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missドラゴンの備忘録  作者: 青背表紙
39/93

38 軋轢

やっと一話書けました。3月は忙しいですねー。

 昼食を終えたエマたちは動きやすい実習服に着替え、中庭に面した渡り廊下を通って魔力演習場に向かった。途中、白い襟飾りを付けた真新しい実習服姿の一団とすれ違う。今年の春に入学した1年生の女子生徒たちだ。


 控えめな笑顔でイレーネとミカエラに会釈をして通り過ぎてく彼女たちの姿を見ながら、革の軽鎧を身に付けたゼルマがエマに言った。


「1年生も午後から実習みたいですね。」


「どの演習場だろう? ゼルマちゃんはどこだったっけ?」


「私は騎士クラスの上級生と一緒に第二演習場の格闘訓練に参加します。私たち技能クラスは午後の授業がありませんから。1年生は第一演習場じゃないでしょうか。」


「えっ、上級生と一緒なの!? ・・・大丈夫?」


 思わず上げた声を慌てて潜めて尋ねたエマに、ゼルマは薄く笑いながら言った。






「大丈夫です。今度はヴォルカノス先生が監督してくださいますから。」


「そうなんだ。それなら安心だね。」


 聴講生のゼルマを騎士クラス主任のヴォルカノスが監督してくれると聞いて、エマは胸を撫でおろした。騎士クラスの上級生というと、エマはどうしても集団で襲いかかられたあの時のことが思い出されてしまうのだ。


 途中から気を失ってしまったので記憶が曖昧な部分は多いけれど、目の前でゼルマが酷く痛めつけられていたことだけは、エマの脳裏にはっきりと焼き付いている。


 エマはもう二度とあんなことが起こらないようにと祈りながら、自分たちと別れて第二演習場へ歩いていくゼルマの背中を見送った。






 ゼルマと別れ、第三演習場に向かうための十字路に差し掛かった時、エマはレンガ舗装された通路の端で蹲っている1年生の女子生徒を見つけた。


 鮮やかな紫色の髪をおさげにしたその女の子は、渡り廊下の天蓋を支える柱の陰に隠れるようにして座っている。


「あの子、どうかしたのかな?」


 エマが指さした方を見たイレーネがその子をじっと見て言った。


「泣いているようですわね。」


「何か困った事があったのかも。エマちゃんどうするの?」


 ミカエラに尋ねられたエマは、それに答えるよりも早く蹲った女の子に駆け寄って行った。顔を見合わせて苦笑しながらイレーネとミカエラもそれに続く。






「大丈夫? ねえ、どうして泣いているの?」


 そう声を掛けたエマに、その女の子は体をびくりと震わせて顔を上げた。10歳とは思えないほど小柄で、大きな丸眼鏡をかけた彼女は、エマの実習服の襟に就いた緑色の飾り布を見た途端、怯えた表情をして目をぎゅっと瞑った。


