59 魔術師
かなり無理して詰め込みました。すごく長いです…。すみません。
グレッシャー領主城の地下倉庫の壁が音もなく開き、地下への階段が現れたのを見て、エマは息を呑んだ。
「こんな隠し扉が・・・。」
「私もついさっき思い出したのだ。まだおぼろげだが、確かにここを通った記憶がある。」
エマの呟きにそう答えたレイエフは「うっ」と呻いてふらりと体をよろめかせた。彼の隣に立っていたカールがその体をさっと支える。
「グレッシャー卿、大丈夫ですか?」
「すまない、ルッツ卿。あと、私のことはレイエフと呼んでくださって構いません。」
「承知しました。では私のこともカールとお呼びください。」
2人は軽く頷き合った後、仲間たちを促して階段を下りて行った。
階段を下りた先は長い廊下になっていた。廊下の両脇にはたくさんの木の扉が並んでいる。そして廊下全体に鉄臭い腐敗臭が満ちていた。
カールの外套を羽織ったリアが扉調べた後、鍵のかかっていないそれをそっと押し開く。暗い室内に魔法の携帯角灯を差し込んだリアは目を軽く見開いた。
静かに首を振ったリアから角灯を受け取ったカールは、扉を開けて部屋の中に入った。
「これは・・・!?」
扉の中は小さな石造りの小部屋だった。部屋には食料や武器を備蓄するためと思われる丈夫な棚が置かれていたが、今そこに詰まっているのは樽や木箱ではなく、たくさんの人間の遺体だった。
苦悶の表情を浮かべた遺体はすべて胸の真ん中が膨れ上がる様に変形していた。膨れ上がった部分は切開されている。まるでそこから何かを取り出した跡のように見えた。
遺体の足の裏には番号が書かれていた。見比べてみると遺体はどうやら番号順に並べられているらしいという事が分かった。一番新しい番号は20000を優に超えている。
「なんて惨いことを・・・!!」
部屋を覗き込んだロウレアナは息を呑み、隣にいたエマの顔を自分の体に強く押し付けて彼女の目を塞いだ。エマの肩を強く掴んでいるロウレアナの手は小刻みに震えていた。
エマはぎゅっと目を瞑ったまま、イレーネとミカエラが無事でいてくれますようにと大地母神に祈りを捧げた。
エマとロウレアナを廊下に残し、他の仲間たちは次々に部屋の中を調べていった。どの部屋の中も多くの遺体で埋め尽くされていたが、攫われたイレーネとミカエラの姿は見えなかった。
哀れな犠牲者の中には不死者と成り果て襲い掛かってくる者もいたが、すべてテレサの祈りによって浄化され、白い灰となって燃え尽きていった。
「この地下室全体に強い不死の穢れと呪詛が満ちています。いくら払っても元凶を絶たねばキリがありませんね。」
テレサがそう言った通り奥に進むほど、多くの不死者が彼らを待ち構えていた。その中にはあの鎧兵士たちのように全身が焼け爛れた者や、人間や魔獣が合わさったような姿をした者たちもいた。おそらくは敵の首魁による邪悪な実験の被害者たちだろう。
怨嗟の呻きを上げて襲い掛かってくる彼らを剣で牽制しながら、ヴィクトルはそっとカールに囁いた。
「(アニキ、この連中ってやっぱり・・・。)」
「(ああ、村々から集められた若者たちだろうな。)」
カールは隣に立つレイエフの横顔をそっと窺った。
固い表情をした彼は奥歯を噛みしめたまま、襲い掛かってくる不死者たちから仲間を守っている。不死者と成り果てたかつての領民たちと対峙する彼の心中を思って、カールは胸に怒りと悲しみが湧き上がってくるのを感じた。
廊下の先にあった階段をさらに降りていくと、暗闇の先にぼんやりとした明かりが見え始めた。慎重に進んでいくと、石造りの壁が不意に不自然な質感を持つ岩壁へと変化する場所に出た。
ぼんやりとした明かりはその岩壁全体からが発せられていた。岩壁の表面はまるで一度高熱で溶かしてから固めたようにツルツルとしていた。
「お師匠様、これって・・・。」
「ええ、迷宮の壁によく似ていますね。」
テレサはエマの言葉に小さく頷いた。石造りの通路は岩壁の通路の壁の一部を破るような形で合流している。岩壁の通路の向かって左側は、崩れた岩で完全に塞がっていた。右側は少し先に進めるようだがここからでは先がよく見えない。
もしこれが生きている迷宮なら、壊れた壁は迷宮核の魔力によって修復されるはずだ。また討伐され核を失った迷宮は枯れ果ててやがて埋まってしまう。つまりこの通路は迷宮の一部ではない。
しかし何者かが魔法を使って作り上げたものには間違いなさそうだ。油断することは出来ない。
「おそらくこの地下倉庫を作っている最中に、この岩壁の通路に突き当たったのでしょう。」
テレサの言葉を聞いたレイエフは、強張った顔で通路の先を見つめた。そして古い記憶を呼び覚まそうとするかのように目を細めた。
彼らは慎重に岩壁の通路を右へと進んでいった。通路はすぐに終わった。突き当たりの壁には磨き上げられた美しい金属製の扉が取り付けられていた。
通路の状態から見ても間違いなく古い時代のもののはずなのに、扉には傷一つ付いてない。
「これはもしや『空白の世紀』以前の古代遺物ですか・・・!!」
扉を見たロウレアナが震える声で言った。
「王国内にこんなものがあるなんて、聞いたことがないぞ。」
カールは戸惑った表情で仲間たちを振り返る。すると混乱する一行の中から、レイエフが一歩前に踏み出して言った。
「皆、待ってくれ。この扉は確か・・・。」
彼が扉の前に立つと光で出来た薄い板のようなものが空中に浮かび上がった。そして涼し気な女性の声が扉から響いた。
『生体IDをお持ちでない方は、認証コードの入力をお願いします。』
薄い光の板には手のひらの形をした印と文字や数字の書かれた小さな円形の硬貨のようなものが並んでいる。
「レイエフ殿、これは何かの暗号か?」
「分からない・・・だが何となくやり方を覚えている。」
カールの問いかけに静かに首を振った後、レイエフは光の板に書かれた小さな文字や数字に次々と触れていった。すると再び扉から女性の声が響いた。
『入力されたコードは管理者により変更されています。新しいコードを入力してください。』
レイエフは何度か操作を試してみたが、扉は開くことなく同じ言葉を繰り返すばかりだった。
「どうしますアニキ? ぶち破って進みますかい?」
困り果てたレイエフとカールに、ヴィクトルが背中の大剣に手をかけてそう言った時、エマが突然声を上げた。
「あ、あのっ!! 私がやってみてもいいですか?」
仲間の目がエマの集まる。
「あなたはこれがどういうものか知っているのですか、エマ?」
