53 引き裂かれた思い
今日はゆとりがあったので、一気に書いたらものすごく長くなってしまいました。読みにくくてすみません。
※ 冒頭および中盤以降に流血・残酷描写が多数あります。苦手な方はご注意ください。
「平民風情がこの俺に逆らいやがって!」
激昂した男の叫び声ともに剣が繰り出された。エマは腹部に熱い鉄を押し当てられたような痛みを感じ、自分の体を貫いた刃を信じられない思いで見つめた。
「エマちゃん!!」「エマさん!!」
ミカエラとイレーネの悲痛な叫び声が暗い森に響いたが、その直後、二人は頭に重い一撃を受けて意識を失った。二人を地面に押さえつけていた黒装束の男が、くぐもった声で剣を持った男へ声をかけた。
「予定通りカッテとバルシュの娘は確保した。私は行く。お前は早く戻れ。」
細い体を思い切り蹴飛ばしてエマの体を貫いた剣を乱暴に引き抜いた男は、荒い息を吐きながら仲間へ言い返した。
「はあっ、はあっ、このガキはどうするんだ!?」
「時間が惜しい。放っておけ。どのみち、その傷ではもう助からん。」
「くそっ!! ふざけやがって! そんなの納得できるわけがないだろうが!!」
男は歯を食いしばってエマの《雷撃》で貫かれた左肩を軽く押さえると、木の根の上へうつ伏せに転がったエマに一歩近づいた。
「時間はかけないさ。この俺に傷をつけた報いを受けさせてやるだけだ。一撃で頭を砕いてやる!!」
憎悪を込めた目でエマを見下ろしながら、男は右手で剣を大きく振り上げる。エマは朦朧とした意識の中でそれを感じ取り、何とか抵抗しようとした。
だが腹部から流れ出る血と共に、刻一刻と生命力が失われている体は全くいうことを聞いてくれなかった。魔力が乱れて魔法を使うこともままならない。
「ミ、ミカエラちゃん・・・イレーネ・・ちゃん・・・。」
今にも連れ去られようとしている二人に向かって必死に手を伸ばし、切れ切れに名前を呼ぶのが、今のエマにできる精一杯のことだった。
だがそんなささやかな抵抗をも断ち切るかのように、彼女の頭めがけて鋭い刃が振り下ろされた。重い剣の切っ先が風を切る音が暗い夜の森に響く。
頭上に激しい衝撃を感じたのを最後に、エマの意識は闇に閉ざされた。
時間は少し遡って、ドーラたちがクベーレ村村長救出のために、グレッシャー領の領都ヴィッテルラインへ向かった頃、エマたちは2日目の野営地の少し手前の村で、馬たちを休ませるための小休止を取っていた。
ミカエラの活躍とエマの助言が功を奏し団結を深めたことで、女子生徒たちは比較的元気なものが多かった。
仕事をしながらでも、昨日はまったく出来なかったおしゃべりをするゆとりすらある。荷馬の世話をする従者たちの手伝いをしながら、エマは傍らのイレーネに質問した。
「騎士団の皆さんっていつもこんなに大勢で魔獣の討伐をしているの?」
今回の行軍に参加しているのはエマたち実習生を含め数百人に及ぶ。エマは王国軍が街道や村々の魔獣を討伐するために巡回すると聞いていたが、それがこんなに大規模なものだとは思っていなかったのだ。
だがエマの話を聞いたイレーネは、おかしそうにくすくすと笑った。
「そんなわけはありませんわ。今回は王国軍兵士の行軍訓練を兼ねてるからこんなに大規模なだけです。日頃は十数騎の騎士たちだけで街道の巡回を行っているんですよ。」
イレーネはそう言って王国軍についてエマに教えてくれた。
ドルアメデス王国軍は、魔法騎士と魔導士、それに完全な専業兵士で構成されている。他国にあるような徴兵の制度はないため、全員が志願兵なのだ。
これには王家が魔法薬販売によって得た潤沢な資金を持つ割に、王都領の耕作面積が非常に限られているという特殊な事情が関係している。農業生産に携わる人口を確保しつつ、国防を担う人数とのバランスをとるためにこのような仕組みがとられているのだ。
王国軍は実質的に王家の私兵であり、その主任務は国防と王国各地の魔獣討伐だ。領地を持つ貴族は大なり小なり領軍を抱えているが、その規模はあくまで領内の魔獣討伐に対処できる程度のもので、王国軍には遠く及ばない。
そんな王国軍であっても、圧倒的な軍事力を持つ帝国に物量で対抗することは不可能。そのため王国軍はその発足当時からずっと『少数精鋭』を原則としており、ひたすら士気と練度を高めることに心血を注いできたのだ。
この行軍はそのための訓練の一環であり、定期的・継続的に行われている。これだけの人間を行軍させるには莫大な費用が必要となるが、国内外の安定のために一定の練度を担保しておくことは決して欠かせないものなのである。
「へぇー、そんなことをしてるなんて全然知らなかったよ。教えてくれてありがとう、イレーネちゃん。」
にこにこ顔でお礼を言うエマに、イレーネは戸惑いながら問い返した。
「そう、エマさんはご存じなかったのですね。でも、ハウル街道にも巡回する騎士団が来ているでしょう?」
エマはその言葉にぽかんとした顔をした後、頭をぶんぶんと振った。
「ううん。ハウル村には魔獣が出ることはないもの。周辺の街道は衛士隊の人たちが巡回しているよ。」
「そうなのですか? 王都領南部地区は強力な魔獣の巣窟だって聞いたことがありますけど・・・ああ、なるほど! ハウル村は聖なるドルーア川の畔に面しているんでしたわね。」
戸惑いがちなイレーネの言葉で、エマは自分がドーラの秘密に関わる迂闊な発言をしてしまっていたことにようやく気が付いた。
ドルーア川に魔獣が近づかないというのは王国民なら誰もが知っている常識だ。そのため王国の人々はドルーア川を大地母神に守護された聖なる川と呼び、崇めている。
だが魔獣が近づかない本当の理由は、ドルーア川が神龍のねぐらがあるドルーア山を源流としているためだ。単に魔獣たちが強大な神龍の縄張りを侵すことを恐れているからに過ぎない。