「ご、ごめんなさい!! な、なんでも、何でもありませんっ!!」


「そんなに泣いているのに何でもないはずがないでしょう。きちんと立って理由わけをお話しなさい。」


 震える声で謝った女の子に、イレーネがそう言い放った。たちまち女の子は弾かれたように立ち上がり「す、すみません!」と頭を下げて謝罪した。






「別にあなたに謝ってもらういわれはありませんわ。わたくしはカッテ伯爵家のイレーネ。この二人は私の友人のミカエラさんとエマさんです。あなたの名前は?」


 僅かに胸を張りながらミカエラとエマの紹介しつつ、イレーネは女の子に問いかけた。


「は、伯爵家!? も、申し訳ございません!!」


 イレーネの名乗りを聞いて地面に平伏しようとする女の子を、エマが優しく引き留めた。


「あのね、王立学校ではそんなことしなくてもいいんだよ?」


 戸惑う女の子にエマは優しく笑いかける。エマの言葉を肯定するようにイレーネが頷くと、女の子はほんのりそばかすの浮いた華奢な頬に、少しだけ安堵の色を浮かべた。






「・・・その態度、あなたはもしや平民ですか?」


 ミカエラの言葉に、女の子が顔を歪ませる。唇を噛んだ彼女の顔は青ざめ、紫色の大きな瞳に涙の粒がみるみる浮かび上がってきた。彼女は無言でこくんと頷いた。


「そうなんだ! 私も平民だよ。ハウル村のエマっていうの。よろしくね!」


「え、あなたも平民ですか? そ、それがどうして伯爵家の方とお友達に・・・?」


 その言葉にイレーネが冷たい声で応じる。






「その質問は私とエマさんに対する侮辱です。相応しい友人を選ぶのに相手の身分を気にするなど、二流貴族のすることですわ。」


 途端に女の子が「ひっ!!」と息を呑む。今にも倒れそうな彼女を支えるようにしながら、エマはイレーネに言った。


「もう、イレーネちゃんったら! それじゃこの子がますます怖がっちゃうでしょ。」


「あら、わたくしそんなつもりでは言ったのではありませんのよ。ただエマさんと私のことを説明してさしあげようと思っただけで・・・。」


 少しだけ焦るイレーネを見て、エマとミカエラがくすくすと笑う。その光景を1年生の女の子は不思議そうに見つめていた。






 少し落ち着いてきた様子の女の子を伴い、三人は渡り廊下の脇にある石のベンチにやってきた。三人の真ん中に座った女の子は、隣に座るエマとミカエラ、そしてミカエラの隣にいるイレーネの顔を見てから話し始めた。


「私はヤンセン男爵様にお仕えしている官吏、ヒュッターの娘でマルグレーテと申します。」


「ヤンセン領・・・王国中南部の海辺にある小領地ですわね。ヒュッター家の傍系ということは、あなたのお父様は貴族でいらっしゃるのかしら?」


 ヒュッター家は代々王都の運河を管轄する官僚貴族だ。イレーネの問いかけに対し、1年生の女の子マルグレーテは首を小さく振って答えた。


「いいえ、貴族だったのは私の祖父までです。当時のヒュッター男爵の弟だった祖父がヤンセン男爵様の陪臣となったのです。ですから父も私も生まれた時から平民でした。」






 貴族家に生まれた人間にはすべて『貴族籍』が与えられる。これは爵位とは違い、貴族の血族であるというだけで男女長幼の別なく全員に与えられるものだ。


 貴族籍を持っている人間には、わずかではあるが俸禄が支給される。だが貴族籍は継承できないため、爵位を持たない貴族にとっては一代限りの特典に過ぎない。


 領地持ちの貴族家であれば、爵位を持つ当主が一族の人間を『陪臣』として雇用し、領地の管理などをさせることが多いため、貴族籍を持たない一族の人間でも領地内では貴族家の一員として扱われることが多い。


 だが官僚貴族の場合は爵位と役職が結びついているため、役職を得られなかった当主の直系以外の者は平民として自立していくしかない。


 マルグレーテは家名を持つ元貴族ではあるが彼女自身も、また彼女の周囲も彼女を貴族として扱うことはないのである。


 マルグレーテとイレーネの会話を聞いたエマは目を丸くして驚いた。






「同じ平民でも私とはずいぶん違うんだね。でもところでさっきは何であんなところで泣いてたの?」


 エマがそう尋ねた途端、マルグレーテは目の端に涙を浮かべ震える声で言った。


「た、大切な短杖を、失くしてしまったんです。」


 午後から行われる魔法実習に向かおうとして部屋に置いてあった荷物を見たところ、杖だけが無くなっていたのだそうだ。「昼食前には確かにあったのですが」と彼女は涙を堪えながら語った。


 侍女と二人で寮の部屋や大食堂を探し回ったけれど見つからなかったという。


「今でもまだ侍女のノーラ従姉ねえさんが寮を探してくれています。でも実習が始まるまでもう時間がないので、私は部屋を出てここまで来たのですが・・・いざとなると杖なしで実習に出るのが怖くなってしまって・・・。」


