12 乱心 前編
予定が狂って前後編になってしまいました。後編は年明けになります。皆様よいお年をお迎えください。
ドーラが歓楽街でイゾルデたちと話し合いをしている頃、エマはゼルマと共に騎士クラスの格闘演習場で訓練に汗を流していた。
午前中にあった風属性魔法についての授業を終えた後、自分の研究室である無属性魔法研究室に向かったエマだったが、主任であるゴルツ学長が魔術師ギルドとの話し合いのため王城に行ってしまったので、することがなくなってしまったのだ。
そこで技能クラスの授業を終えたゼルマと一緒に剣術の稽古をすることにしたのである。まだ新学期が始まった直後であるため、騎士クラスの生徒たちもほとんど姿を見せていない。
人気の少ない演習場の隅で二人は、懸命に練習用の短剣と槍を振るい合った。1年の終わりごろまで、魔法を含まない二人の力量はほとんど拮抗していたが、今ではゼルマの方が体のキレや技の鋭さで勝ってきている。
ゼルマの鋭い槍で転ばされて一本取られた後、エマはゼルマに休憩を申し入れた。春の半ばとはいえ、明るい日差しの中でずっと動き回っていたため、二人とも汗みどろになっている。二人は近くにある休憩用の簡易東屋に移動した。
エマは用意しておいた二人分の水筒の水を《冷却》の魔法で冷やしてから、一つをゼルマに差し出した。礼を言って彼女はその水を美味しそうに飲む。それを見てからエマも水筒の水をごくりと飲んだ。冷たい水が体に染み入り、ホッと体の力が抜ける。
二人してふうっと同時に息を吐き、目を合わせてにっこりと微笑みあった。エマはゼルマに話しかけた。
「そう言えばゼルマちゃんは今年の剣術大会に出たんでしょう。結果はどうだったの?」
王立学校の剣術大会は秋の最後の週に行われる。長い歴史のある伝統行事で、王立学校の生徒であれば誰でも参加することができる。エマは秋の季末試験を終えた直後にハウル村に帰ったため、その結果を知らなかった。
「4回戦で5年生の騎士クラスの男子生徒と当たって負けてしまいました。」
「じゃあ3回は勝ち抜いたんだね。すごいじゃない!」
「カール様とエマ様のおかげです。体術が向上し魔力の総量が上がったことで、以前とは比べ物にならないくらい戦えるようになりました。」
魔力の低いゼルマは魔力格闘術を十分に使いこなすことができない。しかしカールに少ない魔力で効率的に戦う術と魔力に頼らない身のこなしを学んだことで、かなり善戦できたという。
「父や兄からもかなり褒められたんですよ」と嬉しそうに笑った。
剣術大会には衛士隊の中隊長を務める彼女の父と兄たちも応援に駆けつけてくれたそうだ。エマはゼルマに戦いの様子を聞きながら、生き生きとした表情の彼女をとても素敵だと感じた。
ちなみに剣術大会の優勝者はリンハルト王子だった。神速の抜刀術でほとんどの試合を一本勝ちで終わらせたらしい。
楽しいおしゃべりを終え、そろそろまた次の組み手を始めようかとした時、エマたちのいる練習場の方へ数人の男子たちが近づいてくるのが見えた。
ゼルマの表情がさっと強張るのを見て、エマは小声で彼らのことを彼女に問いかけた。彼女は男子生徒たちから目を離さないまま「3回戦で私が負かした相手です」と短く呟いた。エマはゼルマから彼らの素性について簡単に説明してもらった。
男子生徒たちは練習場の出口を塞ぐように広がりながら近づいてくる。襟に赤い布が付いているから全員4年生だ。数は6人。その中でも真ん中を歩いている男子生徒は群を抜いて大きな体つきをしている。
