23 水の魔石集め
後半、流血表現があります。苦手な方はご注意ください。
翌朝、野営を終え出発した直後、マヴァールたち一行はついに魔獣の痕跡を発見した。
「これは、大泡蛙だな。かなり大きな群れだ。」
泡を含んだ特徴的な粘液が岩場に大量に残っている。おそらく昨夜までここに群れがいたのだろうと森林祭司は仲間たちに語った。そして同時に首を捻る。
「こんなに大きな群れになるまで放っておくなんて、この領の討伐隊は何やってたんだ?」
大泡蛙は大型の六足牛ほどもある巨大な肉食魔獣だ。棘のある長い舌で獲物を捕らえ、口に入る大きさのものなら何でも一飲みにしてしまう。
だが生息地が限られている上、積極的に人や家畜を襲うことは少ないため、比較的無害な魔獣だ。
ただ春から夏にかけての繁殖期には産卵のためにメスが大量の食糧を必要とするため行動範囲が広がり、人里でも被害が出ることがある。
そのため川や湖を持つ領では、領主の編成した討伐隊や依頼を受けた冒険者たちが雪解けと共に出現する大泡蛙を狩ることになっている。冬眠から目覚めたばかりの彼らは比較的倒しやすいからだ。
しかし目の前にある痕跡から見て、この近辺でそのような討伐が行われたとは到底思えない。いかに辺境の寒村とはいえ、領民に被害が出て安穏をしていられるとは思えないのだが・・・。
クベーレ村に若者がいなかったことと合わせ、マヴァールの心に不吉な影が差す。この領は何かがおかしい。
だが今は目の前の魔獣の討伐が優先だ。彼は仲間たちを振り返って言った。
「産卵の時期はもう少し先のはずだ。この気温ならまだ動きは鈍いだろう。できればもう少し寒い時期の方がよかったんだが・・・。まあ仕方ねえ。この近くにいるはずだから、斥候役のオスに勘付かれないよう、慎重に探索しよう。」
仲間たちはリーダーの言葉に頷き、間近に迫った戦いに向け各々の装備を点検し始めた。
粘液の痕跡を辿っていくと、岩場のあちこちに黒い塊が落ちているのを発見した。森林祭司が杖で慎重に塊を調べる。
「まだ新しい。今朝出したばかりの糞だな。」
黒い糞の塊はエマの体ほどの大きさがある。糞の中にはドロドロに溶かされた動物や鳥、巨大な昆虫型魔獣などの死骸が残っていた。
青い顔をしてそれらを見つめるゼルマとは対照的に、エマは興味深げにそれを一つ一つ《鑑定》と《分析》の魔法を使って確かめていった。
有用な素材は残っていなかったが、糞全体が大地の恵みの成分を程よく含んでいる。人間には害にしかならない魔獣が大地を豊かにする役割を持っていることが分かり、エマはなぜかとても嬉しい気持ちになった。
ガブリエラがいつも口にしていた「錬金術の目的はこの世のすべてを知ること」という言葉の持つ意味が、少しだけ分かった気がした。
糞を調べ終えた後、エマは立ち上がって呟いた。
「この糞、あんまり臭わない。」
それを聞きつけた森林祭司がにっこりと笑って彼女にその理由を教えてくれた。
「泡の元になる消化液のせいだな。外敵に居場所を悟られないように糞の匂いを出来るだけ消しているんだ。」
「なるほどー。魔獣も結構大変なんですね。」
大泡蛙はその名の通り、粘着性の強い泡を吐き出して獲物の動きを止めたり身を守ったりするのだと、祭司はエマに説明してくれた。エマが祭司と目を合わせて微笑みあう。
エマが彼に「ありがとうございます。もっといろいろ教えてください」と言うと、無口な祭司はエマの頭にその分厚い手を置き、ポンポンと優しく撫でた。
