子供がこの神殿にやってくるのは初めてだ。
もうすでに儀式は終わり、王や神官、巫女たちも山を下り始めている。近くにいるのは神殿の見張りをしている『騎士』と呼ばれる人たちだけだ。その彼らにしても、もう少し麓のある彼らの巣(たしか『詰所』って名前だったはずだ。見たことはないけどね。)に戻ってしまっている。
確かこの神殿に立ち入ることができるのは、ごく限られた人間だけだったはず。もし騎士たちに見つかったら、この子は大変なことになってしまうかもしれない。
「(早く出て行かないと、見つかったら怒られちゃうよ?)」
私は薄目を開けたまま、心の中で彼女に話しかけた。金色に近い薄茶色の髪をした彼女は、その声に応えるようににっこりと微笑むと私の側に駆け寄ってきた。
「もうすぐ会えるね。ドーラおねえちゃん。」
彼女は私にそう呼びかけると、私の鼻先にそっと口づけをした。彼女の体から暖かいものが溢れ、私の体に流れ込んでくる。
ああ、そうだ。この子は私の大事な、大事な人だ。
そのことに気が付いた次の瞬間、私は人間の姿で森の中を流れる大きな川の畔にいた。
雨上がりの森。貧しい村の洗濯場に立つ二つの人影。母親の足に寄り添うように立っている小さな姿。
悪戯っぽい表情で私の方に向かって駆け寄ってきたその子は、しゃがみこんだ私の髪にそっとその小さな手を触れさせて言った。
「えーっとね! すごくきれいな金色の髪をしているから、ドーラ! どうかな?」
楽し気に私の顔を覗き込む懐かしい笑顔。私は嬉しくなって彼女に笑いかけた。
「ドーラ、素敵な名前ね! 私はドーラ、これからよろしくね。」
私がそう答えた途端、薄茶色の髪を持つ小さな女の子の姿がどんどん成長していった。私がこれまでずっと見続けてきた愛しい、本当に愛しい姿へと。
やがて私の胸の高さくらいの大きさにまで成長した彼女は、私に胸に抱きついてきた。彼女は目に涙をいっぱい浮かべたまま、私の顔を見上げて笑った。
「やっと会えたね、ドーラおねえちゃん。」
私は胸の中の彼女をしっかりと抱きしめた。愛おしい彼女から熱と鼓動が伝わり、私の体に暖かな力が満ちてくる。
「ありがとうエマ。今、すぐに行くからね。」
そう呟いたところで、私は眠りから目覚めた。ねぐらの中に横たえた竜の体には燃え滾るほどの魔力が満ちている。
私はすぐに《人化の法》を使った。そして背中に翼を生やすと、私を呼んでくれたエマの下に向かうため、音よりも速くねぐらを飛び出し、青と緑の月の照らす夏の夜空を一直線に駆け抜けたのだった。
エマのいる場所は《警告》の魔法によってすぐに知ることができた。なぜかいつもよりもずっとはっきりとエマのことを知ることができている。エマが私を起こすため、夢の中に来てくれたことが影響しているのかもしれない。
私は目的地である王国の北西部へとやってきた。ここには以前来たことがある。たしかグレッシャー領の領都だったはずだ。名前は忘れちゃったけど、見覚えがあるので間違いない。
エマは領都の西側に位置する小さなお城の地下にいるようだ。城の上空までやってきたところで、私ははたと自分が裸であることに気が付いた。
《警告》が教えてくれているエマの周囲の感じからして、エマと一緒にたくさんの人たちがいるようだ。どうしてかは分からないけれど、カールさんやテレサさんも一緒にいるみたい。
今すぐにエマの下に駆け付けたいけれど、裸のままで行ったらきっと色々大変なことになる。もしバレたらまず間違いなくマリーさんとリアさんからお説教されてしまうだろう。それは非常に良くないです。
私は《収納》の中からいつも着ている村の仕事着を取り出し、苦労して空中で着替えた。仕事着の上からはまじない師の長衣をしっかり着込む。
空中で着替えたのはもちろん、地上の城にいる人たちに姿を見られないようにするためだ。その後、《領域創造》の魔法で城とその周囲を包み込み、中の様子を探る。
驚いたことに城の中に生きている人は一人もいなかった。これなら下に降りて着替えても問題なかったかも?