実際、ドルーア山から離れた下流に行くほど魔獣の出現率は高くなる。にもかかわらず王都領南部の辺境であるハウル村が魔獣に襲われないのは、ハウル村に神龍がいるからだ。
フランツとマリー、それにエマ以外のハウル村の住民たちは、ドーラの正体と力の秘密を知らない。
だが昔から村に住んでいる人たちは何となく、村を守っているのがドーラの存在であることに気が付いていた。もちろん気が付いた上で、あえて口にしていない。いわゆる公然の秘密なのである。
「あ、あははは。そ、そうそう、早くこれを片付けておかないと、出発に遅れちゃう!」
エマはその秘密に触れてしまいそうになった自分の迂闊な発言をごまかそうと、わざとらしい笑い声を上げて急に話を変えた。
「え? ああ、ええ、そうですわね。またレイエフ先生から嫌味を言われてはかないませんもの。」
イレーネはもちろんエマのごまかしに気が付いていたが、エマが触れられたくないと思っていることをすぐに察して、エマの言葉に同調した。
そんな様子を後ろから観察していたミカエラは、二人の不器用な関係を微笑ましい気持ちで眺めながら、ひっそりと口元を綻ばせたのだった。
仕事が一段落し、他の女子生徒たちと一緒に《浄化》で清めた水を飲んでいる時、エマの目の端に疲れた足取りで荷物を運んでいる男子生徒の姿が映った。
女子生徒は快適とは呼べないまでも馬車で移動しているが、男子生徒は従者や歩兵たち同様に徒歩で行軍している。
もちろん男子生徒たちは騎士になるため日頃から鍛錬を積んでいるが、こんなに長距離の遠征はおそらく初めてのはずだ。疲れ切っていても無理はない。
そう思ったエマは何とはなしに、隣に座っていた女子生徒に尋ねた。
「女子は大分元気になったけど、男子の班は大丈夫だったのかな?」
急に話しかけられた女子生徒は戸惑いながらも、嫌な顔を見せることなく、にこやかにエマに返事をした。
「さっきちらっと見かけたのですけれど、昨日の私たちより酷いことになっていましてよ。」
その女子生徒の話によると、初日は元気だった男子生徒たちも、二日目の今日はかなりの生徒が疲れ切って動けなくなっているらしい。
エマはその話を聞いてふと、サローマ家の嫡子ニコルのことを思い浮かべた。
もちろんそれ自体に特に深い意味はなく、ニコルが今どうしているのかと思っただけだ。ただなぜ急にそう思ったのかは、エマ自身にもはっきりと答えることができなかった。
エマは妙にもやもやとした気持ちになり、それを吐き出すように「ニコル君、大丈夫かな」と口の中で小さく呟いた。
その呟きはあまりにも小さく自然だったので、他の誰かはもとよりエマ自身の耳にさえ届くことはなく、風に溶けるように消えてしまったのだった。
仕事を終えて小休止していたニコルは、ふと誰かに呼ばれたような気がして顔を上げ、辺りを見回した。だが周りには疲れ果てて無言で座り込んでいる同級生の男子たちがいるだけだ。
その中の一人がニコルの視線に気が付いて、彼を睨み返した。
「なんだ、ニコル・サローマ。言いたいことがあったら、はっきり言ったらどうだ。」
「・・・別に何も。」
「ちっ!!」
真顔で答えたニコルに対し、その男子生徒は小さく舌打ちをしてみせた。
この男子生徒は、ニコルが涼しい顔をしているのが気に食わないのだ。
だが大貴族家であるサローマ家の嫡子に正面切って皮肉や不平をぶつけることなど到底できない。だからこその小さな舌打ちだ。ニコルには彼らのそんな心の内がよく分かっていた。
日頃はニコルとも礼儀正しく付き合っている彼らがこんなに苛立っているのは、それだけ精神的にも体力的にもゆとりが無くなっている証拠だ。もちろんニコル自身も彼らと同じように疲れを感じている。
だがそれを表に出すほどは、ゆとりを失くしていなかった。これは彼の能力が特別優れているわけではない。単純に慣れの問題だ。彼はこのような遠征をすでに何度も経験済みだった。
ニコルは幼い頃、妖精の呪縛よって死の病に侵されていた。だがドーラの力により、奇跡的に一命をとりとめることができた。
父親であるニコラス・サローマ伯爵はニコルの病が癒えた直後から、彼を自らが赴く領内の魔獣討伐へと連れ歩いた。もちろんこれは一般的な貴族家のやり方ではない。ましてや大貴族家の当主がたった一人の嫡子を危険な戦場へと連れ歩くなど、通常では考えられないことだ。
暴挙とも言えることをあえて実行に移したのは、伯爵自身が若いうちに諸国を放浪して様々なことを学んだ経験があるからだ。ニコルにも実際の戦場を体験させ、領民や兵士の暮らしを学ばせようというのがその表向きの理由である。
ただニコラスのこのやり方を批判する人間も少なからずいた。特に病床に臥せっていたころのニコルを知る者は、ニコラスを説得し引き留めようとさえしたのだ。
だが父ニコラスも、母アレクシアもその批判に一切耳を貸そうとはしなかった。そこには彼ら家族だけにしか分からない、もう一つの理由があったからだ。
ニコル自身、両親からどんなに厳しい鍛錬を課されても文句ひとつ言わず、黙々とそれをやり通した。それはもう一つの理由、この鍛錬が自分に対する両親の精一杯の愛情表現であることを、彼が知っていたからである。
幼い頃の彼は一人でまともに椅子に座ることも、スプーンを使って食事をすることもままならなかった。一日の大半を侍女や母と共に寝台の上で過ごさざる得なかった。
そんな彼が最も楽しみにしていたのは、病床で父の土産話を聞くことだった。ニコルにとって父の話だけが唯一、閉じ込められた寝台と外の世界とをつなぐ窓だったのだ。
だから病が癒えた時、ニコルは外の世界に出かけられることが本当に嬉しくて仕方がなかった。
急な山道を二本の足で登ることも、重い荷物を背負って兵士たちと歩くことも、父親との剣の稽古で泥まみれになることも、彼が病床の中でずっとずっと憧れ続けていた夢だったのである。
