55 逃亡者と虜囚
本日二話投稿しています。こちらは二話目です。長くてごめんなさい。
カールたちが領都に向けて旅立ってから2日後の朝、エマは見知らぬ寝台の上で目を覚ました。
「おはようエマ。痛いところはありませんか?」
寝台の横に座って自分を見守ってくれていたテレサに声を掛けられ、エマは辺りをきょろきょろと見回した。
「お師匠様? じゃあここはハウル村の施療院ですか?」
テレサはその言葉に小さく頷き、自分と共に座っていたハーレに目配せを送った。ハーレは無言で頷くと、そっと部屋を出て行った。
「私どうしてここに? 確か森の中で騎士様に刺されて気を失って、それから・・・。」
思案顔をしていたエマだったが、すぐに嬉しそうに声を上げて手をパチンと叩いた。
「そうか! ドーラお姉ちゃんが助けに来てくれたんですね。お姉ちゃんはどこですか? ミカエラちゃんとイレーネちゃんも、お姉ちゃんが助けてくれたんですよね?」
尋ねられたテレサは静かに頭を振った。
「ドーラさんが連れてきたのはあなただけですよ。ドーラさんはお二人のことは何も言っていませんでした。」
そういうと、テレサはドーラが連れてきたときのエマの様子を彼女に語って聞かせた。。
「私、そんなひどい状態だったんですか。それをお姉ちゃんが・・・。お姉ちゃんは今どこに?」
心配するエマをこれ以上動揺させないため、テレサはあえて真実を伝えることを避けた。
「ドーラさんは力を回復させるために、ドルーア山で眠っています。心配いりませんよ。それよりミカエラ様たちのことを教えてください。」
ドーラが今後目覚めないかもしれないということについては、いずれ機会を見て話せばよい。そう考えてテレサはエマに問いかけた。
エマはテレサの言葉を特に疑うこともせず鵜呑みにして、自分がオペルと黒装束の男に襲われた時の様子を話した。
「ではお二人の安否は不明なのですね。無事でいるといいのですが・・・。」
テレサが眉を顰めてそう呟いたとき、扉の外でバタバタという木靴の足音が聞こえた。
「エマ!!」
「お父さん、お母さん!!」
扉から現れたのはエマの両親、フランツとマリーだった。二人の姿を見たエマは寝台を飛び出し、二人に駆け寄った。三人は扉の前でしっかりと抱き合った。
「大けがをしたお前が施療院に運び込まれたって聞いた時は本当に肝をつぶしたぞ。ハーレ様からお前が目を覚ましたって知らせを聞いて、二人で飛んできたんだ。」
「心配かけてごめんなさい、お父さん、お母さん。」
涙ながらに両親へ謝るエマの頬を、マリーはそっと両手で包み込み、我が子の目を覗き込んだ。
「生死にかかわるほど酷い状態だって聞いていたから、あなたが眠っている間、本当に心配したわ。無事でよかった。・・・髪と目のことは仕方がないけれど、あなたが生きていてくれるだけ幸せよ。」
「髪と目?」
エマはマリーの言葉で、思わず寝台の横に置かれた桶を覗き込んだ。
「!! これは!?」
エマは水鏡に映った自分の姿を見て驚きの声を上げた。
金色に近い薄茶色だったエマの髪は、虹色に輝く乳白色へと変化していた。薄茶色の瞳の中にも、虹色の煌めきを放つ光の粒がいくつも浮かんでいる。
エマはその輝きを見ただけで、自分の姿が変わった原因がすぐに分かった。エマに視線を向けられたテレサは一つ大きく頷き、エマに語りかけた。
「おそらくドーラさんの魔力の影響です。はっきりとは言えませんが、いずれは元に戻るかもしれません。体調の変化はありませんか?」
「魔力がうまく扱えません。体の中に大きな魔力が渦巻いている感じがします。」
エマは言葉を選びながら、ゆっくりとそう言った。室内にハーレやフランツたちがいるため口には出さないが、エマもテレサも魂の器を修復した時に流れ込んだドーラの力が原因だろうということが分かっていた。
エマの答えを聞いたテレサは、エマの肩にそっと手を置いた。
「落ち着くまでは大きな魔力の使用は控えた方がよいでしょう。」
エマは師匠の言葉にこくりと頷いた。今は何もしていなくても全身に魔力が漲っている状態だ。自分ではそれを制御できないので、複雑な魔法はとても使えそうにない。
体内に溢れる魔力の勢いがあまりにも強いので、魔力回路を作ることができないのだ。《魔法の矢》すら撃てるかどうか怪しい。魔力酔いになっていないのが逆に不思議なくらいだとエマは思った。
エマはしばらく俯いて考えていたが、やがて両手をぐっと握ってテレサと両親に向き直った。
「お師匠様、私、王都に戻ります。二人の無事を確かめたいんです。お父さん、お母さん。心配かけて本当にごめんなさい。でも私、二人のことを放っておけないの。」
テレサは無言でフランツたちを見た。フランツとマリーは互いに目を見合わせると、少し寂しそうに笑った。
「ああ、行ってこいエマ。」
「気を付けていくんだよ、エマ。あたしらはここでお前の帰りを待ってるからね。」
「・・・ありがとうお父さん、お母さん。」
三人は再びしっかりと抱き合った。涙を流すエマの体を、彼女の両親は愛おしそうに何度も何度も撫でた。やがて三人がどちらともなく体を話すと、テレサがエマに話しかけた。
「きっとあなたがそう言うだろうと思って、準備をしておきましたよ、エマ。」
