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missドラゴンの備忘録  作者: 青背表紙
58/93

57 兄弟 前編

一週間以内に投稿できるよう頑張ったのですが、一日過ぎてしまいました。でも、忙しい時ほど書きたくなるのは、なぜなのでしょうか。

「ここは・・・地下室?」


 床に設置された金属製の落とし戸をくぐって地上に出たエマはそう呟いた。角灯の小さな明かりが照らしだしたのは、樽や木箱が雑然と並べられた広い空間だった。


「酒を貯蔵しておくための地下倉庫のようですね。」


「じゃあもしかして、ここはあの黒猫屋敷の地下なのでしょうか?」


 そう言って辺りを見回したエマは、樽の陰から除くブーツを履いた足を見つけて「アッ」と声を上げた。


 警戒しながらそちらへ近づいた彼女たちが見つけたのは、エマがよく見知っている人物だった。






「レイエフ先生!?」


 樽の横にうつ伏せになって倒れていたのは、王立学校教師のレイエフだった。彼は行軍実習の時と同じ長衣ローブ姿のままだったが、その長衣はあちこちが傷んだり汚れたりしている。


 そしてレイエフ自身の顔や手にも無数の傷があった。大きな出血などはないようだが、土気色になったその顔を見れば彼が酷く衰弱しているのは一目瞭然だった。


 レイエフはエマの声に気づき、うっすらと目を開いた。


「君は・・・エマか? 生きていたのか・・・。」


「先生、これを!!」


 エマは石の床に座って彼の頭を自分の膝にそっと抱えると、懐から回復薬を取り出してレイエフの口に押し当てた。ドーラがエマのために作った残り少ない回復薬はすぐに効果を表し、弱り切っていたレイエフも何とか体を動かせるようになった。


 彼はゆっくりと体を起こし、エマの手を借りてその場によろよろと立ち上がった。






「助かった。礼を言う。ありがとう。」


「どうして先生がこんなところに?」


「・・・分からない。気が付いたときにはここにいたんだ。君こそなぜここに?」


 エマはレイエフにこれまでの経緯を説明した。レイエフは手近な樽に寄りかかりながら、陰鬱な顔でそれをじっと聞いていた。


「なるほど、攫われた二人を探しにここへ来たというわけか。私も二人を攫った男を追いかけようとしたところまでは覚えているのだが・・・その後の記憶が曖昧でな。」


 レイエフは顔を歪めて何かを思い出そうとしている素振りを見せたが、やがて小さく息を吐いてエマに向き直った。






「今の話の中に出てきた騎士殺しの件だが、ランドーン卿を殺したのは君ではない。私だ。」


「先生が、ですか!?」


 見るからに病弱なレイエフがあの凶悪な騎士を殺したと聞いて、エマは思わず声を上げた。だがそれが酷く無礼な発言であることにすぐに気づき、「すみませんでした!」と慌てて謝罪した。


 レイエフは皮肉な自嘲の笑みを浮かべながら、エマの謝罪を受け入れた。


「いや、いいのだよ。生憎とあの時は手持ちの武器がなかったので、近くに落ちていた短刀を咄嗟に拾ったのだ。だが結果として君に迷惑をかけてしまったようだな。」


「いえ、先生のおかげで私は死なずに済んだんです。本当にありがとうございました。」


 レイエフは鷹揚に頷くと、テレサの方に向き直って言った。






「君たちはイレーネ君たちの行方を追っているんだな。ならば私にも協力させてほしい。」


 レイエフの申し出を受けたテレサは遠慮がちに応えた。


「それよりもエマの冤罪を晴らすため、グレッシャー様にはすぐにでも王立学校へ行っていただきたいのですが・・・。」


 しかしそれにレイエフが応じるよりも早く、リアが異を唱えた。


「いえ、それは危険です。」


 密偵の灰色装束で姿を隠したリアを見て、レイエフは右の眉をわずかに上げた。






「・・・危険? 危険とは一体どういうことかね?」


「グレッシャー家の関係者は現在、見つけ次第捕縛するよう国王陛下からの厳命が下っているからです。今、不用意に外に出ればグレッシャー様は捕らえられ厳しい取り調べを受けることになります。エマさんの無実を晴らすどころではなくなってしまうでしょう。」


 レイエフは途端に血相を変えて、リアに詰め寄った。


「それはいったいどういうことだ? 兄上に何かあったのか?」


「グレッシャー子爵には違法薬物を流通させた容疑が掛けられています。ですが衛士隊が王都のグレッシャー子爵の屋敷に踏み込んだ時にはすでにもぬけの殻でした。」


「バカな!! あの温和な兄上がそんな犯罪に手を染めるはずがない!!」


 レイエフは日頃は見せない熱のこもった調子でそう叫んだ。だが目を丸くして驚くエマを見て、小さく咳ばらいをすると「失礼。自失してしまった」と謝罪した。


 テレサは彼の謝罪を受け入れた後、少し考えてから彼に言った。






「分かりました。ではグレッシャー様にも一緒に行っていただきます。グレッシャー家の現状を鑑みれば、同行していただくほかないようですし。それに二人の救出を優先させた方がエマのためになるでしょう。」


 テレサの言葉にレイエフは生真面目な態度で頭を下げた。


「感謝する。あと、レイエフで構わない。」


 こうして新たな同行者を加えたエマ一行は、攫われた二人の行方を捜して、屋敷内を探索することにした。






 地下倉庫の階段を上って外へ出てみると、そこは馬車の停車場に通じる厨房の裏手だった。周囲に全く人気はない。エマたちは厨房から屋敷内に侵入することにした。


 本格的な設備の整った大きな厨房には作りかけの食材が放置され、焦げ付いた鍋の中身から漂う異臭が満ちている。まるで火を消す間もなく、人が忽然と姿を消したかのような有様だ。


