39 すれ違い
この章は60話で終わる予定なのですが、ちょっと尺的に不安になってきました。うまくまとめるのって本当に難しいです。プロの方ってすごいんですねー。
私がリアさんやジビレさんたちと一緒に一日がかりで寮の部屋を整え終えた頃、エマたちが夕食のために演習場から戻ってきた。私は皆の姿を見てホッと息を吐き、エマに話しかけた。
「おかえりエマ。実習はどうだった?」
「うん。皆のおかげで何とか終わったよ。」
「それはよかったね!・・・どうしたの、なんだか元気がないみたいだけど?」
曖昧な笑顔を浮かべるエマの様子が気になって私は尋ねた。
でもエマは「ちょっと気になることがあったんだ。お夕食の後に話すね」とだけ答えて口を噤んだ。
エマは何かをすごく悩んでいるみたいだ。心配だけれど今は話せないみたい。私はエマの様子を気にしながら着替えを手伝い、夕食に向かうための準備を整えた。
夕食と入浴を終え、全員がそろったところでエマとミカエラちゃんが今日あった出来事を話してくれた。マルグレーテちゃんという平民の女の子がいじめを受けている話を聞いて、私はとても驚くとともに、エマのことが心配になった。
「そんなことがあったんだ。大変だったね。エマは大丈夫だったの?」
「私は平気。でもお姉ちゃんの作ってくれた杖を勝手に貸しちゃった。ごめんね。」
「そんなの全然、大丈夫だよ。何ならもっといいのを作ってあげる!」
私がそう言うとエマはこくんと頷いて笑った。
「ねえ、ミカエラちゃん。さっき『お部屋で話す』って言ってたのって何のこと?」
エマの質問にミカエラちゃんは冷やした果実水を飲みながら答えた。
「イレーネ様はアンフィトリテ先生がおっしゃっていたことをするつもりなの。生徒たちに理を説くのではなく、感情を操作するのよ。」
「ああ、分かりましたわ。『お茶会外交』ですわね?」
ミカエラちゃんの言葉にニーナちゃんがすぐに反応した。ミカエラちゃんは彼女に微笑みかけ、無言で頷いた。
でも私とエマはさっぱり意味が分からない。エマはニーナちゃんに尋ねた。
「?? 何それ?」
「自分の派閥に所属する方を招いて互いの意思を確認したり、結束を強めたりするためにお茶会を開くことです。招待状の出し方がちょっと特殊なのですよ。」
普段の社交目的のお茶会の場合、主催者が招待客全員に招待状を送るのが一般的。ところが『お茶会外交』の時には、派閥の主がもっとも信頼の厚い相手を1~2人だけ選んで招待するのだそうだ。
「招待された方は、また同じように1人か2人をそのお茶会へ招待します。そして自分が招待した方を派閥の主に報告するのです。それを繰り返していくのですよ。」
「そうやって自分の味方をどんどん増やしていくんだね。何だか面白そう! でもそれじゃ最後には招待客がものすごく増えちゃうんじゃない?」
エマがそう問いかけると、ミカエラちゃんが皮肉な笑みを浮かべながらそれに答えた。
「最終的に誰を招待するかは派閥の主が決めるんだよ、エマちゃん。ここで自分の招待した人を派閥の主に断られてしまうと、招待した側が味方を見分ける見識なしと主に見なされてしまうの。」
招待された順番はそのまま派閥内の序列になるけれど、この時、主の意に沿わない相手を招待したりすればその序列を下げられてしまうらしい。
また自分が招待した相手が派閥に害を与えた場合、招待した側も派閥から罰を受けるなど、厳しい決まりがあるそうだ。だからおいそれと招待客を増やすわけにもいかず、自然と参加者は厳選されていくんだって。
そんな恐ろしい決まりがあると想像もしなかった私とエマは、思わず顔を見合わせて震えあがった。