テレサが合図を送ると、ハーレが部屋の扉を開いた。そこから現れた二人を見て、エマは驚きの声を上げた。
「ロウレアナさん! それにリアさんも!」
二人はすでに旅装を整えた状態でそこに立っていた。リアの手の中にはエマの装束と装備も準備してある。
「ドーラ様がいらっしゃらない間、私があなたを守りますよ、エマ。」
「旦那様に直接報告したいことがあるのです。わたくしもお二人を探すお手伝いをさせてください。」
「ありがとうございます、リアさん! ロウレアナさん!!」
エマは二人に礼を言うと、テレサは三人に向き直った。
「私もあなた方に同行します。エマの体はまだ万全ではありませんから、癒し手が様子を見る必要がありますから。」
「司教様がご一緒ならこんなに心強いことはありません。エマのこと、よろしくお願いします。」
そう言って深々と頭を下げるフランツとマリーに見送られ、4人は王都を目指して旅立つことになった。
事情を聞いたバルドンが衛士隊の早馬車を都合してくれたため、旅程は順調に進み、4日後には王都のすぐ側にある村の入り口へと辿り着くことができた。
この村を越えれば王都は目と鼻の先。おそらくその日の夕刻までには目的地へ着けるだろう。
御者を務める衛士隊員はエマたちにそう話し、街道の門を通り抜けるために村を守る自警団の詰め所へと馬を進めた。ところが。
「・・・ちょっと、ここで待て。」
エマたちの身分証を確かめた途端、門番の自警団員は血相を変えて村の中に駆け込んでいった。
「どうしたんでしょう? バルドン隊長の添え書きもあるというのに・・・。」
バルドンが王都への急使という名目で馬車を準備してくれたおかげで、これまではほとんど調べられもせずここまで来ることができていた。
それなのに急に足止めを食らったことで、衛士隊員は戸惑いを隠せない。エマは胸に広がった不安を振り払おうと、きょろきょろと落ち着きなく辺りを見回した。
ロウレアナとリアもそっとそれぞれの武器に触れ、油断なく周囲に目を配る。
その時、リアが鋭い声を上げ、全員の注意を引き付けた。
「!! あれを見てください!!」
「どうしたんですか、リアさん?」
リアが目を向けた方向には、さっきの自警団員に先導されるようにこちらに向かってくる異様な一団の姿が見えた。
彼らは全員が魔法銀の甲冑で完全武装していた。そのことからおそらく王国騎士団なのだろうということは容易に想像できる。
ただ普段見る騎士との大きな違いは、彼らが甲冑の上から漆黒の騎士外套を纏っている点だ。外套の左胸の部分には、王家の紋章が白く染め抜いてあった。
「(あの人たちは騎士さんですよね?)」
囁き声でそう尋ねたエマに、リアは小さく首を振った。
「(王国軍憲兵隊です。でもなぜ彼らがここに?)」
軍内部で起きた犯罪を取り締まる精鋭部隊がこんな場所にいることに、リアが疑問の声を漏らす。
テレサの合図で、エマたちは馬車を降りた。不安そうな衛士隊員を馬車に残し、エマを後ろに庇うようにして、三人の女たちは門前に立ち並んだ。
憲兵騎士たちは、テレサたちを警戒するようにやや離れた場所で立ち止まった。その数12人。
最前列に立った細い口髭の騎士がテレサたちを胡乱な目で眺める。彼は先ほど門番に渡したエマの身分証を片手で示し、彼女に向かって叫んだ。
「お前がハウル村のエマか? 顔を見せろ。」
どうするべきかとエマたちは一瞬躊躇った。しかしすぐにテレサが小さく頷いたことで、エマはテレサの後ろからおずおずと姿を現した。
彼女は深く被っていた外套のフードを降ろして、騎士に自分の顔を見せた。何事かと成り行きを見守っていた野次馬や衛士たちが、エマの鮮やかな虹色の髪と瞳を見て、一斉に驚きの声を上げた。
「なんだ、あの髪の色は!?」
「おい見てみろよ! あの娘の目、虹色に光ってるぞ!!」
彼らに指をさされてエマはいたたまれない気持ちになった。思わずフードを被りなおしたくなるのを懸命に堪え、彼女は騎士を正面から見返した。
騒ぐ野次馬たちに対して、貴族である騎士たちは落ち着いていた。
先ほどエマに顔を見せるよう言った騎士は、エマの身分証に書かれた人相書とエマとを見比べながら、ぶつぶつと小さく呟いた。
「人相書とずいぶん違うが・・・まあいい。魔力が多い子供の成長期には、髪色が変化することなどよくあるものだからな。本人かどうかは捕らえて調べれば分かることだ。」
「捕らえる? 一体どういうことですか?」
彼の言葉を耳聡く聞きつけたテレサが問いかけると憲兵騎士は居住まいを正し、朗々とした声で宣言した。
「ハウル村のエマ。お前を王国騎士オペル・ランドーン男爵に対する殺人、並びにカッテ家およびバルシュ家の両令嬢誘拐に関わった容疑で逮捕する!」
騎士の宣言を聞いた物見高い野次馬たちは怖れ慄き、蜘蛛の子を散らすようにあっという間にその場から逃げ去った。
貴族に対する殺人は王国でも最も刑罰の重い犯罪だ。犯人とのかかわりを疑われただけでも問答無用で死罪になりかねない。彼らが火の粉を避けようとするのは当然だった。
突然の宣言に驚いたものの、身に覚えのないエマは大声で騎士に抗議した。
「私はそんなことやっていません!!」