「いいえ、お師匠様。でも以前、これと同じようなものを見たことがあるのです。」
エマの言葉を聞いたヴィクトルとレイエフは驚いて目を見開いた。テレサはエマとしばらく見つめ合っていたが、やがて静かに頷いた。
レイエフと入れ替わるように扉の前に立ったエマは、恐る恐る光の板に手を触れた。手のひらの印にエマが右手を重ねると、扉から女性の声が響いた。
『天空城管理者によるマスターコードを確認しました。すべての階層へのアクセスが許可されています。移動したい階層をカプセル内のタッチパネルでご指定ください。』
音もなく両開きの扉が左右に分かれる。扉の先は円筒形の小部屋になっていた。小部屋から溢れる眩い光に、思わずロウレアナは目を細めた。
彼らはエマに続いて小部屋の中に入った。するとエマの前に再び光で出来た板が表示された。
「これは階層図のようだな。」
エマと共に板を見ていたカールがそう呟く。光の板には『現在位置』という印と共に、複数の階層が描かれている。しかし最も下にあるもの以外は赤い色で『汚染区画』という警告が記されていた。
エマは仲間の顔を見回した後、警告の書かれていない唯一の階層に指を触れた。
「・・・何にも起きねえぞ?」
そんなヴィクトルの言葉に仲間たちも戸惑った表情で同意する。だがロウレアナだけは彼の言葉をはっきりと否定した。
「いいえ、この小部屋は今、すごい速さで下降しています。」
それを聞いたテレサが怯えた表情で顔をわずかに歪ませた。エマはそんなテレサの手をそっと掴んだ。テレサの手は冷や汗で濡れ、僅かに震えている。
テレサはエマに小さく「ありがとう」と言った。やがて特に何事も起きないまま、扉が開いた。
「着いたようだ。」
扉の先は薄い光を放つ岩壁だった。その先は酷く暗くなっている。一行は明かりを用意して慎重に先へと進んだ。やがて通路は見慣れた石造りの壁に変わった。
「・・・禍々しいほどの魔力の波動を感じます。」
テレサの言葉にエマとロウレアナも頷く。魔力感知の力を持たない二人にも、肌がひりつくような魔力の波動が通路の先から伝わってきていたからだ。
「この先に敵の首魁がいるようだ。皆、心してかかれ。」
カールの言葉に仲間たちは互いに頷い合った。やがて通路は金属製の扉に突き当たって終わった。
これは王国でもよく見る普通の両開きの扉だ。扉の表面には不気味な文様が描かれている。エマはそれが魔方陣であることに気が付いた。おそらく侵入者を撃退するための魔法が描かれているに違いない。
レイエフも当然それに気が付いていた。しかし彼は躊躇なく扉に手を触れると、はっきりとした調子で合言葉を口にした。
「真理を求める者よ、あらゆる迷いを捨てすべてを受け入れるべし。」
文様が一瞬輝き、扉が軋みを上げながらゆっくりと開いていく。扉の隙間から漏れ出てくる不吉な赤い光を見たリアは、短刀を握る手にぐっと力を込めた。
彼らは扉の中に足を踏み入れた。音の響きからしてかなり広い空間が広がっているようだが、深い暗闇が満ちているため、全体の様子を見ることができなかった。
唯一見えるのは、やや離れた場所で不気味な赤い光を薄く発する巨大な岩だけだ。
「なんですかいアニキ、あのでっけえ岩は・・・?」
震える声でそう言ったヴィクトルに応えたのは悲鳴のようなエマの声だった。
「まさかあれ、魔石!?」
「エマの言う通りです。しかしただの魔石ではありません。」
テレサが怒りを抑えたような固い声で、エマに言った。
「あの魔石は人間の魂で出来ています。」
テレサの言葉に仲間たちは驚き、もう一度岩を見つめた。
「ほう、少しはまともな知恵を持つ者がいるようだな。」
その時、暗闇の中に歪んだ声が響いた。いつの間にか巨大な魔石の隣に人影が出現していた。
赤い薄明かりに照らされたその人物は魔術師の長衣のフードを深く被り、右手にねじくれた木の杖を握っている。
仲間たちが驚きに息を呑む中、レイエフは腰に佩いた剣をさっと抜き払って言った。
「・・・久しぶりだな、魔術師。」
「誰かと思えば、あの時の騎士か。私の呪詛は解けていないはずなのにその姿はどうしたのだ?」
エマたちはレイエフと同じように武器を構え、魔術師に対峙した。だが魔術師はそれを気にした様子もなく、フードの奥で何度も頷いた。
「興味深い。実に興味深い。ぜひじっくりと調べてみたいものだ。だが。」
魔術師は杖でこつんと床を突いた。途端にエマが悲鳴を上げる。
「か、体が!?」
杖の音が響いた途端、エマは足元から湧き上がってきた魔力に捕らえられ身動きができなくなってしまった。声こそ上げなかったが、他の仲間たちも同様に動きを封じられてしまったようだ。
何とか魔力の拘束を解こうとするエマたちの前に、魔術師はゆっくりと近づいてきた。
「自由に動き回られると困るので、動きを封じさせてもらった。大切な儀式魔法の時間が迫っているのでね。」
先頭のレイエフまでほんの数歩の場所まで近づいたとき、再び魔術師が杖で床を突いた。すると床の上に赤い光を放つ巨大な魔法陣が浮かび上がった。
魔法陣の光で部屋の中の様子がようやく見えるようになった。地下にもかかわらず、そこは呆れるほど広い空間だった。光が届いていないところを見ると、かなり天井も高いようだ。
魔法陣はその広い地下空間の中央付近に描かれている。巨大な魔石はその魔法陣の中心に鎮座し、不気味な明滅を繰り返していた。
円の中に六芒星をいくつも重ね合わせたような複雑な形をした魔法陣のあちこちには、十字の形をした金属製の拘束台が有る。そこには粗末な白い服を着た若い女性たちが手足を鎖で繋がれていた。
彼女たちは皆ぐったりとしていて、死んだように動かない。怖れ慄きながらその様子を見ていたエマは魔方陣の中心付近、魔石にもっとも近い位置にある拘束台を見て悲鳴を上げた。
「ミカエラちゃん、イレーネちゃん!!」
エマの言葉の通り、そこにいたのは攫われた二人の令嬢たちだった。
「貴様、何をする気だ!!」
怒りに満ちたカールの叫びを嘲笑うかのように、魔術師は歪んだ声で答えた。
「何をする気かだと? もちろん実験さ。実験せずにどうやって理論の正しさを検証するというのかね?」
エマたちの視線が自分に集まったことに気づいた魔術師は、嬉しそうな声で話し始めた。
「せっかくだから君たちに私の研究を紹介するとしよう。あの魔石を見給え。そこの女が言った通り、あれはすべて人間の魂で出来ている。我ながらよく出来たと自負しているよ。」