彼らはみな一様に嫌な感じの笑みを浮かべてエマたちを見つめている。エマは何とも言えない怖気を感じ、ゼルマの方を見た。ゼルマは奥歯を固く噛みしめ、エマを庇うように彼女の前に進み出た。
真ん中にいた一番体格の良い生徒が、ゼルマに声をかけてきた。
「ゼルマ・ヴァイカード殿。よかったら私とお手合わせ願えないかな?」
慇懃な、しかし尊大さが滲み出ている態度で彼はゼルマに手を差し伸べた。ゼルマは練習用の木槍を握る手にぎゅっと力を込めながら、落ち着いた声でそれに応えた。
「せっかくのお誘いですが私は聴講生ですので、騎士クラスの皆様と手合わせするにはヴォルカノス先生の許可が必要になります。申し訳ありません。」
丁寧に謝罪の言葉を述べるゼルマ。しかしその目が一瞬の隙もなく周囲の警戒を続けていることに、エマは気が付いた。木短剣を握るエマの手が汗でじっとりと湿っていく。
「ピッツ子爵家の嫡男ヒジリス殿からの申し出を断るとは、なんという無礼な!」
大柄な生徒の後ろに隠れるように立っていた細い体つきの男子が、甲高い声を上げた。ゼルマによると彼が彼女の3回戦の相手だったという。試合ではゼルマの素早い動きに終始翻弄され、ゼルマに一太刀も当てることなく敗退したそうだ。
ゼルマはそれを無視し、彼らに軽く頭を下げるとエマの手を掴んで練習場を出ようと歩を進めた。甲高い声を上げた男子が怒りで顔を赤黒く染める。周囲の男子たちの雰囲気も一気に剣呑なものに変わった。
彼らはゼルマたちの行く手を塞ぐように移動し始めた。その時、それまで動かずにいたヒジリスがゼルマの方に向き直り、差し伸べた手をゆっくりと降ろしながら彼女に言った。
「そう硬く考えずともよいのではないかな。正式な立合ではなく、あくまで訓練の一環だよゼルマ殿。何なら武器を持たず、体術のみで打ち合ってもよい。」
口調はゆっくりとしているが、彼の拳は白くなるほど握りしめられていた。仲間の前で自分の申し出を断ったゼルマに対する怒りの激しさが感じられる。エマはゼルマのことが心配で堪らなくなり、彼女の横顔を見つめながら彼女の手を握る右手に力を込めた。
ゼルマは何も言わずに彼を見返していたが、視線を逸らし軽く頭を下げるとそのまま訓練場を出ようとした。しかし。
「私の立場も考えていただけると、嬉しいのだがね。」
ヒジリスのその言葉にゼルマはビクッと体を固くして立ち止まった。ゼルマの実家は王都の警備を担当する小さな男爵家。一方、ヒジリスの実家であるピッツ子爵家は何代にも渡って魔法騎士を輩出してきた武門の名家だ。
王立学校内での生徒同士の立場は平等とされているが、一歩外に出れば厳然とした身分差がそこにある。ピッツ家が動けば、彼女の父や兄が官職を失うことだって十分にありうるのだ。
ゼルマはぎりっと音がするほど奥歯を噛みしめた後、エマを後ろに庇うようにしながらゆっくりと答礼した。
「分かりました。ではあくまで訓練ということでお受けいたします。」
ゼルマの答えを聞いた瞬間、男子生徒たちの目に残忍な光が宿る。
「物分かりがよくて助かる。では互いに武器を持たず打ち合うとしよう。先に2本取った方が勝利。『参った』と声を上げるか、場外に出ても負けだ。訓練なので寸止め(相手に打撃を加える際に寸前で止める、あるいは力を込めない打撃を加えること)が基本だが、多少は勢いがついてしまうかもしれない。それでもよろしいかな?」
ゼルマが「それで構いません」と言うとヒジリスは口の端を歪め、彼女の引き締まった体を舐めるように見ながら言った。
「ではあちらの格闘場に移動しよう。」