だが憲兵騎士はそれに全く耳を貸そうとはしなかった。
「犯罪者は皆そう言うのだ。申し開きは憲兵隊の尋問所でじっくりと聞かせてもらう。捕縛しろ!!」
先頭にいた口髭の騎士の言葉に、後ろに立ち並んでいた騎士たちが一斉に動き出しエマに迫る。だがそのエマを守る様に、三人の女たちが彼らの前に立ちはだかった。
それでも騎士たちは、たかが女三人と高をくくった様子で無造作にエマたちに歩み寄った。
しかし三人の隙のない身のこなしと、緑色のフードの陰から覗くロウレアナの長い耳に気づき、すぐにその場に立ち止まった。
「なんだお前たちは? 邪魔立てするなら同罪とみなし逮捕するぞ!!」
互いの間合いを測りながらそう怒鳴った騎士たちに、正面に立ったテレサは一礼し静かに問いかけた。
「私は聖女教会西方大聖堂司教テレサです。エマさんを王立学校へ送り届けるために、彼女の保護者であるドルアメデス国王陛下からの依頼を受けて同行しています。そのような一方的な言い分では、エマさんを引き渡すことはできません。陛下はこのことをご存じなのですか?」
テレサの言葉を聞いて、騎士たちに動揺が走った。ちらりと後ろを振り返った配下の騎士たちを押しのけるようにしてテレサの前に進み出たのは、エマの逮捕を命じたあの口髭の騎士だった。
彼は仕事を邪魔された不快感を隠すこともせず、テレサを睨みつけた。
「陛下からの裁可を受けたわけではない。だがこちらには確かな証拠があるのだ。」
「証拠?」
テレサの言葉に、口髭の騎士は勝ち誇ったように騎士外套の懐から何かを取り出し、テレサたちに見えるように掲げた。
「それは私の短刀!」
薄く虹色の光沢を放つそれは、ドーラがエマのために作った採集用の短刀だった。
オペルと対峙した際、森の中に落としたはずの短刀をこの騎士が持っているのか。そう混乱するエマを見て、口髭の騎士は残忍な笑みを浮かべた。
「フフ、やはりそうか。これはランドーン卿殺害に使われた凶器なのだぞ。」
彼はテレサの顔をニヤニヤした表情で見つめながら、さらに言い募った。
「これだけでも十分な証拠だがそれに加え、お前が戦闘の混乱に乗じてイレーネ・カッテとミカエラ・バルシュの後を追い、森に入ったという他の生徒の証言もある。言い逃れはできんぞ。」
騎士の言葉にエマは全身の血が凍り付いたかと思うほどの寒気を感じた。
この騎士の言うことに間違いはない。エマはミカエラとイレーネを救うため二人の後を追い、オペルと戦ったからだ。
だがエマが腹を刺されて昏倒した後、彼女の短刀を拾ったレイエフによってオペルが殺されたことをエマは知らない。
だからエマにはそのことを説明できない。言い淀んだエマを見て、口髭の騎士はテレサたちへ居丈高に迫った。
「さあ、その犯罪者をこちらに引き渡してもらおうか。」
だがテレサたちは一歩も動かなかった。むしろテレサはエマを庇うよう、自分の後ろにエマを隠れさせた。薄い雨雲が広がる仄暗い空の下、騎士と三人の女たちは互いの様子を油断なく伺い合った。
肌がヒリヒリするほどの緊張感がその場に満ちる。まさに一触即発の事態だ。
このままではテレサたちまで捕まってしまうかもしれない。そう思ったエマは、自分から騎士たちの下へ向かおうと一歩前に進み出ようとした。
しかしその歩みは、すぐにリアによって遮られてしまった。
「(絶対に行ってはなりません、エマさん!)」
「(リアさん!?)」
「(彼らが平民の言い分など聞くはずがありません。捕まれば拷問で自白を強要され、火刑に処されるだけです!)」
「(で、でもこのままじゃ皆まで・・・!!)」
エマとリアが言い争うのを聞いた騎士たちは、隙ありとみて一歩前に進み出ようとした。しかし彼らの機先を制するように、テレサは周囲の空気を揺るがすほどの声で宣言した。
「引き渡しには応じられません。私はエマさんを守ると約束しました!」
テレサの大音声に怯んで思わず立ち止まった騎士たちだったが、すぐに口髭の騎士が彼らを怒鳴りつけた。
「ならばこの者たちも同罪だ。全員捕縛しろ。抵抗するなら殺しても構わん!!」
上官からの指示を受けた騎士たちは一斉に剣を抜き払い、素早く散開してテレサたちを取り囲んだ。
迷いを捨てた騎士たちの動きは鋭かった。油断なく距離を詰めようとする彼らに、ロウレアナが警告の叫びを上げた。
「エルフ族に対して、先に剣を抜いたのはあなたたちの方だということをお忘れなきように!」
その言葉に一瞬、騎士たちが動揺した隙をついて、ロウレアナは自らの守護精霊へ呼びかけた。
「清流の乙女よ、巻き起こせ!《迷いの霧》!!」
ロウレアナの呼びかけに応え、彼女の腰に付けた水袋から全身が水で出来た美しい乙女が空中に飛び出した。彼女が身に纏った水の羽衣を翻して一回転すると、エマたちの姿はたちまち深い霧に包まれ見えなくなった。
エルフ族の魔法を目の当たりにした騎士たちは、たたらを踏んでその場に立ち留まった。
彼らが攻撃をためらったのは、未知の精霊魔法に脅威を感じたのはもちろんだが、それ以上にエルフ族が王国にとって頼もしい盟友であると同時に警戒すべき隣人であるためだ。