二人の話を聞いていたグスタフが「外敵・・・」と呟いた後、青い顔でマヴァールに尋ねた。
「あのー、マヴァールさん? 蛙につられてまたデカい奴が出るってことは・・・ないですよね?」
その言葉にロウレアナを除く大人たちが一斉に凍り付く。
「・・・あいつだな。」
「ああ、あいつだ。」
「あいつって?」
エマが祭司に尋ねると、彼は苦いものを口にしたような表情で彼女の問いかけに答えた。
「多頭蛇だよ。あいつら大泡蛙が大好物なんだ。」
多頭蛇は淡水の水辺に生息する魔獣だ。その大きさはまちまちだが、最も小さい個体でも大型馬車以上の大きさがある。言い伝えでは城ほどもある巨大な個体がいたこともあるという。
その名の通り6つから9つの蛇頭を持っており、強力な個体ほど頭の数が多くなる。蛇という名前にも関わらず胴体には水掻きのついた4本の足があり、長い尻尾を使って器用に水の中を泳ぐことができるのだ。
また彼らの牙には小さな動物であれば触れただけで心臓が止まって死んでしまうほどの強力な麻痺毒がある。それを使って獲物を狩るのだ。彼らは動くものなら何でも捕えて喰らう貪欲な捕食者。水辺で遭遇したら人間など一たまりもなく飲み込まれてしまう。
刃を弾くほどの硬い鱗を持ち、魔法に対する耐性も高いという強力な魔獣だが、何よりも脅威なのは彼らの再生能力だ。彼らはどんなに切り刻んだとしても、胴体の奥に潜む魔石を取り出さない限り何度でも再生し続ける。
それを防ぐには酸や炎などで傷口を焼いてしまうか、魔法や魔力を持った武器を使って傷つけるしかないのだ。
幸いなことに個体数が少ないので滅多に遭遇することはない。しかし好物である大泡蛙を追って極稀に人里付近に出現することがある。そうなってしまえば被害は甚大。小さな集落であればあっという間に壊滅してしまう。
領主たちが討伐隊を編成し積極的に大泡蛙を討伐しているのは、多頭蛇を人里に近づけないようにするためという側面もあるのだ。
森林祭司の説明が終わるとすぐに、大人の冒険者たちは自分の武器を逆さに持ち、地面をトントンと叩きはじめた。
「?? なんですか、それ?」
首を捻るエマとゼルマにマヴァールが説明した。
「悪運除けのまじないさ。冒険中はどういうわけか、嫌な話をした後にそれが現実になることが多いんだ。そういう時はこうやっておくとそれを防げる。」
「マジっすか!? すごいっすね!」
驚きの声を上げ、すぐに新調したばかりの片手剣で地面を叩くグスタフに、短刀使いの男が言った。
「まあ、ただの気休めなんだけどな。だが魔獣相手に命のやりとりするんだから、出来ることは全部やっといた方がいい。」
困惑した顔で「えぇ、なんスかそれ」と呟くグスタフを見て、エマとゼルマは笑った。二人も大人たちの真似をしてそれぞれの武器で地面を叩き始める。
マヴァールは微笑ましい気持ちでその様子を見ながら「気休めでもなんでもやらないよりはいいぞ」とグスタフに声を掛けた。そしてそれに続く「仲間を亡くしたら悔やんでも悔やみきれねえから」という言葉を飲み込んだ。
そうならないようにするのは見習いたちを導く大人であり、リーダーである自分の仕事だ。
今はまだ、あえて言う必要はないだろう。悲惨な別れはいつか突然に、そして確実に彼らの元へやってくるのだから。
素直に「分かりましたっス!」と返事をし武器で地面を叩くグスタフに背を向けると、マヴァールは両拳にぐっと力を込め、粘液の残る岩場を睨みつけた。