エマはゼルマが心配で仕方がなかった。男子生徒に取り囲まれるようにして歩きながら、ゼルマに小声で囁く。
「ゼルマちゃん、本当に大丈夫?」
「ご心配には及びません。ただの訓練なのですから。それに体術のみの戦いであれば、そうそう後れを取ることはありませんよ。安心して見守っていてください。」
ゼルマは少し青い顔で微笑み返しながら更に言った。
「ある程度、打ち合ったら降参します。相手もそれで満足するはずですから。エマ様はくれぐれも手出しをなさらないでくださいね。」
「で、でも・・・!!」
抗議しようとするエマに、ゼルマはきっぱりとした態度で頭を振った。
「ピッツ家は中級貴族。王立学校内であれ平民のエマ様が何かしたとなれば、面倒事になるかもしれません。私は大丈夫ですから、ここは堪えてください。」
そう言ったきり、ゼルマは唇を引き結びまっすぐ前を向いて歩きだした。エマは言いようのない不安で心が重くなるのをどうしても止めることができなかった。
訓練の場所に選ばれたのは、演習場の用具小屋の陰にある人気のない格闘場だった。直径20歩ほどの円型をした石造りの格闘場は、エマの腰ほどの高さがある。
夕焼けが格闘場を不気味な赤色に染める中、エマは少し高くなった審判席の後ろに座った。その彼女を取り囲むように男子生徒が座る。
これではまるで人質のようだとエマが思った時、審判が試合開始を告げた。
先に打ち込んでいったのはヒジリスだった。一気に間合いを詰め、豪風のような横蹴りを繰り出す。彼の太ももは細身のゼルマの腰ほどもある。それが岩をも砕かんばかりの勢いでゼルマの胴体に迫った。とても寸止め出来る速さではない。
しかしゼルマは表情一つ変えることなく、僅かに体を引くことでそれを躱した。ヒジリスはそれを待っていたようだ。蹴りの勢いのまま体を回転させると、逆の足でゼルマの顔をめがけて後ろ回し蹴りを放った。
彼女は体を低くしてそれを紙一重で躱すと、蹴りを掻い潜り相手の懐に飛び込んだ。ゼルマの繰り出した拳がヒジリスの顎先にぴたりと当てられる。
「一本、それまで! 勝者ゼルマ・ヴァイカード!」
審判の声が響くと共にエマは安堵のため息を漏らした。
「ゼルマちゃん、すごい!」
エマの声にゼルマが一瞬振り向き、ほんの少しだけ笑みを見せる。審判役の男子生徒に睨まれたエマは、こっそりと彼女に微笑み返した。
今の戦いを見る限り、ヒジリスはゼルマの脅威にはならないようだ。技の切れも体さばきもゼルマがヒジリスを圧倒している。だが格闘場の上でゼルマと向かい合ったヒジリスは余裕の表情をしていた。
油断はできない。ゼルマもエマと同じように考えているようで、構えを解かずヒジリスの一挙手一投足を見つめている。
「なかなかすばしこいな。だが悲しいかな所詮は女。騎士の戦い方には到底及ばぬ。さあ、2本目を始めようではないか。」
ヒジリスがそう言って構えを取り、審判が試合開始を告げた。
ヒジリスは再び真っすぐ間合いを詰めると、今度は大きく振りかぶった右拳を突き出してきた。ゼルマはそれを躱し、再び相手の懐に飛び込んだ。
しかしその時、ヒジリスの繰り出した右拳が風に溶けるようにぼやけた。次の瞬間、接近したゼルマの腹部に彼の右拳が叩きこまれた。
「がはっ!!」
体を折って苦悶の表情を見せたゼルマは寸でのところで追撃を躱し、蜻蛉を切ってヒジリスから距離を取った。左手で腹部を押さえ、ゼエゼエと荒い息を吐く。彼女の口の端から赤いものが混じったよだれが垂れて、格闘場の石の床の上に落ちた。
「!! 待ってください! 今のは・・・!」