城の中で倒れているたくさんの人たちの様子から見ておそらく激しい戦いがあったようだ。私は心の中で彼らの冥福を祈った。
城はどこもかしこも呪詛の魔力と不死の呪いに満ちていた。《領域》内の魔力を通して、呪詛に囚われ苦しむ人たちの声が響いてくる。あまりにもたくさんの声がするので頭が痛くなりそうだ。
私は《領域》の中を自分の魔力で満たして、呪詛をすべて消し飛ばした。私の嫌いな不死の呪いの匂いも消えたのでこれで一安心だ。
でも倒れている人たちをそのままにしておくわけにもいかない。放っておいたらまた不死の呪いに侵されてしまうかもしれないからだ。
私は《領域》内で倒れている人たちを、一時的に《収納》しておくことにした。この亡くなった人たちは後でテレサさんに弔ってもらおう。まずは急いでエマの所に行かなくっちゃ。
エマはどうやら建物の地下深くにいるみたい。本当なら地下への入り口を探して下りて行かなきゃだけど、今はその時間がない。だって確実に迷子になる自信があるもの。
だから一番簡単なやり方で行くことにする。私は上空で一度宙返りして勢いをつけると、そのままエマのいる辺りを目掛けて足を下にして飛び降りた。
私が落ちたところを中心に大きな音と衝撃が広がり、小さなお城みたいな建物が同心円状に崩壊していく。仕方がなかったとはいえ、お城を壊してしまったのは本当に申し訳ない。あとでお城の持ち主に謝って修理させてもらおう。
勢いよくお城の床を突き破り、地下室を破壊してさらに下へと進んでいくと、やけに丈夫な床に突き当たった。
見たこともないほどピカピカした金属製の床だ。こんなにきれいに磨かれた金属は見たことがない。明らかに未知の素材なので、本当なら《鑑定》をして調べたいところ。
だけど今はそんなことをしている場合じゃない。早くエマの所に行かなくちゃいけないのだから。
私は床めがけて力一杯、拳を叩きこんだ。ゴオンという大きな音がして床全体がぐらりと揺れる。けれど床に大きな凹みが出来ただけで、壊すことは出来なかった。
ぐぬぬ、やっぱりこの体だと力が十分に出せないみたいだ。竜の姿ならこんな床くらい爪で簡単に引き裂けるけど、それは流石に不味いよね。
でも大丈夫! 私には何でも壊せる必殺の『竜の吐息』があるのです!
とりあえず自分が通り抜けられるだけの穴が開けばいい。私は慎重に息を吐くことにした。たとえ今の姿でも、全力で息を使ったらこの辺り一帯が燃えてなくなっちゃうからね。
まずは他の所に熱が伝わらないように、魔力でしっかりと壁を作る。あふれた熱でマリーさんからもらった大事な服が燃えたりしたら大変だからだ。私はそっと、本当にそっと息を吐きだした。
私の顔の前に出現した魔力の塊が周囲の空気と反応して紫色の稲妻を発生させる。これに当たったら、私の着ている服なんて一瞬で燃え尽きてしまう。
でも魔力の壁があるから大丈夫。私の吐き出した息は狙い通りに床に当たった。床は激しい熱と光を発しながら融解し、たちまち私が通り抜けられるくらいの穴が開いた。うまくいってよかった!
ところが早速通り抜けようとした時、穴からなんだか嫌な匂いのする空気が溢れ出してきた。私は咄嗟に魔力の壁で穴を塞ぎ、その空気が広がるのを押さえ込んだ。
その直後、床の穴の向こうからけたたましい鳥の鳴き声のようなものが聞こえ、それに続いて女性の声が辺りに響き渡った。
『警告。高エネルギー放射による外部からの攻撃で階層隔壁が破壊されました。高濃度汚染物質が大気中に拡散します。各員、防護服を着用し地下施設周辺から速やかに退避してください。』
あわわ、言ってることは全然分からないけれど、なんだかまずいことになっているみたいだ。間違いなく私が不用意に穴を開けちゃったからに違いない。
私は穴の中に飛び込むと夢中で周囲に魔力を放出し、嫌な匂いのする空気をすべて焼き尽くした。周囲の空気が私の魔力と反応し、瞬間的にすごい閃光が発生する。これでもう大丈夫かな?
鼻をひくひくさせて周囲の空気の臭いを確かめる。うん、変な匂いはしなくなった。多分、もう大丈夫な気がする。
ただ勢いよく魔力を出しすぎたせいかバシンという大きな音がした後、女の人が黙ってしまったのが少しだけ気になる。けたたましい鳥の声も聞こえなくなっちゃったし。
生き物の気配はしなかったけど、もしかしら私の魔力に巻き込まれて死んじゃったのかしら?