その後、魔獣の痕跡を辿って慎重に遡上を続ける彼らに、最後尾を歩いていたロウレアナが声を掛けた。
「川の精霊たちがこの先に魔獣がいるって言っているわ。」
「そんなことも分かるのですか!」
思わず声を上げた後、「失礼しました」と慌てて口を閉じたゼルマにロウレアナは優しく笑いかけた。
「水辺ならある程度はね。」
彼女がそう言いながら右手の人差し指を立てると、空中に青い光を放つ水滴のような球体が無数に現れた。球体は彼女の体の周囲をクルクルと飛び回る。その様子を見てまるで親猫にじゃれつく子猫のようだとゼルマは思った。
「すごく喜んでるでしょう? 水の精霊たちはここに来てからとても機嫌がいいの。」
青い球体を見て口をぽかんと開けたゼルマとエマに、彼女は言った。彼女はこの探索が始まった直後からずっと、普段は水袋に入れて持ち歩いている守護精霊たちを解き放ったままにしていた。
そのため彼女をいつも守ってくれている小精霊たちだけでなく、彼女と縁を結んだ清流の乙女もこの地の精霊たちと楽しそうに交流している。おかげで彼女はいつもよりも遥かに広い範囲の魔獣の動きを知ることができるのだ。
「あの岩陰に泡蛙がいると、精霊たちが言っているわ。」
ロウレアナの言葉に従い、彼らは慎重に岩場を移動していく。すると彼女の言う通り、岩陰にフワフワと泡が浮いているのが見えた。透き通った泡の中には緑色の小さな蛙が入っている。
泡の大きさは小ぶりなカボチャ程。そして中に入っている蛙は、エマの握りこぶしよりも小さい。
「(あれが泡蛙ですか? 随分小さいっすね。)」
「(あれは斥候役のオスだ。あいつに気付かれると厄介なことになる。)」
小声で呟くグスタフに、先頭を行く祭司が振り返って説明した。
大泡蛙はオスとメスで体の大きさが極端に違う。小さなオスは巨大なメスの作る泡の中で守られながら生活するのだ。メス一匹に対して数百匹のオスが集まることで、彼らの群れは出来ている。
オスの役割はメスを守ることだ。彼らは空中に浮かぶ泡を操り、縄張り内を浮遊しながら外敵の接近を警戒する。外敵を発見した場合、鳴き声を上げてそれを群れ全体に知らせる。
オスたちは外敵を取り囲むと、粘着性のある泡で相手の体に取り付き、自ら体を破裂させる。彼らの体には致死性の猛毒が含まれているのだ。この毒は人間なら僅かに吸い込んだだけでも即座に死んでしまうほど強力なものだ。
オスたちは自らを犠牲にすることで群れを守っているのである。
「(ロウレアナ、他にオスたちがいる場所が分かるか?)」
マヴァールの問いかけに、ロウレアナはその長い耳をぴくぴくと動かした。
「(私たちの進路上だと、あそことあそこにいるわ。)」
ロウレアナはかなり離れた場所にある岩を指さした。エマは目を凝らしてみたが、泡などどこにも見つけられなかった。だがマヴァールは彼女の言葉を疑うことなく、仲間に指示を出した。
「(オス蛙を始末しながらメスに近づこう。エマの魔法で奇襲できる位置まで接近するんだ。)」
仲間たちはそれに頷き、隊列を整える。エマが《消音》、森林祭司が《草隠れ》の魔法を使って仲間の気配を消した。
たちまち周囲の音が聞こえなくなると同時に、幻の岩や灌木によって彼らの姿が周囲の風景に溶け込んで見えにくくなった。これで敵から発見される可能性はかなり低くなったはず。
姿を隠すだけならエマの《不可視化》の方が確実だが、それだと互いの姿も確認できなくなってしまう。連携して行動する必要があるこの場面でそんなことになったら困る。