エマは立ち上がり、審判に抗議しようとした。しかしいつの間にか後ろに忍び寄っていた男子生徒たちに両腕を掴まれ、すごい力で床の上にうつ伏せに押しつけられた。自分よりもずっと大きい男子生徒に、肩甲骨の間を膝で押さえつけられ、床に押し付けられたエマの胸骨がミシミシと音を立てる。
頭を上げようとした瞬間、強い力で横向きに押さえつけられた。石の床に左耳がぶつかり、あまりの激痛に涙がこぼれそうになる。
エマの頭を押さえつけているのは、ゼルマの対戦相手だった細身の男子だった。彼はエマの柔らかい髪を鷲掴みにしながらグイグイと彼女の頭を床に押しつける。彼は苦しむエマの様子を見て、本当に嬉しそうな声で言った。
「黙っていろ、平民。貴族同士の戦いに口出しをする気か?」
「だって今、魔力を使いましたよね!? 体術のみでの戦いのはずでしょう!!」
エマは体中の痛みを堪えながら、必死に抗議の叫びを上げた。エマの頭を押さえている細身の男子は、彼女を押さえ込んだまま右耳に口を近づけると、ねっとりとした声で囁くように言った。
「平民の分際で貴族のすることに言いがかりをつけるつもりか? 何を証拠にそのようなことを言っているか知らんが、これ以上おかしなことを言うのであれば覚悟するがいい。」
エマは一瞬ビクリと体を震わせた。エマは小さい頃から貴族様に逆らってはならないと教えられてきた。貴族は平民にとって絶対の存在。逆らえば自分だけでなく家族までどんな罰を受けるか分からないのだ。
抵抗する力が弱まったことで調子に乗った細身の男子が、からかうような調子でエマに囁く。
「貴族を侮辱した罪で家族諸共、奴隷に堕としてやってもいいのだぞ?」
家族の姿が一瞬エマの頭をよぎった。しかしエマはすぐに渾身の力で拘束を抜け出そうと藻掻いた。
「く、くそっ、この平民風情が!!」
再びエマの顔が床に押しつけられる。左頬を床にこすりつけられ、頬の内側が切れて口の中に鉄の味が広がった。
その様子を見たゼルマは、よろよろと足を引きずりながらエマの元へ歩み寄った。
「エ、エマ・・・様、いげまぜん!」
「ゼルマちゃん!!」
「私は、大丈夫でずがら・・・。」
ゼルマは審判の男子生徒に向かって「降参します」と片手を挙げようとした。しかし彼女がそれを言い終えるよりも早く、後ろから接近してきたヒジリスの蹴りがゼルマの脇腹に深々とめり込んだ。
「すまないゼルマ殿。何か言ったかな。残念だが、この平民が後ろで暴れていたせいでよく聞こえなかったよ。」
審判役の生徒がエマをちらりと見て、残忍な笑みを浮かべた。
倒れ込み体を二つに折って胃液を吐くゼルマの鳩尾を、ヒジリスは思い切り蹴り上げた。ゼルマは激しく格闘場の上を転がり、場外に落ちた。それを男子生徒の一人が抱え上げ、乱暴に格闘場の上に放り上げた。
気を失ったゼルマは、糸の切れた操り人形のようにぐったりと床に横たわっている。
「まだ終わりじゃないぞ! ほら立って戦え!!」
ヒジリスは魔力で強化した左腕でゼルマの髪を掴み上げ彼女の体を持ち上げると、再び右拳を彼女の体に打ち込んだ。激痛で意識を取り戻したゼルマだったが、またすぐに気を失ってしまう。
「止めて! もう勝負は付いてるじゃない!」
エマが涙ながらに悲痛な声を上げる。しかしヒジリスはその手を止めなかった。
「ほらっ!! 何とか!! 言ったらどうなんだ!!」
気を失ったゼルマの頬を平手でバシンバシンと打つ。彼女は時折うっという苦悶の呻きを挙げ、手を動かそうとしているが、体が言うことを聞かないようだった。
