49 魔獣討伐実習初日 後編
本日、前後編で2話投稿しています。こちらは後編です。よろしくお願いします。
今、エマたちがいるのは街道沿いの小さな村の近くに作られた王国軍の野営地である。一日分の行軍を終えた王国軍第13小隊と実習生たちは、つい先ほどここへ辿り着いたばかりだ。
実習生たちにとってこの一日目の行軍は最悪の一言だった。
女子生徒たちの乗った兵員輸送馬車は、舗装された街道を通っているとは到底思えないほど揺れが酷かった。そのため、走り始めていくらもしないうちに乗り物酔いで体調不良を訴えるものが続出したのである。
しかし小隊全員が予定の行程をこなすためには、簡単に馬車を止めるわけにもいかない。結果、ミカエラのように回復魔法を使える者がいない馬車の中は、たちまちのうちに吐瀉物まみれになってしまった。
吐瀉物自体は《洗浄》や《消臭》の魔法ですぐに処理できる。しかしそもそも、ひどく揺れる馬車の中で魔法を使うことが非常に困難なのだ。
術師クラスに属している女子生徒は皆、中級以上の貴族家の令嬢たちだ。彼女たちはこれまで人前で嘔吐したことも、また誰かが嘔吐する場面を間近で見たこともほとんどない。
そんな彼女たちにとって、この状況はこの上もなく辛いものだ。
最初の休憩地に着くまでの間、女子生徒たちは自分たちの吐瀉物の匂いが充満する馬車の中で、不快感と恥辱と気まずさに耐えるしかなかった。
ようやく辿り着いた最初の休憩地で魔法を使い、物心共に何とか持ち直した女子生徒たちが次に直面した問題はトイレだった。
休憩地とはいってもこの場所には建物などがあるわけでもない。街道の両脇を取り囲む深い森の木々がややまばらになっただけの空き地があるだけである。当然、トイレもない。
長旅をする場合、女性貴族は従者が用意した『おまる』を利用して車内で用を足すことが多い。このおまるは小さな腰掛の形をした壺で上部に蓋が付いている。壺の中には汚物を処理するための『汚物喰らい』という軟体魔獣が入っているのだ。
もちろん誰かが用を足している間、他の人は車外に出ている。匂いは《消臭》の魔法で消せるので、排泄で気まずい思いをする場面はほとんどないのだ。
しかし兵員輸送馬車にはそんな気の利いた物など存在しない。ここでは貴族令嬢と言えども、平民と同じように森の木陰で穴を掘って用を足さざるを得なかった。
整備された街道沿いといっても、両脇の森からは魔獣が出現する可能性もある。人目を避けようにも、あまり森の奥に入るわけにもいかない。
今回の行軍に参加している女子生徒だけでも100名近い数がいる。それに加えて男子生徒や小隊員もいるため、人目を避けて用を足せる場所を探すこともままならない。
結果、意を決して木陰に入ったものの『先客』の男性と鉢合わせになり、悲鳴を上げて引き返す女子生徒たちが続出することになった。
困り果てた彼女たちを救ったのは、ミカエラだった。彼女は得意の闇魔法で外側からは中を見ることができない小さなテント状の半球を無数に作り出したのだ。
それでようやく女子生徒たちは安心して用を足すことができた。その代わり、ミカエラは休憩時間の間中ずっと、魔法を使い続けることになってしまった。
ミカエラと同じように、エマもまた休憩のする暇なく動き回った。
揺れる馬車に慣れていたエマは乗り物酔いをすることがなかったため、馬車を降りた直後から体調不良者を介抱したり、汚れた馬車を魔法で清めたりと奔走したのだ。
それが終わると今度は森の中に入り、車酔いに効く薬草を探して歩いた。これは日当たりの良い場所で育つスルシャヒューメルという低木の葉で、摘みたてのものを生のまま噛むと乗り物酔いをしなくなるという効果がある。
ちなみにこの低木は秋から冬にかけてベリーのような小さな白い実を付ける。この実は非常に苦くて食用にはできない。
しかし強力な解毒作用があるため、森の周辺に住んでいる者たちは摘み取って乾燥させたものを必ず家に置いている。傷んだ食べ物に当たってしまった時などにすり潰して服用するためだ。