何よりも同胞の命を重んじる彼らと事を構えることになれば、森に囲まれた王都を抱える王国にとって相当な痛手となる。彼らが躊躇したのは、そのことをよく知っているからだった。
「くそっ、小癪な真似を!! 王国の法に反している以上、相手がエルフだろうが関係ない。全員、皆殺しに・・・ぐはあっ!!」
口髭の騎士は配下の騎士たちに檄を飛ばそうとした。しかしその途中で腹部に正面から強烈な一撃を受け、その言葉を無理矢理遮られてしまった。
魔法銀の胴鎧をべっこりと凹ませた彼は、風に舞う紙人形のように街道の石畳の上を転がっていき、泡を吹いて気絶した。大の字になって転がる彼に、どこからともなく現れた従者たちが群がり介抱を始めた。
彼を気絶させたのはテレサだった。
神速の足さばきで彼に接近し正拳突きを放った彼女は、あまりの事態に呆然とする騎士たちを横目で見ながらゆっくりと腰を起こし、新たに構えを取りながら言った。
「王命に背くばかりか、無実の者を強引に逮捕しようとするなど断じて許せません。どうしてもと言うなら容赦するつもりはありませんよ。」
テレサは息を強く吐き出しながら深く腰を落とすと、腰だめに構えていた右拳を気合と共に全力で石畳に叩き込んだ。ごうという信じられないような轟音が響き、打撃の衝撃で地面がぐらりと揺れる。
衝撃をまともに受けた騎士たちはすぐに姿勢を立て直したが、彼女の拳が当たった場所を見て戦慄の声を上げた。彼女の拳を中心に石畳が割れ、巨大な陥没が生まれていたからだ。
テレサはゆっくりと流れるような所作で再び半身に構えると、腰を落として騎士たちに吠えた。
「立ちふさがるもの全員、聖なる拳で叩き伏せてやりましょう!!」
びりびりと空気を震わせるテレサの咆哮を受けた騎士たちは、戸惑いを隠せない様子ながらも素早く陣形を立て直して、テレサたちに迫っていく。
「ひ、怯むな!! しょせん相手は僧侶とエルフ、二人だけだ! かかれ!! 数で押しつぶすのだ!!」
一斉にテレサに襲い掛かる騎士たち。しかし甲冑を着た彼らよりも、テレサの動きの方がはるかに速かった。
彼女は襲い掛かってきた騎士のうち一人を素早く掌底突きで転倒させると彼の両足を腰に抱え込み、両腕でしっかりと掴んで大きく回転し始めた。
「聖女流格闘術奥義、聖女ジャイアントスイング!!」
勢いよく回転したせいで、テレサの法衣が捲れて鍛え抜かれた美しい足の筋肉が露になる。しかし彼女はそれをものともせず、完全武装の騎士を巨大な槌の様に振り回しながら、彼の仲間たちを次々と薙ぎ倒していった。
たまらず騎士たちが後退して距離を取ると、彼らの背後から現れた従者と応援の兵士たちが手に持った短弓を構えて、テレサに狙いを定めた。
「危ない、お師匠様!!」
弓兵の動きに気づいたエマが声を上げる。しかしその矢がテレサに向けて放たれることはなかった。
「エルフの前で弓を構えて無事でいられると思っているのなら、認識を改めて差し上げます。」
彼らよりもずっと早く矢を放ち終えたロウレアナがそう呟くと同時に、弓を持った腕を水で出来た魔法の矢で射抜かれた弓兵たちはその場に崩れ落ちた。
「大盾を使え!! 奴らを押し込むんだ!!」
エマたちの背後から回り込んだ騎士たちは従者から大盾と槍矛を受け取ると、簡易陣形を組んで猛然と突進してきた。
ロウレアナが普通の矢で牽制するが、すべて大盾によって防がれてしまう。テレサは正面から押し寄せる敵を押し返しているため、彼らの突進を止められない。
ロウレアナは弓を持ったまま新たな精霊魔法の詠唱に入ったが、先ほど弓兵たちに《水精の痺れ矢》を使ったばかり。今からではとても間に合わない。まさに万事休す。
短刀を構え、エマを守る様に寄り添っていたリアは、その様子を見てエマをそっと《迷いの霧》の中に押し込んだ。
「魔法が使えない今のエマさんに彼らと戦う力はありません。この中でおとなしく隠れていてください。」
「!! リアさん!! 後ろ!!」
エマが悲鳴のような警告を発した時には、騎士たちの槍矛が繰り出された後だった。
「犯罪者の仲間め! お前から処刑してやる!!」
リアは短刀を構えてハッと振り返ったが時すでに遅く、槍矛の刃はリアの細い体を深々と刺し貫いた。
「リアさん!!」
「な、何!?」
だが血飛沫を上げて崩れ落ちたリアの体は、次の瞬間、薄曇りの光の中に溶けるように消え去った。そして驚きの声を上げる騎士の耳に小さく囁くような言葉が聞こえてきた。
「・・・秘術《影分身》」
騎士たちの目の前に、胸の前で印を結んだリアの影が数体同時に出現した。リアの影たちは混乱する騎士たちの大盾に足をかけて上空高く飛び上がり、あっという間に大盾の内側に入り込んだ。
影が鎧の隙間を狙って膝裏に手刀を振るうと、騎士たちは呆気なくその場に転倒した。
「無防備な女に背後から切りかかるとは騎士の風上にも置けません。カール様を見習ってほしいものですね。」
影たちは同じタイミングでそう呟くと、本体のリアのみを残して風に溶けるように次々と姿を消した。
リアは再び短刀を構えてエマの隠れている場所まで後退した。
転倒した騎士たちは従者たちの助けを借りて素早く起き上がると、リアを追撃するため武器を構えた。
しかし、その時にはすでにロウレアナが次の精霊魔法の詠唱を終えていた。