ヒジリスが手を振るうたびに彼女の口と鼻から溢れた血が、格闘場の石の床の上に飛び散っていく。彼女の顔は赤く腫れあがり、訓練用の練習着が血で染まっていった。
「うおっ!? なんだこの光の壁は!?」
その時、愉悦の表情でゼルマを打擲していたヒジリスが驚きの声を上げ、大きく後ろに倒れ込んだ。突然現れたゼルマの体を包む虹色の光の壁に弾き飛ばされたのだ。ゼルマは壁に包まれたまま、石の床の上にそっと横たわった。
驚く男子生徒たちは、すぐにエマの髪と目が虹色の光を放っていることに気が付いた。彼女は不自由な体勢で一心にゼルマを見つめている。
エマの体を押さえつけていた男子生徒たちは、急に彼女が強い力で抵抗を始めたことに驚いた。
「くそっ!! どうなってるんだ!? この薄汚い平民め!!」
危うく弾き飛ばされそうになり、焦った細身の男子がエマの右側頭部を上から思い切り殴りつけた。石の床に激しく頭をぶつけられ、エマは程なく意識を失った。彼女が気を失いぐったりすると、ゼルマを包む光の壁も小さな光の粒に変わって消え去った。
石の床にぶつかって切れた彼女の額から血が流れ、柔らかい髪をぐっしょりと湿らせていく。
「気味の悪い平民め!! 我々貴族に逆らおうとするからそうなるのだ!!」
血を見て興奮した細身の男子がヒステリックな声を上げる。そこに格闘場からヒジリスが飛び降りてきた。
「その通りだよ。それぞれが己の身分を弁えるべきなのだ。この平民の娘も、そしてあの衛士の娘もな。」
「しかしヒジリス様。少しやり過ぎではありませんか。いくら訓練とはいえ下級生の女子にケガを・・・。」
審判を務めていた生徒が心配そうに話しかけるのを、ヒジリスは一蹴した。
「私を誰だと思っているんだ。残るようなケガはさせておらぬ。一週間ばかりは誰か分からないほどに顔が腫れるだろうがな。あくまで『訓練中のこと』だ。それは貴君らが証明してくれるであろう?」
その言葉に男子生徒たちは狡そうな笑みを浮かべた。
「さすがはヒジリス様。4年生を代表する騎士だけのことはありますな。」
追従の笑みを浮かべる細身の男子に対し、ヒジリスはフンと鼻を鳴らした。
「魔力格闘も使いこなせないような相手に負けるとはな。この礼はたっぷりとしてもらうぞ。」
「も、もちろんです! お任せください!」
「ふふ、期待しているぞ。だがその前に・・・。」
細身の男子を押しのけてヒジリスは床の上で倒れているエマの体に手をかけると、仰向けになるよう乱暴に転がした。落ち始めた日がエマの顔を照らす。頭の血はすでに乾き始めていた。
エマの胸の薄いふくらみを舐めるように見つめ、ヒジリスは醜く顔を歪めた。
「平民にしては、なかなか可愛らしい顔をしているじゃないか。」
ヒジリスは仲間に命じてエマの手を縄で後ろ手に縛り、布で猿轡を噛ませた。そして気を失った彼女をすぐ側の用具小屋の中に運び込むように言った。
下卑た笑みを浮かべながらヒジリスは用具小屋の扉に手をかけた。
「貴君らはしっかり見張っていてくれ。貴族の子女に手を出すわけにはいかんがこの娘は平民だからな。楽しませてもらうとしよう。私の後に貴君らもどうかね?」
欲望にぎらつく目で彼らはほくそ笑む。
「そう言えばこの娘の姉も美しかったな。ふふ、これからますます楽しみが増えそうだ。」
ヒジリスはそう呟いて用具小屋の扉を閉めた。明かりの呪文を唱えて小屋の中を明るくする。
床の上に転がされたエマに覆いかぶさるように馬乗りになると、ヒジリスはエマの練習着の留め紐に手を掛けた。
だが次の瞬間、耳をつんざくような凄まじい音と共に小屋が吹き飛び崩壊した。ヒジリスは魔力で必死に体を守ったが、降り注ぐ瓦礫で体のあちこちを痛めてしまった。