森での採集が得意なエマであっても、人数分の葉を集めるのには休憩時間いっぱいかかってしまった。エマは苦労して集めた葉を各馬車に配って回り、時間をかけてゆっくりと噛むようにと女子生徒たちに伝えて歩いた。
こうして苦心の末に集めた薬草だったが、大半の生徒はそれを口にすることなくエマに隠れてこっそりと仕舞い込んでしまった。これは別に、女子生徒たちに悪意があったからではない。
いくら薬草だと言っても他人から手渡された食べ物を口にすることなど、貴族の常識からしてあり得ないからだ。ましてや平民が森の中から集めてきた得体のしれない葉など、到底食べられるはずがない。
中には車酔いの辛さに耐えきれず、藁にも縋る思いでスルシャヒューメルの葉を口にした生徒もいたが、そのあまりの苦さに驚いて、ほとんど噛むことなく吐き出してしまった。
こうして彼女たちは昼食のための休憩時間が来るまでの間、再び車酔いに苦しむことになる。ただ幸いなことに、彼女たちの胃の中はすでに空っぽだったので、馬車を汚すことはなかった。
折角のスルシャヒューメルの葉は大半が無駄になってしまった。ただエマの乗っていた馬車の生徒たちだけはちゃんと全員が服用することができた。これはイレーネが率先して葉を食べて見せたからだった。
イレーネは女子生徒全員の前でエマの言う通りに葉を口に入れ、ゆっくりと噛んだ。
次の瞬間、彼女は目を大きく見開き、エマをじっと見つめた。彼女の目の端に浮かんでいる涙を見て、エマは申し訳なさそうに言った。
「イレーネちゃん、ものすごく苦いでしょう? 噛んでるうちに舌が痺れてくるから、そうしたら吐き出しても大丈夫だよ。」
エマはそう言って、自分が噛んでいた葉を地面の上にペッと吐き捨ててみせた。イレーネはその様子を見てしばらく逡巡した後、「失礼」と言って馬車の物陰に走った。
しばらくして手巾で口を拭いながら戻ってきた彼女はエマに言った。
「確かに驚くほど苦かったですわ。あと、口の中と喉の奥の感覚が鈍くなっています。」
「うん、この葉っぱを食べると感覚が少しだけ鈍くなるんだよ。だから乗り物にも酔わなくなるの。ただしゃべる時は気を付けてね。舌を噛んじゃうことがあるから。」
エマが冗談めかしてそう言うと、イレーネはふふっと小さく笑みを漏らして頷いた。
「確かにこれなら少々の揺れにも負けない気がしますわ。エマさん、ありがとうございました。」
学年最上位の貴族であるイレーネが躊躇うことなく葉を口にし、その効果を認めたことで、他の生徒たちもこれまで経験したことのない苦みを味わうことになった。
彼女たちはその味に驚きながらも、苦みに目を白黒させる互いの顔を見て思わず笑みを漏らした。泣き笑いしながら葉をゆっくりと噛んだ彼女たちは、その後、車酔いに苦しめられることもなく過ごすことができたのだった。
昼になり、小隊は再び休息をとることになった。こうして定期的に休息をとるのは、小隊に同行している実習生たちを休ませるためでは、もちろんない。
騎士たちの騎乗する軍馬や馬車を曳く荷馬を休ませるためのものだ。だから休息地である川の畔に着いてから従者たちはずっと、自分の昼食もそこそこに馬たちの世話をするために走り回っていた。
実習生たちは従者見習いとして同行しているため、本来であれば彼らと同じように動かなくてはならない。だが生徒たちはここまでの移動ですっかり疲労困憊していたため、その場にぐったりと座り込んで動けずにいる者が大半だった。
これは毎年恒例の光景だ。だから従者たちの方も慣れたもので、特に生徒たちを動かそうとする様子もなかった。
一応、昼食用にと保存が効くように固く焼いたパン一切れと乾燥したチーズ、それに葡萄酒が配布されたものの、生徒たちはそれを食べる気力すらなく、手にしたパンをぼんやりと見つめるばかりだった。
それでも騎士を目指して訓練を積んできた男子たちは、なんとか固いパンをもそもそと咀嚼して葡萄酒で流し込めただけましだったと言える。
車酔いで苦しんだ女子生徒の中には、パンとチーズのすえた匂いを嗅いだだけでまた体調を崩してしまう者が出る始末だったからだ。
比較的症状の改善していたエマの馬車の生徒たちでも、まともに食事ができたのはエマとミカエラだけだった。