 エマたちは厨房を通って屋敷内に侵入した。屋敷内は高級だが趣味がいいとは言い難い様々な調度品がふんだんに飾られていたが、そのどれもが酷く荒らされていた。


「まるで盗賊にでも襲われたような有様だな。」


 レイエフの言葉にエマも全く同感の思いを抱いた。と同時に、不吉な予感が胸にジワリと沸き上がった。






 すっかりもぬけの殻となった一階を探索し終えた5人は、煌々と明かりの灯る二階へと向かうことにした。


 廊下に敷かれた絨毯が酷く乱れているのを見て、テレサが表情を曇らせる。エマは屋敷のこもった空気の中に漂う臭いに気が付き、ハッとしてリアの方を見た。


「ひどい血の臭いです。おそらく数日は時間が経過しているようですね。」


 その言葉でエマの脳裏に、黒装束の男から酷く殴られて気を失ったミカエラとイレーネの姿がよぎった。


 この血の臭いはまさか・・・。


 エマは血を流して屋敷の中に倒れている二人の姿を思い描き、全身の血が凍るような寒気を味わった。






「この部屋のようですね。」


 おそらく当主の書斎ではないかと思われる部屋の扉に張り付いて、中の様子を探っていたリアが呟く。


 一行が身構えた状態でさっと扉を開いたリアが、続いてテレサが部屋の中に飛び込んでいった。魔法を使えないエマは護身用の短刀を構えた状態で、ロウレアナとレイエフに守られている。


 テレサたちに続いてエマが部屋に踏み入ろうとした時、テレサの鋭い声が響いた。


「!! エマ、見てはなりません!」


 部屋の扉がさっと閉じられ、中から鍵が掛けられる。エマは扉に取り付き、夢中でテレサに呼びかけた。






「お師匠様、何があったのですか!? まさか、ミカエラちゃんたちが・・・!!」


 声の震えを必死に堪えて問いかけたエマに、扉の向こうからリアが応じた。


「お二人の姿はありませんよ、エマさん。ただおそらくこの屋敷の住人だろうと思われる人間たちが惨殺されています。今、テレサ様が彼らのために祈りを捧げていらっしゃいますから、もうしばらく待っていてください。」


 リアの言葉を聞いたエマは、安堵から膝から崩れ落ちるようにその場に座り込んだ。ロウレアナはエマの肩にそっと手を置いた。


「心配するのも無理ありません、エマ。何しろ精霊たちが怯えるほど酷い血の臭いですから。二人の無事と亡くなった人間たちの冥福を祈りましょう。」


「・・・ありがとうございます、ロウレアナさん。」


 二人は扉に向かって跪くと、大地母神へ祈りを捧げた。程なくテレサの祈りの詠唱が終わると、ドアの隙間から清浄な白い光が漏れ出てきた。






「皆、もう入ってもよいですよ。」


 そう言ってテレサが扉を開き、エマたちは部屋の中に入った。酷く荒らされた書斎の真ん中には、窓から取り外されたと思われる数枚のカーテンが置かれている。


 カーテンの内側には人の形をした数体分の膨らみがある。布で隠されているので見ることはできないが、この中に遺体が並べられているだろうということは、容易に想像することができた。


 きちんと並べられた布のふくらみは大きさにバラつきがあった。犠牲になったのは大人だけではないようだ。自分の弟妹きょうだいよりもずっと小さいふくらみを見て、エマの心は酷く痛んだ。彼女はその小さなふくらみに向かって再びそっと祈りを捧げた。






「これを見てください。」


 書斎を見回していた仲間たちにリアはそう声をかけ、壁の一部分を指さした。一見すると何もないただの壁に見えるが、よくよく目を凝らしてみると表面に薄く擦ったような跡があるのが見えた。


「隠し扉ですね!」


 エマの言葉にリアは無言で頷き、すぐ側にあった書棚を調べ始めた。リアが本に隠されていた仕掛けを作動させると、重い書棚が軽く軋みながらすっと横に動いた。


「壁?」


 だがエマが思わずつぶやいた通り、現れたのはただの石壁だった。そもそもこの壁は2階にあり、館の外へ面しているため、扉があったとしても意味がない。扉をくぐっても空中に飛び出すことになってしまうからだ。


 しかしこの仕掛けには必ず何か意味があるはずだ。そう思ったエマたちは懸命に石壁を調べた。しかし何の痕跡も見つけることはできなかった。






「どういうことなのでしょう、リアさん?」


 問われたリアもさすがに困惑の様子で頭を振った。だがその時、壁に張り付くようにして表面を調べていたレイエフが、彼女たちに声をかけた。


「待ちたまえ。ごく僅かだが、何か魔力の痕跡のようなものを感じる。」


 レイエフはそう言うと腰のベルトから短杖を取り出し、魔力を込めて壁をこつんと軽く杖で突いた。その途端、何もなかった石壁の表面が強い光を放ち始めた。


「魔方陣が!!」


 一行の見守る前で、壁に見たこともないような複雑な文様を持つ魔方陣が浮かび上がった。それを見たレイエフは驚きに顔を歪めていたが、やがて夢を見ているような目をしたまま呆然とその前に進み出た。


 固唾を飲んで成り行きを見守る皆の前で、レイエフはまるでそうするのが当然と言わんばかりに壁に手を触れる。するとたちまち魔方陣の描かれた壁の一部がうっすらと揺らぎ始めた。


 レイエフは手を壁に付けたままで、ゆっくりと起動呪文を呟いた。






「《・・・我は影。光を追い求める者なり。》」


 レイエフの体から大量の魔力が引き出され、緑色の光となって魔方陣に満ちていく。魔力が満ちた魔方陣はゆっくりと明滅しながら渦を巻き、やがて壁にぽっかりと黒い魔力の穴が開いた。