辺りを見回したけれど、見たこともないような不思議な道具が転がっている暗い室内には女性の姿は見当たらなかった。
申し訳ないけれど今は一刻を争う時なので、私はドキドキしながら先に進むことにした。
進んだ先はまた同じような床を持つ階層になっていた。私は同じことを繰り返しつつ、いくつもの階層を通り抜けた。どの階層にも嫌な匂いのする空気が満ちていた。けたたましい鳥と女の人の声はあれきり聞こえなかった。
何個目かの床を溶かして穴を通り抜けた私は、ついに見慣れた石造りの床の向こうにある、魔力の結界に突き当たった。《警告》の反応ではエマはすぐ近くにいるみたい。
おそらくこの結界の向こう側だ。魔力の気配から、エマと一緒にカールさんたちがいることが分かった。
結界の中には白い幕のようなものが風になびくカーテンのように、ゆっくりと動いている。赤い光を受けて蠢くその様子はきれいだけど、なんだか不気味な感じがする。
私は結界を片手でこつんと突いて少しだけ壊してみた。たちまち壊れた結界から強烈な呪詛と共に白いものが飛び出してくる。私は花びらが飛び散らないように、穴と私の周りにまた魔力で壁を作った。
これまでの階層で同じことをしていたから、これはもう慣れたものだ。私の作った魔力の壁の中で、白いものは私の周りをくるくると回った。
「なにこれ、花びら?」
よく見てみるとくるくる回っている白いものは花びらだった。私はもっとよく見ようと花びらに手を差し伸べた。
「いたっ!」
手を触れた途端、花びらはパチンという小さな破裂音を立てて弾けてしまった。指先にほんの少しだけ痛みを感じて、私は思わず手を引っ込めてしまった。
周囲に漂う臭いから判断すると、花びらに込められた強い呪詛が私の魔力に当たって消滅してしまったらしい。花びらは小さな金色の光に変わり、虚空に消えていった。あの金色の光には確かに見覚えがある。
「これ、もしかして人間の魂!?」
どうやらこの花びらは人間の魂が姿を変えたもののようだ。なんでこんなことになったのかは分からない。けれど呪詛で縛って魂を花びらに変えるなんて、絶対にしてはいけないということは分かる。
早く花びらに変えられた人たちの魂を助けなきゃ!
私は結界の中に私の魔力を思い切り注ぎ込んだ。たちまち白い花びらが次々と金色の光へ変わり、虚空へと消えていった。
呪詛からすべての魂が解放されたのを確かめ、私は空いた穴から結界の中に飛び降りた。
そこはハウル村の中央広場ほども広さがある大きな地下空間だった。
私が今立っている床には大きな魔方陣が描かれている。私の後ろ側には強烈な呪詛を放つ巨大な赤い魔石が置いてあった。
結界内の魔力が激しく動いていることから、魔方陣では何かの儀式魔法が進行中だというのが分かる。もしかして人間の魂を花びらに変えていたのは、この儀式魔法だったのかな?
赤い魔石のすぐ近くには、台のようなものに拘束されている小さな二つの人影が見えた。二人ともぐったりと項垂れているから顔は見えない。
白い服を着たその二人を助けるため台に近づこうとした時、魔方陣の外側から私を呼ぶ声が聞こえた。
「ドーラおねえちゃん!!」
「エマ!! それにみんなも!!」
魔法陣の縁に沿ってできた魔力の壁の向こうにエマとカールさんがいた。テレサさんとヴィクトルさん、それにリアさんやロウレアナさんの姿も見える。どうして皆はこんな場所にいるんだろう?
あと見たこともない男の人もいた。慌てて裸で飛び込まなくて本当によかった。私はちゃんと服を着た自分をちょっとだけ褒めたい気持ちになった。
エマたちはテレサさんが作っている半球型の金色の光の中で私の方を見ている。彼女は魔方陣から放出されている呪詛をあの光の半球で防いでいるみたいだ。
私が眠っている間、テレサさんがエマを守ってくれたことが分かってとても嬉しくなった。
いろいろ気になることが多いけれど、まずはテレサさんやカールさんから話を聞いた方がよさそう。
魔方陣の周囲に張り巡らされた魔力の結界を壊してみんなの方へ行こうとした時、突然カールさんが私に向かって叫んだ。
「ドーラさん、危ない!!」
ハッとした私に向かって、巨大な黒い魔力の刃が四方から押し寄せてきた。私は咄嗟に腕を大きく振り、すべての刃を粉々に打ち砕いた。
慌てて周りを見ると、いつの間にか私の後ろに見知らぬ誰かが立っていた。その人の体からは強い呪詛の臭いがした。ものすごく臭い。
こんなに接近されるまで、このきつい臭いに気が付かなかったなんてすごい驚きです。魔法を撃たれるまで魔力も全然感じなかったし、一体どうやって気配を消してたんだろう?