二人はナイフで薄く削いだチーズを《発火》の魔法で炙り、それを《加熱》の魔法で温めたパンに乗せると、美味しそうにむしゃむしゃと食べた。
葡萄酒は少し古くて酸っぱいけれど、それが逆にチーズの臭みを洗い流してくれる。熱い食べ物が体に入ったことで二人は元気を取り戻すことができた。
食事を早々に済ませ、一部の男子生徒と共に従者に混じって動き回る二人の様子を、他の女子生徒たちは複雑な思いで見つめた。
昼休みの間に、エマと同じ馬車に乗っていた生徒たちが車酔い止めの薬草の効能を他の生徒にも話してくれたため、午後はどの馬車でも車酔いに苦しめられる生徒の数がぐっと減ることになった。
それに代わって彼女たちを苦しめたのは、座席の硬さだ。狭い車内に押し込められ、硬い座席の上で長時間揺られ続けたため、彼女たちの手足には打ち身による痣ができ、尻はすっかり腫れ上がってしまった。
彼女たちとて何の準備や対策をしなかったわけではない。上級生からこの初実習が過酷であるということは嫌と言うほど聞かされていたので、出来得る限りの準備はしてきた。
座席に関しても少しでも座りやすくなるように、ちゃんと外套を畳んで尻の下に敷いていた。車酔いにしても然りで、事前に薬を準備している生徒がほとんどだった。ただ、馬車の揺れは彼女たちの想定をはるかに上回っていたのだ。
この兵員輸送馬車はもともと軍用の荷馬車に幌をかけただけのものだ。まともな座席すらないので、手足を踏ん張っていなくてはたちまち馬車の揺れで床に投げ出されてしまう。
このような馬車に乗る場合、平民であればすぐに横に座った者同士で身を寄せ合い、互いの体を預け合うことで揺れから身を守ろうとするものだ。
しかし、貴族である彼女たちにそんなことが出来ようはずはなかった。たとえ級友として見知った者同士であっても、不用意に相手の体に接触することは許されないからである。
それでも揺れのひどさに耐えかね、最終的に生徒たちは自然と互いに体を支え合うようになった。だが時すでに遅し。目的地である小さな村落近くの野営地に辿り着いた頃には、彼女たちは全員痣だらけで、本当にひどい有様になってしまっていた。
痛みに苦しむ彼女たちを救ったのは、またしてもミカエラだった。
「・・・我が望むは安息。彼の者たちのすべての苦しみを取り去れ。《大いなる闇の安らぎ》」
短杖を構えたミカエラの長い詠唱が終わると、ミカエラを中心に出現した巨大な闇の天球が野営地の一角に集まった女子生徒たち全員を包み込んだ。
天球の内側に出現した魔力の星の瞬きがほんの一瞬、女子生徒たちを眠らせる。そしてその眠りから目覚めた時、彼女たちの体をさっきまで苛んでいたひどい痛みは、嘘のように消え去っていた。
「ありがとう存じますミカエラ様。本当に助かりました。」
口々にお礼を言う女子生徒たちに、ミカエラは余裕のある表情で鷹揚に頷くことで応じた。そして馬車の物陰に入ったところでふらりと姿勢を崩し、隣を歩いていたイレーネにもたれかかった。
イレーネに抱きかかえられてそっと横になったミカエラに、エマが《収納》から取り出した魔力回復薬を差し出す。回復薬を口にしたミカエラは小さく「ありがとう」と呟いた後、イレーネの膝の上で短い眠りに就いた。
「顔色がよくなったね。よかった。」
ホッと息を吐いたエマにイレーネも同意するように頷いた。
「流石に無理しすぎですわ。昼間からずっと魔法を使い続けていたんですもの。エマさんは大丈夫ですの?」
「私はまだ少しゆとりがあるよ。魔法を何回か使っただけだし。」
笑っているエマの顔をイレーネは心配そうに見つめる。口ではそう言っているが、エマの顔色もそれほど良くはない。イレーネは、小さく息を吐いてエマに言った。
「エマさんたちのおかげで助かりました。ありがたいですけれど、明日はもう少し工夫する必要がありますわね。私から他の女子生徒たちに声を掛けておきますわ。」
イレーネの言葉が終わると同時に、実習生たちの集合を知らせる号令が響く。それで目を覚ましたミカエラと共に三人は立ち上がり、重い体を引きずるようにして担当教官であるグレッシャーのいる広場に向かって走り出した。