「世界に満ちる水の精霊よ。揺ぎ無き水の糸を織りなし、我が敵を縛れ。《水蜘蛛の糸》」
詠唱が終わると同時に、騎士たちの上に水で出来た半透明の巨大な蜘蛛が出現し、彼らに向かって粘着性の高い水の糸を振りまいた。
糸に絡み取られた騎士たちは必死に藻掻いて糸から脱出しようとしたが、そのせいでますます自分や互いの体がくっつきあってしまい、最後には地面に横たわったまま完全に身動きが取れなくなってしまった。
「さあ、今のうちにこの村を抜けましょう!」
リアの声に他の三人も大きく頷き、彼女の後をついて走り出した。その場を立ち去る間際、テレサは馬車の陰から成り行きを見守っていたバルドン隊の御者に声をかけた。
「私たちは行きます。あなたはバルドン隊長へ報告をお願いします。ここまで連れてきてくださってありがとうございました。」
「はい、司教様お気をつけて! エマ、がんばれよ!! 捕まるんじゃねえぞ!!」
親指を上げて片目をつぶった御者に笑顔で手を振り返し、エマはフードを目深にかぶってから走り出した。
「貴様ら、我々に歯向かってただで済むと思うなよ!!」
そう騎士たちが怒鳴る声を背に聞きながら、4人は大急ぎでその場から立ち去ったのだった。
村を後にした4人は街道の脇の森に入り、今後のことを話し合うことにした。戦闘はあっという間だったが、安全な場所まで村から離れようとかなりの距離を移動したため、もう日が陰り始めている。
「このあとどうすればいいのでしょう?」
エマの質問に答えたのはルッツ家の侍女にして、王国密偵のリアだった。
「私が王都にいる仲間を通じて旦那様に連絡します。その後、抜け道を通って王都内に侵入しましょう。仲間の下に潜伏すれば見つかる心配はありません。」
「でもその後は? いつまでも隠れてはいられません。誘拐された二人の行方も追わなくてはなりませんから。」
テレサの言葉に皆は考え込んでしまう。特に動揺した様子のエマを落ち着かせるために、ロウレアナは彼女の肩にそっと手を置いた。
「大丈夫ですよ。みんなあなたがそんなことをするはずがないと分かっているのですから。」
ロウレアナの言葉に他の二人も笑顔で頷く。エマは目の端に涙を浮かべ「ありがとうございます」と三人に頭を下げた。
やがてテレサはすっと息を吐き、決然とした調子で言った。
「この状況を打開するには、やはりエマの無実を晴らすしかないでしょう。」
「そう出来れば一番いいのですが、私にはそれを証明する手立てがありません。どうすればいいのでしょうかお師匠様?」
テレサは不安げに問いかけるエマの頭をポンポンと叩いた。
「簡単なことです。真犯人を捕まえればいいのですよ。そうすればあなたの無罪を晴らせ、攫われた二人も一度に救うことができます。」
楽観的過ぎるとも思えるテレサの言葉にロウレアナは唖然とした表情を浮かべた。彼女は隣にいるリアにそっと視線を送ったが、ロウレアナと目を合わせたリアは彼女らしからぬ調子で「はあ」と大きく息を吐いた。
「あまりにも大味な解決策ですがテレサ様のおっしゃる通り、それが最も確実で早いやり方ですね。それにしても、エマを襲った騎士を殺したのは誰なんでしょうか?」
リアの問いかけに、エマはハッとした表情を浮かべた。たちまちエマの顔が青ざめていく。
「もしかしてお姉ちゃんが、私を助けるために?」
震える声でそう言ったエマの言葉を、リアは即座に否定した。
「確かにやりかねませんけど、ドーラさんなら短刀を使ったりはしないと思いますよ。」
「あ、そうか! そうですね、よかったぁ。」
エマは安心したように息を大きく吐いた。エマを傷つけられたドーラの怒りを目の当たりにしたことのあるテレサとロウレアナは思わず顔を見合わせ、苦笑を浮かべた。
少し緩んでしまった空気を引き締めるように、今度はロウレアナがリアに問いかけた。
「ということは、二人を攫ったその黒装束の男が犯人ということですか。でも一体何のために?」
リアは顎に右手を当てて少し考えた後、ロウレアナに言った。
「仲間割れか、あるいは口封じかもしれません。最初からその騎士を捨て駒にするつもりだったとするなら、辻褄は合いますね。ただそれならエマさんに止めを刺さずに放置していった理由が分かりませんけど・・・。」
その言葉にテレサが反駁する。
「エマは私の下に運ばれてきた時にはすでに完全な手遅れで、救いようのない状態でした。放置しても別に不自然ではないのでは?」
確かにそう言われれば不自然な点はないような気がする。ただリアはどうしても違和感を拭い去ることができなかった。
エマの話を聞く限り、二人を攫った黒装束の男は密偵かそれに類する役目を持った者に違いない。
通常、密偵であれば仕事の現場を見た目撃者は全員確実に始末するものだ。死にかけているからと止めを刺さず立ち去るなど考えられない。少なくともリアならば必ず息がないのを確認してから立ち去る。
黒装束の男は、エマを無力化し二人を攫った手際から考えてもかなりの手練れではないかと思う。そんな者がエマを生かしたまま立ち去ったことが、リアにはどうにも納得できないのだった。
黒装束の男が止めを刺さずに立ち去らざる得ないような、何かがあったのではないか?