「人間の魂を魔石に変えただと・・・!?」
「ああ、そうだ。これを見給え。」
魔術師はそう言うと爪の先ほどの大きさの小さな魔石のかけらを指先に取り出して見せた。
「これは魔力を持たない下民一人分の魂を魔石に変換したものだ。」
赤い光を放つ魔石を嬉しそうに示す魔術師を見て、エマは背中にゾッとするような悪寒を感じた。
「太古の錬金術師が残した魔術式を使って私が作ったのだよ。魔術式には失われていた部分が多かったが、もちろん私が補って復元した。」
人間をまるで素材であるかのように魔術師は言い放つ。その言葉に仲間たちの怒りが高まっていくのをエマは感じ取った。もちろんエマ自身も同じ気持ちだ。
だがどんなに頑張っても指先すら動かすことができない。魔術師のかけた術を破らない限り、動くことは出来ないに違いない。魔術師は必死に藻掻くエマたちを尻目に、興奮した様子で話し続けた。
「研究して分かったが、この魔術式を考案した術師は天才だよ! こんな天才の偉業をろくに伝えもせず廃棄してしまうなんて、まったくこの世には愚かな人間が多すぎる。」
「なんと不遜な・・・!! 命をなんだと思っているんだ!!」
カールが怒りを込めた声で叫ぶ。だが魔術師は冷たい声で彼に言った。
「愚にもつかぬ戯言だな。崇高な研究の糧となったのだから、むしろ喜ぶべきことだろう。それに見給え、この美しい魔石の輝きを。」
魔術師は指先で摘まんだ赤い魔石をカールに向かって差し出してみせた。
「確かどこかの村の農夫だと言っていたな、この魔石になった男は。フフフ、何の役にも立たぬ人間からこんなにも美しいものが生み出されるんだ。まさに奇跡ではないか?」
魔術師の言った農夫の姿がハウル村の人々と重なり、エマはぎりっと歯を食いしばった。彼女は怒りに任せて自分の中の魔力を暴れさせ、何とか魔力の拘束を解こうとした。
それを見た魔術師はすっとエマに指を向けた。途端にエマの体が強張り、声を上げることすらできなくなってしまった。
「無駄だ。この空間で私に逆らうことは出来ぬ。お前は次の研究材料にしてやるから、そこでおとなしくしているがいい。」
悔しさのあまりエマの目に涙が滲む。だが魔力で縛られた体では呼吸をするのさえ精一杯。それを見た魔術師は顔を隠した暗いフードの内側で小さく愉悦の笑い声を上げた。
「いったいその魔石を使って何をするつもりなのですか?」
それまで黙って魔術師の話を聞いていたテレサがそう問いかけると、彼は彼女の方へ向き直った。
「・・・お前は他の愚か者たちとは少々毛色が違うようだな。」
テレサは無言で魔術師を見つめ返した。魔術師は先ほどまでとは打って変わった静かな調子で、彼女の問いかけに応えた。
「私の目的はすべての人間たちを生の苦しみから解放することだ。」
「・・・生の苦しみですって?」
「ああ、そうだ。しかし愚かな者たちは私の研究を理解しなかった。捕らえられた私は処刑され、研究成果はすべて失われた。」
魔術師は暗い声で呟くようにそう言った後、ふと自嘲するように笑った。
「だが私は再び蘇った。皮肉なことに私を滅ぼそうとした者たちの強い呪詛の念のおかげでね。」
「意志を持つ不死者・・・やはりあなたは『拒まれし者』なのですね。」
テレサの言葉を聞いた魔術師は、小さく息を吐いた。
「・・・実に聖女教徒らしい呼び方だな。まあ、不死なる魔導士でも、始まりの者でも好きに呼んでくれて構わないがね。」
不死なる魔導士という呼び名を聞いて、エマはハッと息を呑んだ。かつてガブリエラから聞かされた話を思い出したからだ。
極めて強い魔力を持つ魔導士の中には、自らの死さえも否定するほどの力を得る者がいる。彼らはその強大な魔力を以て、世界の理を自由に書き換えることができるのだという。
結果、彼らは寝食不要の不滅の体と、自由な意志を得ることが可能となるのだ。
その話を聞いたとき「眠ることも食べることもせずに、いつまでも生きらていられるなんてすごいですね!」と言ったエマに、ガブリエラは真剣な表情で首を振った。
「これはね、呪いなのよエマ。世界の理に反したことで彼らは永遠に呪われた存在に成り果ててしまうの。」
「呪い?」
「ええ。だっていくら体や意志が不滅だとしても、心まで不死ではいられないのだから。」
「心、ですか。」
「そうよ。長すぎる時間は人の心をすり減らしてしまうの。そしてやがては心を失くした只の抜け殻になってしまう。終わることのない時間の中で永遠に思考し続けることを、あなたは幸せだと思うかしら?」
エマはそのことを想像してぶるっと体を震わせた。
「いいえ、すっごく怖いです。でも、どうしてガブリエラ様は私にそんなことを教えたんですか?」
ガブリエラはエマの目を見たまましばらく黙っていた。けれどやがて「もしかしたら、だけれど」と前置きをしてから言葉を選ぶように話し始めた。
「それはねエマ、あなたがいつか自分の死を否定できるほどの力を持つようになるかもしれないからよ。」
「私がですか!? まさか!」
驚くエマの目を正面から見つめた後、ガブリエラは少し悲しげな表情で微笑んだ。
「私の杞憂だといいのだけどね・・・大きすぎる力は時に人を狂わせるものなの。」
キョトンとした表情を浮かべるエマ。そんなエマにガブリエラはゆっくりと言い聞かせるように語りかけた。
「今はまだ理解できないかもしれない。でもあなたには、私の言葉を心の片隅に置いておいてほしかったの。」
幼いエマはガブリエラの真剣な様子にとても驚かされたが、すぐに大きく頷いた。
「分かりました! 私、絶対に忘れないようにします!!」
元気よくそう言ったエマの頭をポンポンと撫でてから、ガブリエラは立ち上がった。そして最後に泣きそうな笑顔で彼女に言ったのだった。
「よろしい。あなたを大切に思っている人がいることを、決して忘れないことね。」
エマは目の前にいる魔術師をじっと見つめた。フードの中は完全な暗闇だった。まるで底の見えない深くて暗い淵のようだ。その中に一瞬、自分の顔が見えたような気がしてエマは慌てて目線を逸らした。
魔術師はエマのそんな思いも知らず、テレサに向かって静かに話を続けた。
「墓所に封印されたまま永い時間が流れた後、ついに私の封印を解く者が現れた。彼は最初、私の力を我が物にしようとしていたらしい。だが私の能力と研究成果を知ると協力すると言い出したのだ。そしてこの研究拠点を提供してくれた。」
魔術師はそう言って杖で魔方陣の描かれた地下空間を指し示した。