 マルグレーテはこれまで人前で魔法を使ったことはほとんどないという。膝の上でぎゅっと握りしめた両手を見つめながらそう言った彼女にミカエラが尋ねた。






「ねえあなた、もしかして他の貴族の生徒たちから何か意地悪されてるの?」


 マルグレーテの肩がビクッと小さく震えたことに三人は気が付いた。


「い、いいえ、いじめられてるとかそういうのではないんです。ただあんまり相手にされないだけで・・・。」


「無視されてるってこと? それっていじめじゃない!!」


 声を上げたエマにイレーネが冷たく言葉を続けた。


「何という恥知らずな。もしそれが事実なら、王国貴族の風上にも置けませんわね。」


 ミカエラも二人と目を合わせて無言で頷いた。自分のために怒ってくれている三人を、マルグレーテは信じられないものを見るような目で見つめた。






「杖を見つければいいんでしょう? 私も一緒に探してあげるよ!」


 エマはそう言うと自分の杖を取り出した。


「エマちゃん、どうするつもり?」


「1年生の時に習った魔法があるじゃない。《物品探索ロケートオブジェクト》、あれを使えばすぐに見つかるよ、きっと。」


「ダメだよ、エマちゃん。あれは術者が直接見たことのあるものじゃなければ効果がほとんど出ないってゴルツ先生がおっしゃっていたでしょう?」


 ミカエラにそう言われたエマは「ああ、そうだった!」と叫んで頭を抱えた。






「それならばわたくしが手を貸しましょう。」


 しょんぼりした顔のエマにイレーネはそう言うと、自分の腰のベルトに付けた杖を取り出し、おもむろに呪文を唱え始めた。


「世界を照らす大いなる光よ。我が力によりてここへ集い、魔力を引き寄せあう光輪を成せ。《共鳴する魔力の光》」


 イレーネが複雑な動作で杖をくるりと回すと、エマの立っている地面を中心に白い光の輪が現れた。輪の直径はだいたい三歩分(約2m)程。円の中にはエマとその隣に立っていたマルグレーテが入っている状態だ。


「な、なにこれ!?」


 驚くエマの体が虹色の美しい光を帯びる。エマ同様に、マルグレーテの体も紫色の光を放ち始めた。






「光属性の上級補助呪文ですね。初めて見ました。」


 ミカエラの言葉にイレーネが小さく頷いた。


「術者にしか効果のない魔法の範囲を拡張する呪文です。これでマルグレーテさんの杖をエマさんの魔法で探すことができるようになりましたわ。」


「すっごーい!! イレーネちゃん、流石だね!!」


わたくしは光の防御・補助呪文だけには自信がありますの。このくらいどうということもありませんわ。」


 キラキラした目でエマに褒められたイレーネは、澄ました顔でそう言った。でもミカエラは彼女がほんの少し胸を反らしたのを見逃さなかった。






「じゃあ、早速探してみるね。我が求める物の在りかを示せ。《物品探索:効果範囲最大》!!」


 エマが杖を振りながら呪文を唱えると、エマの体を覆う虹色の光とマルグレーテの紫色の光が混ざり合い、白い色に変わった。共鳴し合う魔力を通じて、マルグレーテの杖のイメージがエマの脳裏に浮かび上がった。


「あ、杖のある場所の方向と距離がだいたい分かったよ! 行ってみよう!!」


 エマは他の皆を案内しながら歩き始めた。うっすらと魔力光を放つ杖を掲げ、その反応を見ながら目的地を特定していく。


「ドーラお姉ちゃんだったら、このくらいの距離なら探し物がある場所がはっきり分かるんだけどな。私にはこれが限界なんだ。ごめんね。」


 時折立ち止まって方角を確かめるエマが少し恥ずかしそうに言うと、ミカエラが「ドーラさんと比べちゃダメだよ、エマちゃん」と笑った。






 やがてエマたちはマルグレーテたち1年生が使っている第一寮の裏手にやってきた。厨房に出入りする料理人や下働きたちが使う小さな扉の脇には、ごみを貯めておくための大きな箱と、残飯を入れておく壺が置いてある。


「こんな場所に杖が? 私、こんなところに来たことないのに・・・。」


 マルグレーテが不安げにそう呟くと、ミカエラは彼女に気付かれないようエマとイレーネに目配せを送った。二人は黙って頷いた。直後、突然頭を抱えたエマがマルグレーテに向かって言った。