その人は魔術師の長衣を着て、歪んだ形をした木の杖を手にしていた。顔はフードで隠されていたのでよく見えなかった。
状況から考えて、この人がさっきの黒い刃を出したに違いない。ここはちゃんと抗議しておかないとね。
「もう、急に危ないじゃないですか! エマに当たったらどうするんですか!!」
でも私が言い終わるよりも早く、その人はまた私に向かって黒い刃の魔法を撃ってきた。私は飛んできた刃を右手で受け止め、そのまま握りつぶした。
「いい加減にしないと、本当に怒りますよ!!」
「バカな!? 私の《闇の槍撃》を受け止めるとは・・・!!」
そう呟いた後、私が近づくよりも早く、その人の姿は闇に溶けるように消えてしまった。その人が消えると同時に呪詛の臭いもしなくなったし、魔力の気配も感じられなくなってしまった。
もう近くにはいないのかな? ひょっとしたら《転移》の呪文でも使って遠くへ移動したのかもしれないね。
次の瞬間、私の目の前にあった魔力の結界は日に照らされた氷みたいに溶けて消えた。魔力を発しながら明滅していた魔方陣も光を失っていく。どうやらあの魔術師さんがいなくなったことで、儀式魔法は中断してしまったようだ。
私はエマに向かって全速力で駆け寄った。同じように駆け寄ってきたエマをしっかりと抱きしめる。
「おねえちゃん!!」
エマは私の腕の中で小さく震えながら泣きじゃくっている。私の目からも涙がぽろぽろと零れ、虹色の粒に変わって周りに飛び散った。
「遅くなってごめんね。エマが私を呼んでくれたおかげでここに来られたよ。本当にありがとう。」
「ううん、あたしは大丈夫。それよりもおねえちゃん、二人を助けてあげて!」
エマにそう言われて後ろを振り返ると、カールさんとヴィクトルさんが、魔石の側で拘束されている二人を助け出しているところだった。私はその二人を見て、思わず驚きの声を上げてしまった。
「ミカエラちゃんとイレーネちゃん!?」
匂いや気配がいつもと違うので二人だということに全然気が付かなかった。どうしてこの二人が拘束されていたんだろう。訳の分からないことが次々に起こって、頭がくらくらしそうだ。
私はテレサさんたちと共に二人の所に駆け寄った。すぐ側では赤い魔石が呪詛の臭いを撒き散らしながら、不気味に明滅している。私は二人に神聖魔法を使っているテレサさんとカールさんに尋ねた。
「二人は大丈夫そうですか?」
私の問いかけにテレサさんは少し焦った表情で小さく首を振った。
「かろうじて息はありますが非常に危険な状態です。すぐに手当てをしなければなりませんが、私とカール様だけではとても手が足りません。」
「じ、じゃあすぐに村の教会に戻りましょう! みんな私の側に来てください!」
みんなが集まったのを確認した私は皆を魔力の《領域》で包むと、《集団転移》の魔法を使ってハウル村の聖女教会へ移動した。
私たちが移動した先はハウル村聖女教会の施療院内だった。
急に現れた私たちに教会の人たちはすごく驚いていたけれど、司祭に昇格したハーレさんたちの協力もあり、ミカエラちゃんとイレーネちゃんは無事、一命を取り留めることができた。
教会の施療院で二人の容態を見ているテレサさんと、ケガの治療を受けているリアさん、疲れて眠ってしまったエマをその場に残し、私たちは教会の一室に集まった。この後のことを話し合うためだ。
まず最初に話し始めたのは、王立学校の官服を着た見知らぬ男の人だった。すごく体格のいいその人はラインハルトという名前らしい。エマが彼を先生と呼んでいたから王立学校の先生なのだろう、きっと。
「名無しの魔術師がいる領都をあのままにしておくことは出来ない。生き残っている領民がいるかもしれないんだ。私をもう一度、グレッシャー領主城へ連れて行ってくれ。」
そう言って彼はすごい勢いで私に詰め寄ってきた。その彼をカールさんが引き留める。
「それは危険です、ラインハルト殿。十分に態勢を整えてから乗り込むべきです。」
意見を対立させた二人は話し合いを続けたけれど決着はつかず、最後は押し問答のようになってしまった。困った私はロウレアナさんに小声で尋ねた。
「(どうしましょう、このままじゃ喧嘩になっちゃいそうですよ?)」
「(ふむ。些細なことで言い争うのは人間もエルフも変わりませんね。)」
彼女は小さくため息をつきながら呆れたようにそう言った。ダメだ。全然、解決する気がなさそう。私はヴィクトルさんに助けを求めた。