「それからは楽しかったよ。私は彼の下で様々な研究に取り組んだ。協力者の彼は魂を操る技に長けていてね。彼のおかげで私の研究も大いに進んだよ。その成果の一つがこの魔石さ。これも人間を生の苦しみから解放するという問いに対する解の一つだと、私は思っているよ。」
「人間をそんな石ころに変えちまうのが解放だって!? ふざけるなこの・・・!!」
大声を上げたヴィクトルを魔術師が指さすと彼は途端に青い顔で苦しみ始め、やがて気を失った。その場に崩れ落ちたヴィクトルを一顧だにすることなく、魔術師は話を続けた。
「ただ残念なことに、本格的な研究にかかる前に私は再び封印されてしまった。その男によってね。」
魔術師はレイエフに近づくと、動かない彼の体を杖で軽く突いた。
「私の呪詛はまだ解かれていないな。なのに姿が元に戻っているのはなぜなのか。実に興味深い。」
レイエフは憎々し気な表情で魔術師を睨み返した。まるでレイエフのことを貴重な材料としか思っていないような言葉だ。
しかしその言葉を聞いたことで、エマはレイエフの姿が変化した理由に気が付くことができた。
おそらく呪詛や穢れに強い耐性を持つドーラの魔力が大量にレイエフの体に流れ込んだことで、一時的に呪いの効力が薄まったからに違いない。
もちろん分かったからと言って、それを魔術師に伝えるつもりはない。ただドーラの魔力はこの強大な魔術師の力すらも弱めるものだということが分かって、エマは少しだけ内心の落ち着きを取り戻すことができた。
魔術師はしばらくレイエフを興味深げに観察していたが、やがて静かに彼から離れた。
「その理由は儀式終了後にじっくりと調べるとしよう。そろそろ時が満ちる頃合いだ。」
魔術師はそう言うと、再び杖で床を突いた。魔方陣の輝きが増し拘束された女性たちが途端に苦しみ始める。彼女たちは間もなく断末魔の声を上げながら次々と絶命していった。
やがてエマの見ている前で、死んだ女性たちの腹部が少しずつ膨らみ始めた。まるで赤ん坊がその体内に宿ったように見える。エマは胸が悪くなるのを感じた。
女性たちの様子を見た魔術師は、感情のない声で呟くように言った。
「彼女たちは生の苦しみから解き放たれた。人は苦しみ故に過ちを犯す。それは何度生まれ変わっても変わることがない。愚かな過ちをただひたすら繰り返す生に一体何の意味があるというのか。」
本当に小さな小さな呟き。だがテレサはその言葉を聞き逃さなかった。
「人生に意味などありません。それを見出すために私たちは生きているのですから。」
自分の呟きをきっぱりと否定したテレサを、魔術師はじっと見つめた。
「・・・詭弁だな。」
「あなたは傲慢です。」
二人はしばらく無言で向かい合っていた。だがやがて魔術師はテレサに向かって小さく言葉を発した。
「輪廻の輪から人々の魂を解放してやらなくてはならない。それが真の救済なのだ。これ以上、お前と話すことはない。」
魔術師はテレサに背を向けると、魔方陣に置かれた魔石の方へ足を向けた。
「その言葉、あなたにそのままお返しします。」
テレサの言葉が終わると同時に彼女の足元から金色の光が沸き上がり、エマたちの体を包み込んだ。不意に体が軽くなる。
急に魔力による体の拘束が解かれ、エマは思わずその場にへたり込んだ。
「今です!」
テレサの声に合わせて、カールとレイエフは剣を構えて前に飛び出した。カールの片手剣が閃き魔術師の姿が両断される。しかし何の手ごたえもないまま、魔術師の姿は溶けるように彼の前から消え去った。
「なるほど、私と会話しながら神力を高めていたのだな。油断ならん女だ。お前、ただの司教ではないな、一体何者だ?」
全く別の場所に姿を現した魔術師がテレサに問いかける。テレサがそれに答えるよりも早く、カールは再び片手剣で魔術師を切り裂いた。しかしまたさっきと同じように魔術師は姿を消してしまった。
「幻惑の術か!!」
「カール殿、こっちだ!!」
そう叫んだレイエフが何もない空間に向かって剣を振る。どうやらレイエフには魔術師の姿が見えているらしい。
しかしカールには魔術師の姿が全く見えなかった。周囲を見回すカールの耳元で魔術師の声が響く。
「無駄だ。私の真の姿を捉えられるのは私の呪詛を受けているこの男のみ。女司教を殺し、再び捕らえてやる。」
その言葉が終わると同時に周囲の暗闇が寄り集まり人型を形作り始めた。美しい女性と様々な魔獣が融合したような姿を見たカールは驚きの声を上げた。
「まさか、エリザベート!?」
彼の前に現れたのはかつて王国を襲撃してきた複合獣の女、エリザベートだった。だが彼女はドーラの魔法剣を振うカールによって倒されたはず。
「ほう、その名を知っているのだな。私の協力者を殺したのはお前たちだったのか。」
「彼女を蘇らせたのか!?」
翼をはためかせて飛び上がり、空中から襲い掛かってきたエリザベートの攻撃を躱し、カールは叫んだ。魔術師は面白がるように彼の問いかけに答えた。
「いや、これはただの複製体だ。あの女の素体を改造したのは私だからな。」
複合獣の女は信じられないほどの速さでカールに迫り、次々と攻撃を繰り出す。その様子を見ながら、魔術師は満足げな調子で言った。
「記憶や知能までは複製出来なかったが、戦闘力はほぼ完全に再現してあるはずだ。実戦の記録を残したいのでね。出来るだけ長く生き残ってくれると助かる。」
魔術師の声に反応するかのようにエリザベートは鋭い爪で攻撃を繰り出しながら、短く呪文を詠唱した。たちまち魔力で出来た黒い槍が空中に十数本出現する。
エリザベートが自分の攻撃に合わせて放った槍を、カールは魔法剣を使って巧みに薙ぎ払っていった。しかし躱しきれなかった槍が彼の左腕を掠めた。カールは思わず「ぐっ」と声を上げ、痛みに顔を歪めた。
「カール殿!!」
レイエフはカールに助勢しようと近づいたが、カールは大きく手を振ってそれを留めた。
「心配無用! レイエフ殿はあの魔術師を!!」
自分を援護しようとするレイエフを遠ざけ、カールは起動呪文を唱えた。
「鎧よ、我が身を守れ!」
たちまち彼の体が虹色の輝きを帯びた白銀の光に包まれる。彼の左腕に付けた魔法の腕輪が鎧に姿を変え、彼の体に装着された。ドーラが作り出した魔法の鎧は複合獣の女の攻撃から彼の身を守るとともに、傷ついた体を癒し始めた。
鎧の光で怯んだエリザベートをカールの魔法剣が切り裂く。彼女は断末魔の叫びを上げ黒い砂となってその場に崩れ落ちた。
「ほう、始原魔法を用いた古代遺物か? 実に興味深い。」