集合し男女別に整列した生徒たちを前にして、グレッシャーは拡声の魔導具を取り出した。
「大分疲れた表情をしている者が多いようだが、全員でここまで辿り着いたことは称賛に値する。特に女子生徒が一人も脱落することなくここまで辿り着いたのは数年来のことだ。諸君らはそれを誇ってよい。」
生徒たちは『氷のレイエフ』と呼ばれるほど厳格な教師の誉め言葉に、戸惑いを隠せない様子でこっそりと目線を交わし合う。彼の言葉を素直に喜んでいるのは200名以上いる生徒のうち、唯一エマだけだった。
そんな生徒たちの動揺などどこ吹く風と言わんばかりに、彼は死神のように陰気な声で話を続けた。
「本日の行軍はこれで終了だ。この後、諸君らは従者たちの仕事を手伝うように。それが終わったら、次は自分たちの寝床と夕飯を準備するのだ。必要なものは今朝配布した背嚢に入っている。」
彼はそこで言葉を切り、ちらりと西の空に目を向けた。夏の太陽はすでに中点を大きく過ぎ、刻々と高度を下げつつある。
「明るいうちに諸君が食事を終えるためには、手早く仕事を終える必要があるだろう。ではあそこに待機している従者たちの元へ行き、それぞれの仕事をこなしたまえ。」
レイエフは話を打ち切ると、野営地の一角で馬の世話や資材の運搬、騎士たちの天幕の設営をしている従者たちの方を持っている杖で指し示し、無言のまま生徒たちに「行け」と言うかのようにさっと手を振った。
それに従い騎士クラスの男子生徒たちが一斉に従者の元へと走り出す。彼らの目当ては軍馬の世話をしている従者たちだ。
魔法騎士の騎乗する軍馬は王国南方に広がる平原地帯、レーベン領でのみ生産されている。レーベン産の馬は、速度や継戦力は王国北方の草原に暮らすファ族の育てる馬には及ばないものの、勇猛果敢な性格と人に慣れやすいという特質があり、名馬として近隣の国々に広く知られている。
魔法騎士と共に人馬一体となった戦いぶりで帝国の侵攻を幾度も退けたことは、騎士を目指す少年たちなら誰でも知っていて当然の事実だ。
その育成法はレーベン辺境伯一族のみが有しており門外不出。生産量も限られているため、軍馬に騎乗して戦う魔法騎士は王国軍の精鋭として少年たちの憧れの的となっている。
男子生徒たちが辛い体に鞭打って我先にと走っているのは、憧れの軍馬に直接触れられる貴重な機会を競争相手に取られまいとする一心に他ならなかった。
男子たちが全員走り去った後、女子たちはようやくのろのろと立ち上がった。日頃から騎士になるために訓練を受けている男子たちと違い、貴族令嬢たちは野営の経験などほとんどない。
王国の辺境に領地を持つ貴族家の女子生徒の中には、帰省時に野営を経験した者もいる。しかしその場合、彼女たちの周囲には常に侍女や使用人がいるため、自分で天幕を建てたことなどあるわけがない。
ましてや今は、胃の中の物をすべて吐き戻した上に食事もしておらず、回復魔法の力で何とか立っていられるような状態だ。消耗しきった彼女たちは、女性貴族として級友に恥ずかしい姿を見せまいとする気持ちだけで、懸命に体を動かしていた。
ただいくら気持ちがあったとしても、それですべて解決できるわけがない。
従者たちと共に騎士たちの食事の用意や寝具の準備などを終えた後、自分たちの天幕を建て終わった頃にはもうすっかり日が落ちて、辺りは暗闇に包まれてしまっていた。
空腹でしくしくと痛む胃を押さえながら、彼女たちは食事の準備に取り掛かった。
女子生徒たちの大半は火を起こす気力が残っていなかったため、昼に食べ残しておいたバンを背嚢から取り出して食べた。
そして乾燥しきった味気ないパンを、酸っぱい葡萄酒で苦心して飲み下した後は、挨拶もそこそこに次々と、少し傾いた天幕へ潜り込んでいき、たちまち寝息をたて始めたのだった。
それに対してエマと同じ馬車に乗っていた女子生徒たちは、手早く自分の仕事を終えたエマとミカエラが全員分の鍋を集めて湯を大量に沸かすことができたため、温かい食べ物にありつくことができていた。