そう思っては見たものの、今のリアにはそれを他の三人に話すだけの確証がない。ゆえに彼女はただ黙って口を噤み、小さくテレサの言葉に頷いた。
話が一段落したことで、ロウレアナが自信たっぷりの様子で他の三人に話しかけた。
「このまま王都に向かうのですよね? 街道を行けばまた憲兵たちに発見されるかもしれません。森の中を進みましょう。おそらく明日の朝には王都に着けるはずです。」
それを聞いたテレサはちらりとエマを見た後、ロウレアナに問いかけた。
「逸る気持ちは分かりますが、日が落ちた後の森を行くのは危険ではありませんか?」
「ご安心ください、テレサ様。森の子にとっては森を行く方が、街道よりもずっと安全なんです。私が皆さんを先導します。」
そう言ってロウレアナは立ち上がると、周囲の木々に向かって大きく手を広げた。
「緑成すタラニスの森と縁を結びし森の子、ロウレアナが呼びかける。我らの旅路を守り、導きの道を示し給え!」
ロウレアナの言葉が終わると同時に彼女の体から水色の光が溢れ周囲に薄く広がる。すると周囲の木々たちは、風もないのにざわざわと枝を揺らし始めた。
「!! お師匠様! 森が開けていきます!」
エマの言葉通り、森の木々は自ら左右に動き始め、あっという間に森の中に小道が出来上がった。何事にも動じることのないリアも、これにはさすがに僅かに目を見開いた。
「これならば間に合いそうですね。ロウレアナ様、ご協力に感謝いたします。あなたの行く末に聖女の祝福が宿りますように。」
テレサはロウレアナに聖句を唱えて礼を言うと、エマとリアに向かって「さあ、行きましょう」と力強く声をかけた。
日が暮れたことで周囲の森は帳を閉ざしたように暗い。しかしロウレアナの開いた小道だけは、青と緑の月の光が梢の間を通り、エマたちに行く手を知らせてくれている。
こうして月明かりに照らされた森のざわめきを聞きながら、三人の女と一人の少女は、エルフ族のロウレアナが舌を巻くほどの速度で森の小道をひた走り続け、一路王都を目指したのだった。
ぴちゃりという音と共に頬に水滴が落ちてきたことでイレーネは目を覚まし、ゆっくりと痛む体を動かした。硬い石の床から起き上がるため手を動かそうとして、自分が後ろ手に拘束されていることに気が付く。
手首に当たる金属の感触から、枷のようなものを嵌められているようだ。
「・・・ここは?」
彼女がいたのはしんとした暗闇の中だった。湿った空気の感じからしておそらく地下なのではないかと彼女は予想した。
周囲の様子を見るため明かりの魔法を使おうとしたが、体内の魔力が乱れてうまく魔法が使えない。それどころか激しく魔力を掻き乱されたせいで、酷い頭痛を味わうことになった。
彼女は記憶を辿り、攫われた後のことを思い出そうとした。だが記憶が不明瞭で思い出すことができない。かろうじて思い出せるのは、何か薬のようなものを使って眠らされたことくらいだ。
この記憶の混濁もそのせいなのだろう。酷い空腹と喉の渇きを感じるから、眠らされたまま少なくとも2日以上は経過しているのではないだろうか。
イレーネはすぐにミカエラを探した。ただ周囲にどんな危険があるか分からない以上、大きな声や物音を出すことは憚られる。
そこで彼女は苦労して体を起こし、少しずつ体をずり動かしながら、近くにミカエラがいないかどうかを確かめることにした。
両足首にも金属の感触があるから、おそらく手と同じように枷が付けられているに違いない。ただ幸いなことに、手首ほどしっかりとは拘束されておらず、肩より少し広い程度まで開くことができる。
動かすたびに重い金属が触れ合う音がするから、太い鎖のようなもので両足を繋がれているようだ。さらに言えば、靴も履いていなかった。
彼女は横座りのまま、冷たい石の床を這いまわった。暗闇の中では、時折ぴしゃりと水滴が落ちる音がするくらいで何の物音も聞こえない。
しかし、よく耳を澄ますと少し離れた場所から弱い呼吸音がするのに気が付いた。
ミカエラだろうか? それとも別の誰か?