 魔力を大量に消費したレイエフはその場にぐったりと座り込み、激しく咳き込み始めた。エマは彼に寄り添い、苦しそうに波打つ彼の背中をゆっくりと撫でた。


「レイエフ先生、大丈夫ですか?」


 レイエフはゼイゼイと荒い息を吐き、無言のまま軽く頷いた。エマから手渡された魔力回復薬を口にした彼は、口の端についた血を拭きながらゆっくりと立ち上がった。






「レイエフ様、いったいこれは?」


 黒い穴を横目に見ながらテレサが問いかける。だがレイエフは苦しそうに顔を歪め、頭を抱えて呟くように言った。


「・・・分からぬ。何も・・何も思い出せぬのだ。」


「レイエフ先生・・・。」


 それを見たエマはそっとレイエフに寄り添った。テレサは仲間たちをぐるりと見渡して言った。


「ともかくレイエフ様のおかげで道を開くことができました。この穴が手がかりなのは間違いありません。先へ進みましょう。」


 テレサの言葉にレイエフ以外の三人は決然とした表情で頷いた。短い話し合いの後、彼らは隊列を整え、レイエフを先頭に穴の中へと入っていった。






 意外なことに、穴の中は広かった。もしかしたら壁を突き抜けて、2階から落ちてしまうかもしれないと心配していたので、壁の中にこんな場所があることにエマはとても驚いた。


 そこは不思議な場所だった。満天の星空の下に黒い道がまっすぐにどこまでも続いている。道の先は暗くなっているので見通すことはできないが、どうやら一本道のようなので迷う心配はなさそうだ。


 エマたちは最初警戒しながらゆっくりと、だが最終的には全速力で黒い道を駆け抜けていった。


 ずっと同じ景色が続く星空の下を走り続けているうちに、エマは時間の感覚が失われていくような奇妙な体験をした。


 ものすごく長い時間走っているようにも、ついさっき走り始めたばかりのようにも感じられるのだ。


 以前エマは、ジョン・ニーマンドに連れられて惑星軌道上に浮かぶ天空城へ行ったことがある。あの時も満天の星空の中を《飛行》の魔法で移動した。けれど、それとはまた違った感じだなとエマは思った。


 あの時は足場がなくてただただ頼りない気がしたものだ。だけど今はすべての感覚が妙に『引き延ばされて』いるように感じる。まるで自分が薄く薄く広がってしまったような感じだ。






 そうやってままならない気持ちでエマが必死に足を動かしていると、果てがないように思われた黒い道の先にようやく小さな緑色の光の渦が見えてきた。


 そういえば一緒に走っていたはずのテレサたちの姿は、いつも間にか見えなくなっていた。しかしその時のエマはそれを特におかしいとも感じていなかった。


 エマは深く考えることないまま、目の前に現れた光の渦に向かって勢いよく飛び込んでいった。









 黒い道の果てにあった緑の光から飛び出したエマは、光の先に立っていた誰かに勢いよくぶつかって止まった。しかしその相手が誰なのか、エマには分からない。


 今の彼女は、まるで自分の体がどこかに行ってしまったようにすべてがあやふやになってしまっていた。


「・・・じょうぶですか、エマ? 大丈夫ですか?」


 だが何度も名前を呼びかけられたことで、エマの混濁した意識が次第にはっきりし始めた。


「・・・お師匠様?」


「よかった。目を見開いたまま反応がないので、とても心配しました。」


 エマの体を抱きかかえ支えていたテレサが安堵の息を吐く。エマはハッとしてテレサに問いかけた。


「あの、お師匠様。私、長いこと気を失っていたんですか?」


 テレサは小さく微笑んで首を横に振った。


「いいえ、あなたは私たちがここについてすぐに、あの姿見から飛び出してきたのです。その時、私にぶつかってきたので咄嗟にあなたを抱き留めました。だから皆、この部屋に着いたばかりですよ。」






 エマがテレサの指し示す方に目を向けると、石造りの武骨な壁に設置されている大きな姿見が目に入った。縦長の楕円形をしたその姿見には美しい金属製の枠が取り付けられている。


 枠には繊細な植物の浮彫が施されていたが、エマはすぐにそれが巧妙に加工された魔石や魔術回路を織り込んだ魔方陣であることに気が付いた。


 姿見の鏡の部分はガラスではなく磨き上げられた金属のようだ。非常に滑らかだったがどういうわけか、その表面は墨を流したように真っ黒で何も映っていない。だから正確には姿見とは呼べない代物だ。


 エマは何となく不気味さを感じるその姿見から目を逸らし、部屋の中を見回した。






 そこは石造りの壁に囲まれた小さな円形の部屋だった。ロウレアナの持つ小さな角灯カンテラの明かりでも部屋の隅々まで見えるくらい小さい部屋だ。


 部屋の中央に長く使われていないと思われる傷んだ寝台が一つ置いてある他は、特に荷物も見当たらない。部屋には窓が一つと、その向かい側の壁に入り口の扉が一つずつある。そのどちらも古い木戸で閉ざされていた。


 窓を閉ざす木戸の隙間からは、明るい光が薄く漏れている。黒猫屋敷に乗り込んだのは深夜少し前くらいだったのに、どうやらもう夜が明けているようだ。






 エマはテレサの手を借りて、石の床の上にまっすぐ立ち上がった。


 エマとテレサ以外の三人も同じ室内にいた。ロウレアナは角灯を手にして部屋の扉の横に立ち、リアは扉に張り付くようにして外の様子を探っていた。


 そしてレイエフは大きな姿見の前で呆然と立ち尽くしていた。よく見ると彼の手はわなわなと小さく震えている。


「レイエフ先生、どうしたんですか?」


 レイエフの体調を気遣ったエマがそう尋ねると、彼は夢から醒めたようにハッとエマの方を向いた。






「ここは・・・私の部屋だ。」


「えっ!?」


 レイエフの言葉に驚いて、他の四人は全員、彼の方を向いた。


「えっと、じゃあここは王立学校の研究室ということですか?」


 エマの問いかけにレイエフは幽鬼のような表情で頭を振った。


「いや、違う。私がまだ幼い時分に過ごしていたグレッシャー領主城の自室だ。」


「先生の子供時代の部屋? グレッシャー領のですか?」


 部屋をゆっくりと見回しながらレイエフは心ここにあらずと言った体で頷いた。






「信じられんが間違いない。この部屋にも、あの寝台にも確かに見覚えがある。だが王都からグレッシャー領まで移動するには馬車で2か月以上もかかるはず。これは一体、どういうことなんだ・・・?」