「あー、私の魔法だとここまでが限界だよ。ごめんね、マルグレーテちゃん。」


「えっ、それってどういうこ・・・?」


 謝るエマに聞き返そうとしたマルグレーテを、すかさずミカエラが遮った。


「大変! もうすぐ午後の授業が始まってしまいます。マルグレーテさん、残念ですけれど杖を探すのはもう諦めなくては。」


 ミカエラの提案にエマが言葉を続ける。






「仕方ないね。じゃあさ、探せなかったお詫びに私の杖を使ってくれる? 後で取りに行くから大事に使ってね。」


 エマは《物品探索》の魔法を中断し、自分の短杖をマルグレーテに押しつけた。


「そ、そんな! こんな立派な杖をお借りするわけにはいきません。」


 銀の装飾が施された乳白色の美しい短杖を手渡されたマルグレーテは、戸惑った表情でそれを断ろうとした。


「大丈夫だよ。その杖はまじない師をしてる私のお姉ちゃんが作ったものなの。遠慮しないで使って。」


「で、でも・・・。」


 オロオロと三人の顔を見回しながら立ち竦むマルグレーテを、イレーネが冷ややかな声で一喝した。






わたくしの友人のエマさんがお詫びを申し出ているというのに、あなたはそれを断るつもりですか。それともその杖に何か不満でもあるのですか?」


「い、いえ、とんでもないです! 私はただ・・・!!」


「ならば早く授業にお行きなさい。エマさんに恥をかかせないで。」


 マルグレーテは傲然とそう言い放ったイレーネの言葉にハッとした表情で頷き、三人に対して「ありがとうございました」と深々と頭を下げた。


 パタパタとその場を走り去る小さな背中を見送った後、エマは寮の食堂の裏手に出された昼食の残飯を入れる壺の中を覗き込み、根菜の煮物の中から古びた短杖を引っ張り出した。


 食べ物で汚れたその杖は半ばほどでぽきりと折れ、中に仕込んであった魔力の芯材が失われていた。エマは無詠唱で《洗浄》の魔法を使い、杖をきれいに清めた。






「イレーネちゃん、ありがとう。助かったよ。」


 イレーネは無言のまま厳しい表情で頷いた。エマの手にした短杖を見ながらミカエラが呟く。


「これは酷いですね。誰がこんなことを・・・。」


 ミカエラの呟きにイレーネが厳しい声で応じた。


「誰であれ、こんな卑劣な真似をする輩は絶対に許せませんわ。でも今は私たちも急いで授業に向かわなくては。エマさんは杖をどうしますの?」


 エマはえへへと笑いながら、それに答えた。


「杖なしでも多分大丈夫だよ! アンフィトリテ先生には怒られちゃうかもしれないけどね。」






 その後、三人は互いに杖の譲り合いをしながら午後の授業に駆け込んだ。


 エマたちに待ちぼうけを食らわされた挙句、ギリギリまで姿を見せなかった彼女たちを心配してやきもきしていたウルスとニコルは、三人の姿を見てホッと胸を撫でおろした。


 短杖を持ってこなかったエマは皆の前で講師のアンフィトリテから叱責を受けた。それを見た一部の生徒たちは嬉しそうな表情を浮かべ、あからさまな侮蔑と嘲笑の目線をエマに向けた。






 エマはアンフィトリテから理由を問われたが、自分を敵視する生徒たちが耳をそばだてているのに気が付いて何も答えなかった。マルグレーテの名前を出すことで彼女に迷惑がかかるかもしれないと思ったからだ。


 アンフィトリテは日頃と違う頑なエマの様子から何かを察したらしく、それ以上問い詰めることはしなかった。


 代わりに「杖なしで課題をこなしてごらんなさい。不合格ならば次の休日はありませんよ。それから最後にやってきた三人は授業の後、ここへ居残ること。いいですね?」とだけ言い渡した。


 エマは「ありがとうございます、先生」と言って頭を下げた。途端に周囲の生徒の一部からは不満げな嘆息や呟きが聞こえてきた。






 水魔法の実習が始まったが、ウルスとニコルもエマの様子を気遣いつつも、改めて訳を尋ねることはなかった。


 エマは何度か魔法の制御に失敗したものの、ミカエラやイレーネのサポートのおかげで、なんとか時間内に課題をこなすことができた。


 授業の後、エマたちとウルス、ニコルを含めた五人は、アンフィトリテに伴われて彼女の研究室に向かった。そこでエマはマルグレーテの杖を魔法の《収納》から取り出し、事の顛末を彼女に説明した。