私たちの様子を見たミカエラちゃんは、ニーナちゃんと目を見合わせて苦笑いを浮かべ、言った。
「悪いことばかりじゃないんだよ。このお茶会の時は序列によって席次もきちんと分けられるから、力関係がものすごく明確になるの。そうすることで無用な争いを避けるっていう知恵でもあるんだよ。それに派閥の主にしてみれば味方の貴族同士の繋がりを把握しやすくなるという利点もあるしね。」
派閥は所属する貴族たちの利益を分け合い守るためのものなので、その中で争いが起こってしまうようでは意味がない。もしそんなことになれば、その派閥の主は失格となり、人望を失ってしまうのだそうだ。
あと派閥内の序列は身分や家格が大きく影響するけれど絶対ではなく、個人の資質や派閥の貢献度なども考慮されるんだって。序列が高ければ当然、派閥内での影響力も上がる。
だから縁故で仕事をすることが多い貴族にとって、この序列は非常に重要なのだそうだ。時には家の命運を大きく分けることすらあるため、貴族の女性はこの序列を維持・上昇させるために必死になるという。
役職に就けない女性が貴族社会で成り上がるための方法になっているのだそうだ。
「なるほど、そのお茶会で『平民をいじめないようにしよう』って呼びかけるってことだね。でもそんなので本当にうまくいくの?」
エマの問いかけにミカエラちゃんは自信ありという感じで深く頷いた。
「もともとの原因が平民の生徒に対する不安によるものでしょう? だからそれを解消してやって、同時に平民いじめに利がないことを分からせればいいの。」
ミカエラちゃんは軽く肩を竦めながら言葉を続けた。
「あとは派閥内の序列を上げるために生徒たちが自分から動き始めると思うわ。良くも悪くも貴族というのは派閥の意思に従うものだしね。もちろん根回しは必要だし、暴走しないように気を付けなきゃいけないけど。」
ミカエラちゃんに続いて、ニーナちゃん、ゼルマちゃんも口を開いた。
「イレーネ様は反王党の中でも最大の派閥を持っていらっしゃいます。それに加えてミカエラさんやニコル様、ウルス殿下もそれぞれ動かれるのなら、かなり効果があると思いますわ。」
「男子生徒たちは女子とは違い、訓練を通じて独自の交流をしていますよ。ニコル様は上級生からも一目置かれる存在ですし、きっとうまくいくと思います。」
私は知らなかったけれど、実はミカエラちゃんも大きな派閥を持っているのだそうだ。ミカエラちゃんは将来公爵夫人になることがほぼ確定しているため、ミカエラちゃんと関係を持ちたがる貴族は少なくないらしいです。
イレーネちゃんとミカエラちゃんが女子生徒を、ニコルくんとウルス王子が男子生徒を誘導することで平民をいじめる貴族を逆に炙りだしていくのだそうだ。
確かにこれは先生たちにはできないやり方だよね。ミカエラちゃんも自信があるみたいだし、うまくいくといいなあ。
私がエマにそう言うと、エマは「うん」と小さく頷いた。
どうしたんだろう。平民の生徒を守る算段がついたというのに、やっぱりエマは浮かない顔をしている。心配に私はエマに尋ねてみた。
「エマ、まだ何か気になることがあるの?」
「ううん、お茶会のことは大丈夫。ミカエラちゃんたちのやろうとしていることが分かったし、きっとうまくいくと思う。それよりもリンハルト様のことが気になってるんだ。」
「リンハルト王子?」
「うん、リンハルト様にパウル殿下の伝言を伝えたんだけど・・・。」
エマはラシー城塞で受け取ったパウル王子の伝言をリンハルトくんに伝えた時のことを話してくれた。怒ったリンハルトくんがエマを突き飛ばしたと聞いて、ニーナちゃんがすごく驚いて声を上げた。
「まあ、リンハルト様がそんなことを? やはりお母様のことで悩んでいらっしゃるのでしょうか。」