父もそんな彼の気持ちに当然気が付いていた。ニコラスはこれまで共に過ごせなかった我が子との時間を取り返そうとするかのように、ニコルを自らの手で積極的に鍛え上げた。
また母も必死でそれに応えようとするニコルを全力で応援してくれた。
ニコルが大貴族家の嫡子とは思えないほどの行軍経験があるのは、このような事情があったからなのである。
だが不意に響いた大声で、ニコルの物思いは中断された。
「どうして村が近くにあるのに、こんな場所で従者の真似事などしなくてはならないんだ!」
「そうだ! 村人に宿舎や物資、人手を提供させればよいではないか!」
ようやく仕事を終えて休憩場所へ帰ってきた男子生徒たちは、不平や不満を隠すことなく仲間たちと言葉を交わしている。
静かに休憩している者が多い中で、ニコルは彼らの声の大きさや言動がすこし気に障った。しかし慣れない行軍で疲れているからだろうと彼らのことを思いやり、はじめのうちはその言葉を無視していた。
だが彼らの愚痴は止むことはなかった。それどころか彼らの身勝手な主張はますますエスカレートしていった。
「何のために、役にも立たない領民どもを飼ってやっているんだ! こういう時のためではないのか?」
「そうだ! あの連中は私たち貴族にもっと奉仕するべきなんだ!」
いくら不満が溜まっているとはいえ、ここまで酷い言葉はさすがに見過ごせない。彼らの言う平民の中には、ニコルが密かに思いを寄せるエマも含まれているに違いないからだ。彼は次第にいら立ちが募るのを感じた。
「(領民を守る騎士が村の暮らしを圧迫できるわけないだろう。自領内で略奪行為をするつもりか、この馬鹿たちは・・・。)」
ニコルは彼らに一言言ってやろうと立ち上がりかけた。だがそれよりも早く、彼らに向かって冷淡な声をぶつけた者がいたため、彼は慌ててその動きを止めなくてはならなかった。
「今、愚にもつかぬ発言した者とそれに同調した者。その場に起立せよ。」
男子生徒たちの休憩場所へ突然、幽鬼のように現れたのは彼らの引率教師であるレイエフ・グレッシャーだった。
凍り付いたように動きを止める生徒たちに、レイエフはもう一度同じ言葉を繰り返した。だがその言葉の温度はさっきよりもさらに冷え込んで聞こえる。
魂まで凍り付いてしまうのではないかと思うほどの陰鬱な言葉に、さっきまで気炎を上げていた男子生徒たちがおずおずと立ち上がった。レイエフは彼らを冷ややかな目線で睨めつけると、その場にいる全員に言い聞かせるように、ゆっくりと話し始めた。
「王国軍の戦闘部隊はもとより、行軍中の騎士は一人一人が『自己完結』することが基本だ。一人で生活することもままならぬ騎士など、戦場では役にも立たぬどころか、害にしかならぬ。」
短いが端的で要点を得た批判の言葉。もちろん言外に込められた皮肉や侮蔑は誰の耳にも明らかだった。叱責を受けた生徒たちの顔が恥辱と怒りのために赤黒く染まっていく。
レイエフはそんな彼らを冷たい目で見下すように眺めてから、ゆっくりと踵を返してその場を立ち去ろうとした。
「(チッ、『騎士崩れ』のくせに・・・。)」
叱責された生徒たちの一人が本当に小さく口にしたその言葉で、レイエフは静かに足を止めた。彼はその発言をした生徒の方へ音もなく歩み寄ると、瘦せ細って骨の浮いた指をその生徒の眼前に突きつけた。
「不満そうな顔だな。何か言いたいことがあるのかね?」
レイエフの言葉に水を打ったようにその場が静まり返った。指さされた生徒は、死神のような姿をしたレイエフの白い指先を見てぶるっと体を震わせた。赤黒かった顔も、今ではすっかり血の気が引いて青ざめている。
だが仲間の手前、強がりたい気持ちがあったのだろう。なんと愚かにもこの生徒は、自分の無礼を謝罪することではなく、気に食わない教師へ反抗することを選択してしまった。
「お言葉ですが先生、騎士の責務は魔獣と戦うことです。」
周りで見ていた生徒たちは、今にもレイエフが怒りに任せて怒鳴りだすのではないかと、固唾を飲んでその様子を見つめた。だがレイエフは、きわめて冷静に彼に言葉をかけた。
「その通りだな。続けたまえ。」
激しい叱責を予想していたその生徒は、意外過ぎる教師の言葉に冷静さを失ってしまった。
「こんなものは騎士の仕事ではありません。我々は騎士を目指しているのであって従者ではないのですから・・・!」
さっき仲間に話していた内容をそのままレイエフに話したのは、追い詰められたこの状況から脱しようとする彼なりの判断だったのだろう。だがレイエフはその言葉を最後まで聞くことなく、静かに指先を振って生徒の話を遮った。
生徒が言葉を失くしたのを見たレイエフは、陰鬱な口調で生徒に問いかけた。
「ふむ。魔獣と戦うことが騎士の本分。だから貴君にはそのおろしたての剣とピカピカの鎧以外のものは必要ない。・・・そう言いたいわけだな?」
「い、いえ、そういうわけでは・・・ありません。」
震える声で何とか返答した生徒の答えをレイエフは完全に無視し、彼に新たな質問をぶつけた。
「今回の行軍は何日間の予定か、言ってみたまえ。」
「な、七日間です。」
「では今回の哨戒に参加している小隊及び実習生全員が任務を終えるまでに、どのくらいの物資と食糧を必要とするか、貴君は答えられるかね?」
「そ、それは・・・。」
問い詰められた男子生徒は、今にも倒れてしまうのではないかと思うほど震えていた。そんな生徒を軽蔑するように横目で見ながら、レイエフは周囲の生徒たちにも聞こえるようにやや大きな声で話し始めた。
「女子実習生や従者の一部が乗車している兵員輸送馬車の後ろにいるのが輜重馬車部隊だ。あの馬車の中に入っている物は馬の飼い葉や君たちが食べているその携帯糧食の他、野営用の大型天幕や簡易かまど、衣料や薬品や消耗品、替えの武具などが入っている。」
彼は一度言葉を切ると、眼前で震える生徒にぐっと自分の顔を近づけた。