 憂いを含んだ表情でその話を聞いたアンフィトリテは深く頷いた後、全員の顔をゆっくりと見回した。






「事情は分かりました。その杖は私が預かります。代わりの新しい杖をこちらで準備しておきますので、マルグレーテさんのことは安心してください。」


 ちらりと視線を向けた彼女にウルスが目だけで小さく頷く。それを確認した後、アンフィトリテは全員に言った。


「もう、気が付いていると思いますが今、校内では平民の新入生に対する誹謗や中傷、あからさまな無視など横行しています。」


 それを聞いてイレーネが膝の上に置いていた手をぎゅっと握りしめた。


「何という破廉恥な。貴族の矜持を汚す卑劣な行い。断じて許せません。」


 彼女の言葉に全員が深く頷く。アンフィトリテは目に怒りや憂慮の光を湛えた生徒たちに語り掛けた。






「今年の新入生の内、平民の生徒は全員がマルグレーテさんのような元貴族の生徒たちです。並みはずれた魔力を持ちながらも、時勢によって貴族で無くなってしまったが故に王立学校に通えなかった生徒たちなのですよ。」


 それを聞いたミカエラが軽く頷いた。


「立場としてはわたくしも同じですね。そのような行為をしているのはおそらく下級や中級貴族家の生徒たちでしょう。」


 ミカエラは一度言葉を切ってから言った。


「でもその気持ちも分かります。彼らにしてみれば、平民の生徒に将来の役職や結婚相手を奪われることになるかもしれないのですから。」


 イレーネは驚きの余り息を呑み、強い調子でミカエラに問いかけた。






「賤しくも貴族とあろうものが、そんな胡乱な理由だけで卑劣な行為に及んでいるというのですか?」


「いや、動機としては十分だイレーネ殿。貴族が誰しもあなたの様に清廉であるとは限らないのだから。」


 ウルスの言葉にイレーネは衝撃を受けたように眉を寄せた。王国を代表する大貴族家の令嬢である彼女にとって、それは到底容認できない考えだったからだ。


 アンフィトリテは慈しむような優しい目で、イレーネを見つめた。


「イレーネさんの驚きは私も理解できます。ただ王立学校はこれまでにない大きな変革を行おうとしている。大きな変化には大きな抵抗が伴うものです。」


 イレーネは眦を吊り上げてアンフィトリテの言葉に反論した。






「それは私も分かりますわ。ですがそれで平民の生徒を迫害してよい理由にはなりません。第一、王立学校を卒業したからというだけで、平民出身の生徒たちが役職や良縁を得られるわけがないではありませんか。」


 イレーネの言う通り、王国官吏の採用には能力よりも縁故の方が優先される。主要な官職は代々担当する家が決まっており、爵位と共に役職も引き継がれるのが一般的だ。


 また婚姻についても、いくら優秀だからと言って平民が貴族家に嫁ぐというのはあまり歓迎されていない。






 稀に子供に恵まれなかった貴族がしかたなく平民と婚姻したり、平民を見初めた貴族が側妾として迎えたりすることはある。しかしどちらにしても好奇の目で見られる行為であることに変わりない。


 将来的には王立学校を卒業した平民たちが貴族と同等に扱われることがあるかもしれない。しかし、それはうんと先の未来のことだろうとイレーネを含め、この場の全員が分かっていた。


 平民の卒業生は、今の段階では貴族の官吏の補佐役や研究者、魔導士など、あくまで官職の一部を担うに過ぎないのである。






 アンフィトリテはイレーネの言葉を肯定した。その上で生徒たち全員を見回して言った。


「冷静に考えればすぐに分かることですね。しかし人の感情は理屈では割り切れないというのも、また事実なのですよ。」


 そう言ってアンフィトリテに見つめられた生徒たちは、思うに任せない気持ちに悩む我が身を振り返り、思わず視線を下げた。


 特にイレーネはドキリと胸を衝かれるような思いを味わった。






 彼女はかつて平民のエマを恐れていた時期がある。ウルスとエマの距離が近づき、将来の正妃として自分の立場が脅かされるのではないかと危惧していたからだ。


 しかし彼女は自らエマに近づき、エマの真意を知ることでそれを乗り越えようとした。脅威だからと言ってエマを排除しようなどとは露ほどにも思わなかったのだ。


 そんな恥ずべきことをすればイレーネ自身の矜持をひどく傷つけることになると彼女は考えていた。だからこそ守るべき相手の平民に対して害意を持つ貴族たちが許せなかったのだ。