 混乱した様子でそう呟くレイエフ。しかしエマたちも同じように困惑しているため、彼にかける言葉が見つからない。部屋の中に重い沈黙が落ちる。


 しかしその沈黙はすぐに、ロウレアナの鋭い声によって破られた。







「階段を上る人間の足音がするわ。数は多分23人。全員男で、武器を持ってる。」


 長い耳をピクピクと動かしながらロウレアナは言葉を続けた。


「間違いなくこちらに向かってくる。どうやら私たちがここにいるのは、もうバレてるみたいね。」


 この部屋には逃げたり隠れたりする場所はない。エマたちは一瞬視線を交わすとさっと陣形を整え、唯一の入り口である扉に向かって武器を構えた。密偵装束のリアと白い法服を着たテレサが前衛に立ち、その後ろにエマを守る様にロウレアナが並ぶ。


 だがレイエフだけは身構えることなく、ふらふらと扉に近づいて行った。






「レイエフ様! 危険です!!」


 前に出ようとしたレイエフをリアが止めようとしたが、レイエフはリアが驚くほどの素早い動きで彼女の手を振り払った。


「ここは私の兄上の城だ。危険などあるはずがない。」


 リアが彼に反論するよりも早く、部屋の扉が大きく開かれた。扉を開いた黒い鎧姿の男がさっと後ろに下がると、その男と入れ替わるように豪奢な衣装をまとった人物が扉の中へ一歩踏み込んできた。


 その人物は威風堂々とした様子で、ゆっくりと部屋の中を見回した。彼は武器を構えているリアや法服姿のテレサには目もくれなかったが、レイエフの姿を見て僅かに口元を綻ばせた。






「『影送りの鏡』が起動した気配を感じたので、まさかと思って来てみれば。やはりお前であったかレイエフ。無事に戻ってくれて、本当に嬉しいぞ。」


「兄上様・・・!」


 レイエフの言葉に驚いたエマたちは、一斉に彼が兄と呼んだ男を見た。いかにも病弱そうに見えるレイエフとは対照的に彼の兄、ルングハルト・グレッシャー子爵は非常に精力に満ちた見た目の人物だった。


 背丈はレイエフには及ばないものの、体つきはがっしりとしていてとても引き締まっている。金糸銀糸を織り込んだ衣装の上からでも、盛り上がった筋肉がはっきりと分かるほどだ。


 顎髭をたくわえたその顔は、あふれ出る自信で光り輝いていた。だがエマはその目の中に宿る淀んだ光を感じ取り、背筋にぞっとしたものが走るのを感じた。


 エマのそんな思いをよそに、レイエフは信じられないものを見るような表情をしながら、実兄に問いかけた。






「兄上様がいらっしゃるということは、やはりここはグレッシャー領なのですね。」


「ああ、もちろんだとも。お前も私に助勢するために王都から戻ってきてくれたのであろう?」


 兄の言葉を聞いたレイエフは心配そうに眉を寄せ、血色の悪い顔を曇らせた。


「助勢・・・兄上様、お伺いしたいことがございます。」


 弟の暗い声を聞いて、子爵は快活な笑い声を立てた。


「なんだレイエフ、改まって。たった二人きりの兄弟なのだ。遠慮はいらぬぞ。」


 エマはなぜかそれがレイエフを揶揄するような、嘲るような言い方だなと思った。しかし当のレイエフは特にそれを気にした様子もなく、陰鬱な声で淡々と兄に問いかけた。






「つい先程耳にしたのですが、兄上様には違法薬物を流通させたという嫌疑が掛けられているとお聞きしました。」


 子爵はフンと小さく鼻を鳴らした。


「下らぬ。そのようなもの、あの怯懦な王の妄言に過ぎぬ。」


 疑惑を否定する子爵の言葉に小太刀を構えたリアがすっと目を細めた。レイエフは重ねて兄を問い質した。


「では兄上様には身に覚えのないことだとおっしゃるのですね?」


 子爵は自信に満ちた表情でニヤリと笑った。


「もちろんだとも。私がグレッシャー領の総力を結集して広げているのは、違法薬物などではない。人々に真の救済と安寧を齎す究極の魔法薬なのだからな。見よレイエフ、我が肉体を!」


 そう言って子爵は自分の胸をトンと叩いてみせた。それを聞いたレイエフは複雑な表情を浮かべ、ゆっくりとリアたちのいる方へ後ずさりはじめた。






「・・・なるほど、冬にお会いした時とは別人の如く変化していらっしゃいますね。この半年で一体何があったのですか、兄上?」


 子爵は勝ち誇った笑みを浮かべながら弟の問いかけに応えた。


「私は生まれ変わったのだよ、レイエフ。完全な肉体を手に入れたのだ。すべてはこの魔法薬があってこそ。」


 子爵はそう言って懐から一本の薬瓶を取り出し、レイエフに示した。


「これさえあれば、もう以前のように些事にとらわれ悩むこともない。葡萄しか実らない貧乏領地の経営に悩むことも、大領地を持つ貴族どもの思惑に振り回され右往左往することもないのだ。」


 レイエフは熱弁を振るう兄を痛ましい目で見つめた。だが子爵はそれを気にすることもなく、さらに言葉を重ねていった。






「この薬は本当に素晴らしいものだぞ、レイエフ。私が薬を分け与えた領民たちも皆、領都で幸せに暮らしている。私は領を上げてこの薬を生産させているのだよ。」


 子爵の言葉を聞いたリアは、細めていた眼をわずかに見開いた。これはグレッシャー領が王国へ反旗を翻しているという重要な証言だからだ。


 だが子爵はそれをリアたちのいる前で堂々と語っている。つまり子爵はリアたちをここから生かして帰すつもりがないということに他ならない。


 レイエフを含め、テレサたちはより一層険しい表情で子爵を睨みつけた。だが自分の言葉に完全に酔っている子爵は、彼女たちの敵意に対しても一顧だにすることはなかった。彼は熱に浮かされたように両手を上げ、しゃべり続けた。






「私はこの素晴らしい魔法薬をさらに多くの者たちに広めるつもりだ。王国だけでなくこの世界に生きる全て者たちが真の幸せを得られるようにな。そして私は彼らを導く指導者となる。私は地上の神になるのだよ、レイエフ!」