「貴君の言う、いわゆる『騎士の仕事』に必要なものは、あの中にほとんどないと言ってよい。飼い葉で魔獣を倒すことは出来ぬからな。」
相手を揶揄するような軽口だが、もちろんこの場でそれに笑うような者は一人もいない。エマがいたらレイエフのこのつまらない冗談で小さく噴き出したかもしれないが、残念ながらこの場にいるのは凍り付いたように成り行きを見守る男子生徒たちだけだ。
「つまり彼らの存在は貴君にとって『無用の長物』と言うわけだ。」
レイエフは芝居がかった動きでさっと手を振った。それに驚いた生徒たちはビクリと体を振るわせた。
生徒たちの耳目が自分に集まるのを待ってから、彼は背筋を伸ばしゆっくりと話し始めた。
「だが、我々騎士にとっては違う。戦場において我々は彼ら輜重部隊を必死で守る。尻を拭く紙や馬の飼い葉を守る為に、名誉ある魔法騎士たちが文字通り命を懸けるのだ。それは戦場で彼らを失うことがどれほど恐ろしい結果を招くか、嫌というほど分かっているからだ。騎士の華々しく名誉ある戦いは、彼らの存在失くしては成り立たない。」
レイエフは一度言葉を切るとカッと目を見開き、件の生徒たちに向けて再び指を突きつけた。
「だが貴君らにとっては違うようだ。彼らの仕事を『こんなもの』と呼ぶくらいなのだからな。」
指をさされた生徒の顔が青から白、そして土気色へと変色していく。それがあまりにも急激だったため、ニコルはレイエフが魂を刈り取る本物の死神になったのではないかと、思わず疑ってしまったほどだった。
「つまり貴君らは彼らを信頼できないというわけだ。そんな者たちに貴君の大切な物資を預けておくことなど到底許されざることだ。そうだろう?」
言葉を投げかけられた生徒たちは、レイエフの意図を察して落ち着きなく体を揺らし、目線を交わし合った。だがどうすることもできないまま、彼らはレイエフの宣告を聞くことになった。
「この後すぐに、貴君らに割り当てられている残り6日間分の物資を輜重隊員に届けさせるとしよう。今日、この後の行程はそれらをすべて自分で担いで行軍し給え。」
それがどんなに残酷で過酷な刑罰であるかを想像し、疲れ切って動けないでいる男子生徒たちは心の底から震え上がった。宣告を受けた生徒たちは慌ててレイエフに謝罪を申し出たが、レイエフは静かに頭を振ってそれを拒んだ。
「勘違いしているようだが、これは教官である私から実習生である君たちへの命令だ。もちろん君たちはこれを拒否してもよい。しかし行軍実習中の命令拒否がどういう意味を持つか、知らぬわけではあるまい。」
レイエフの言う通り、軍事行動に参加中の現状において、教官からの命令は軍における上官の命令に等しいものだ。そんなことをすれば、騎士を目指す彼らの経歴に決して小さくない汚点を残すことになる。
すでに絶望的な状況に追い込まれてしまっている生徒たちを、レイエフは更なる言葉で淡々と追い詰めた。
「それが嫌なら今すぐこの場から逃げかえってもよい。ただ貴君らの一族の者たちがそんな『不名誉な振る舞い』を喜ぶとは、私には到底思えないがね。」
騎士クラスの生徒は皆、爵位や自分の家が受け持っている役職を担うことを一族から期待されているものばかりだ。だがそれもあくまで彼らが騎士としての名誉を得られることが前提。
名誉と矜持が何よりも優先される貴族社会において、それを失うようなことは自らの命を無くすだけでなく、一族の命脈を絶つことにもなりかねない。
追い詰められた生徒たちに対して、レイエフは静かに最後の言葉を投げかけた。
「明日、また同じ時間に貴君らからの報告を聞こう。報告の内容は行軍における『物資輸送の困難さと兵站維持の重要性について』だ。名誉ある騎士を目指す者として相応しい内容の話が聞けることを期待している。」
レイエフはそう言い終えると、現れた時と同様に音もなくその場を去っていった。
この後、叱責を受けた男子生徒たちは自分の体重ほどもある荷物を背負って野営地まで行軍することになった。その日の行軍が終了した時の彼らの様子は、それから数年、行軍実習の恐ろしさを語る際の語り草となったほど酷いものだった。
この話は瞬く間に実習生の間に広まったため、『氷のレイエフ』の名はますます生徒たちに恐れられるようになり、生徒たちは自分に与えられた仕事をこなそうとより一層、必死になったのだった。
2日目の野営地は先ほど小休止を取った村から少し外れた場所にあった。ここは王国軍が駐留するために森が切り開かれており、近くの小川から引かれた水場も設けられている。
毎年、同じ時期に行われるこの行軍訓練のために、近隣の村人たちが少しづつ草を刈り、薪なども準備してくれているため、エマたちは非常に整った状態で野営の準備をすることができた。
騎士団付きの祈祷師に治療を受けている一部の男子生徒たちを除いて、他の生徒たちは手早くその日一日の仕事を終えた。生徒たちの動きが機敏なのは、昼間に行われたレイエフの『教育的指導』によるところが大きかった。
疲れ切った彼らは貪るように食事を摂ると、すぐに寝床に潜り込んで泥のように眠りに就いた。だが彼らの眠りは、野営地全体に鳴り響いた半鐘の音によって、すぐに破られてしまった。
「野営地上空に巨大な飛行生物! 総員戦闘準備!!」
半鐘を鳴らしながらそう叫んでいた従者に上空から巨大な影が迫る。直後、彼は巨大な鉤爪に体を貫かれ、断末魔を上げて絶命した。
「あの大きさ、飛竜か!? だがこんな時間になぜ奴らが? 斥候部隊や見張りたちは何をしていたんだ!?」
夜に狩りをすることはない飛竜の出現に疑問の声を上げながらも、騎士たちは剣を取り、巨大な翼を翻して襲い来る影へと立ち向かっていった。彼らに守られた魔導士たちが呪文を詠唱しはじめ、号令と共に一斉に魔法が放たれる。
しかし必殺の威力を込めた攻撃魔法は、その巨体に届くことなく溶けるように消滅してしまった。消滅する魔法の魔力光が照らしだした襲撃者の姿を見て、騎士たちは戦慄の叫び声を上げた。