「ニーナちゃん、何か知ってるの?」
エマの問いかけにニーナちゃんが答えた。
「パウル殿下の正妃ベルトリンデ様はお体が弱く、ずっと離宮に引きこもっていらっしゃることで有名なのです。」
「リンハルトくんのお母様は病気なんだ。可哀想だね。」
私がそう言うとニーナちゃんは小さく頭を振り、声を潜めて言った。
「実はベルトリンデ様はずっと昔に心を病んで以来、正気を失っていらっしゃるという噂があるのです。」
あくまで噂ですが、と前置きしてニーナちゃんは話し始めた。
パウル王子とベルトリンデさんが結婚したのは今から13年ほど前。ベルトリンデさんが16歳になったばかりのことだったそうだ。結婚後間もなくリンハルトくんを出産して以来、体調不良を理由にほとんど人前に姿を見せないという。
ただこれは方便で、実際は正気を失っているから人前に出られないのではないかというのが貴族たちのもっぱらの噂らしい。
なんでも離宮に出入りする下働きの話では、ベルトリンデ様は誰が話しかけても全く返事をすることはなく、一日中窓辺に座ってただぼんやりと過ごしているそうだ。
中にはベルトリンデさんが奇声を上げて錯乱する様子や、虚空に向かって話しかけている場面を目撃したという話もあるらしい。
その原因として実しやかに囁かれているのは、パウル王子の『女癖の悪さ』なんだって。女癖が悪いというのは奥さん以外の女の人と仲良くすることですよと、ニーナちゃんは私に教えてくれた。
私もパウル王子とは結構仲良しだと思うんだけど、それはいけないことだったのかしら。
私がびっくりしてそう言うとニーナちゃんは困った顔をして「いえ、そういうことではないんですのよ?」と言った。
ベルトリンデさんは当時、反王党派の一翼を担う大貴族だったデッケン伯爵家の娘で、パウル王子とは結婚当日までほとんど面識がなかったそうだ。王家とデッケン伯爵家との『政略結婚』だったからなんだって。
だから元から夫婦の中がうまくいっていなかったのではないかと、ニーナちゃんは私に説明してくれた。
確かに会ったこともない人といきなり家族になれって言われても困るよね。でもこれは貴族社会ではごくありふれたことなのだと、ニーナちゃんは言った。
貴族って本当に大変だと、私は改めて驚かされてしまった。
「それからベルトリンデ様は反王党派の現領袖デッケン伯爵の娘ということになっていますが、実際は王国北西部のサルトル領のご出身だそうですよ。」
ベルトリンデさんのお母さんがデッケン伯の末妹で、サルトル男爵家に正妃として嫁いだのだそうだ。
「じゃあ自分の姪っ子を養女にして、パウル殿下と結婚させたってこと?」
「ベルトリンデ様の他にちょうどよい年齢の娘が親族に居なかったのでしょうね。サルトル男爵にしてみれば伯爵家と王家、どちらにも強い繋がりを持てますから、断る理由はなかったのでしょう。」
ベルトリンデさんの意思はそっちのけで、家の都合だけで結婚させられたってことか。ベルトリンデさん、すごく気の毒だ。
横顔を見る限りエマも同じように感じているみたい。でもニーナちゃんは特に気にした風もなく話を続けた。
「デッケン伯爵は王家への影響力を増す狙いがあったのだと思います。王家としてはデッケン伯爵との関係を強くすることで、当時の反王党派貴族の切り崩しをするおつもりだったのでしょう。ですが・・・。」
ニーナちゃんは言い淀んだように言葉を止めて、ちらりとミカエラちゃんの方を見た。
ミカエラちゃんはこくりと頷くと、感情のない声で淡々と言った。
「当時の反王党派領袖であったバルシュ侯爵家が改易されたことで状況が変わったのです。」
「それ、どういうこと、ミカエラちゃん?」