「(ヴィクトルさん、どうしたらいいでしょう?)」
「(どうもこうも、お貴族様同士の話には流石の俺も割り込めませんぜ。俺よりもドーラの姐さんの方が、いいんじゃないですかい?)」
彼に言われたことで、私はいいことを閃いてしまった。そうか、私が行けばいいんじゃない。私は言い争う二人の間に割り込み、大きく両手を広げた。
「私が領都の様子を見てきますよ。生き残った人がどれくらいいるか調べるだけなら私一人でもできますし、危なくなったらすぐに戻ってこられます。」
「いや待ってくれ。私には領主の弟として果たすべき義務が・・・!」
「あの魔術師は未知の技を使う恐るべき相手です。いくらドーラさんでも危険すぎます!」
途端に言い争っていた二人がそろって私に抗議し始める。私は二人の顔の前に両手の人差し指を突き出してその言葉を封じた。
「私が行っている間に、二人は領都へ行く準備をしていてください。」
二人が再び口を開くよりも早く、私は《転移》の魔法で領都上空へ移動した。
移動する瞬間、ヴィクトルさんが「いや、そうじゃねえんですぜ姐さん」と困ったように呟くのが聞こえたような気がした。
二つの月に照らされて青緑色の光を帯びたグレッシャー領都を、私は見下ろした。街には一つの明かりも灯っていない。普通はハウル村のような小さな村でさえ、魔獣除けのためにかまどの火くらいは残しておくもの。街の大きさを考えれば、これは明らかに異様な光景だ。
もしかしたらこの街の人たちは、もうみんな死んじゃったのかしら。
私は悲しい気持ちを抑え、まずは街の様子を調べることにした。
《飛行》の魔法で空中に静止したまま、城を中心に町全体を魔力の《領域》で包み込む。こうすることで《領域》内の様子をある程度把握することができるからだ。
もちろん範囲が広いので、細かいところまですべて知ることは出来ない。ただ動いている生き物の気配を感じ取るくらいは十分できる。
城の周辺を探ってみたが生きている人は誰もいなかった。でも街のあちらこちらの建物に多くの生きている人たちが固まっていることが分かった。生きている人が大勢いることを知って、私は思わずホッと胸を撫でおろした。
この人たちは長い期間、その場所に閉じ込められていたようだ。どの人からも酷く弱っている感じが伝わってくる。中には酷いケガをしている人もいるみたい。この人たちを助けるためには、多くの人の手が必要になりそうだ。
不死の呪いを避けるため亡くなった人たちを《収納》の魔法で回収した後、私は呪詛の気配の残る領主城の様子を見に行くことにした。
私が地面に体当たりしたせいで、領主城の中央部分は粉々に崩れ去っていた。その地下深くからは強い呪詛の波動が漂ってきている。あの地下空間の巨大な魔石を早く何とかした方がよさそうだ。
私は《転移》で魔石の側に移動した。私の背丈ほどもある巨大な魔石は脈打つように明滅を繰り返し、そのたびに強い呪詛の臭いが周囲に放たれている。
そっと耳を澄ますと、魔石からは囁くような人間の呻き声や叫び声がたくさん聞こえてくる。この魔石は多くの人の魂が呪詛で練り固められて出来ているらしい。
私は大きく両手を広げると魔石を抱きしめた。肌を刺すちりちりという刺激を感じる。苦しんで亡くなった人たちの無念の思いが私を傷つけようとしているのだ。
私の目から自然と涙があふれ、頬を伝って魔石の上に落ちる。私は魔石を包み込むように体から魔力を放出した。その瞬間、血の色をした魔石は粉々に砕け散り、たくさんの小さな金色の光の粒に変わった。
「さあ、これでもう大丈夫。」
私がそう語りかけると、呪詛から解き放たれた金色の小さな光たちは嬉しそうに私の周りをくるくると回り、やがて虚空へと消えていった。
地下空間からは呪詛の気配がすべて消え去った。一応きょろきょろ辺りを見回してみたけれど、あの魔術師さんの姿は見えない。どこかに逃げてしまったのかもしれないね。
カールさんたちにこのことを伝えるため、私は《転移》でハウル村に移動することにした。でもその時、目の端にきらりと光るものが見えたので、慌てて魔法を中断した。
「あれ、なんだろう?」
近寄ってみるとそれは銀色に輝く首飾りだった。これ確か私がランディさんから預かったものじゃなかったっけ。エマに預けておいたはずだけど、エマが落としたのかな?