 まるで舞台で敵役に勝利宣言をする役者のように芝居がかった仕草で、子爵は朗々と宣言した。


 子爵の不遜な発言にテレサが目を剥き、リアとエマがそっと目線を合わせた。リアの目には子爵を警戒しながらも、どこか彼を憐れむような光が宿っていた。


 エマはもはや子爵が完全に正気を失っていることを悟った。そして彼の弟であるレイエフがとても心配になり、表情を失くした彼の横顔をそっと窺った。


 レイエフは悲しみを堪えているような固い声で兄に尋ねた。






「兄上様、今、領を上げて薬を作っているとおっしゃいましたが、それでは葡萄づくりはどうなるのです?」


 子爵は弟のその言葉を嘲笑った。


「葡萄だと? そんなものが何になるというのだ! 麦の代わりにもならぬ乾燥果実で細々と冬を越し、葡萄酒で命を長らえる生活など、もう必要ない! この素晴らしい魔法薬さえあればな!!」


 薬瓶を大事そうに両手で掲げたまま、子爵は狂ったような笑い声を上げた。レイエフの心に兄の笑い声がまるで鋭い氷柱のように突き刺さった。






『この葡萄畑は、私たちが父祖より受け継いだ何よりも大切な財産だ。貧しい我が領の唯一の誇りでもある。私はお前のように武芸の技も、魔法の才もない。だがこの大切な葡萄畑だけを守ることにかけては誰にも負けないつもりだよ。もちろんお前にもな。』


 領主城の城壁から山裾にへばりつくように広がる葡萄畑を見ながら、少しはにかんだ表情でそう言ったかつての兄の姿が、レイエフの胸に去来する。


 朴訥で気が弱いところもあるが、誰よりも領民を愛している兄を、レイエフは心から慕っていた。


 彼は堂々とした態度で自説を述べる兄からそっと視線を逸らすと、一度目を固く瞑り、奥歯をきつく噛みしめた。


 あれは確か彼が魔法騎士に叙任された報告をするため、領に帰った時のことだった。兄は彼の纏った魔法銀ミスリルの鎧を誇らしげに見た後、彼の肩に手を置いて言ったのだ。


『この領は私がしっかりと守る。だからお前はもっと多くの人のためにその力を使え。お前は私の、我が領の誇りだ、〇○ン○ル〇。』






「ぐうっ!!」


「レイエフ先生!? 大丈夫ですか!?」


 レイエフが突然頭を抱えて蹲ったのを見て、エマが悲鳴のような声で叫んだ。


「・・・大丈夫だ。なんでもない。」


 レイエフは冷静な声でエマに返事をしてすぐに立ち上がったが、内心では突然自分を襲った激しい痛みが全く気にならなくなるほど動揺していた。






 あの時、確かに兄上は私の名を呼んだ。その時の優しい瞳も、穏やかな表情もすべて思い出せる。


 それなのにあの時に呼ばれた自分の名だけがどうしても思い出せない。まるでそこだけ音が欠けてしまったかのように、記憶が失われている。


 普通に考えればレイエフと呼ばれたはずだ。なのに彼の心がそれを明確に否定する。


 レイエフ、ではないのか? あの時、兄上は私を何と呼んだ・・・?


 だがそんな彼の思いは、兄であるグレッシャー子爵の狂声で破られてしまった。






「レイエフ、私と共に来い! この魔法薬ならばお前の病もきっと治せる! そうして再び力を取り戻し、その力を私の野望のために振るうのだ、レイエフ!!」


 子爵は欲望で淀んだ瞳をギラギラと輝かせながら、弟に手を差し伸べた。


 エマは目の前に立っているレイエフの背中を固唾を飲んで見つめた。彼はしばらく無言のまま兄を見つめていたが、やがて静かに言葉を発した。






「私は王に仕え、王国の民を守る騎士です。ルングハルト・グレッシャー子爵。私はあなたを違法薬物製造及び王国騒乱の罪で捕らえます。どうかこれ以上罪を重ねず、武器を捨て投降してください。」


 それを聞いた子爵は嬉しそうに、くしゃりと表情を歪めた。その顔を見た途端、エマは恐怖のあまり膝から崩れ落ちそうになった。それほどまでに子爵の顔は醜く恐ろしかった。


「ふひひひ、そうか。やはり、そうだな。お前ならそう言うと思っていたよ、レイエフ。」


 引き攣れた笑いを浮かべ、猫撫で声で子爵はレイエフに語りかけた。


「力を失い『騎士崩れ』と呼ばれるようになっても、お前はあの頃とまったく変わっていないなぁ。ああ、嬉しくて仕方がない。」






 エマはこの時の子爵の顔を生涯忘れることはないだろう。その顔には人間の心の闇が凝縮されているかのようだった。言葉を重ねるたび、子爵の顔はさらに醜くどす黒く歪んでいった。


「これでやっと、やっとお前を殺せる。私の得られなかったものをすべて持ちながら、それを他人のためにむざむざ捨て去った愚かな弟を!! 私はな、お前のことが憎くて憎くて仕方がなかったのだよ!!」


 歯を剥きだし、目を血走らせて激高する子爵。そんな彼を静かに見返し、レイエフは小さく呟いた。






「兄上様・・・なんとお労しい。」


 その瞬間、子爵は耳をつんざくほどの咆哮を上げた。


「私を!! 私を憐れむなあああぁあぁ!!」


 冷たい石の壁に子爵の叫びが反響する。レイエフはその絶叫にも表情一つ変えることなく、腰の短杖を取ると油断なく身構えた。


 そんな彼を守る様にテレサとリアが一歩前に進み出る。二人は彼の両脇に立ち、拳と小太刀を構えた。その後ろでは短刀を構えたエマを庇い、ロウレアナが刺突細剣レイピアを抜き払う。