「魔骨飛竜!? なぜこんな場所に!?」
彼らの頭の上からのしかかる様に襲い掛かってきているのは、全身が細かく組み合わさった無数の骨で形作られている、恐ろしい怪物だった。
生命を持たない呪われた不死体は、生前の姿に準じた力を持つことが多い。魔骨飛竜は飛竜の不死体であり、飛竜同様、桁外れに強大な力を持っている。
生前に比べ速度や攻撃力は多少落ちているが、何より恐ろしいのは不死の呪いによって生み出された彼らの様々な特殊能力だった。
「魔導士たちは防御と魔力付与の魔法を使え! こいつに攻撃魔法は通用しない!!」
長い尾で騎士たちを薙ぎ払って魔骨飛竜が上空へと舞い上がった隙に、魔導士部隊の隊長から号令が発せられる。素早く隊列を立て直した騎士と兵士たちへ、魔導士たちは補助の魔法をかけた。
魔力の光が彼らを守るように包み込む。同時に彼らの持つ武器にも魔力の光が宿った。
魔骨飛竜に通常の武器は通用しない。魔力を含んだ武器でなければ、その呪われた体を傷つけることはできず、すぐに再生してしまうのだ。
騎士たちは盾を掲げ体を張って、襲い掛かってくる怪物の攻撃を受け止めた。その隙に、兵士たちの放つ矢や繰り出す槍が魔骨飛竜を貫いていく。
怪物は声にならない叫びを上げて、再び上空に舞い上がった。そして巨大な翼をはためかせると、その場で大きく首をのけ反らせた。
「呪毒の息が来るぞ!! 総員、防御姿勢!」
兵士たちは騎士たちの後ろで蹲って頭を守り息を止める。直後、上空の魔骨飛竜の口から、彼ら目掛けて黒い霧のような息が浴びせかけられた。
従軍祈祷師たちが素早く唱えた祈りの言葉によって、その大半は防がれたものの、運悪く息を浴びたものは悶絶してその場に倒れこんだ。彼らの肌はたちまち黒く染まり、目鼻から黒い血が流れ始める。
祈祷師たちが呪いにやられた者たちを《解呪の祈り》で癒しているうちに、残った者たちは再び陣形を組みなおした。
「くそっ! だが、やれるぞ! あの化け物を叩き落としてやれ!!」
各分隊長の飛ばした檄に配下の者たちは大きく鬨の声を上げた。だが上空を見上げた彼らは、すぐに凍り付いたようにその動きを止めた。
「・・・バカな!! 魔骨飛竜が、2体だと・・!!」
今、彼らが戦っていた魔骨飛竜のすぐ側を、もう一体の飛竜が飛んでいる。青と白の月の光に照らされた2体の化け物は、騎士たちを見下ろしながら悠々と上空を舞っていた。
魔骨飛竜は強力な不死の呪いの侵され、信じられないほど強大な力を持つが故に、生者の多い人里には近づくことができない。生者の領域に入り込めば、彼らの力の源である不死の呪いの力が弱まってしまうからだ。
彼らは本来、瘴気の漂う暗い谷の奥や廃墟、迷宮などにしか出現しない怪物なのである。
多くの人々が暮らす王都領に、魔骨飛竜が出現するだけでもあり得ない異常事態なのだ。ましてやそれが2体同時に出現するなどまったくの想定外。まさに最悪の事態だった。
「怯むな!! 王都民たちをこいつらの好きにさせるわけにはいかん!! ここで食い止めるんだ!!」
ローバー小隊長の大音声が戦場に響くと騎士たちは悲壮な、だが決然とした表情で再び武器を構えた。
だがそんな彼らの決意を嘲笑うかのように、魔骨飛竜の爪にかかって命を落とした者たちが、ゆっくりと立ち上がった。
魔骨飛竜の不死の呪いに感染した彼らは、生者を憎む不死兵士や呪死騎士と成り果て、のろのろとした動きでかつての仲間たちへと接近していく。
悪夢のような戦いは、まだ始まったばかりだった。
王立学校の生徒たちは襲撃を知らせる半鐘が鳴り響いた直後、何事が起ったのかとその場に呆然と立ち尽くしていた。だが目の前で兵士たちが次々と怪物の爪に引き裂かれていくのを見てすぐに、恐怖の叫び声を上げながら闇雲に走り出した。
彼らは完全に恐慌状態だった。生徒たちはただ、少しでもその場から離れようと押し合い圧し合いしている。暗い中で揉み合いながら必死に逃げようと藻掻くせいで、逆に逃げ遅れる生徒たちが続出することになってしまった。
だがこの点において、彼らを責めることはできない。歴戦の強者であっても絶望するようなこの状況に、実戦経験のない彼らが対処できるはずがないからだ。
騎士団が魔骨飛竜を引き付けているため、生徒たちに犠牲者は出ていない。だがそれも時間の問題だ。
そんな彼らを救ったのは彼らの引率者、『氷のレイエフ』ことレイエフ・グレッシャーだった。
「傾聴!!」
拡声の魔道具なしでも野営地全体に響くほどの声で、レイエフは生徒たちにいつも通りの号令をかけた。途端に彼らは反射的にビクリと体を震わせ、声のした方へと目を向けた。
「実習生諸君は各自、森に避難せよ! 決して騎士団の足手まといになるな!! 行け!!!」
魂が凍るような声で一喝され、生徒たちはようやく少し冷静さを取り戻すことができた。彼らは素早く装備を整えると日頃の訓練と同じように、バラバラになって森の中へと駆け込んでいった。
ミカエラとイレーネも他の生徒たちと同じように手近な森の中に駆け込んだ。だがそこには予想もしなかった相手が二人を待っていた。
「ミカエラ様! イレーネ様! ご無事でしたか!」
「ランドーン卿!? どうしてこんなところに?」
そこにいたのは実習生の世話係をしている騎士のオペル・ランドーンだった。彼は魔法銀の甲冑を完全武装で着込み、抜身の剣を持って森の奥の木陰から突然現れた。
「もちろん、お二人をお守りするためです。小隊長から命じられて、ここで待っておりました。さあ、こちらへ!!」
「で、でも・・・!」
オペルは二人に手を差し伸べ、優しい笑みを浮かべた。しかし二人は躊躇し、その場に立ち止まった。
事前に何度も体験した訓練では、このようなとき決して森の奥へ行かないようにと教わっていたからだ。