魔術師はそう呟くと、再び杖で床を突いた。崩れ落ちた黒い砂が寄り集まり、再びエリザベートの姿を形作る。しかもその後ろの暗闇からは、次々と同じ姿をしたエリザベートたちが現れた。
十数体のエリザベートたちは、一斉にカールと彼の守るテレサたち目掛けて襲い掛かっていった。
「やめろ!! お前の相手は私だ!!」
叫び声を上げて斬りかかったレイエフだったが、その斬撃は禍々しい色をした騎士剣によって受け止められてしまった。
「身の程を弁えろ、人間。」
驚くレイエフの前で、魔術師の姿が魔法銀の鎧をまとった騎士の姿に変わていく。
「お前は・・・私か!?」
「・・・呪詛が緩んでいるようだな。この姿を認識できるとは。」
黒い鎧を纏ったもう一人のレイエフは驚いたように呟いた後、長衣姿のレイエフを剣ごと弾き飛ばした。倒れこんだ本物のレイエフに、鎧を着たレイエフが斬りかかっていく。
だが寸でのところでレイエフはもう一人の自分の剣を躱した。素早く転がって起き上がり、距離を置いて2人のレイエフが対峙する。
何の前触れもなく、二人は同時に攻撃を開始した。互いに剣を振るい攻撃を繰り出すが、その技量は全くの互角。両者の戦いは膠着し、一向に終わりが見えなかった。
しかし徐々にではあるが、長衣を着た本物のレイエフの方が押され始めた。彼は剣を躱そうとして足をもつれさせ、その場に倒れた。
倒れこんだところに打ち込まれた剣をギリギリで回避し、素早く立ち上がる。激しく息を吐いた彼は自分が口から血を流していることにようやく気が付いた。
途端に持っている剣も重く感じられる。ふと見れば剣を握る手がどんどん瘦せ細り始めていた。
レイエフの体内に流れ込んでいたドーラの魔力が少しずつ失われているため、再び呪詛が彼を蝕み始めたのだ。その様子を見て、黒い鎧のレイエフは端正な顔に残忍な笑みを浮かべた。
「呪詛で縛られたお前に私を倒すことは出来ん。儀式魔法が完成したら、もう一度貴様の力を奪ってやろう。」
繰り出された騎士剣を、レイエフは必死の思いで受け止めた。あまりの衝撃で彼の首に下げられていた焼け焦げた首飾りが外れ、石の床に転がり落ちる。
かつて彼が持っていた騎士剣と、彼の兄から受け継いだ片手剣。2人のレイエフによって兄弟の剣が交錯した。
交わる剣を見た時、レイエフの脳裏にかつて体験した光景がまざまざと蘇った。それは王立学校での卒業式を終え、王都の屋敷で兄と最後に立ち合いをした時の様子だった。
木剣の斬撃を受け止め損ねた兄、ルングハルトが衝撃で地面に転がる。弟は慌てて兄に手を伸ばし、彼を助け起こした。
「すみません兄様。大丈夫ですか?」
「ははは、やはりお前の剣はすごいな。お前は私の誇りだ。」
弟の手を取った兄はそう言って笑った。仲の良い二人は小さい頃から何度も木剣での立ち合いをしている。
10歳を過ぎる頃には彼が兄に後れを取ることは無くなっていた。それでも兄はいつでも彼の剣の相手をしてくれた。そして最後にはいつもこうして彼を誉めてくれるのだ。
この立ち合いは2人きりの兄弟にとって、言葉にできないほど大切な絆なのだった。
だがそれも今日で終わり。学校を卒業した彼が騎士に叙任されたからだ。
騎士爵を得た彼はまもなく、自領を守る砦の隊長として城を出ていくことになる。泥で汚れた服を整え終えた兄の前に彼は跪いた。騎士礼をしたまま兄を見上げる。
「兄様にそう言っていただけて光栄です。ご期待に恥じぬよう、王国騎士として精一杯務めます。」
「ああ、期待しているぞ。」
満足そうに頷いた兄の目には涙が光っていた。それを見た彼の目にも熱いものが湧き上がってくる。二人は無言で見つめ合っていたが、やがてどちらからともなく袖で涙を拭い立ち上がった。
同時に同じ仕草をした2人の兄弟は、顔を見合わせて微笑み合った。
彼が木剣を収納棚にしまっている時、汚れた服を脱いでいた兄が不意に声を上げた。
「む? この首飾りは?」
「に、兄様!? 返してください!」
兄の手には銀の首飾りが握られていた。立ち合いの間、懐から出しておいたものを兄に見つけられてしまったのだ。
「武骨者のお前が珍しいものを持っていると思えば、なるほどベルトリンデ殿からの贈り物か。」
兄の差し出した首飾りを彼は無言で受け取った。赤い顔をした弟を見て兄は困ったように笑った。
「なんだ、そんなに恥ずかしがることでもないだろう。お前とベルトリンデ殿は幼き頃より将来を誓い合った仲。来年の夏には婚礼を控えているのだし、私にとっても彼女は実の妹のようなものだ。」
「それとこれとは話が違います。第一、誇りある王国騎士たる者が色恋に溺れていると思われるのはちょっと・・・。」
「いや、それは違うぞ。」
弟の言葉を、兄は普段とは違う真剣な口調できっぱりと否定した。
「国を、故郷を、人々を守りたいという思いは、突き詰めればそこに暮らす自分の大切な誰かを守りたいというところに行きつくものだ。顔も分からない誰かのために本当の力を発揮できる人間など、そうはいないのだぞ。守りたい誰かがいるということを、お前はもっと誇るべきなのだ。」
「・・・そういうものなのですか?」
「ああ、そういうものさ。頭の固いお前にはまだ理解できないかもしれないがな。」
兄はそう言って快活に笑うと、彼に手を振りながら歩き去っていった。彼は手の中の首飾りをぎゅっと握ったまま、その後姿を見送ったのだ。
あの首飾り。幼馴染のベルトリンデに結婚を申し込んだ際、それを受諾する手紙と共に彼女から贈られたものだ。
兄上に言われて以来、肌身離さず身に着け大切に扱っていた。どうして今の今まで忘れてしまっていたのだろう。
そうだ、あの婚礼の夜。すべての運命が転変したあの日。誓いの口づけを終えた後に彼女は私へ言ったのだ。
「死が二人を分つその日まで、私はあなたのことをずっと思い続けます、ラインハルト様。」
その瞬間、レイエフ、いやラインハルトはすべてを思い出した。王国を滅ぼす恐ろしい計略。その裏で暗躍する魔術師。
婚礼の夜、魔術師は兄を操り計略に気付いた彼を殺そうとしたのだ。だが彼はそれを撃退し、逃げた魔術師を追って北の砦に向かった。
砦を守る副官のランディを始めとする部下たちは魔術師の操る魔獣によってすでに殺されていた。彼はたった一人の戦いを強いられた。そして死闘の末、ついに魔術師を倒すことができたのだ。
だがそれ自体が罠だった。魔術師は砦で死んだ仲間たちの命を使い、彼に呪いを残していたのだ。名を奪うことでその存在を人々の記憶から消し去り、相手の力を奪う恐ろしい呪いを・・・。