彼女は一瞬躊躇したものの、すぐに呼吸音のした方へ移動した。足首が金属の枷と擦れて痛くなるほど移動した後、彼女はようやく暗闇の中に横たわる柔らかい感触に辿り着くことができた。
冷たい床の上に人が横たわっている。ただその体は冷え切っており、呼吸音もかなり弱々しかった。
かなり移動したにも関わらず、ここまで一度も壁に突き当たっていないから、ここはかなり広い空間のようだ。それに移動しても、特に危険を感じることはなかった。
イレーネは思い切って、横たわっている人物の体を不自由な手で揺り動かし、名前を呼んでみた。
「ミカエラ様? ミカエラ様ですか?」
「・・・イレー・・ネ様。ご無事だったの・・ですね。よかった・・・。」
彼女の呼びかけへ切れぎれに弱々しく応じたのは、間違いなくミカエラの声だった。どうやらかなり弱っているようだ。
「ミカエラ様、大丈夫ですか?」
「・・・左手首が酷く・・痛みます。あと、魔法を・・使うことができません。」
ミカエラはオペルに剣で手首を砕かれて以来、治療を受けていない。エマが二人を助けに来た際、回復薬を使ったことで一時的に改善したが、完治はしていないのだ。
自分と同じように手首を後ろ手に拘束されているとしたら、おそらく彼女の手首は今頃大変なことになっているはずだ。
ミカエラ自身は闇属性の治癒魔法の使い手だが、魔法を使うことができないと言っているから、自分を癒すこともできず激痛に耐えている状態なのだろう。
せめて腰のベルトに付けた物入から回復薬を取り出すことができれば。そう思ったところで彼女はようやく、自分が装備をすべて奪われていることに気が付いた。
今、着ているのは、攫われる前に来ていた王立学校の実習服ではないようだ。暗闇なので見えないけれど、硬くて薄い布の感触しかしない。下着も付けていなかった。
大事な親友が目の前で苦痛に喘いでいるのに、何もすることができない。彼女は、自分の無力さに絶望するあまり思わず涙が溢れそうになるのを必死に堪えた。
「ようやく、お目覚めかね?」
その時、暗闇の中から突然不気味な声が響いた。イレーネはハッとしてそちらを見た。だがミカエラはぐったりとしたまま、ピクリとも動かない。
イレーネはミカエラを庇うようにそっと彼女に体を寄せ、声がした方の暗闇をじっと見つめた。
すると間もなく暗闇の中から浮かび上がる様に、ぼんやりとした灰色の人影が彼女のすぐ目の前に現れた。それがあまりにも唐突だったので、イレーネは寸でのところで上げそうになった悲鳴を、無理矢理、嚙み殺さなくてはならなかった。
彼女の目の前にいるのは、グロテスクな覆面を付けた人物だった。おそらく何かの皮で作られたと思われるその覆面は、縮んでねじくれた小さな革を出鱈目に縫い合わせてある。
それが頭部全体にぴったりと張り付いているため、まるで顔自体に引き攣れた縫い目がある様に見えるのだ。しかも目や口、鼻の部分にも切れ込みや穴などが一切ないため、まるでのっぺらぼうの様に頭全体がずるりとしていてより一層、その不気味さを増していた。
不気味な覆面の人物は手に焼け焦げた杖を持ち、フードのない灰色の長衣を纏っている。そのことからこの人物は魔術師に違いないとイレーネは考えた。
暗闇にも関わらず魔術師の姿が見えたのは、彼自身が濁った黄色い燐光を薄く発しているからだ。だが彼の発する光のおかげで暗闇から解放されたにもかかわらず、イレーネにはその光が吐き気を催すほど悍ましいものに思えて、思わず目を逸らしてしまいそうになった。
魔術師は無言でイレーネを見つめている。と言っても、この魔術師には顔がないので目線を追うことはできない。ただ体をねっとりと舐めまわすような気味の悪い視線を感じるのだ。
表情は分からないが何となく、この魔術師は自分を見て笑っているのではないかとイレーネは思った。彼女は意を決し、座ったままですっと背筋を伸ばすと相手に誰何した。
「何者です? 私をカッテ家のイレーネと知っての狼藉ですか?」
思いがけず鋭い声が出せたことで、イレーネは声が震えなかった自分を褒めたい気分になった。だが魔術師は追及をものともせず、軽く肩を竦めて話し始めた。
「君たちが何者なのかなど、私には興味がない。私の協力者は、君にずいぶんとご執心のようだったがね。」
「協力者ですって? あなた方の目的は何なのです? 私たちをどうするつもりですか?」
正体不明の相手から執心されていると聞かされた内心の動揺を抑えて、イレーネは続けざまに問いかけた。会話を続けることで少しでも情報を引き出し、脱出の手がかりを掴もうとする一心からのことだ。
そんなイレーネの様子を見た魔術師は、喉の奥を震わせるような気味の悪い笑い声を上げた。
「質問が多いのだな。しかしまあ、様々なものに疑問を持つというのは術師には不可欠な資質だ。私は嫌いではないよ。やはり君たちは平民の娘たちとは違うようだ。泣き叫んで助けを求めるばかりだった彼女たちとはね。」
魔術師の言葉で、ここに連れてこられたのは自分たちが初めてではないということが分かった。つまり今後もそういう人間がここにやってくる可能性が高いということだ。もしかしたらそれが脱出の手がかりになるかもしれない。彼女はそう考えた。
また同時に、自分たちよりも前に連れてこられたという娘たちがどうなったのかを想像し、肌が自然と粟立つのを感じた。
魔術師は彼女の内心の不安を読み取ったかのように、再び不気味な笑い声を漏らした。
「今日の私は機嫌がいいのだ。君たちのおかげで私の研究はまた一段階前へ進むことができそうだからね。だから特別に君の質問に答えよう。これを見給え。」
魔術師が持っている杖で床をこつんと突くと、魔術師の背後から白い光が沸き上がった。
白い光を発しているのは、石の床の上いっぱいに描かれた魔方陣だった。その直径はおそらく大人の歩幅で20歩以上はあると思われる。本格的な儀式魔法を行うときに用いるような巨大なものだ。
魔方陣は磨き上げられた石の床の上に刻みこまれており、冷たい魔力光を放っている。