「私が生まれたことで反王党派内での争いがあったのではないかと、私は予想しています。はっきりしたことはすでに闇の中ですが。」
ミカエラちゃんはそう言うと、背後に立っていたジビレさんを振り返った。ジビレさんは一瞬躊躇った様子だったけれど、すぐに少し緊張した調子で話し始めた。
「確かにミカエラ姫様がお生まれになった当時、王家から旦那様の元へ頻繁に使者が来ていらっしゃいました。私は詳しいお話は伺っておりません。ですが奥様はミカエラ姫様とウルス殿下との婚約について、旦那様とお話をしていらっしゃったようです。」
「ウルス殿下とミカエラちゃんが結婚するはずだったの!?」
驚くエマにミカエラちゃんは薄く微笑んで答えた。
「もともと侯爵家は王家の血を絶やさぬためにあるのです。年齢や魔力の相性を考えた場合、私がウルス殿下に嫁ぐ可能性は非常に高かったでしょうね。」
でも実際はバルシュ侯爵家は改易となり、身分を剥奪されたガブリエラさんとミカエラちゃん以外の一族全員が殺されてしまった。
ミカエラちゃんは冷静な声で静かに話を続けた。
「バルシュ侯爵以下私の家族が容易に王家に捕縛されたのは、西ゴルド帝国の手の者によってバルシュ侯爵一家が正気を失くしていたためです。」
バルシュ侯爵一家を操って非道な行いをさせていたのは、カールさんが倒した複合獣の女性だ。
彼女はハウル村襲撃事件の黒幕だった『老頭』という謎の人物と協力し、西ゴルド帝国皇帝のために動いていたと、私はカールさんから聞かされている。
この二人はすでにいない。カールさんとエマたちが協力して倒したからだ。でもこのことはニーナちゃんたちには内緒なので、私は迂闊なことをしゃべらないように唇を引き結んだ。
一度言葉を切ってぐっと目を瞑った後、ミカエラちゃんは美しい緑玉の瞳に怒りの光を灯しながら言った。
「しかし領袖であったお父様が捕縛されたにもかかわらず、当時の反王党派の貴族たちにはお父様を救おうと動いた形跡がありません。逆に捕縛に協力した節すらあるのです。」
「じゃあ、ミカエラちゃんの家族を殺したのはまさか・・・。」
エマの言葉にミカエラちゃんは深く頷いた。
「西ゴルド帝国と結び、お父様を陥れたものが当時の反王党派にいたと見て間違いありません。」
その言葉を聞いたニーナちゃんとゼルマちゃん、そして侍女のカチヤさんが驚きに顔を歪めた。三人にとってはかなりの衝撃的な内容だったみたいだ。
部屋の中に降りた重い沈黙を破って、エマがゆっくりとミカエラちゃんに尋ねた。
「ミカエラちゃんはどうやってそれを知ったの?」
「お姉様が残してくださった資料の中に当時の記録があったのです。お姉様はお父様を殺した人間を突き止めようとしていらしたのでしょう。けれど核心に迫るような決定的な資料はありませんでした。」
「じゃあガブリエラ様にも犯人が分からなかったってこと?」
「いえ、資料の残り方が不自然でした。おそらくは何者かが持ち去ったのではないかと思います。」
「まさか犯人が証拠を隠すために資料を・・・?」
「分かりません。ですがお姉様はきっと私が仇への復讐を果たすことを期待していらっしゃるのではないかと思うのです。」
ミカエラちゃんはそう言い放った。彼女の瞳は魔力を帯びて緑色に輝いている。だけどその時、それをきっぱりと否定する声が部屋の中に響いた。
「いいえ、それは違います。」
声を発したのはミカエラちゃんの侍女ジビレさんだった。いつもと同じようにきちんと背筋を伸ばしたジビレさんは、両手をぎゅっと握りしめたままミカエラちゃんを見下ろしている。
ミカエラちゃんは立ち上がり、ジビレさんの方に向き直った
「ジビレ、何か知っているの? まさかあなたが・・・?」