王都領の森は管理されているとはいえ、奥に行けば魔獣と遭遇する可能性が高くなる。ミカエラは闇属性の回復魔法、イレーネは光の補助魔法と防御魔法の達人だが、魔獣と戦う力は他の女子生徒とさほど変わりがない。
今、この状態で魔獣に遭遇し襲われでもしたら、決死の思いで戦っている騎士たちに迷惑をかけてしまうことになる。二人はそう考えた。だが。
「ミカエラ様、イレーネ様。この襲撃は明らかな異常事態です。ここにいてはいつ、不死者との戦いに巻き込まれるとも分かりません。騎士団の戦いの負担とならぬよう、今は少しでも森の奥へ避難してください。そのために小隊長は私をお二人の下へと差し向けたのです。」
オペルに真剣な表情で説得され、二人は躊躇いながらも彼に導かれて森の奥へと入っていった。二人はオペルの甲冑の背中を見失わぬよう、懸命に彼の後を追った。
そのため、兜の面防の下でオペルが残忍な笑みを浮かべたことに、二人は気が付くことができなかった。
「あれ!? ミカエラちゃん、イレーネちゃん?」
襲撃が始まった直後、すぐに短杖を握って寝床を飛び出したエマは、他の女子生徒たちが避難し終わるまで、彼女たちの背中を守っていた。
そして全員が森の中に入っていったのを確認し、自分も避難しようとしたとき、森の奥へと入っていく二人の姿に気が付いた。明らかに訓練の時とは違った動きだ。
恐慌状態になって森の奥へと入っていこうとする生徒が多かったため、さっきまでミカエラ、イレーネは彼女たちに「訓練の時のことを忘れないで!」と声をかけて回っていたのだ。
それなのにその二人が森の奥へと入っていこうとしている。エマは驚いて二人の様子をしっかり確かめた。
二つの月が照らす森の中に目を凝らすと、魔法騎士の鎧が魔法銀特有の光を反射するのが見えた。
「そうか、魔法騎士さんの誰かが二人を守ってくれているんだ。」
エマは詰めていた息をホッと吐いて、自分の他の女生徒たちと一緒に避難するため、その場を離れようとした。しかし、すぐに違和感を感じてその足を止めた。
「なんであの騎士さんは甲冑を着込んでいたの?」
突然の襲撃に対処するため、今戦っている騎士や兵士たちは手近にあった武装を最低限身に着けているだけの者がほとんどだ。
特に騎士甲冑は着脱に時間を要するため、騎士たちは兜や小手、胸当てなど防具の一部のみを纏い、大盾と剣を巧みに使いながら、何とか魔獣の攻撃を凌いでいる状態だ。
それなのにあの騎士は完全武装しているように見えた。もちろん遠目で見ただけなので、見間違いの可能性もある。もしかしたら斥候部隊に同行して哨戒中だったから、完全武装状態だったのかもしれない。
だがそうでないとしたら? あの騎士がこの襲撃を予想して、甲冑を準備していたのだとしたら?
考えすぎだ。あの騎士さんは二人を安全に誘導するため、わざわざ武装をしてくれたのだ。エマはそう思おうとした。
だが一度感じた違和感は、すぐにエマの中でどんどん大きく膨れ上がっていった。
いくら大貴族家の令嬢を守る為とは言え、騎士や兵士たちが必死の思いで戦線を支えている時に、完全武装の騎士が戦場を離れることなどあり得るのだろうか?
それに完全武装の騎士が単独で行動しているのもおかしい。騎士甲冑は防御力が高い分、動きが制限されるため、従者と共に行動するのが一般的だ。
そして何よりも、これまで経験してきた戦いで何度も救ってくれたエマの第六感が告げている。あの騎士はおかしい、二人の身が危ないと。
一度覚悟を決めたエマは、もう迷うことはなかった。彼女はは短杖を握る手に力を籠めると決然とした表情で森の中に飛び込み、二人の消えた森の奥目指して全速力で走り始めた。
「こ、これはどういうことですか、ランドーン卿!?」
イレーネが鋭い声で問いかけた。彼女は今、突如振り返ったランドーンにミカエラと共に突き飛ばされ、絡み合った木の根の上に転がっている。それに対しオペルは悪びれることもなく、穏やかな調子で答えた。
「どうもこうもありません。少しでも戦場から引き離すと申し上げたではありませんか。ちゃんと私がお二人をお連れしますよ。」
彼は一度言葉を止めると口の端をくっと吊り上げ、舐めるように倒れた二人の体を眺めた。
「他の邪魔な連中の手が届かない場所まで、今すぐにね。」
彼の言葉が終わるよりも前にミカエラは持っていた杖を構え、護身用の攻撃呪文を唱えた。
「放て!《魔法の矢・・あうっ!!」
しかし彼女の短縮詠唱が終わるよりもずっと早く、オペルの剣が閃いた。刃のない剣身の部分で杖を持った右手首を強かに打たれ、ミカエラは杖を取り落とした。ボキリと嫌な音が響き、彼女の手首がみるみる間に腫れあがっていく。
「おおっと、おイタはなしですよ、お二人とも。次に同じことをしたら、手首ごと斬り落としますからね。」
オペルは悪戯をした子供に言い聞かせるように優しい口調でそう言った。ミカエラはあまりの激痛に、泣きそうになるのを必死に堪え、自分の手首を砕いた男を睨みつけた。だがオペルはそんなミカエラへ、舌なめずりせんばかりのねっとりとした視線を向けただけだった。
「・・・せめて痛み止めの回復薬を使わせてくださいませ。痛みで泣き叫ばれてはあなたも困るでしょう。」
ぐっと怒りを堪えながら、イレーネはオペルにミカエラの治療を願い出た。だがその願いに対し、オペルは愉悦の表情でゆっくりと頭を振った。
「泣き叫んでくれても一向に構いませんよ。その場合、声を上げられないくらいまで痛めつければいいだけの話ですから。それに今はいくら叫んでも、誰も助けになど来ません。」
必死に恐怖を堪え身を守ろうとする少女たちを嬲る様に、オペルはゆっくりとした口調で二人に告げた。ミカエラは激痛で意識を失いそうになりながらも、気丈に唇を引き結んで彼に尋ねた。
「私たちを殺すおつもりですか?」
明らかな時間稼ぎな問いかけだ。だがそのささやかな抵抗を楽しむように、冗談めかしてオペルは肩を竦めてみせた。