そう言えばランディさんはこれをラインハルトっていう人のものだって言っていた気がする。もしかして今ハウル村にいるあの人が、ランディさんの探していた隊長さんだろうか。私はラインハルトさんに届けるため、首飾りに手を伸ばした。
「あれれ、なんだか目の前が・・・。」
でも首飾りに手を触れた途端、急に視界が真っ暗になり、私はどさりと石の床に崩れ落ちてしまった。
恐るべき力を持つドーラという女が罠にかかって床に崩れ落ちたのを見て、名無しの魔術師は壁の中に作った魔力の『隠れ家』から姿を現した。
「ふはは、かかったな!! 我が『奪名の呪い』からは何人たりとも逃れることが出来ぬのだ!!」
触媒となった物に触れることで発動し、相手の名前と共にその能力と存在そのものを奪い去る『奪名の呪い』。
太古の魔法王国によって処刑され世界から存在を抹消されたことで彼が得たこの力は、相手がたとえどんなに強大な力を持つ者であっても発動することができる。
事前に相手の名を知る必要があるなど複数の条件がある上、一度に一人の相手にしか使用することができないという制約があるが、その効果は絶大。
ひとたび発動すれば、奪名の呪いに侵された相手以外は傷を負わせることはもちろん、姿を捕えることすらできなくなるのだ。
これを解くには呪いに侵された者が奪われた自分の名を思い出し、なおかつ隠された彼の素顔を見る必要がある。しかし呪いに侵され者は無力となってしまうため、自力でこれを解くことは事実上不可能。
彼はこの無敵の能力を使い、これまで多くの者の名を奪い生き延びてきた。あのラインハルトに呪いを解かれ、追い詰められるこの日までは。
彼は自分の呪いを無効化するほどの力をラインハルトに与えたこのドーラという女を恐れた。だからこそ、そのドーラから力を奪おうとこの罠を仕掛けたのだ。
そして今ドーラは彼の罠に嵌り彼の手中に堕ちた。彼は憎しみを込め、気を失ったドーラを嘲った。
「私に名を知られたのが貴様の敗因だ。《ドーラよ、その名と共にお前のすべてを奪いつくしてやる》!!」
名無しの魔術師がドーラに杖を向けると、虹色の光が彼女から溢れ始めた。そしてそれは杖を通し、名無しの魔術師の体へと吸収されていった。
「おお、力が溢れてくる!! ラインハルトとは比べ物にならないほどの力だ!!」
全ての輝きが失われた後、目の前に横たわっていた女がよろよろと立ち上がった。すでにこの者は『ドーラ』ではない。ドーラという存在を失った哀れな抜け殻だ。
女はまるで寒さに耐えかねたように、震える手で自分の体を抱きしめた。
「ふふふ、体に力が入らないだろう? お前の名と共に、お前の力はすでに私のものとなったのだ!!」
魔術師の言葉を聞いた女は、怪訝そうな表情で彼を見た。
「私が誰かも分からないだろう? すでに言葉も理解できないだろうな。協力者のために生かしておかねばならなかったラインハルトと違い、お前が名前を得てからの記憶もすべて奪い取ってやったのだからな。」
狂ったように笑いながら叫んだ魔術師を、女は怯えた目で見つめた。
「私が恐ろしいのか? 安心しろ、殺しはせぬ。お前が死んだら、奪名の呪いの効果も失われてしまうからな。お前は私の『隠れ家』につないで生かしておく。常識外れな力の秘密を探るため、抜け殻となったお前の体を調べ尽くしてやる。」
それを聞いた女はがっくりと膝をつき、両手を床について蹲った。犬のように目の前に這いつくばる女の姿をみて、名無しの魔術師は愉悦の笑い声を上げた。
「すでに人ですらなくなったお前にはふさわしい格好だな。首輪でもつけて大事に飼ってやるとしよう。ああそうだ、雌犬にふさわしい名を付けてやらねばならんな。たっぷりと可愛がってやるぞ。」
空間魔法で作った自分の『隠れ家』へ連れ帰るため、名無しの魔術師は彼女に歩み寄った。だがその時、女の体から強い虹色の光が発せられたたため慌てて足を止め、その場から後ずさった。
「な、なんだ!? お前にはもう何の力も残っていないはずだ!!」