だから今は完全に姿を消すことは出来なくても、味方同士で視認し合える森林祭司の《草隠れ》の方がずっと役に立つ。それに激しく動けば効果がなくなってしまう《不可視化》と違い、《草隠れ》は戦闘中でも有効なのだ。
屋外でしか使えないという欠点はあるものの、敵の攻撃の命中率を下げ、生死を分ける一撃を避ける可能性が高くなるのは、今後の展開を考えれば最善の選択だといえる。
魔法の効果を確認した後、彼らはロウレアナと短刀使いの男を先頭にそろそろと移動して風下に回り込んだ。ロウレアナは手指暗号を使って短刀使いに敵の位置を知らせた後、愛用の弓を構えた。
目で合図をし合った直後、ロウレアナの弓と短刀使いの投石器から同時に攻撃が放たれた。矢と小石が空中に浮かぶ泡を正確に捉え、目標となった2体のオス蛙を粉砕する。
放たれた矢と石が岩場に当たって音を立てたが、他のオス蛙に気付かれることはなかった。もちろんそうならないように、ロウレアナがあらかじめ慎重に目標を見定めていたおかげだ。
彼らはオス蛙たちに警戒しながら素早く前進した。矢と石の攻撃でオス蛙たちを粉砕しながら進む。やがてロウレアナが手で仲間たちを制し、ゆっくりと首を振った。これ以上気付かれないように攻撃することはできないという合図だ。
ロウレアナの合図に従って、エマがやや高くなった岩場から下を流れる渓流を見下ろすと、谷底全体に無数のオス蛙が浮かんでいるのが見えた。そしてその中心には小山の様に巨大な蛙たちの姿が見える。地味な茶色をしたあの大蛙がメスに違いない。
彼らは打ち合わせていた通り、ロウレアナの元に集まった。仲間がそろったのを確認したエマが《消音》の魔法を解除する。
「(でっか! それにすげえ数ですよ! あれを全部倒すんですか?)」
「(狙うのは基本メスだけだが・・・11体か。想像以上にでかい群れだ。エマ、ここからやれるか?)」
「(大丈夫です。風の魔法は射程が長いですから。でもこの数だとさすがに一撃で全部は無理ですよ?)」
「(メスが何匹か死んだら、他のメスたちは逃げ出すはずだ。ロウレアナ、頼む。)」
マヴァールの言葉に従い、エマとロウレアナが同時に詠唱を開始した。魔力の動く気配に気づいたオス蛙たちがフワフワと漂いながらこちらに移動し始める。
「来るぞ! 二人に近づけさせるな!」
長柄の片手剣を両手に握って飛び出したマヴァールに、他の仲間たちが続く。
「清らかなる水の乙女よ。その清き流れを我らの身に宿し、悪しきものから我らを遠ざけよ。《水乙女の羽衣》」
ロウレアナの詠唱と共に空中に現れた清流の乙女が、水で出来た長い髪を翻して仲間たちの間を舞い飛んだ。水で出来た薄い膜が優しく彼らの体を覆っていく。有害な毒の攻撃を弱める上位精霊魔法だ。
「すっげえ!!」
「毒の効果を薄めるだけよ。ドーラ様の《耐火》や《毒除け》みたいに完全に防げるわけじゃない。気を付けて!」
嬉しそうな声を上げて自分の体を見たグスタフに、ロウレアナが鋭い声で警告した。詠唱が終わると同時に彼女は弓を使って、こちらに接近してくるオス蛙たちを射落としていく。
仲間を攻撃されたと知ったオス蛙の体色が緑色から毒々しい紫色に変化した。彼らはけたたましい警戒の鳴き声を上げながら、マヴァールたちに迫った。
「おらぁ!!」