何が起こったのかと周囲を見ると、見張りをしていたはずの仲間たちは全員瓦礫の中に倒れていた。凄まじい衝撃を受けたようで、全員手足をあらぬ方に曲げ苦悶の叫びを上げている。
ただ奇妙なことに、破壊の只中にあったはずのエマの周囲には全く瓦礫が散乱していなかった。まるでそこだけ見えない壁があるかのようにぽっかりと空間ができている。
「一体何が・・・。」
そう呟いたとき、ゾッとするような魔力の波動を感じて彼は思わず目を上げた。そして次の瞬間、それを激しく後悔した。
夕日を背に受けて空に浮かび彼をじっと見つめていたのは、禍々しい魔力を放つ異形の存在であった。
ハウル村でマリーと別れ、《転移》の魔法でエマの部屋に移動した直後、ドーラはエマにかけた《警告》の魔法が激しく鳴り響くのを感じた。
部屋の中には誰もいない。どうやら夕食に向かっているらしい。ドーラはエマの姿を探そうとして、テーブルの上にあった置き手紙に気が付いた。それはリアがドーラ宛に残したもので、エマとゼルマがまだ戻って来ていないこと、自分がエマたちを探しに行くことが書かれていた。
ドーラはそれを読んで強い不安に襲われた。《警告》の魔法はさっきから心の中に鳴り続けている。エマの身に何かあったのは間違いない!
ドーラは寮の上空に《転移》するとそこで《領域創造》の魔法を使った。巨大な《領域》が出現し王立学校全体を包む。彼女は魔力を操作し、エマの魔力を探した。そして騎士棟の横にある演習場の隅にエマの気配を発見した。
だがエマの魔力は激しく乱れている。ドーラは服が裂けるのも構わず背中から翼を生やすと、エマの魔力のある場所に一気に飛んだ。凄まじい風圧で服がすべて脱げてしまったが、そんなものは関係ない。
風を切る音を置き去りにしてドーラはエマの元に駆けつけた。
彼女がそこへ到着したのは、ちょうどヒジリスが小屋の扉を開けた瞬間だった。だから彼女は見てしまったのだ。ぐったりと小屋の床に横たわるエマの姿を。エマの髪をべっとりと濡らしている生乾きの赤い血痕を。
小屋の周りにいる数人の男子生徒からは、エマの魔力の気配と血の匂いがはっきりと漂ってくる。ドーラは何が起こったのかを瞬時に悟った。
彼女は言葉にならない凄まじい叫び声を上げた。怒りとも憎しみともつかないその叫びは衝撃波となり、小屋を崩壊させ、その前にいた少年たちをなぎ倒した。
ドーラの体から禍々しい魔力が溢れ出すにつれ、彼女の体は変貌していった。薄い金色の髪は虹色に輝く乳白色に変わり、その間から何本もの角が伸びた。
やわらかい肌の表面に竜の鱗が浮き上がり全身を覆う。背中には鬣のような鱗が現れ、それが長くしなやかな尾の先まで伸びていく。
手足の指には鋭い爪が口には牙が生えた。澄み切った湖のように青かった瞳に金色の細い虹彩が現れ、赤い光を放つ。
竜と人とを混ぜ合わせたようなその姿。それは彼女の溢れる怒りによって《人化の法》が綻んだために生じたものだった。
『貴様かぁぁぁぁああああ!!』
ドーラは怒りに任せ再び声を上げた。しかしそれは人語ではなく、完全に竜の叫び声に他ならなかった。エマの傍らでよろよろと立ち上がった少年が再び弾き飛ばされる。
ドーラはエマを守るように、彼女と少年の間に舞い降りた。
「な、なんだ!? なんでこんなところに魔獣が!?」
驚いて逃げようとした瞬間、少年は足から崩れ落ちるようにその場に倒れた。恐怖のあまり彼自身が漏らした糞尿によって足を滑らせたのだ。
ドーラはその様子を冷たい怒りに燃える目で見つめた。