彼は今、自分の名をはっきりと思い出した。彼は声を限りに魔術師に向かって叫んだ。
「お前は私が倒したはずだ! 正体を現せ、名無し!!!」
その瞬間、彼と鍔迫り合いを続けていたもう一人の彼の姿が溶けるように消え去り、不気味な魔術師の姿へと変わった。
2人の体から同時に強い光が発せられた。二人は互いに後ろ側へ跳ね飛ばされる。魔術師の呪詛が解けたことによる魔力の反動を受けたのだ。
その衝撃で、魔術師の持っていたラインハルトの騎士剣が石の床の上に転がった。呪詛で黒く染まっていた剣は、それが解けたことで元の色を取り戻していたが、10年以上を経過しているためか刃の表面には薄く錆が浮き始めていた。
魔術師の力が失われるにつれ、瘦せ細っていたラインハルトの体に力が戻ってくる。彼は兄の形見の剣を構えて素早く起き上がると、まだ立ち上がれずにいる魔術師に斬りかかった。
しかし魔術師は倒れた状態で杖を構え、黒い魔力の刃を放って彼を攻撃してきた。彼が剣でそれを打ち払っているうちに魔術師は起き上がり、彼と対峙した。
今や魔術師のかぶっていたフードは外れ、縫い合わせた皮で出来た不気味な覆面が露になっている。魔術師は歪んだ声で彼に叫んだ。
「私をその名で呼ぶな!!!」
魔術師が杖で床を突くと、彼の影から無数の怪物たちが湧きあがってきた。魔獣と人を出鱈目に組み合わせたような姿をした怪物たちは、唸り声を上げながらラインハルトを取り囲み、一斉に攻撃を仕掛けてきた。
ラインハルトは剣を振るい、瞬く間に怪物たちを切り伏せていく。だが我が身を顧みない怪物たちに四方から押し寄せられ、ラインハルトは次第に追い詰められていった。
「フフフ、まだ完全には力を取り戻せてはいないようだな。あの時は後れを取ったが、今度は私の勝ちだ。」
怪物の爪がラインハルトの背中を切り裂く。彼は大きく体をのけ反らせてその場に倒れた。それでも再び立ち上がったラインハルトは剣を振るい、押し寄せる怪物たちを寄せ付けまいと奮闘する。
だがついに彼は怪物たちに抑え込まれてしまった。怪物たちが彼を引き裂こうとした刹那、魔術師は怪物たちに「待て」と命じた。
「儀式が終わるまでそこでおとなしくしているがいい。どうやって私の呪詛を打ち破ったのか徹底的に調べ上げてから、再びお前のすべてを奪い去ってやる。」
怪物たちに床の上に押し付けられたまま、ラインハルトは名無しの魔術師を睨みつけた。
「先生!!」
やや離れたところで複合獣の女たちと戦っていたエマが、倒れこんだラインハルトを見て悲鳴を上げた。
次々と押し寄せてくる敵によってすでに味方は満身創痍。魔術師の呪詛を跳ね返しているテレサを守る為、全員が必死になって戦っている。
カールが回復魔法を使い、傷ついた仲間を癒すことで何とか持ちこたえているが、倒しても倒しても湧き上がってくる敵を排除することは到底できそうにない。
エマはおそらくこの敵の攻撃が呪詛を用いた召喚魔法の一種であることに気が付いていた。つまりこれを止めるためには召喚主である魔術師を攻撃する必要があるのだ。
しかし魔術師の呪詛が満ちたこの地下空間では、レイエフ以外の誰も魔術師を認識できない。そのレイエフが倒れたことで、エマの心に暗い絶望が広がった。
「エマ、気を付けろ!!」
一瞬、気を取られた隙に繰り出された複合獣の腕を、ヴィクトルの大剣が斬り落とす。エマは魔力を振り絞って作り出した《炎の槍》の魔法で、複合獣の心臓を撃ち抜き、焼き尽くした。
先ほどドーラの魔力を大量に放出したことで、今のエマは中級程度の攻撃魔法であれば使えるまでに回復していた。エマの魔法で焼き尽くされた複合獣が黒い砂に変わって崩れ落ちる。
しかしその砂は再び寄り集まり、さらに3体の複合獣となってエマたちに襲い掛かってきた。
「くそ!! キリがねえぞ!!」
ヴィクトルが大剣で攻撃を受け止めている間に、リアが短刀で複合獣の首を跳ね飛ばす。ロウレアナはその隙をついてリアの短刀とヴィクトルの大剣に、精霊による水属性の付与魔法をかけなおした。
この複合獣たちに通常の武器は通用しないからだ。さっきから連続で魔法を使っているため、ロウレアナの顔色はかなり悪くなっている。呪詛が満ちる空間での精霊魔法は、術者の負担がいつも以上に大きい。それでも彼女は歯を食いしばって、精霊たちに呼びかけ続けていた。
仲間の奮闘を目にしたエマは短杖を握る手に力を込めた。
希望を捨てちゃダメだ! 絶対に二人を助けて王都に、ハウル村に帰るんだ!!
エマは慎重にレイエフのいる場所までの距離を見計らった。今、彼は魔法の射程範囲から少し外れた場所に倒れている。もう少し近づくことが出来たら、攻撃魔法で彼を解放できるかもしれない。
もちろん身を守ってくれる前衛の側を離れる危険は百も承知だ。もしかしたら姿を隠している魔術師に殺されるかもしれない。そう思うと恐ろしさのあまり、自然と足が震えてくる。
エマは胸にかけていたペンダントを取り出すと、ぎゅっと強く握りしめた。ドーラの涙の結晶、竜虹晶が優しい虹色の煌めきを放つ。
その煌めきを目にした途端、周囲を取り囲んでいた複合獣たちが怯えた表情で一瞬動きを止めた。
お姉ちゃん、私を守って!!
エマはペンダントに強くそう願うと、片手でそれを掲げたまま複合獣の群れの中に飛び込んでいった。
「エマ、止めるんだ!!」
エマの動きに気が付いたカールは、すぐに彼女の側に駆け寄ろうとした。しかし彼の動きを察知した敵は、すぐにその隙を突いて攻撃を仕掛けてきた。カールは押し寄せる敵を魔法剣で切り裂いていく。
エマの周りにいる複合獣たちは一瞬、ペンダントの光に怯えたように後ずさった。
しかし次の瞬間、複合獣たちは怒りの声を上げてエマに襲い掛かった。カールはエマに群がる敵を魔法剣で薙ぎ払い、次々と黒い砂に変えていった。しかし押し寄せる敵があまりに多いため、すべてを排除することは出来なかった。
エマの小さな体に複合獣たちの鋭い爪が迫る。エマはそれを必死に掻い潜ろうとするが、四方から攻撃されすべてを躱すことは到底不可能。
エマが切り裂かれる。カールがそう思った瞬間、エマの持っていた首飾りが強い虹色の光を放った。
するとそれに呼応するかのように、ラインハルトを捕えている怪物たちの足元からも虹色の光が湧きあがった。虹色の光を浴びた敵はたちまち形を失い、黒い砂となってその場に崩れ落ちた。
おねえちゃんが守ってくれたんだ! 今のうちに先生を助けよう!