戦斧の男が愛用の武器を大きく薙ぎ払うたび、彼の周囲にいたオス蛙たちがまとめて粉砕され、吹き飛んでいく。オス蛙を包む泡が弾け、毒液が周囲に細かい霧となって飛び散るが、ロウレアナの魔法がそれを防いだ。
「ゼルマ! グスタフ! 取り付かれるなよ! 距離を取れ!!」
「はい!」
「了解っす!」
投石器を振るいながら叫んだ短刀使いの言葉に二人は元気よく応じた。ゼルマは槍を大きく振るい、グスタフは河原の石を投げてオス蛙たちを寄せ付けないように立ち回る。
機敏に動き回る二人の背後で、ゴッという音と共に魔力風が巻き起こった。同時にそれを引き起こしたエマの体が昼の光の中でもはっきりと分かるほど、強い紫色の光を放つ。
「世界を渡る大いなる風よ。我が力によりてその内に秘めし暴威を解放せよ。大空を翔る疾き風の翼よ。我が呼びかけに応えてここに集え。我が望むは討滅。触れること叶わぬ雷の刃にて我に仇なすすべての者を打ち払え! 皆、伏せて!!」
長い詠唱を終えたエマが仲間たちに叫んだ。仲間たちが安全な岩陰に身を潜めるのを確認した彼女は、最後の起動呪文を唱え、極限まで高まった魔力を一気に解放した。
「吹き荒れよ暴虐の風!《暴風の雷》!!」
エマのから放たれた紫色の光が渦を巻きながら蛙の群れの中央付近に移動していく。光の渦は周囲の空気を巻き込んで、見る見る間に巨大な竜巻へと変化した。
周囲に漂っていたオス蛙たちは次々と竜巻に吸い込まれ、風の力にすりつぶされて弾け飛んだ。蛙たちを巻き込みながら巨大な竜巻が渦の中心に向かって急速に収縮していく。
渦が天に立ち上る細い風の柱の様になったと思った次の瞬間、竜巻は凄まじい雷撃を周囲に撒き散らしながら一気に拡散した。雷光が閃き、稲妻が大地を走る。
魔力によって生み出された雷撃の直撃を受けたメス蛙はその身を焼き尽くされ、瞬時に絶命した。運よく直撃を免れたメス蛙たちも大きなダメージを受けた。
生き残った6匹のメス蛙たちのうち、3匹は無事だったオスたちを連れて渓流の奥へと逃げていく。しかし体の大きな3匹は怒りの声を上げ、猛然とエマの方へ向かって谷の斜面を登り始めた。
「来るぞ!」
巨大な蛙たちは驚くほどの跳躍力で一気に彼らのいる場所まで飛び上がってきた。マヴァールたちが武器を振るい蛙たちを迎撃し始めるが、俊敏な蛙たちに苦戦する。
「エマ様、大丈夫ですか!?」
ゼルマがエマに駆け寄るが、エマはまだ蹲ったまま動けずにいた。大魔法行使後特有の高揚感と恍惚感で意識が朦朧とする。間もなく魔力枯渇による頭痛が襲ってくるはずだ。
森林祭司が風魔法の魔力消費を軽減する神聖魔法《天地の恵み:風》で補助してくれていたおかげで、かろうじて気絶せずにすんでいるという状態だ。出来るだけ多くの蛙を巻き込むため、魔法の効果範囲を拡大しすぎたのが原因だった。
エマは渾身の力を振り絞って魔力回復薬に手を伸ばしたが指が震え、腰のベルトに付けた道具袋からうまく取り出せない。それを察したゼルマがエマの代わりに上級魔力回復薬を取り出し、エマに差し出した。
エマはそれを受取ろうとしたが指に力が入らない。視界がぐるぐると回り周囲の音と光が遠くなっていく。
「ゼルマ、そっちに行ったぞ!!」
マヴァールの声に振り返ると、エマとゼルマに向かってメス蛙の一匹が接近してきていた。マヴァールたちは二匹の蛙を押さえるので精一杯。ロウレアナが弓で蛙を牽制するが、固い表皮に防がれてほとんど効果がなかった。
「エマ様!? しっかりしてください、エマ様!!」
エマは意識を失いかけている。このままでは・・・!!