 彼女の主武器である弓を使うには、この部屋は狭すぎるからだ。






「殺せ!! 奴らを一人残らず血祭りにあげるのだ!!」


 子爵の狂態を見ても身じろぎ一つしなかった黒い鎧の男たちが三人、彼の命令を受けてさっと前に進み出た。幸いなことにこの円形の部屋は非常に狭いため、一度にこれ以上の人間が襲ってくることはない。しかし、唯一の部屋の出口は完全に塞がれてしまった。


 男たちは完全面防フルフェイスの兜を被っているため、その表情はまったく見えない。


 彼らと入れ替わりに子爵が扉の向こうへ後退するのと同時に、彼らは鎧兜を身に付けているとは思えないほど俊敏な動きで、レイエフたちに襲い掛かってきた。






 鎧戦士たちが室内でも動きやすいように刀身を短くした片手剣を振るうのを見たエマは、思わず目を瞠った。


 彼らの剣の動きが全く見えなかったからだ。それ程、彼らの動きは素早かった。まるでカールの剣捌きを見ているかのようだ。


「ぐっ!!」


 小太刀で剣を受け止めたリアが、思わず後ずさるほどの強烈な一撃。小太刀ごと断ち切られてもおかしくない攻撃をいなすことができたのは、ひとえにリアの技術の賜物だった。


 だが凄まじい膂力で押し込まれ、たちまち彼女は身動きが取れなくなってしまった。そんな彼女目掛けてもう一人の男がすぐに斬りかかっていく。


「リアさん!!」


 テレサは叫び声を上げたが目の前に迫る男に対処しているため動くことができない。ロウレアナがエマの側を離れてリアの救援に向かおうとした時、静かな詠唱の声が響いた。






「我が敵を撃て。《魔法の矢》」


 レイエフの詠唱終了と同時に空中へ現れた十数本の光の矢が、リアを襲っている二人の男に向かって飛んだ。狭い室内にも関わらず、その矢はすべて鎧や兜の隙間を縫って男たちに突き立った。


 至近距離とはいえ一本の矢も外れていない。正確無比な魔力誘導と優れた動体視力があって初めて為せるその神業に、エマは思わず息を呑まずにいられなかった。






 まるで針山のように全身を矢で貫かれ、鎧戦士たちは彫像のように動きを止めた。だが次の瞬間、彼らは何事もなかったかのように再び動き始めた。


「な、なんだと!?」


 必殺の一撃を放ったにも関わらず鎧戦士たちにそれが通用しなかったことで、レイエフに動揺が走る。リアを襲っていた鎧戦士たちはそれを見逃さなかった。


 すかさずリアと鍔迫り合いしていた戦は彼女を強く後ろに追いやると、攻撃対象をレイエフに変更し、仲間と連携しながら彼に斬りかかっていく。


 魔法の攻撃によって生じた僅かな隙を打ち消すかのように、彼らははやてのようにレイエフに迫った。レイエフは再び杖を構えたが、人外の素早さを発揮する鎧戦士たちの動きに対応するには遅すぎた。






 しかしテレサにはそのわずかな隙で十分だった。彼女が自分の前に立ちふさがっていた鎧戦士の剣を上段回し蹴りで弾き飛ばすと、そのまま素早い動きで相手の懐に潜り込み、体勢の崩れた相手をその両腕ごと抱え込んだ。


 ドーラの魔力を受けて強化されたテレサの腕に筋肉が盛り上がり、戦士の鎧をミシミシと軋ませる。彼女は自分が抱え込んだ鎧戦士を、両腕を決めた状態で持ち上げるとそのまま大きく体を後ろへ逸らした。


「聖女流格闘術奥義! 聖女スープレックス!!」


 テレサは後ろへ反り返りながら、勢いをつけて抱え込んだ相手を投げ飛ばした。重い金属鎧をまとった戦士が空中を舞い、レイエフを襲おうとしていた二人の仲間に激突する。


 両腕を決められていたため受け身を取ることもできないまま、鎧戦士たちは一塊になって部屋の壁に叩きつけられた。ぐしゃりボキリと嫌な音が響き、エマは思わず耳を塞ぎそうになった。


 彼らの巻き添えとなった古い寝台は粉々に砕け散り、部屋中にその木片を飛び散らせた。






 壁に叩きつけられた鎧戦士たちは手足や首をあらぬ方向へ曲げ、床に崩れ落ちた。普通の人間であれば断末魔の呻きを上げてもおかしくない。


 だが彼らは一言も発することなく、折れた手足や首を不自然に動かしながら、ゆっくりとその場に立ち上がった。それはまるで糸の絡んだ操り人形を出鱈目に動かしているかのような、不気味な光景だった。


 あまりのことに咄嗟に追撃することもできず、リアは再び攻撃体勢を整えながらテレサに問いかけた。


「あんな状態でも起き上がってくるなんて。テレサ様、この者たちは不死者アンデッドなのですか?」


「いいえ、彼らから不死の穢れは感じられません。おそらくは・・・。」


 しかしテレサの言葉は、部屋に響いた大きな声で遮られてしまった。






「ふははは、どうだ? 魔法薬で強化された不死身の戦士の力は!」


 物言わぬ鎧戦士たちに守られた子爵が、扉の向こうから叫んでいる。彼は興奮した様子でしゃべり続けた。


「この者たちの力は極限まで高められている! その上、痛みも恐れも一切感じることがない! まさに究極の兵士たちなのだよ!」


 子爵はまるでお気に入りのおもちゃを自慢する子供のように、戦士たちを示して叫んだ。


「強化しすぎて私の命令以外には反応しなくなってしまったが、戦うだけなら何の問題もない。王国騎士団との前哨戦としては少々物足りないが、お前たちにはこの兵士たちの練習台になってもらうとしよう。さあ、かかれ!!」