叫ぶ魔術師を尻目に虹色の光は地下空間を圧するほどに強くなっていき、次第に大きく大きく膨らんでいった。光に押されるように地下空間の天井や壁が崩壊していくのを、魔術師は信じられない気持ちで見つめた。
「バカな、この女の力は名前と共にすべて奪い去ったはず!! い、一体、何が起こっている!?」
今や地下空間は完全に崩壊し、大きく開いた天井から青い月に照らされた夜空が見えるようになった。魔術師は降りかかってくる瓦礫から身を守る為、すべての魔力を振り絞らなくてはならなかった。
目の前で起きていることが理解できず目を瞠る魔術師の前で、虹色の光はさらに巨大さを増していった。
膨らんでいた光が小さな山ほどの大きさになったところで、やがてそれは一つの形へと変化していった。その形を見た魔術師は慄きながら呆然と呟いた。
「りゅ、竜だと・・・!?」
虹色の光が消えた後に現れたのは一頭の美しい竜だった。巨大な地下空間はおろか、その上にあった領主城をも完全に倒壊させたその竜は、乳白色の美しい鱗に青い月の光を反射させながら大きく翼を広げ、夜空に向かって咆哮を上げた。
次の瞬間、竜の咆哮の生み出す凄まじい衝撃波が魔術師を襲った。ドーラから奪った力でかろうじて身を守ることができたものの、魔術師はその場から弾き飛ばされ瓦礫に激しく体を叩きつけられた。
魔術師は脱出するため、這う這うの体で起き上がった。『隠れ家』に入るため《瞬間移動》の魔法を使おうと杖を掲げたところで、彼はその動きを止めた。
彼のすぐ目の前で、竜の巨大な目が自分を見つめていることに気が付いたからだ。
直径が自分の背丈の数倍はあるその目を見た瞬間、彼の体は金縛りにあったかのように凍り付いた。竜は虹色の虹彩を輝かせながら、魔術師を静かに見つめている。
圧倒的強者の生み出す恐怖は、不死の体すらも震わせるのか。
そんな笑えない発見が脳裏に過るのを感じながら、彼は目の前の巨大な瞳をじっと見続けた。
虹色の竜は目の前にいる矮小な生き物から漂ってくる不快な臭いを避けるため、鼻の孔をしっかりと閉じた。そして瞳だけを動かして周囲を見回した。
ここはどこなんだろう? 私はねぐらで寝ていたはずなのに。
大切な森が燃えて嘆く妖精たちを救うために魔力を使ったところまでは確かに覚えている。だがその後の記憶が全くない。一体、いつの間にねぐらを出てこんな場所にやってきたのだろうと、彼女は首を傾げた。
その理由はもちろん、名無しの魔術師によって彼女の記憶が奪われたからだ。魔術師は彼女の名前と共に《人化の法》で切り取られた彼女の力と、人間と出会ってからの彼女の記憶のすべてを奪い去った。
つまりここにいるのは人間と出会う前の彼女。長い年月、人間の営みを見続け、彼らを愛するようになる前の荒ぶる神竜だ。
彼女が最初に考えたことは、ねぐらに帰らなくてはならないということだった。
ねぐらには彼女の大切にしている宝物がたくさんしまってある。ねぐらを離れている間に、いたずら好きの風の妖精が宝物を隠してしまうかもしれない。
彼女は蹲っていた体を起こすと、翼を大きく広げあくび代わりの咆哮を上げた。不快な臭いを発する小さな生き物が彼女の咆哮の勢いでころころと地面を転がる。
あらら、やりすぎちゃった。
そう思って彼女が生き物に目を向けた時、その生き物から何か奇妙な魔力の波動を感じた。生き物から発せられた魔力が周囲の空間に働きかけるのが、彼女にははっきりと見えたのだ。
なんだろう、これ?
彼女は起こしていた首を下げてぐっとその生き物に自分の目を近づけた。生き物は怯えたように動きを止めている。彼女は生き物の様子をじっと観察した。
ボロボロの皮のような物を体に巻いて木の棒を持っている。どうやらちょとだけ魔力を持っているようだけど妖精でも、神々の眷属でもなさそうだ。見たこともない珍しい生き物。森に棲む動物の一種だろうか?
それにしてもこの生き物からは酷い臭いがする。それは彼女を不快にさせる臭い。妖精たちの世界を焼き尽くした滅びの火に似た臭いだった。
そうか、わかったぞ!