ゼルマは刹那の逡巡の後、魔力回復薬を自分の口に含むとそれを口移しでエマの口に吹き込んだ。最初は勢いよく吹き込み過ぎて鼻から溢れさせてしまったが、エマの鼻を摘まんで上を向かせることでようやくエマに薬を飲み下させることができた。
「げほっ、ごほっ!!」
鼻に薬が入ったことで、エマは激しく咳き込んだ。
「エマ様、すみません! 大丈夫ですか!?」
「ありがどう、ゼルマぢゃん。」
涙と鼻水を流しながらエマはゼルマに礼を言った。回復薬が効果を現し、エマの意識が少しずつはっきりし始める。
まだ動けないエマを背中に庇い、ゼルマは槍を構えて後ろを振り返った。蛙はすでに20歩ほどの位置まで近づいてきている。轟音と共に迫ってくる巨体にゼルマの体が震える。
見上げるほど大きな捕食者の姿に、彼女の生存本能が全力で警鐘を鳴らす。逃げ出したいという気持ちが溢れ、思わず視線をそらしてしまいそうだ。しかし彼女はぐっと歯を食いしばり、槍の穂先を蛙に向けた。
メス蛙は一気に距離を詰めようと、後ろ脚にぐっと力を込めた。だが直後、戦場に響いた声によりその動きは止められた。
「絡みつき捕えよ! 《戒めの茨》!!」
森林祭司が両手に持った杖で大地をトンと突くと、メス蛙の足元から魔法の茨が出現しその巨体に絡みついた。茨の棘で身動きを封じられた蛙が苦悶の叫びを上げる。
「カエル野郎! これでも喰らえ!!」
前衛からこの蛙を追って応援に駆け付けたグスタフが、片手剣を横矯めに構えて突進する。彼の剣は蛙の背中に深々と突き立った。しかし蛙が痛みの余りに激しく暴れたため、彼は剣を持ったまま弾き飛ばされてしまった。
グスタフは岩に叩きつけられ悲鳴を上げたが、すぐに立ち上がり再び蛙に向かって突進した。すると蛙は長い舌を伸ばし、接近してくる彼めがけてそれを振り下ろした。
先の膨らんだ蛙の舌は破城槌の一撃の様にグスタフを打ち据える。だが彼はその一撃を小型盾で逸らすことでかろうじて回避した。盾を持つ彼の左腕からぼきりと嫌な音が響く。
大きく姿勢を崩すグスタフを援護しようと、ゼルマが飛び出した。
「バカ! お前は動くな!!」
だらんと左腕を下げたままグスタフが怒鳴る。ゼルマはすぐに足を止めた。彼女の後ろではようやくエマが起き上がり、その場を離れようとしていた。彼女は再び槍を構え、エマを庇いながら少しずつ後退しはじめた。
「俺が相手だ、カエル野郎!!」
蛙の正面に回り込んだグスタフは右手だけで剣を振るった。棘のある舌の鋭い動きを躱しながら懸命に蛙に切りつけるが、動かない左腕を庇いつつ不自然な体制で繰り出す攻撃では固い表皮をわずかに傷つけるのが精一杯だった。
蛙はすぐに彼の不自然な動きに気が付いた。左側から執拗に連続攻撃を仕掛けてくる。ついに彼は剣を弾き飛ばされ、次第に追い詰められていった。
「うひいいぃ!!」
蛙の舌がグスタフを捉えた。ぐんと体を持ち上げられ、頭を下にして彼は宙を舞った。メス蛙はようやく捕らえた獲物を飲み込もうと大きく口を開いた。口の中にずらりと並んだ棘状の牙を見て、グスタフは情けない悲鳴を上げた。
「やああぁ!!」
気合の声と共に、光の軌跡を描いて閃いた槍の穂先が蛙の舌を切断し、グスタフは地面に落ちた。左腕の激痛を堪えて彼はすぐに立ち上がった。
「助かったぜ、ゼルマ!」
グスタフは飛ばされた剣を拾い、ゼルマの隣に立った。エマはすでに蛙の攻撃範囲から離れた場所まで後退していた。エマを離脱させることに成功した二人は、連携しながら蛙を攻撃し始めた。