エマは再び走り出そうとした。しかしその時、どこからともなく響き渡った奇妙な音を聞いた彼女は、思わず足を止めてしまった。
それは聞いているだけで勇気が湧いてくるような勇ましい調子のメロディーだった。戦場である地下空間にその不思議な音が何度も何度も響く。
それを聞いた複合獣と敵たちは動きを止め、恐れたようにその場に立ち竦んだ。だがすぐに我に返ると、再びエマたちに向かって攻撃を開始した。
「何、この音? ラッパ?」
怪物たちが立ち竦んだ隙にカールはエマに駆け寄り、彼女を守りながらその問いかけに答えた。
「王国軍防衛隊の招集ラッパだ! だが一体、どこから?」
カールの言葉が終わるよりも早く、ラインハルトを押さえ込んでいた怪物たちが何かに弾き飛ばされるように薙ぎ倒され、黒い砂に変わって崩れ落ちた。
怪物たちが消えた後に現れたのは、虹色の光を纏った槍矛を構え、大盾を構えている大勢の兵士たちだった。
彼らの真ん中にいるラインハルトの足元には彼がベルトリンデから贈られたあの首飾りが落ちている。兵士たちはその首飾りが放つ強い虹色の光から次々と現れ出てきていた。
大盾を持った兵士たちの後から、勇ましい進軍ラッパを吹きならす楽士兵が姿を見せた。楽士兵は後ろを振り返りながら、味方を鼓舞するように何度もラッパを吹きならした。
その後ろに続くのは短弓と丸盾を手にした軽弓兵隊。彼らが弦音を響かせて虹色の矢を放つと、周囲を取り囲む怪物たちは次々と黒い砂へと変わった。
弓の攻撃で怪物たちがいなくなった場所に現れたのは、長槍を構えた兵士たちだ。彼らは一糸乱れぬ動きで素早く陣形を組み、押し寄せる怪物たちを近づけまいと奮闘する。
長槍を掻い潜ってきた怪物たちは、長槍隊の後ろから現れた重装歩兵たちによって次々と切り払われていった。虹色の輝く片手剣が閃くたび、怪物たちは黒い砂となって床の上に積もっていった。
最後に姿を現したのは鎧を纏った騎士と魔導士たちだ。その中でも一際大きな体をした騎士が、大声で兵士たちに号令をかけた。
「隊長を中心に防衛陣を組め! 槍をそろえろ! 怪物どもを寄せ付けるな! 魔導士隊、詠唱はじめ!!」
「応!」
その場に突如として出現したおよそ百名の兵士たちは、広い地下空間を埋め尽くしていた怪物たちを次々と撃退し始めた。彼らは外に向かってしっかりと円陣を組み、襲い掛かってくる敵を寄せ付けまいと奮闘している。
号令をかけた騎士は、呆然とした表情で彼らを見つめるラインハルトに半透明の手を伸ばし、彼を助け起こした。
「まさか、ランディか・・・! お前たちはあの時、砦から溢れ出ようとする魔獣たちを止めるために死んだはず・・・!」
虹色の光に包まれた半透明のランディは両目から溢れる涙を拭おうともせずに、愛しい主の両手をしっかりと握った。
「やっとお会いできました。あなたに会うために、ある方がお力を貸してくださったのです。」
ランディはそう言うと床に落ちていたラインハルトの騎士剣を拾い上げ、彼に差し出した。
「隊長。指揮をお願いします。」
ラインハルトは10年以上も前に死に別れた部下たちを見回した。彼らは嬉しそうな表情で、今か今かと彼の言葉を待っている。
彼は震える手でかつての副官だったランディから剣を受け取ると、彼らに向かって力強く号令をかけた。
「魔術師への道を開く。一点突破だ。騎士たちは私に続け!!」
それに応えて兵士たちが一斉に鬨の声を上げた。
今、名無しの魔術師は怪物たちの後ろに後退して身を守っている。呪詛の反動を受けて、十分に力が振るえないでいるためだ。
奴を倒すならこの時しかない。ラインハルトは騎士剣を大きく掲げ、魔術師を守る怪物の群れを指し示した。
「魔導士隊、構え! 撃て!!」
ラインハルトの号令に合わせ、魔導士たちが一斉に攻撃魔法を放った。それに合わせて各兵士たちが連携して怪物たちに襲い掛かっていく。戦いの形勢は一気に逆転した。
ラインハルトは騎士たちと共に怪物たちの群れに斬りこんでいった。体の内側から力がどんどん湧き上がってくるようだった。彼はそれを剣に乗せ、目の前の怪物を次々と倒していった。
怪物たちが倒されるのを見た名無しの魔術師は、赤い光を放つ魔方陣の内側に入り込み、巨大な魔石に向かって駆け出した。
「逃がすか!!」
ラインハルトは魔力を剣に纏わせ、目の前を走る魔術師に向かって斬撃を放った。
「あ、足が!?」
冷気を含んだ斬撃を受けた魔術師の足が凍り付き、一瞬動きが止まる。ラインハルトはその隙を逃さず、大きく振りかぶった剣を魔術師に叩き込んだ。
「終わりだ、名無しの魔術師!!」
魔術師は咄嗟に杖を持った腕でその斬撃を防ごうとした。しかしラインハルトの鋭い一撃はその腕を斬り落とし、不気味な皮の覆面で覆われた魔術師の顔を斜めに切り裂いた。
切り裂かれた覆面が剥がれ落ち、魔術師の素顔が露になる。その途端、地下空間を埋め尽くしていた複合獣や怪物たちはすべて黒い砂に変わって一斉に崩れ落ちた。
魔術師の素顔を晒したことで呪詛が解け、召喚魔法が解除されたのだ。
ラインハルトと同じように魔術師の素顔を目にしたカールは、素早くエマの目を塞いだ。
「魔術師の素顔を見たか?」
「ううん、なにも見えなかったよ。」
戸惑うように言ったエマの言葉を聞いて、カールはホッと息を吐いた。覆面の下の魔術師の素顔は、エマにはとても見せられないほど酷い有様だったからだ。
正確に言うなら、名無しの魔術師には顔がなかった。本来そこにあるはずの顔は、顔面の皮ごと大きく剥ぎ取られていたのだ。
干からびた肉が頭蓋に薄く張り付いた顔の中にあるのは、眼球を失った虚ろな眼窩と縦に空いた小さな鼻の孔、そして歯のない口だけ。彼自身の特徴を示すものは何一つ残さず、すべて奪い去られていた。
名無しの魔術師はラインハルトたちによって追い詰められている。
エマはその隙に魔方陣に拘束されているミカエラとイレーネを解放するため、魔石の下へと駆け寄った。拘束されている他の女性たちは残念ながらすでに絶命している。その腹はまるで臨月の妊婦のように大きく膨れ上がっていた。
だが幸いなことに、ミカエラとイレーネはまだ無事のようだった。彼女たちは気を失ってぐったりとしているが、特に傷を負った様子は見られない。
もし少しで2人の下に辿りつける!
エマがそう思った瞬間、中央にあった巨大な魔石が突然強い光を放った。あっと思った時にはすでに、エマは他の仲間たちと同じように、強い力で魔方陣の外まで弾き飛ばされていた。
魔術師を追い詰めていたはずのラインハルトや兵士たちも、全員魔方陣の外に倒れていた。すぐに起き上がったカールは再び魔方陣に侵入しようとした。だが見えない壁に阻まれ、入ることができなかった。
彼はすぐに魔法剣で見えない壁に斬りつけた。壁は一瞬切り裂かれたものの、すぐにまた塞がってしまう。
エマの仲間たちや兵士たちが何とか壁を破ろうとしているうちに、名無しの魔術師は足を引きずりながらよろよろと魔石の下へと近寄っていった。再びフードで顔を隠した魔術師は、長衣の懐から不気味な装飾の施された短剣を取り出し叫んだ。
「私の『奪名の呪い』を解く者が現れるとはな! だが、惜しくも時間切れだ。」
名無しの魔術師は拘束されたミカエラの傍らに立つと、短剣を大きく振り上げた。
「これで私の勝ちだ!!」
「やめて!!」
エマの悲痛な叫びも虚しく、魔術師は拘束されたミカエラの手首を短剣で切り裂いた。傷口から彼女の鼓動と共に血が吹き上がる。
彼女の血が触れると、赤い光を放っていた魔方陣が緑色に輝き始めた。それを確認した魔術師はイレーネにも同様に短剣を振るった。
イレーネの血を吸った魔法陣が、白い光を放ち始める。2人の少女の足元から広がった白と緑の光は互いに混ざり合いながら、やがて魔方陣全体へと広がっていった。