その魔方陣が描かれているこの部屋は、床と同じ石造りの壁に囲まれた正方形の部屋だった。部屋の一片の長さはおよそ20歩前後。扉や窓は一切見当たらない。
天井までの高さは大人の背丈二人分ほどもあるため、閉鎖された空間にもかかわらず圧迫感はそれほど感じなかった。
イレーネは白い光を頼りに部屋の中の様子を探った。そして部屋の一角にあるものに気が付いて思わず息を呑んだ。
そこにあったのは拘束具のついた金属製の寝台だった。その周りには小さな車輪のついた金属製の作業台があり、その上に様々な道具が置いてある。
様々な形をした薄い刃を持つ刃物やペンチ、鋭い何本もの針、それに鋸などだ。どれもこれもピカピカに磨き上げられており、台の上に整然と並べられている。
それらの用途を想像し、イレーネは胸に言いようのない恐怖が沸き上がるのを感じた。
寝台がある一角の壁際には作業机が置かれ、用途の分からないガラスや金属製の器具が所狭しと置かれている。王立学校の錬金術研究室にある錬金器具に似ているとイレーネは思った。
その隣には背の高い本棚や薬品棚が置かれ、ボロボロになった資料や薬瓶、壺などがきちんと並べられている。
魔術師はゆっくりとした動きで手を上げ、その一角をイレーネに指し示した。
「どうかね、私の研究室は? これから君たちには、ここで私の研究に協力してもらう。」
「ひっ!!」
魔術師の手を見たイレーネは堪らず、小さく悲鳴を上げた。
その手は骨の上に、干からびた皮を薄く張り付けたような不気味なものだったからだ。魔術師は悲鳴を上げた彼女の方へ顔を向けると、すっと彼女の眼前に干からびた人差し指を突き出した。
「・・・今の悲鳴はあまり感心しないな。美しさが足りない。」
頭の中で響くカタカタという奇妙な音が、自分の奥歯が恐怖で震える音だと彼女が気付いたのは、魔術師が彼女の顔に自分の頭部を寄せて、そう話し始めてからだった。
魔術師はまるで出来の悪い生徒を諭す教師のような口調で、イレーネに語りかけた。
「よいかね? 全きもの生み出す研究というのは常に美しくあるべきなのだ。そこには僅かな揺らぎや曖昧さすらあってはならない。協力者である君たちも是非、私の崇高な理念を理解してほしいものだ。」
イレーネは声の震えを必死に抑えながら、その言葉に抗弁した。
「私はあなたに協力するつもりはありません。」
彼女の言葉に、魔術師は不気味な笑い声を上げながら静かに頭を振った。
「いや、君たちは私の研究に協力してくれるはずだ。むしろ協力させてほしいと心から願うようになるはずだよ。」
魔術師はそう言うと、血のように赤い薬品の入った小さなガラスの瓶を懐から取り出した。
「まずはこの試薬から試してみよう。おっと、その前に。」
魔術師はイレーネの後ろに横たわっているミカエラへ、音もなく近づいて行った。
「ミカエラ様にさわら・・・!?」
不自由な体を捩じって魔術師を遮ろうとしたイレーネに、魔術師は手にした杖をすっと差し出した。途端にイレーネの体は硬直し、横ざまにその場へ崩れ落ちた。
体の感覚はあるにもかかわらず、指一本どころか瞼さえ動かすことができない。完全な金縛りの状態だ。
「不用意な声を上げるなと言ったはずだ。」
魔術師は冷たい声でイレーネにそう言うと懐から別の薬瓶を取り出した。そして針のついた奇妙な器具で中の薬品を吸い出すと、腫れあがったミカエラの左手首にその針を突き刺した。
「うっ・・・!!」
魔術師が器具を操作し薬品をミカエラの手首に注入すると、ミカエラは苦痛の呻き声を上げた。そして次の瞬間、ミカエラは白目を剥いて全身をがくがくと痙攣させ始めた。
イレーネはミカエラを助けようと必死になったが、名前を呼ぶために声を上げることもできなかった。
ミカエラが死んでしまうかもしれない。泣き叫びたい気持ちで苦しむ親友の姿を見ていた彼女の目の前で、信じられないことが起こった。
なんとどす黒く変色していたミカエラの手首の腫れが、見る見る間に引き始めたのだ。手首の様子を見るだけでははっきりとは分からないが、おそらく骨折していた部分も治癒しているように思われた。
あんなに僅かな量で骨折を治療できる回復薬など、イレーネはこれまで見たことも聞いたこともなかった。エマのためにドーラが作ったという回復薬もかなり効果が高いが、それとも比べ物にならないほどだ。
「ふむ、治療効果を高めた結果、身体への負担が大きくなりすぎたようだ・・・。次は・・・。」
激しく痙攣した後、気を失って動かなくなったミカエラの全身を細かく観察し終えた魔術師は、ぶつぶつと呟きながらゆっくりと立ち上がった。
そして今度はイレーネに向き直り、枯れ枝のような指で彼女の白い頬を愛おし気にゆっくりと撫ではじめた。ゾワゾワとした悪寒が全身に広がるが、イレーネはそれに抵抗することができない。
イレーネの頬や首筋に指を当てた後、魔術師はイレーネに言った。
「睡眠薬の投与量が多すぎたようだな。大分消耗してしまっている。これだから繊細さを理解できない密偵など、当てにならぬのだ。すぐに食事と飲み物を用意しよう。」
意外過ぎる魔術師の言葉に、イレーネは頭が混乱した。
しかし魔術師はそんな彼女の思いなど一顧だにせず、身動きできない彼女の体をさらにじっくりと観察した後、彼女に言った。
「君たちにはできるだけ長く、私の研究に協力してもらわなくてはならない。まずは体力を回復してもらう。せっかくの研究材料に早々に死なれてしまったのではもったいないからな。」
魔術師はそう言い捨てると音もなく立ち上がり、持っている杖で床をとんと突いた。それを合図にイレーネの金縛りが解け、魔方陣の光が消えて、再び周囲は暗闇に包まれた。
突然の事態に驚き戸惑うイレーネ。そんな彼女に向かって暗闇から魔術師の声が響いた。
「平民の娘たちでは第三段階までが限界だったが・・・君の魔力量なら最終段階まで辿り着けるかもしれない。君には期待しているよ、イレーネ・カッテ。」
読んでくださった方、ありがとうございました。