茨で動きを封じられ、舌を切断された蛙は最後の悪あがきとばかりに二人に嚙みついてくる。しかし二手に分かれて攻撃・退避を繰り返す二人に翻弄され、捕らえることはできなかった。
蛙はすでにかなり弱っている。とどめを刺そうとゼルマは槍を大きく振りかぶった。しかし蛙はそれを待ち構えていたかのように、口から大量の泡を吐きだした。大泡蛙の代名詞ともいえる攻撃、泡の息だ。
「きゃああぁ!!」
「ゼルマ!!」
蛙の体を覆った粘着性の高い泡に捕らえられ、ゼルマは身動きが取れなくなってしまった。彼女は四肢を地面に付けた状態で藻掻いている。完全に無防備な状態だ。
彼女を守るため、すぐに蛙の牙の前に割り込んだグスタフだったが、倒れたゼルマと絡み合ってしまった。
「おわっ!! やべえ! くっついて取れねえ!!」
ゼルマと背中合わせに密着した状態で動けないグスタフに蛙の牙が迫る。彼はかろうじて泡に捕まらなかった右手をでたらめに振り回した。片手剣で柔らかい口内を傷つけられ、蛙は怒りの声を上げた。
「クッソ! このデカブツめ!! くたばれ、くたばりやがれ!!」
グスタフがそう叫んだ次の瞬間、大きく開いた蛙の顎が彼の上半身を捉えた。棘状の鋭い牙がグスタフの革鎧を貫き、鮮血が彼の周囲の泡の表面を赤く染める。
ぎしりという音で目を上げたゼルマが見たのは、だらりと動きを止めた彼の体を嚙みちぎろうと顎に力を込める蛙の姿だった。
「グスタフ!!」
降り注ぐ彼の鮮血を浴びながら、彼女は自分の持っているすべての魔力を無我夢中で解き放った。彼女の持つ火の魔力が巻き起こした炎によって、粘着性の高い泡が一気に燃え上がる。
突然顔の前で沸き上がった炎に驚いてメス蛙が口を大きく開いたことで、気を失った二人は離れたところに跳ね飛ばされ、一緒に岩の上を転がった。
茨の拘束を抜け出した蛙が二人を追うため、のそりと体の向きを変えた。
「貫け!《雷鳴の槍》!!!」
ようやく魔法を使えるだけ回復したエマは、魔力の消費を考えることなく詠唱を短縮し、全力で魔法を放った。雷撃によって貫かれたメス蛙は体をぶるっと大きく震わせた後、仰向けに倒れて絶命した。
エマは全身の痛みと激しい倦怠感に耐えながら二人に駆け寄った。二人の姿を見たエマは叫び声を上げそうになり、咄嗟に両手で口を押えた。
ゼルマは軽い火傷を負っているだけだ。それに対してグスタフの傷は惨たらしい有様だった。
彼の革鎧には無数の穴が開き、鋭い刃物で上半身をめった刺しにされたようになっている。彼は左手をあらぬ方向に曲げたまま、力なく横たわっていた。
エマは震える手でありったけの上級回復薬を取り出し、二人の体に振りかけた。ドーラの作った魔法薬の効果によって二人の傷が瞬く間に癒えていく。
程なくゼルマは意識を取り戻した。しかし傷が消えたにもかかわらず、グスタフはピクリともしない。エマはすぐにグスタフの顔に耳を近づけた。
「息をしてない!!」
エマとゼルマは必死で彼の名を呼びながら、彼の体を揺り動かした。しかし彼は何の反応も示さなかった。
「どけ!」
駆け付けた森林祭司が乱暴にエマを押しのけた。祭司は仰向けになったグスタフの顎を上に向けさせると、彼の胸を革鎧の上から一定の調子で押し始めた。
しばらく押していると、グスタフは口からどろりとした血の塊を吐きだした。エマは彼の心臓が飛び出してきたのかと思い、悲鳴を上げた。