こいつは私の宝物を傷つけた。そんな人間など、いらない。
ドーラは無言のまま体内の魔力を高めていった。空気中の魔素が激しく移動し、彼女を中心に魔力風が巻き起こる。
周囲の魔力の圧力が急激に変化したことで、目の前の少年は目鼻から血を流して悶絶した。彼は狂ったように手足をばたつかせ、空気を求めるように喉をかきむしりながら、自分の糞尿にまみれて床の上でのたうち回った。
ドーラは体内の魔力を高温の息に変えると、それを目の前の人間に叩きつけるためゆっくりと口を開いた。口内に出現した熱い息の塊と空気が触れ合い、それがプラズマと化してドーラの体を走る。
目の前の少年は絶望に顔を歪め何かを必死に呟いていたが、ドーラは無慈悲に息を解き放った。
この世のあらゆるものを焼き尽くす竜の息が少年に向かって放たれた。しかしその直後、天から降り注いだ金色の光がその暴威を阻んだ。
「光よ守り給え!《聖女の護封》」
光と共に出現したテレサの最上級神聖魔法はドーラの必殺の息を食い止め、少年をかろうじて守った。しかし防ぎきれず逸らされた息は周囲に飛び散り、演習場の地面を融解させた。暗い夕闇の下、溶け落ちた地面が赤黒い光を放つ。
熱と光の衝撃によって気を失った少年を背中に庇いながら、テレサはドーラに言った。
「ドーラさん、これ以上はいけません!」
しかし怒りに燃えるドーラには何の効果もなかった。
『邪魔をするなあぁあああぁぁああぁ!!!!』
怒りの咆哮を上げながらドーラはテレサに向かって突進した。空気を切り裂きながら、鋭い爪が振るわれる。
テレサは腰を低く落とすと、ドーラの爪の動きに合わせてその腕を掴んだ。そしてそのまま体を反転させるように捻ると、ドーラ自身の力を使って彼女を背中から投げ落とした。
しかしドーラは尾と翼でバランスを取り空中で体勢を立て直すと、投げの勢いを殺すためにそのまま足から着地して地面の上を滑っていった。彼女が足の爪を立てたことで、敷き詰められた石の床が切り裂かれた。
がりがりと音を立てて止まったドーラは苛立たしそうに声を上げた。テレサは倒れているエマの様子を見ようと一歩踏み出した。
『エマにさわるなああぁあぁぁああ!!』
怒りに燃える今のドーラにはテレサのことが分からない。宝物に近づく敵を排除するため、ドーラは再びテレサに迫った。
「聖女流格闘術奥義! 聖女ローキック!」
覆いかぶさるように迫ってきたドーラの動きを見て、テレサが神力を込めた蹴りを放つ。ドーラは翼で空中に浮かぶことでそれを回避した。しかしテレサはそのまま体を回転させると空中に飛び上がり、ドーラの胸めがけて回し蹴りを放った。
胸の中心を強かに蹴られ、ドーラはたまらず後退する。怒りの声を上げるドーラ。今やテレサはドーラにとって排除すべき敵となった。
自身を殺そうと叫びを上げるドーラにテレサは優しく語りかけた。
「聖女ソバットはちゃんと効いたようですね。本来ならば人間の力など、竜には遠く及びません。」
彼女はドーラをまっすぐに見据えると、半身に構えたままゆっくりと腰を落とした。
「でも今の私の体には竜の魔力が満ちている。どこまでやれるか分かりませんが、あなたの頭が冷えるまで私がお相手いたしましょう。」
テレサは裂帛の気合を込めて、長く長く息を吐きだした。体に溢れる竜の魔力と自身の魂が生み出す神力とを、呼吸によって混ぜ合わせていく。
人の力を得た竜と、竜の力を得た人。春の夕闇の中、異なる魂を持つ同質の存在による戦いが今、静かに始まろうとしていた。
読んでくださった方、ありがとうございました。