 砕け散った寝台の破片を踏みしめて、さらに二人の鎧戦士が部屋に投入される。最初の三人は二人の後ろに下がり、折れ曲がった手で剣を構えた。


 本来なら激痛で絶叫してもおかしくない状態のはずだが、痛覚を失った戦士たちは一言も発することなく再び戦いに参加した。


 その様子を見たテレサは周囲に響くほど強く、ぎりりと歯を嚙みしめた。


「人の生命をなんだと思っているのですか!! 許せません!!」


 テレサの体から薄明りの中でもはっきり目に見えるほどの闘気が立ち上る。白と虹色の入り混じった闘気を纏う彼女の隣に、小太刀を構えたリアが並んだ。


「それには全く同感ですね。ですが状況はよくありません。隊列を変更しましょう。」


 リアはそう言うと素早く仲間たちに指示を出した。レイエフが後列に下がってエマを守り、代わりに刺突細剣を構えたロウレアナが前列に加わる。


 テレサはその間、油断なく戦士たちの動きを見て彼らを牽制した。戦士たちもテレサを一番警戒しているようで、迂闊に彼女の間合いに踏み込んでこない。



 



 両者はそうやってしばらく睨み合っていたが、やがてどちらともなく動き出し、唐突に戦闘が再開された。


 襲い掛かってくる戦士たちを迎撃するのはテレサの役目だ。彼女は神力で強化した拳や蹴りを戦士たちに叩き込み、何度も彼らを床に打ち倒した。


 リアとロウレアナは彼女の隙を突こうとする戦士たちを牽制する。彼女たちの武器では戦士たちの鎧を貫くことはできないが、狙いすました一撃を鎧の隙間に放つことで何とか互角に戦うことができていた。


 レイエフは前列に立つ三人を強化や補助の魔法で援護しつつ、隙を見ては《魔法の矢》の魔法で攻撃していった。ロウレアナやリアの武器を強化している彼の働きによって、彼女たちは何とか戦列を保つことができている。






 仲間たちが必死に戦う中、エマだけは何もすることができずにいた。テレサが何度倒しても、鎧戦士たちはそのたびに立ち上がってくる。


 エマの魔法の火力があれば戦士たちを一撃で再起不能にすることもできるはずだが、今の彼女にはそれができない。自分の中に溢れる魔力を制御することができないからだ。


 気が付くといつの間にか、彼女の口の中に鉄の味が広がっていた。自分の無力に対する悔しさと仲間を心配するあまり、我知らず口の端を強く噛みしめていたのだ。


 今の彼女にできるのは皆の足を引っ張らないように自分の身を守りつつ、この状況を打開する方法を探ることだけだった。





 戦いは長く続いた。両者の戦いは圧倒的にテレサたちが優勢だった。だが戦士たちは何度打ち倒しても、立ち上がってくる。


 やがてレイエフの魔力が減少し、リアとロウレアナの疲労が蓄積したことにより、テレサたちはじわじわと後退することを余儀なくされた。


 この部屋の出口は一か所だけ。しかしそれは子爵と戦士たちによって塞がれている。あとはエマの背後にある小さな窓だけだ。


 このままではそう遠くないうちに追い詰められてしまう。そう考えたエマは、祈るような気持ちで背後の窓を閉ざす木戸の鍵に手をかけた。ここから脱出できれば、状況を変えることができるかもしれない。そう思ったからだ。






「そんな・・・!!」


 しかし木戸を開いたエマの口から出たのは、絶望の呟きだった。窓の外にあったのはどこまでも広がる夏の青空。周囲には何もない。


 エマたちのいるこの部屋は、領主城に聳える尖塔の最上階だったのだ。この尖塔の他にも同じような尖塔がいくつか見えるが、どれも飛び移れそうな距離にはない。そして地上は目が眩むほど下にある。ここから飛び下りれば、待っているのは間違いなく確実な死だ。


 追い詰められながらもレイエフがここから脱出しようと言わなかった理由が、エマにもはっきりと分かった。


「無駄なあがきをしおって、バカなガキだ!!」


 エマの必死の行動を子爵が嘲笑う。私にも魔法が使えたら。エマは溢れそうになる涙をぐっと飲みこんだ。





 窓が部屋が明るくなったことで、今まで見えていなかった鎧戦士たちの体がよく見えるようになった。しかし彼らの体を見たエマは、すぐにそれを後悔した。


 鎧が外れた彼らの体の表面は全身が焼け爛れたように赤く溶け崩れていたからだ。おそらく魔法薬の副作用なのだろう。そして彼らの着ている鎧は、筋肉で盛り上がった体に直接鋲で固定されているのだということが分かった。


 高い再生力があり、また痛みを感じることがないのをいいことに、この兵士たちは強化された肉体を無理矢理鎧に詰め込まれているのだ。鎧はちょうど甲虫の外骨格のような役割を果たしている。


 手足が何度折れても彼らが立ち上がってくるのは、この鎧が彼らの体を支えると同時に拘束しているからなのだ。


 生きている人間相手にこんな残酷な仕打ちを平然と行う敵に対して、エマは怖気が立つほどの怒りを感じた。そして同時に、そんな敵に囚われてるミカエラとイレーネの身の上がとても心配になった。






 一刻も早く二人を助けに行かなくては。でもそのためにはここから脱出しなくてはならない。私の魔力が制御できさえすれば・・・!


 そう思って戦況を見つめていたエマは、ハッとあることを思いついた。これがうまくいけば、皆でここから脱出できるはず。でももし失敗したら、仲間全員を犠牲にしてしまうだろう。


 エマはじりじりと追い詰められる仲間を振り返ると、ごくんと喉を鳴らして唾を飲んだ。このままではいずれ仲間の誰かが倒れることになる。こうなれば一か八か、やってみるしかない。






 エマは一度ぎゅっと目を瞑った後、かっと目を見開いた。そして自分の隣に立つレイエフの正面に回り込むと、彼の両手首を強く握りしめた。


「なんだ!? 一体、何をするつもり・・・!」


「レイエフ先生!! すみません!!」


「ぐっ!? ぐああああぁあぁあぁっ!!」


 エマは自分の中で荒れ狂うドーラの魔力を抑えつけることをやめ、自分の手を通してレイエフの体に全力で流し込み無理矢理、循環させた。






 これは魔力量を増やすために行う基礎鍛錬だ。通常は魔力量や魔力属性の合う相手を選んで、相手と呼吸を合わせながら行う。


 自分以外の誰かと魔力を循環させることで安全に体内の魔力を動かし、魔力量を少しずつ増やすことができる。エマも普段から同じ寮の女子生徒たちとこうやって鍛錬している。


 だがこの時のエマは、ただただ自分の中で溢れる魔力を外に放出する目的で、強引にレイエフへ魔力を流し込んだ。


 全属性のエマの魔力を大量に受け取ったレイエフはたちまち魔力酔いに陥り、気を失ってその場に崩れ落ちた。その体をエマがしっかりと抱き留める。エマはふらつく足を必死で踏ん張った。