「まさか。それならこんな回りくどいことはしません。今すぐにでも二人並べて、生きたまま膾に切り刻んでいますよ。」
オペルが抜身の剣をさっと振るって、二人の外套の留め紐を切り裂く。夜着の上に羽織った外套から投げ出された二人の素足へ、オペルは残忍で好色な視線を向けた。
イレーネがぞっとした表情を浮かべたのを見て、彼はますます嬉しそうに笑った。
「依頼主からは生きてさえいればいいと言われてるんでね。おとなしくしてくださったら、必要以上に痛い思いはさせません。」
彼はそう言うと、剣を構えながら二人に近づいた。
「せいぜい抵抗できないように、手足の腱を切るくらいです。おっと、そのまま動かないでいてくださいね。下手に動かれると、狙いが狂って手足を落としてしまうかもしれませんから。」
一見、雑にも見えるほど無造作な動き。だがこれは油断ではない。
二人が何かしようとしてもすぐにそれを封じられるという、彼の自信からくるものだ。実際、全く隙が見えない。それが分かっているからこそ、二人は動くことができなかった。
オペルは二人にこれから我が身を切り裂く刃を見せつけるように、わざとゆっくりと剣を構えた。
木々の間から漏れてくる青白い月の光を受けて、魔法銀の刀身が冷たい光を放つ。抵抗する術を奪われた二人の少女は固く目を瞑り、互いに体をぎゅっと寄せ合った。
イレーネの手首に向かって剣が振り下ろされる寸前、暗い森を一条の紫色の光が切り裂いた。
「我が敵を穿て! 《雷撃》!!」
左肩を呪文で打ち抜かれたオペルは、よろよろと後ろへ後ずさった。
「ぐうっ!! き、貴様、あの平民の娘か!!」
魔法銀の鎧によって守られていたとはいえ、中級の雷撃呪文の直撃を受けたことで、彼の左肩は焼け爛れ、動きが鈍くなっている。
短杖を油断なくオペルに向けて構えたまま、エマは森の中から飛び出した。二人を守る様にオペルの前へ立ちふさがると、全速力で走ってきたために荒くなった息を吐きながらエマは彼に告げた。
「剣を捨てて、二人から離れてください。次は急所に、命中させます。」
エマの短杖の先端には、すでに小さく放電する紫色の光球が形成されている。あとは短い起動呪文を呟くだけで、いつでも必殺の一撃を放つことができる状態だ。
いくら魔法騎士の鎧といえども、中級攻撃呪文を至近距離で急所に受ければ間違いなく即死する。それが分かっているからこそ、オペルはその場に立ち止まった。
その隙をついて、イレーネは懐から回復薬を取り出し、ミカエラの砕かれた手首に振りかけた。腫れが徐々に引いていくが、この回復薬に骨折を回復させるほどの効力はない。だが痛みが治まったことで、ミカエラは食いしばっていた歯の間から、ホッと安堵の息を漏らした。
イレーネはそれを見届けるとすぐに、杖を失くしたミカエラを庇うように自分の杖を構え、防御の呪文を詠唱し始めた。
「・・・貴様、平民が貴族に杖を向けるということがどういうことか、分かっているのか!?」
憎々し気に表情を歪めながら、オペルはエマに向かって問いかけた。
「もちろん承知しています。無断で実習生を連れ出し、戦場を離脱しようとしていた騎士が、今後どういう処分を受けるかも。」
エマの返事を聞いたオペルの顔が激しい怒りのために醜く歪み、赤黒く変色していく。
「くそっ! 平民風情が私を脅すつもりか・・・!!」
「私の友人を傷つけようとするなら、身分など関係ありません。武器を捨ててください。」
エマはオペルの言葉を最後まで聞くことなく淡々と彼に応えた。狂気じみた表情のオペルの激しい怒りを受けても、多少顔を青ざめさせたのみだ。
だが冷静な見た目とは裏腹に、心の中では魔獣と対峙した時とは全く別の恐怖が沸き上がり、体が竦みそうになっている。エマはそれをオペルに悟られまいと必死に堪えた。
オペルとエマはしばらくそのまま睨み合っていたが、やがてオペルは「ふん」と鼻を鳴らすと、自ら剣を手放した。カランと音を立てて剣が転がるのを見たエマは、詰めていた息をそっと吐きだした。
「魔法の力量は凄まじいがやはり子供か。この程度で油断するとはな。」
エマが息を吐いたのと同時に、彼女の頭上からくぐもった声が響いた。同時に樹上から放たれた何かが地面にぶつかり、激しい魔力光がエマたちの三人の体を包み込んだ。
「!! 魔法が!!」
魔力光に触れたエマの攻撃魔法が、吹き消された蠟燭の火のように消滅した。次の瞬間、エマは甲冑の小手をつけた拳で思い切り側頭部を殴られ、そのまま横ざまに吹き飛ばされた。
咄嗟に短杖を掲げて身を守ったものの、攻撃を完全に防ぐことはできなかった。オペルの打撃で激しく頭を揺さぶられたエマは、吐き気を堪えてよろよろと立ち上がった。
エマが目を上げると、ミカエラとイレーネはうつ伏せに地面へ押さえつけられ、必死に藻掻いているのが見えた。二人を押さえているのは不気味な黒装束の男だった。
エマは二人を救うため再び杖を構え呪文を詠唱しようとした。だがうまく魔力を操ることができなかった。それどころか、体中の魔力の流れが乱れてまともに立っていることすら難しい。
「魔獣との戦いの経験は多少あるようだが、人を相手にする戦いは慣れていないようだな。『魔封じの炸裂球』を食らったのは初めてか?」
怒りに顔を歪めたオペルは足元に落ちた剣を拾って、ゆっくりとエマに近づいていく。
エマは動かない体を無理矢理動かし、何とか腰のベルトから短刀を取り出して身を守ろうとした。だがその努力も虚しく、オペルは怒りの声と共にエマの細い体を剣で刺し貫いた。
エマの手から零れ落ちた短刀が木の根に当たって転がり、木立の間へと消えた。
太い動脈を傷つけられた彼女の体から噴水の様に血が吹き上がり、オペルの鎧を汚す。エマの鼓動と共に溢れ出す血を見たオペルは、興奮のあまり醜く歪んだ顔を輝かせた。