もっとも凝った調理をするような時間や道具はないので、今夜のメニューは炙ったチーズを乗せたパンと軍用の携帯糧食を湯に溶かして作る簡易スープのみだ。スープにはエマが野営地周辺の森で採集してきた山菜や香草を刻んで入れてある。
他の生徒たちと共に火を囲んだエマとミカエラは、木の椀に入ったスープに硬いパンを浸して早速食べ始めた。温かい食べ物が体に入ったことで、エマは先程まで感じていた疲労がほぐれていくような気がした。
夢中になってパンをかじっていたエマだったがふと目を上げると、周りの生徒たちがほとんど食べていないことに気が付いて、ミカエラの隣に座ったイレーネに声を掛けた。
「イレーネちゃん、大丈夫? まだ食欲がわかないの?」
イレーネはエマと手に持った木の椀を何度も見比べてから、はあっと息を吐いた。
「・・・このスープ、酷い匂いですわ。何といったらよいか、分からないですけれど・・・。」
イレーネは言い淀んでいたが、エマは彼女が言いたいことがすぐにわかった。
このスープの素になっている携帯糧食は、粉にした雑穀と茹でた豆、乾燥させた香草、獣脂、それに大量の塩を練って作られている。
薄く板状にスライスした後、天日でしっかりと乾燥させてあるため、数週間は悪くなることなく食べることができるのだ。
非常に硬いがそのままかじって食べることもできるし、今エマたちが食べているようにお湯に溶かして食べることもできる。栄養価も非常に高く、食べると大量に唾が出るため、少ない量で飢えをしのげるという優れものだ。
ただその臭いは最悪だった。はっきり言ってこのスープは臭い。例えるなら、あまり清潔でないトイレの臭いといったところだろうか。
しかもやたらと塩辛いのだ。だからそのまま食べようと思うと、一食分(手の平より少し小さいくらいの板一枚分)を食べ終えるのにも、ものすごく時間がかかってしまう。
エマはこれと同じような携帯食を冒険者をしている時に食べたことがあった。ただその時食べたものは、ガレスが色々と味を工夫していたため、比較的美味しかったし、匂いもよかったのだ。
この軍用糧食はガレスが作ったものとは比べ物にならないほど不味い。保存期間と栄養価を優先して作られているため、こればかりはどうしようもない。
口にするのをためらうイレーネの気持ちは痛いほどわかったが、エマはあえてイレーネに食事をするよう勧めた。
「明日も行軍でしょ? 食べないときっと馬車の中で倒れちゃうよ。」
エマはそう言うとひどい臭いのするスープにパンを浸して一口食べ、にっこりと笑ってみせた。
確かにこのスープは酷い臭いと味だが、安全な材料だけで作られている。春先の村の食事に比べたら、全然問題がない。
冬の間、王都領の多くの村は雪に閉ざされてしまうため、新たに食べ物を得ることが難しくなる。だから秋の終わりに春までの食糧を蓄えておくのだけれど、ハウル村のような貧村では保存のための塩や酢、油を十分に確保できない。
だから冬の終わりごろには貯えておいた食べ物がすべて傷んでしまう。しなびた芋と豆でスープを作り、傷んだ塩漬け肉を炙って食べるしかないのだ。
幼い子供や年寄りの中には、この食事が原因で命を落とす者も少なくない。それに比べたら、安心して食べられる分、この臭いスープの方が何倍もマシだった。
エマと同じようにミカエラもパンをスープに浸して一口食べてから、イレーネをじっと見つめた。
イレーネは二人と顔を見合わせてしばらく躊躇していたものの、意を決したように目を瞑り、スープに浸したパンを口に放り込んだ。
目の端に涙を浮かべながら懸命に咀嚼し、こくんと飲み込んだ後、彼女はそっと口を押えながら、引きつった笑顔を浮かべた。
「日頃、兵士や平民たちがどんなものを食べているのか、知ることができてよかったですわ。これも彼らを導く貴族としての義務ですわね。」
イレーネの言葉で焚火を囲んでいた女子生徒たちはハッと居住まいを正した。そしてごくりと唾を飲み込むと、それぞれが手にしていた食事を黙々と食べ始めたのだった。
それを見どけたエマは手早く自分の分を食べ終えると、沸かしておいた湯に昼のうちに摘み取って干しておいた香草を散らして即席の香草茶を作った。