 制御しきれないほど多くの魔力を一度に循環させたことで、エマ自身も魔力酔い状態になってしまっていたのだ。だが一時的に魔力が減少したことで、今までよりずっと体内の魔力が制御しやすくなっている。


 これならやれるかもしれない。エマは必死で戦い続けるテレサたちに向かって叫んだ。






「皆! 窓から外に出て!!」


 テレサたち三人はすぐにエマの意図を察した。


「はああああぁっ!!!」


 テレサが裂帛の気合と共に渾身の回し蹴りを放ち、押し寄せる鎧戦士たちを一度に薙ぎ倒した。それにより戦士たちの攻め寄せる圧力が弱まり、戦闘に一瞬の空白が生まれる。


 その隙に三人はエマのいる小さな窓に駆け寄った。


「私が必ず魔法で何とかします。私を信じて皆、飛び出してください!」


 エマの言葉にリアとロウレアナが頷く。






「分かりました。さあ、行きましょうロウレアナ様、テレサ様。」


「ええ、もちろんです。エマさんなら絶対に何とかしてくれるでしょうから。」


 だがテレサは窓の外を覗き込むなり小さく「ひっ」っと叫んで、たたらを踏んだ。


「いやっ、あのっ、わたしはこ、ここで皆さんを守ります! ほらっ、後ろから攻撃されたら危ないですしっ!!」


 血相を変えて後ずさろうとするテレサを見て、リアとロウレアナは顔を見合わせ頷いた。二人は無言でテレサの両腕を掴むと、そのまま窓に彼女を引きずっていった。


「ちょ、ちょっと待って!! 分かりました、飛びます!! 自分のタイミングで飛びますからっ!! や、やめてぇええぇえぇぇぇぇ!!」


 テレサが上げた悲鳴に呼応するように、子爵が「奴らを逃がすな!!」と叫んだ。打ち倒された戦士たちが立ち上がりテレサたちに迫る。






 それを見たリアとロウレアナは、弱々しく抵抗するテレサを両方から抱えたまま、三人同時に窓から飛び出した。


「いやあぁあぁあぁああぁっ!! ひとごろしいいぃい!!」


 聖女らしからぬ悲鳴を上げながらテレサが落下していくのを見届けたエマは、気を失ったレイエフを抱えたまま自分も窓から空中に身を躍らせた。


「世界を渡る逞しき風よ。その大いなるかいなをもって、大地のくびきより彼の者を解き放て。《落下速度操作フォーリングコントロール》!」


 エマは片手でドーラの作ってくれた短杖を掴んだまま、必死の思いで呪文を詠唱した。すでに魔力酔いの症状が出ているため、目の前が眩み世界がぐるぐると回転しているように見える。


 意識を手放してしまいたい誘惑に必死に抗いながら、エマは魔法を保ち続けた。






 直後に呪文が発動し、急速に落下していたエマたち5人の体が、下から吹き上げる風に支えられるようにしてふわりと浮き上がった。


 これならもう大丈夫。あとは落下地点を定めさえすれば・・・。


 エマはレイエフの体から手を離し、魔力を使って自分の姿勢を安定させることに集中した。揺れる視界を懸命に落ち着かせ、全員が安全に着地できる場所を探す。


 エマが落下地点に選んだのは、城門内側の広場だった。数人の兵士らしき姿が見えるが、まだ誰も空中にいるエマたちのことには気が付いていない。エマは魔力で風を操り、空中を滑空する仲間たちを一か所に集めていった。






 無理をして魔法を行使したせいでエマの意識は今にも途切れそうになっている。だが魔法の効果を持続させるためには今、気を失うわけにはいかない。


 おそらく間もなくエマは重度の魔力酔い状態により意識を失うだろう。再び立ち上がれるまでにはかなりの時間がかかるはずだ。彼女は敵地の真ん中で戦闘不能になってしまうことを申し訳なく思った。


 動けない自分はきっとこれまで以上にみんなの足手まといになるだろう。だが今はテレサたちがなんとか生き残ってくれる方法を選択するしかない。あとは仲間たちを信じるだけだ。


 エマは胸の中でドーラを思い浮かべた。


 ドーラお姉ちゃん、皆を守るために私に力を貸して。


 意識を保つため心の中でその言葉を何度も繰り返しながら、エマは風に操り、ゆっくりと地上に近づいて行った。











「くそっ、あのガキ!! 逃げられたか!!」


 尖塔の窓から下の様子を見ていたグレッシャー子爵は、エマたちが風に乗りゆっくりと城門の方へ移動していくのを確認して、憎々し気に吐き捨てた。


 しかしその直後、にんまりと口を歪めた。


「だがこれは逆に好都合だ。出撃の鐘を鳴らせ。全兵士を城門前に集めるのだ。奴らを絶対に逃がすな。」


 子爵の命を受けた兵士たちが機敏な動きで尖塔を駆け下りていく。直後、領主城全体に出撃を知らせる鐘の音が響き渡った。その音を陶然とした様子で聞きながら、子爵は小さく独り言ちた。


「極限まで強化された兵士3000人を相手に奴らがどこまで抵抗できるか試してみよう。かなり腕の立つ連中のようだが、しょせんは多勢に無勢。圧倒的兵力で押しつぶしてくれる。そして奴らの躯を引き裂いて焼き尽くし、出陣の狼煙とするのだ。私が王国のすべての者たちを救う、聖なる戦いのな!」


 子爵はその堂々とした体躯を翻し、かつての弟の居室を出た。そして後ろを振り返ることもせず、ゆっくりと尖塔の階段を降りていったのだった。

読んでくださった方、ありがとうございました。

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