悲痛な声を上げたミカエラとイレーネを気絶させた後、黒装束の男はぐったりとした二人を両脇に抱えて立ち上がった。
戦場を離脱しようとオペルに声をかけたが、彼は怒りが収まらない様子だ。あの興奮ぶりでは、あの娘が肉片に変わるまで切り刻まなくては正気に戻ることはないだろう。
この男も気の毒な奴だ。子爵様の近辺を嗅ぎまわったりしなければ今でも高潔な騎士様でいられただろうに。
黒装束の男はそう思い、害虫を見るような冷たい目で狂奔するオペルを見つめた。
オペルに投与された旧型のオキーム花毒は、あの魔術師の研究によって生み出された数多い薬の一つだ。この薬は中毒症状が出にくい代わりに、侵されたものの魂を変質させ歪める効果がある。
具体的に言うなら、それまで自分が禁忌として忌み嫌っていた行為を行うことを強制し、それに強い快楽を覚えるように作り変えてしまうのだ。そうすることで倫理感と理性を徹底的に破壊された犠牲者はやがて、投薬者の完全なる傀儡へと成り果てる。
しかも高潔な魂を持つ者であるほど、この破戒衝動は強い禁断症状として現れてしまう。確か旧バルシュ侯爵家の一家に投与されたのも、これと同じものだったとあの魔術師は言っていたはずだ。
賢侯として名高く領民に慕われていた領主を一夜にして悪鬼へと変貌させ、王国で最も豊かだった領を不毛の地獄に変えた悪魔の薬。だがそれすらもあの魔術師にとっては『失敗作』に過ぎないのだ。
オペルはもともとグレッシャー子爵の遠い親戚筋。強い正義感と高潔さを併せ持った、王国騎士の鑑のような男だった。それゆえにグレッシャー領で起こっている異変にいち早く気が付き、秘密裏に子爵様の秘密を暴こうとしたのだ。
だが彼は失敗した。子爵の周辺を探っている時にあの恐ろしい魔術師に捕まり、旧薬の実験台にされたのだ。その結果、オペルはすっかり子爵様とあの魔術師の忠実な下僕へとなり下がった。
弱き者たちを守ることに生涯を捧げてきた高潔な騎士が、今や女子供を残虐な方法で殺すことを何よりも好む快楽殺人鬼だ。
最近では次第に殺人の衝動を抑えられなくなっている節が見られる。おそらく近いうちに完全に魂が崩壊し、廃人となってしまうはずだ。薬のことが周囲に露見してしまう前に『廃棄』する必要がある。
ここらが潮時かもしれない。黒装束の男は興奮を抑えられない様子のオペルを無感情に見つめた。
オペルの剣が娘の頭蓋を砕くぐしゃりという音が響く前にその場を立ち去ろうと、彼は哀れな男に背を向けた。
だが暗い森に響き渡ったのは、黒装束の男が全く予想していなかったの激しい金属音だった。彼が素早く振り返ると同時に、オペルが驚きの叫びを上げる。
「レイエフ!! なぜ貴様がここに!?」
「・・・その前にランドーン卿。わが校の生徒を殺害しようとなさった理由をお聞かせ願えますかな。」
レイエフはオペルの問いかけに応えることなく、たった今オペルの剣を弾いたエマの短刀を構えたまま、ゆっくりとした動きでエマの前に立ち塞がった。
「それから、あそこで私の受け持ちの女生徒二人を抱えている、黒い御仁についてもご説明いただきたい。」
淡々と陰鬱な口調でレイエフはオペルを問い詰めた。そしてオペルがそれに怯んだ隙を見計らい、懐から取り出した回復薬をさっとエマの体に振りかけた。
「知った風な口を聞くな、この『騎士崩れ』が!!」
自分の快楽殺人を邪魔され激昂したオペルは、雄たけびを上げながら持っていた剣をレイエフ目掛けて振り下ろした。だがその刃はレイエフを捉えることななく、空を切って森の木々の根を深く抉っただけだった。
「い、一体・・・がはっ!!」
目の前から一瞬で消えたレイエフを探して振り向いた瞬間、繰り出された短刀が鎧の隙間を縫ってオペルの体を貫いた。
「病で衰えたとはいえ、左腕の使えぬ騎士などに後れを取るほど落ちぶれてはおらぬ。」
誰に言うともなく小さく呟いて、レイエフは短刀をさらに深くオペルの体へ押し込んだ。
剣を取り落としてゆっくりと崩れ落ちるオペルを目にした黒装束の男は、ミカエラとイレーネを抱えたまま全速力で走り出し、森の奥へと消えていく。
レイエフはそれを追おうと一歩踏み出した。だが途端に激しく咳き込みはじめ、体を二つに折ってその場に蹲ってしまった。
しばらく咳き込んで、口からあふれ出した血の泡を長衣の袖で拭った後、彼は男の消えた方向を睨んだ。無理してエマを追ってきた今の彼には、消えた男を追うだけの余力がもう残っていない。
彼は追跡を諦め、死の淵に瀕しているエマの傍らへと跪いた。
「・・・回復薬で出血は止まったようだが、血を流しすぎたな。これではもう助からぬ。」
意識のないまま死の苦しみに悶えるエマを楽にしてやろうと、レイエフは短刀の刃をエマの首筋に押し当てた。だがその時、エマの懐から零れ落ちた物を見て、彼はその動きを止めた。
それは焼け焦げた首飾り。ドーラが砦を守る不死者たちから託されたあの首飾りだった。
「これは・・・?」
レイエフは自分でも理解できない衝動に駆られて、首飾りを手に取った。その瞬間、彼は雷に打たれたかのように大きく体を震わせ、その場に倒れこんで苦しみだした。
血反吐を吐き全身を搔きむしって悶絶した後、血塗れになった彼は首飾りを手に握りしめたまま、よろよろと立ち上がった。
「・・・行かねばならぬ。約束を・・果たさ・・なくては・・・。」
幽鬼の様にそう呟いた彼はのろのろと立ち上がると、おぼつかない足取りでゆっくりとその場を離れ、やがて暗い森の中へと消えて行った。
エマは暗い森にたった一人、置き去りにされた。
風に乗って遠く、戦いの喧騒が響いてくるが、彼女の周囲には物音を立てるものなど何もない。あるのはただ月の光に照らされた木々の梢が、夏の風に揺れるさわさわという風の音だけだ。
その風に吹かれるかのようにエマの命の火は頼りなく揺らぎ、今にも消えようとしていたのだった。
読んでくださった方、ありがとうございました。