「資料を処分なさったのはガブリエラ姫様自身でございます。私はそのお手伝いをさせていただきました。」
ミカエラちゃんの目が驚きに見開かれる。
「お姉様が? なぜそんなことを?」
ジビレさんはその問いに答えず、事実だけを静かに話した。
「ガブリエラ姫様は資料を処分なさった後、すぐに国王陛下に宛てて手紙を書かれました。姫様の帝国への輿入れが決まったのはその直後のことでございます。」
「そんな・・・。それじゃお姉様は・・・!?」
蒼白となった顔で震えるミカエラちゃんを心配そうに見つめながら、ジビレさんは答えた。
「ガブリエラ姫様はおそらく旦那様の死の真相を突き止められたのだと思います。けれどその証拠となる資料をすべてご自分で処分なさいました。」
真っすぐに立っていたジビレさんの体が僅かに震える。その拍子に彼女の前髪が動いて、酷い火傷を負った半面が見えた。
ジビレさんはミカエラちゃんに一歩近づくと彼女の前にしゃがんだ。そしてミカエラちゃんの瞳を覗き込むと、切々と訴えるような調子で彼女に言った。
「ガブリエラ姫様はミカエラ姫様に真相を伝えたくなかったのです。あの方はあなた様が復讐をすることなど望んでおられません。」
ミカエラちゃんは自分を必死に見つめるジビレさんの目と、彼女の焼け爛れた半面を見て、ぎりっと奥歯を噛んで俯いた。
どのくらいそうしていただろう。時が止まったかと思うほどの沈黙の後、ミカエラちゃんは血を吐くような声でゆっくりと言葉を絞り出した。
「・・・教えてくれてありがとうジビレ。」
ジビレさんは目の端に涙を浮かべながら無言のまま立ち上がると、ミカエラちゃんに一礼してミカエラちゃんの椅子をそっと引いた。
私たちが心配して見つめる中、ミカエラちゃんは優雅な仕草で立ち上がるとジビレさんの引いた椅子にそっと腰かけ、ニーナちゃんに向かって穏やかな声で話しかけた。
「ごめんなさい。話を逸らしてしまいました。ベルトリンデ様がパウル殿下と結婚するに至った経緯と病についてはよく分からないということですわね。」
「え、ええ、そうです。あくまで噂なのです。私も詳しくは存じ上げませんわ。ごめんなさい。」
恐縮するニーナちゃんに、ミカエラちゃんはにこやかにお礼を言った。
「いいえ、大変貴重な情報です。ありがとう存じますニーナさん。今から12年以上も前のことですもの。はっきりしたことが分からなくて当然ですわ。ジビレ、あなたは何か知っているかしら?」
その問いにジビレさんはいつもの冷静な声で答えた。
「いいえ、姫様。何分、他領のことですので。申し訳ありません。」
ミカエラちゃんは無言で頷いた。するとニーナちゃんがまるで沈黙を恐れているみたいにすぐに話し始めた。
「サルトル領はファ族という騎馬民族の住む草原と境を接する、王国北方の最辺境部ですから。王都には当時のことを詳しく知る人間などほとんどいないのではないかと思います。」
それを聞いたエマが思わずといった感じで「あ、あの辺りなんだ」と声を上げた。
「?? エマさんはファ族の草原に行ったことがありますの?」
「え、えーとね。ううん、い、行ったことはないよ! 昔の冒険者仲間がファ族出身の人だったの。それで色々話を聞いてたから・・・。」
「まあ、そうでしたの。それは奇遇ですわね!」
エマの答えを聞いてニーナちゃんは、話が変わったのを喜ぶように殊更明るい声を上げた。
私もその流れでニーナちゃんに尋ねてみた。
「サルトル領ってどんなところなの?」
「王国北部地方の小領地で、美しい川や湖に恵まれた豊かな水源の地だと聞いています。果実を使ったお酒と魔物の糸から作る伝統的な織物が特に有名ですね。」