それをミカエラが木製のコップに注ぎ分けて女子生徒たちに配る。乾燥が不十分なため多少えごみがあるものの、スープを無理矢理飲み込んだ後の女子生徒たちにとっては、口の中の臭みを消してくれるだけで十分にありがたいものだった。
二人が元の場所に座ると、お茶の礼を二人に言った女子生徒の一人が、おずおずとエマとミカエラに話しかけてきた。
「お二人はとても手際がよろしいのですね。」
その言葉で一瞬にしてその場が凍り付いたように静まり返る。イレーネは発言した女子生徒に対し、無言で非難めいた視線を向けた。
それに気が付いたその女子生徒は顔を赤らめ、「ご、ごめんなさい。わ、私、そんなつもりはなかったのです」とすぐに謝罪した。
もちろん彼女に悪意がないことなどすぐに分かる。だが今の彼女の言葉は、まるで使用人を褒めるような言い方だと捉えられても仕方がない。少なくとも貴族の子女同士で使う言葉でないのは確かだ。
こういう場合、「お二人のお仕事のやり方を見て、私も多くのことに気づかされました」など、相手を尊重するような言い方をしなくてはならない。上から目線で相手を評価するなど、あってはならないのだ。
もっともミカエラはともかくエマは平民なので、この言い方は必ずしも間違いではない。しかしこの集団の実質的なリーダーであるイレーネが、エマを平民として扱うことを極端に毛嫌いしていることは、この場にいる全員が知っている。
自分が取り返しのつかない過ちを犯したことを悟った女子生徒は怖れおののき、たちまち目の端に涙を浮かべてぎゅっと両手を握りしめた。
エマもすぐに彼女の間違いに気が付いた。だがただ彼女に対してにっこりと笑いかけることで、自分の気持ちこの場にいる全員に示した。
「褒めてくれてありがとう。私は家でいつもやってるからね。森の中で食べ物を探すのは任せておいて!」
エマがあえて彼女の謝罪の言葉に触れず逆に礼を言ったことで、ようやくその場の空気がフッと緩む。エマは無言のままちらりとミカエラに視線を送った。
ミカエラはエマに対して苦笑するように口の端を上げた後、ふうっと息を吐いた。
「私もハウル村でエマさんと一緒に村の仕事は一通り体験いたしました。領民を生活を直に知ることは何よりも大切だと、ガブリエラ王女殿下は私に常々おっしゃっていましたから。」
ガブリエラはミカエラの実の姉だが、現在は王の養女になっているため、人前で話す時には敬称を付けて話さなくてはならない。それに対してミカエラは内心、忸怩たる思いを抱えている。
そのことを知っているイレーネはミカエラを気遣うような視線を向けた。ミカエラはそれに無言のまま軽く頷くことで『大丈夫です』という意思を示す。
ミカエラの意図を悟ったイレーネは、殊更明るい声で二人に問いかけた。
「まあ王女殿下様がそんなことを? 私にも教えていただきたいですわ。エマさん、ミカエラ様、もっとお二人の村での生活のことを教えてくださらないかしら?」
「もちろんだよ。ね、ミカエラちゃん?」
「ええ、是非皆さんに聞いていただきたいお話がたくさんございます。よかったら皆さんのお話も聞かせていただけませんか?」
その後、焚火を囲みながら女子生徒たちはおしゃべりを楽しんだ。学校や実家を離れて交わすその会話は、必ずしも貴族の子女として相応しくないものだったかもしれない。
だが素直な気持ちで語り合い笑い合う姿は、貴族も平民も関係なく、どこにでもいる12歳の少女たちと何ら変わりがなかった。
2つの月に照らされた夜の野営地は焚火の明かりの奥に暗く沈み、木々を揺らす風が馬の嘶きと共に魔獣の遠吠えを運んで来る。
夏の終わりの夜風はひんやりと彼女たちの体を冷やし、闇は彼女たちの孤独や不安をかきたてる。
そんな闇を切り取るように生まれた暖かな光の中で彼女たちは身を寄せ合い、互いの気持ちを深く知ることができた。
従者も侍女もお菓子もないこのささやかなお茶会は、このあと彼女たちの心の中にかけがえのない楽しい思い出として、長く残ることになったのだった。
読んでくださった方、ありがとうございました。