 アンフィトリテの言葉で、イレーネにもそんな貴族たちの気持ちが少しだけ理解できた。だが彼らを許すかどうかは別の問題だ。イレーネはアンフィトリテに言った。


「先生のおっしゃりたいことは分かりましたわ。ですが王国貴族の一員として、彼らの振る舞いは決して許容できません。」


 イレーネの言葉に生徒たち全員が頷く。アンフィトリテはにっこりと笑って彼らに言った。


「私は学長を通じて今回の件を国王陛下に上奏申し上げるつもりです。ですが王立学校は王家や貴族社会に対して中立不可侵が原則。陛下と言えどもおいそれと手を出すことはできないでしょう。」


「そんな・・・それじゃ、一体どうすればいいんですか先生?」


 問いかけたエマにアンフィトリテは答えた。






「これは理を説くだけでは決して解決しない問題です。生徒たちの気持ちを理解した上で、それをうまく誘導・制御して、貴族としてあるべき姿を尊重する流れを作っていく必要がありますね。」


 アンフィトリテの言葉にイレーネはニヤリと笑ってみせた。


「ええ、その通りですわ先生。ですから後はわたくしたちにお任せください。」


 訳が分からないという顔をしたエマ以外の生徒たちは、イレーネと目を合わせて深く頷いた。アンフィトリテはその様子を見て、満足げにため息を吐いた。


「ではこの話はこれで終わりです。さあ、お夕食に遅れないようにお帰りなさい。」


 皆はアンフィトリテに礼を言って彼女の研究室を出た。


「ねえねえ、さっきのどういうこと?」


 そう尋ねるエマにミカエラは「今日の夜、お部屋で説明するね」とだけ答えた。






 5人は研究棟を出ると中庭に面した渡り廊下を辿って寮の集まっている区画へと歩いて行った。


 やがて3年生の第五寮と2年生の第六寮の分かれ道に差し掛かった時、エマは渡り廊下の脇に立っている人影に気が付いた。


「あ、リンハルトくん!」


 エマに声を掛けられたリンハルト王子は、エマの声に目で軽く応じた後、ウルスとイレーネ、そしてミカエラにお辞儀をした。






「どうしたのだリンハルト。私に何か用か?」


「何でもありません、ウルス殿下。」


 ウルスの問いかけにリンハルトは淡々と答えた後、エマたちの姿をじっと見つめ、すぐに踵を返してその場から立ち去ろうとした。


「あっ、待って!」


 その声に足を止めたリンハルトに、彼を呼び止めたエマが近づいていく。






「私、西の方に用事があってね。学校が始まる前に魔法のホウキでラシー城塞に行ってきたんだ。」


「ラシー城塞・・・!?」


 背後から夕日に照らされたリンハルトの表情が僅かに陰る。だが逆光だったため、エマはそれに気が付かなかった。


「うん。その時にパウル殿下からリンハルトくんに伝言を頼まれたの。」


「・・・それで父上は私に何と?」


「えっとね、『母様を頼む』って伝えてくれとおっしゃって・・・きゃっ!?」


 怒りとも悲しみともつかない表情で顔を歪めたリンハルトに、エマは突き飛ばされてその場に仰向けに倒れ、激しくしりもちをついた。






「リンハルト様!?」


「何をする!! どういうつもりだリンハルト!!」


 ミカエラとウルスの上げた声に、リンハルトはハッと我に返ったように自分の両手とエマを見た。


「・・・すまない。」


 彼は呟くようにエマに謝罪すると、まるで風の如くその場から走り去っていった。


「大丈夫ですか、エマさん?」


「うん、私は大丈夫。何ともないよ。ありがとうニコルくん。」


 助け起こしてくれたニコルに礼を言いながらも、エマは走り去っていくリンハルトの姿から目を離せなかった。


 それは倒れた時の痛みを忘れてしまうほど、謝罪したリンハルトの瞳に痛々しい光が満ちていたからだった。






 真夏の夕陽が中庭を赤く照らしだす。5人の少年少女たちの影はその光の中に黒々と長く横たわっていた。


「リンハルト様・・いったどうして・・・?」


 エマと同様にリンハルトの瞳を見てしまったミカエラは彼の走り去っていった方を見ながら、小さく問いかけた。


 しかしその問いに答えるものはいない。ただ夕映えの中に吹き渡る風が彼女の彼女の言葉を攫っていくのみだ。


 その後、五人は言えぬ思いを抱いたまま、それぞれの寮へと帰った。


 重なり合っていた彼らの黒く伸びた影がバラバラに離れていく。やがてその影は夕闇に飲み込まれ、消えていったのだった。

読んでくださった方、ありがとうございました。

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