途端に彼女は閃いた。この生き物もあの滅びの火を浴びたに違いない。あの火は緑の大地を腐らせ、美し泉を濁らせた。この生き物がこんな醜い姿に変わってしまったのも、きっとあの火を浴びてしまったからに違いない。
彼女は目の前で恐怖に震えるこのちっぽけな生き物を哀れに思った。
『いま、きれいにしてあげるからね。』
彼女は竜の言葉でそう語りかけると、生き物めがけて浄化の炎の息をふうっと吹き付けた。
竜の巨大な顔が魔術師に向けられたかと思うと、その巨大な牙の隙間から高熱の息が吐き出された。
魔術師は咄嗟に魔力を使い、竜の息から自分の身を守った。周囲の瓦礫が融解し蒸発していく中、彼はドーラから奪った力を振り絞って魔力の結界を作り続けた。
だが竜の力はあまりにも強大だった。竜の息が生み出す熱と魔力の奔流の前に、彼の結界はたやすく崩壊した。魔術師の体を包む長衣は瞬時に塵へと変わり、手にした杖はその腕ごと白い灰となって崩れ去った。
「私の体が燃える!! 研究はまだ終わっていないのだ! こんな、ところで私は・・・!!」
魔術師は断末魔を上げながら虹色の光の中に溶けていった。虹色の竜が生み出す浄化の炎は、彼の体と共に彼の魂を縛っていた『名無しの呪詛』をも焼き尽くした。
虹色の光に包まれ消滅する寸前、魔術師は不思議な声を聞いた。
「あなたならきっともっと多くの人を救えるわ。私、あなたのことを信じてる。」
それははるか昔に聞いた懐かしい声。彼の魂の中心にずっとあったはずの大切な、大切な言葉だ。どうして今まで忘れていたのだろう。
自らを縛る呪詛から解放され、彼は唐突に思い出した。ああ、そうだ。私は病に侵された彼女を救うために薬の研究を始めたのだった。
彼はその研究によって病に苦しむ多くの人々を救った。だが一番救いたかった彼女は、彼の研究が完成する直前に天へと還ってしまった。彼のもとにあの言葉だけを残して。
「私はただ君を救いたかったんだ。それだけが私の望みだった。エリザベート、私は君にもう一度・・・。」
最後の呟きが終わらないうちに、体を焼き尽くされた魔術師の魂は小さな金色の光に変わった。金色の光は誰かを探し求めるように宙を彷徨った後、どこからともなく現れたもう一つの金色の光と一つになって虚空へと消えていった。
妙にさっぱりした気持ちで、私は一人呟いた。
『これで嫌な呪詛の臭いもきれいに消えたね。よし、村に帰らなくっちゃ!!』
んん、ちょっと待って? 村ってどこだ? 私、ここで何をしてたんだっけ?
なんだか記憶がこんがらがっている。私は瓦礫の中に座り込んだまま、自分の体を見回した。光り輝く鱗も、長い尻尾も、つやつやの翼も、別に変ったところはない。うん、大丈夫。体には異常がないみたいだ。
体には? そういえばどうして私、竜の姿でこんなところにいるの?
しばらくぼんやりと青い月の光を見つめているうちに、だんだんと記憶が戻ってくる。確か地下の魔石を何とかしようと思って、それからペンダントを見つけて・・・。
記憶が戻るとともに今とてもまずいことをしているという自覚が押し寄せ、鼓動が早くなってきた。私は自分の体で完全に領主城を押しつぶしてしまったことに気が付いて、一気に血の気が引いた。
「た、大変!! 《人化の法》!!」
大慌てで人間の姿になってみたものの壊れたお城は元に戻らない。おまけに服が見つからない。
裸のまま《収納》を隅々まで探してみたけれど、見つからなかった。どうやら知らないうちに、服を着たまま竜の姿に戻ってしまっていたらしい。
一体、私、何しちゃってたんだろう?
服が見つからない以上、こうして居ても仕方がない。マリーさんに怒られるのを覚悟で一度家に戻るしかないだろう。そうは言ったものの、カンカンになって怒るマリーさんの姿を想像して、ぶるぶると体が震える。
何とか言い訳を考えようと思ったけれど、何にも思いつかなかった。うう、怖いよう・・・。
こうして私は泣きべそをかきながら人気のない城跡を後にし、ハウル村の自分の部屋に戻ったのでした。
読んでくださった方、ありがとうございました。これで一応、決着ということになります。この後、閑話を一つ挟んで、事件後の人たちの様子を書く予定です。よかったらまた読んでいただけるとありがたいです。