祭司は自分の服の袖でグスタフの血まみれの口を拭った。そしてゼルマに「思い切り胸を押せ!」と命じると、自分はグスタフの鼻を摘まんで、彼の口から大きく息を吹き込んだ。
ゼルマには革鎧越しにグスタフの胸が膨らむのがはっきりと分かった。彼女はさっき祭司がしていたように一定の調子で、渾身の力を込めて彼の胸を押した。
「いいぞ! その調子だ!」
祭司が息を吹き込み、ゼルマが押す。それを繰り返すうちに、他のメス蛙たちを討伐し終えたマヴァールたちが彼らの元へ駆けつけた。仲間たちは祈るような気持ちで祭司とグスタフを見つめた。
何度目かに祭司が息を吹き込んだ時、グスタフがゆっくりと目を開けた。彼はぼんやりしていたが、自分と口づけしている祭司の髭面に気付いて、ばたばたと右手と足を動かした。
祭司が口を離すと、グスタフは激しく咳き込み始めた。
「ぷはっ!! げほっげほっ!!」
「グスタフ!!」
涙ながらに彼の体に取りすがるエマとゼルマ。グスタフは朦朧としながら、小さく呟いた。
「・・・うっげえ。何・・するんスか。俺・・初めて・・なのに・・・。」
それを聞いた仲間たちがホッと胸を撫でおろす。
「そんだけ憎まれ口が聞けるんなら、もう大丈夫だろう。」
祭司は立ち上がって荷物袋から水袋を取り出すと、グスタフの血で汚れた自分の口をきれいに洗い、何度もうがいをした。涙を拭ったエマとゼルマがグスタフの顔を覗き込む。傷は塞がり、もう残ってはいないが、顔色は蒼白だ。
「グスタフ、大丈夫!?」
「・・・なんかめっちゃダルい。」
その言葉を口にした直後、グスタフは再び意識を失った。
慌てる二人をマヴァールが冷静に押しとどめる。
「血を流し過ぎたせいだ。分かるだろう?」
二人はハッとして、顔を見合わせた。回復薬は傷を瞬時に塞いでくれるが、失った血を取り戻す効果はない。薬が体に浸透すれば次第に回復してくるが、それには時間がかかるのだ。
回復薬を扱う上では基本中の基本ともいえることを、すっかり失念していた。冷静さを欠いていたことを自覚し、二人は同時にはあっと溜息を吐いた。
「「うっ・・・!!」」
直後、二人は同時に口を押えて立ち上がると、それぞれ別々の岩陰に飛び込んで胃の中のものをすべて吐き出した。吐くものがなくなっても、胃が捩れるような吐き気と激しい頭痛は収まらない。
ホッとして緊張が解けたせいで、重度の魔力枯渇症状が一気に襲ってきたのだ。二人は這うようにして仲間の元へ戻り、ロウレアナが差し出してくれた上級魔力回復薬を飲み干した。
ドーラがエマのためにとせっせと作った回復薬の甘い蜂蜜の味が二人の体を癒してくれる。魔力が回復し始めたせいで、二人は強い眠気に襲われた。
「お前たちは少し休め。どうせグスタフも動かせないしな。後始末は俺たちが出来るだけやっておく。」
マヴァールがふらつくエマたちにそう言った。戦闘は終わったのだ。
エマは朦朧とする意識のまま太陽を見上げた。かなり長い時間戦っていたように感じていたけれど、太陽の位置はほとんど変わっていない。
濃密な時間が平常に戻って行くのを感じ、エマの体から自然と力が抜けていく。
大人たちはぐったりして動けなくなった見習い三人を安全な岩棚に運び、川の字に寝かせた。
見張り役のロウレアナと、三人の容態を見るために残った森林祭司に見守られながら、エマたちは深い眠りに落ちていったのだった。
読んでくださった方、ありがとうございました。