「果物のお酒・・・? ニーナちゃん、以前にグレッシャー領もお酒が有名だって言ってなかったっけ?」
「ええ、そうです。サルトル領とグレッシャー領は隣同士なんですよ。」
彼女によるとこの二つの領はデッケン領とも隣り合っているそうだ。デッケン領の周囲の小領地は、もともと代々のデッケン伯爵が長い時間をかけて開発・獲得してきた場所で、デッケン伯爵家はいわばこれらの小貴族家の『本家』とも言える存在らしい。
王国の北部は小麦づくりには適さないけれど、バルス山脈からの湧水が作る川や湖がたくさんあって、酒造りや織物、伝統工芸品など特色のある産物がたくさんある地方なのだと、ニーナちゃんが教えてくれた。
そう言えばクベーレ村の側にもきれいな川が流れていたっけ。あ、村長さんに砦で見つけた首飾りの持ち主を聞きに行くつもりだったのに、すっかり忘れてたよ。
まあでもまだそんなに急がなくてもいいよね? ミカエラちゃんをガブリエラさんのところに連れて行ったりしなきゃだし、色々落ち着いたらまた遊びに行ってみようっと。
私がクベーレ村で飲ませてもらった美味しい貴腐酒のことを思い出していたら、エマが皆に話し始めた。
「じゃあさ、グレッシャー先生だったら何か知ってるかな。だってグレッシャー子爵の弟さんなんでしょう? 先生に聞いたらリンハルト殿下のお母さんのこと、何か知ってるかもしれないよ。」
それを聞いたミカエラちゃんはびっくりしたように目を見開いた。そしてくすくす笑いながらエマに問いかけた。
「エマちゃん、本当にグレッシャー先生に聞いてみるつもりなの?」
ニーナちゃんが焦ったようにエマを止める。
「エマさん、それは止めておいた方がいいですわ。相手はあの『氷のレイエフ』ですもの。噂話を元に王家の方のことを詮索しているなんて思われたら、一体どんなことになるか・・・。考えただけでも恐ろしですわ!!」
「うーん、それもそうだね。でも気になるなあ。あの時のリンハルト殿下の目、とっても辛そうだったんだもの。」
エマの言葉でその場が少しだけ和んだ。ミカエラちゃんはエマに言った。
「エマちゃん、大丈夫だよ。私、ちょうどリンハルト殿下へお茶会の申し込みをしたところだったの。直接話を伺ってみるわ。」
「まあ、リンハルト様とお茶会を? いつなさいますの? 衣装はどんなものを用意なさるのかしら?」
目を輝かせてミカエラちゃんに尋ねるニーナちゃんをゼルマちゃんが窘める。
「おい、ニーナ。興味があるのは分かるが、噂好きも大概にしないとミカエラ様が困ってしまうぞ。」
「あら、私ったらつい・・・。」
顔を赤くしたニーナちゃんを見て皆が笑顔になった。その後、夜も更けてきたのでリアさんが皆に寝床に入るよう促したことで、その日の話はおしまいになったのでした。
その日の夜中、こっそり寝台を抜け出した私は、《転移》の魔法でガブリエラさんの寝室に移動した。
王国のよりもずっと低い寝台で彼女はすやすやと眠っている。かぶっているお布団の赤い花の模様がとっても鮮やかできれいだ。金糸銀糸で縁取りされているところが素敵です。
私はガブリエラさんの枕元にしゃがみこむと、彼女を揺り起こした。
「ガブリエラ様ー。起きてくださーい。」
「(!! ドーラ!? 侍女はどうしたの?)」
すぐに目を覚ました彼女は、私にそう聞いてきた。私がこの部屋の周囲に魔力の《領域》を作って、近くにいた人たちを眠らせていることを説明すると、彼女はホッと息を吐いて寝台から立ち上がった。
「座って話しましょう。こっちへ来てちょうだい。」
彼女はそう言って寝間着のまま寝室を出ると、私を隣の部屋の座卓に案内してくれた。
「あの、ガブリエラ様・・・その服、なんかすごくないですか?」