それにつれ、魔方陣のあちこちに拘束されていた女性たちの遺体が見る見る間に変化し始めた。
彼女たちの体から植物が芽吹き始めたのだ。目はは彼女たちの体をたちまちのうちに覆いつくし、やがて彼女たち自身を美しい花弁を持つ巨大な植物、オキームの花へと変化させていった。
その花は次々と咲いては散り、咲いては散りを繰り返しながら大きくなっていく。やがて魔方陣の内側は、舞い散る花びらで埋め尽くされてしまった。
「巨大な魔力のうねりを感じます。エマとロウレアナさんは私の側へ。」
テレサは2人を自分の体に密着させると、祈りでその体を守った。強い魔力を持つ二人は、儀式魔法によって生じる魔力震の影響を大きく受けてしまうからだ。
「お師匠様、儀式を止めて二人を助けることは出来ないのでしょうか?」
泣きながらそう訴えるエマの頬にそっと手を当てたテレサは、厳しい表情で光を放つ魔方陣に目を向けた。
あの魔術師はミカエラとイレーネの血を使って彼女たちの魔力を引き出し、この魔法陣を動かす原動力としている。彼女は魔力感知の力によって、そのことをはっきりと感じ取ることができた。
今や魔方陣の中は凄まじいまでの魔力と呪詛が吹き荒れている。あれでは術者である名無しの魔術師ですら無事ではすむまいと思われるほどだ。
この魔法陣は人間をあの花に変化させる儀式魔法のためのものだったのだ。そして呪詛によって作り出された魔石は、その魔法をあの花びら一枚一枚に宿らせるためのもの。
あの花びらに触れた人間はあの女性たちのようにたちまち絶命して、花へと変えられてしまう。そして呪詛を感染させる恐ろしい花弁となって次の犠牲者の下へと降り注ぐのだ。
もしこの花弁が多くの人々が暮らす都市に降り注いだら。その被害は言うまでもない。おそらく遠くないうちに、この地上から人間はすべて消え去ってしまうだろう。
さらに問題はそれだけではない。それはテレサの神力を以てしても、犠牲となった女性たちの魂を感じ取ることができないことだった。
肉体を失った生き物の魂は本来、大いなる魂の流れに取り込まれ輪廻するものだ。しかしあの女性たちの魂が天に還った様子はなかった。おそらく呪詛により、魂を花の中に封じられているからに違いない。
あの魔術師はオキームの花の生み出す幸せな夢を見せることで彼女たちの魂を呪詛の中に取り込み閉じ込めているのだ。
魂そのものに作用する魔法薬を作り出すとは。あの名無しの魔術師は稀代の天才錬金術師のようだ。
これがあの魔術師の言う『苦しみからの解放』なのだろう。確かにこの状態であれば、人は幸せな夢の中で永遠の時間を過ごすことができる。
だがそれはまやかしだ、とテレサは思った。懸命に生きる人々を見守ってきたテレサにとって、それは許すことのできない悪に他ならない。
どうにかして儀式を止めたい。しかし今の彼女にはその手立てがなかった。
まだ儀式魔法は完成していない。おそらくミカエラとイレーネの魔力が血と共にすべて流れ出し、彼女たちの命が尽きた時に、儀式は完成するのだろう。そうなればこの呪詛が恐ろしい災厄となって、世界に放たれることになる。
彼女は自分の感知した内容を仲間たちに伝えた。
呪いが完全に解け、かつての騎士の姿を取り戻したレイエフも彼女の周りでその話を聞いている。そして彼らを守る様に、虹色の光を放つ王国軍防衛隊の兵士たちが取り囲んでいた。
「そんな恐ろしいことを考えていたなんて・・・。」
ロウレアナは青い顔でテレサの話を聞いた。仲間たちも一様に口を噤んでいる。
そんな中、ヴィクトルはテレサの話に疑問を投げかけた。
「でも司教様、あいつ、そんなこと本当にやるつもりなんですかね? だって今の司教様の話が本当なら、世の中から人間がいなくなっちまうんでしょう。そんなことして、一体あいつにどんな得があるって言うんですかい?」
その問いに答えたのはレイエフだった。
「損得勘定ではないのだと思う。あの魔術師は自分の妄執に憑りつかれている。そうすることが正しいと信じ込んでいるのだ。」
「・・・俺には訳が分かりませんや。すんません。」
ヴィクトルは申し訳なさそうにぺこりと頭を下げた。
「謝ることはない、ヴィクトル。ここにいる者は皆、お前と同じことを感じているはずだ。絶対にあの儀式を完成させてはならない。何か儀式を止める手立てはないものだろうか?」
カールの問いかけに仲間たちは互いの顔を見合わせた。カール自身、すでに何度も魔方陣の中に入り込もうと挑んだが、全く入り込むことができなかったのだ。
このままではミカエラとイレーネだけでなく、多くの人たちが死んでしまう。エマは自分の無力さが悔しくて仕方がなかった。
エマは自分を怪物たちから守ってくれた竜虹晶の首飾りを取り出すと、それを握りしめて祈りを捧げた。今の彼女にできるのはそれくらいしかなかったからだ。
俯いて一心に祈りを捧げるエマ。そんな彼女に優しい声で話しかけたのは半透明の体をした騎士、ラインハルトの副官ランディだった。
「お嬢さん。あなたの持つその首飾りは、あの方がお創りになったものですね?」
「あの方? ドーラお姉ちゃんのことですか?」
エマの答えを聞いたランディはにっこりと微笑んだ。
「おお、ドーラ様。あの方は我々を不死の呪いから救い出してくださったのです。」
その話を聞いたラインハルトは驚き、目を見開いてランディとエマを見つめた。ランディは静かな声で話を続けた。
「あなたはあの方と深いつながりを持っているようですね。あの方のお力を以てすれば、この災厄を食い止めることができるのではありませんか?」
そう言われたエマは困ったようにテレサとランディを見た。
「・・・あなたのおっしゃることは分かります。確かにドーラさんであれば、この災厄を止めることができるかもしれません。しかし彼女は今、力を取り戻すために深い眠りに就いているのです。」
テレサが言葉を選びながらそう答えると、ランディはうんうんと深く頷いた。
「なるほど、そうでしたか。では眠っているあの方を目覚めさせることができればよいということですな。」
「そうです。しかしその方法が・・・。」
そう言いかけたテレサに対し、ランディは笑いながら指を軽く振ってみせた。
「それならば我々がお役に立てましょう。我々はあの方のお力によって今の姿を保っています。言わば切り離されたあの方の力の一部そのものなのです。我々ならば、眠っているあの方を目覚めさせることができるかもしれません。」
ランディはそう言って自分の考えをエマたちに語った。
「そんなことが本当に・・・? それに、今の話したやり方ではエマの身に危険が及ぶ可能性があるのではないか?」
話を聞き終わった後、カールはテレサとエマにそっと視線を送った。ドーラの本当の姿を知られないために、怪訝な顔をしているレイエフやヴィクトルの前では多くを語ることは出来ないからだ。
テレサはわずかな間、無言のままカールを見つめていたが、やがて諦めたように息を吐いてエマの方に向き直った。エマは目をキラキラ輝かせながら、テレサを一心に見つめている。
「もう聞くまでもありませんが・・・エマ、あなたはどう思いますか?」
テレサの問いかけが終わるより早く、エマは両手をぐっと握りしめて元気よく答えた。
「お師匠様、カールお兄ちゃん。あたし、ランディさんの言ったことを試してみようと思います!」
テレサとカールはそっと視線を合わせ小さく苦笑した。エマならきっとこう言うだろうと、分かっていた通りの答えが返ってきたからだ。
こうしてエマとテレサはドーラを目覚めさせるため、兵士の亡霊たちと力を合わせることになったのだった。
読んでくださった方、ありがとうございました。次でこのエピソードは終わるはずです。