私がそう尋ねたのはガブリエラさんの着ている服がものすごく薄かったからだ。ゆったりとした柔らかい紫色の布を腰紐で止めただけのその衣装は、彼女の美しい体の線がはっきりと出てしまうほど薄い。
衣装の上からでも下着を着けていないのがはっきりと分かるくらいだ。
私の言葉にガブリエラさんは顔を真っ赤にして言い返した。
「て、帝国女性は皆、こんな感じの服で寝ているの! あんまりじろじろ見ないで!」
彼女は座卓の側のクッションに置いてあった長衣を素早く羽織ると、そのクッションの上に座った。座卓の上には読みかけの本が置いてある。多分、さっきまで彼女が読んでいたものだろう。寝る前に本を読むのは、村にいた頃から変わらない彼女の習慣だ。
彼女は私を座卓の向かい側に座らせると、小さく咳ばらいをしてから話し始めた。
「コホン。それで今日はどんな用件なのかしら?」
「ミカエラちゃんのことです。王様にガブリエラさんとクオレさんの話をしたら、ミカエラちゃんを連れて行っていいっておっしゃったので。今度のお休みの日に一緒に来ようと思うんですけど。」
彼女は真面目な顔で頷いた。
「分かったわ。義母上様にも同席していただかなくてはならないから、準備をしておきます。この離宮の地下研究室に来てちょうだい。」
私は分かりましたと返事をしてから、彼女と別れてからの出来事について話をした。ミカエラちゃんに彼女の手紙を渡した話をすると、彼女にしては珍しくためらいがちに私に尋ねてきた。
「・・・それで、ミカエラはどんな感じだったかしら?」
「ガブリエラ様の手紙を見てすごく泣いてました。でも私がクオレ様の話をしたらすごく真剣な顔でお姉様に話を聞くって言ってましたよ。あと、今日の夕方のことなんですけど・・・。」
私はエマたちの前でミカエラちゃんが話したことを彼女に伝えた。話を聞き終えた彼女は大きくため息を吐いた。
「そう、ミカエラはあの資料を読んだのね。肝心なものは処分したと思っていたのに、残った資料だけからその結論に辿り着くなんて。流石はミカエラだわ。」
彼女は自嘲気味に笑った後、私に言った。
「時間がなくて全部は処理できなかったのよ。ジビレに申し訳ないことをしたわ。ごめんなさいと伝えておいて頂戴。あと、ありがとうと。」
「分かりました。でもガブリエラ様、ミカエラちゃん、すごく怒ってるみたいでしたよ。」
私がそう言うと彼女はこくりと頷いた。
「そうでしょうね。私はあの子に面倒なことをすべて押しつけてここへ来たんだもの。怒られても当然だわ。」
彼女の言葉を聞いて私は、多分ミカエラちゃんが怒っている理由は、ガブリエラさんが思っているものとは違うのではないかと思った。
でもそれをうまく言葉で説明できなかったので、ただ「ミカエラちゃんはガブリエラ様のことをすごく大事に思っていますよ」とだけ言った。
彼女の顔が酷い痛みを感じた時の様に歪んだ。私は思わずクッションの上に彼女を押し倒して覆いかぶさり、彼女の細い体を強く抱きしめた。
「ドーラ!?」
「前に言いましたよね。大事な人への大事な気持ちはちゃんと言葉で伝えてください。私はね、ガブリエラ様のことが大好きですよ。」
彼女はハッとしたような顔をした後、クシャっと眉を歪めて私の胸に顔を寄せた。
「・・・ありがとうドーラ。」
彼女は震える声でそう言った。私は彼女の肩の小さな震えが収まるまでずっと、彼女の頭を自分の胸に抱え込んでいた。
露台へと続く、大きく開いた居間の窓からは青い月に寄り添うように上っていく、緑の月の輝きが見える。私はそれを見ながら、私の大好きな人たちの幸せを祈らずにはいられなかった。
読んでくださった方、ありがとうございました。