序章 第6話 一人そしてまた一人
翌朝。
「えっ、茜さん帰られちゃうんですか」
庄吉は驚いた顔をした。
「はい、昨晩至急の帰隊命令が来ましてたのでそれで」
「心配です、昨日は赤谷屋さんがやられたというのに」
お絹が言うと、
「おそらくその関係での帰隊命令だと思います。ただ数日のうちに代わりの者が来る予定ですのでそれまでお待ちください。リサさんも多少は腕に覚えがあるみたいですし」
茜はそう言い店を出て行こうとする。
「気をつけてな」
弥太郎が後ろから声をかけた。
「はい、弥太郎さんも気をつけて」
茜はそういうと弥太郎の方を一瞬振り返った後、新鮮組の詰め所へと足早に戻って行った。
去っていく茜を見送ると弥太郎は店に戻り、
「みんなもちょっと心細いかもしれないがしばらくは我慢しておくれ。それといつも以上に戸締りはしっかりとしておくれ。頼んだよ」
店のみんなにそういった。
その頃リサは持ってきていたカバンを開け何かを取り出していた。
「まさかここでこれを使う事になるとはなあ」
そういうと中からある物を取り出した。
そしてその日の夜が来た。
リサはいつもより広めの範囲を感知できる警戒陣を張ったが、その夜は何事も起きなかった。
〇朝の離れ。
弥太郎がリサのところにくる。
「リサ、昨日は徹夜か」
「あ、おはよう。もしいきなり火をつけられても大丈夫なように、ここの建物全部に昨日防災陣を巡らしたからそれで。これ、狭い範囲しか効力はないけど竜王寺屋全体くらいなら大丈夫だから安心して。それから僕十日間くらい寝なくても大丈夫だから」
「すげぇな。今度は防災陣かあ。しかし十日も寝ないって便利なもんだなあ、そのアルなんとかヴァンパイアってのは」
「そういってくれるのは弥太くらいだよ。ふつうは十日間も寝なかったら思いっきり怖がられるだけ」
「まあ、俺は自他ともに認めるふつうじゃない奴だからな」
「弥太、それおもしろい」
そういうとリサは楽しそうに笑った。
「そういえばこの前、リサの目が赤くなったように見えたけどあれはどうしたんだ?」
「あっ、あれは怒りの感情が高ぶるとああなっちゃうの。ヴァンパイアというか僕のところの家族の特性かな」
「そうなのか、いやどこか体調が悪いのかとちょっと心配したんだが」
「大丈夫。ありがと。それにしても弥太、また昼日中から遊びに行ってたの」
「まあな、それに今いきなり遊ぶのやめちまったら、まわりから変に思われちまうだろう」
そういうと弥太郎はリサに目配せをするとあたりを軽くみまわし、部屋の中央にどっかと腰を下ろした。
「弥太、いつ相手は動くと思う」
「五銭組はいつやるというのがまるでよめねえ。立て続けにやったからふつうはもうしばらくはねえと思うところだろうが、そこは裏をかいてくとるも考えられる。じつは昨日、この前話した俺の馴染みの同心の左衛門、こいつと会って話をしたところ、佐賀屋さん同様、赤谷屋さんもやはり中から手引きされた形跡があるらしい」
「するとこの店も誰かが……」
「まあまだハッキリとはわからねえ。俺や茜がみていた限りでは、誰もおかしなところはひとつもなかったんだ。ところでリサ、警戒陣……だっけ、それはあいかわらずか」
「うん、あいかわらず。それと弥太」
リサは弥太郎の前に折りたたんだ黒い服をみせた。
「これは?」
「僕にとって戦闘服のようなもの……かな」
弥太郎の顔が真顔になった。
「弥太、僕、絶対君を守るから。もちろんよくしてくれた店のみんなも五銭組に指一本触れさせない。『アルティメット・ヴァンパイア』の力と『全能の魔術師』の名にかけて」
「それはたのもしいなあ。ただひとつ約束してくれねえか」
「何?」
「リサ自身ケガをしないで無事でいてほしい。そこんとこだ」
リサはちょっと驚いたがすぐに嬉しそうな顔になり
「ありがとう。そんなこといってくれたの弥太が初めてだよ。ほんとやさしいんだね。でも大丈夫。僕ヴァンパイアだから」
するとリサの手をいきなり弥太郎が握ってきた。
「その前に女の子だって事、ぜったいわすれんなよ。無理だけはほんとうにしてくれるなよ」
弥太郎のその言葉と手を握られたことに対し、リサは今まで経験したことのない感情の揺らぎを感じた。
「わ、わかった、約束するよ」
リサはそう言うと弥太郎の手を軽く握りかえし、頬を赤らめ少し目をそむけた。
そんな二人のそれをよそに、外からは子供達の楽し気な遊び声がきこえ、店からはいつもと変わらぬ賑やかな商いの声がきこえてきた。
〇昼下がり。
リサのいる離れに弥太郎が走り込んできた。
「リサ、お前に帰国の話が領事館から来ちまった。これなんだが」
そういうと弥太郎はリサに一通の書状を渡した。
書状を開くと、リサの顔がみるみる変わっていった。
「無理だよこんなの」
「どうしたんだ。何て書いてあるんだ。領事館に来いっていうのか」
「そ、そうだよ。どうしよう」
「領事館までどれくらいかかるんだ」
「一番近いところでも、今行ってもとてもじゃないけどすぐには帰ってこれないよ」
「ちくしょうなんてこった。最悪のタイミングだ」
「いいよ。僕向こうから連れに来ないかぎり行かないから」
「いや、それは駄目だ。そんなことしたらリサにどんなことが起きるかわからねえ」
「駄目だよ。今はいくらなんでも……」
「とはいえ国がからんじまったらもうどうしようもねえ。左衛門や茜にも迷惑がかかっちまうかもしれねえ。ちくしょう。とにかく茜に連絡を今からとってみる今日は無理でも明日には何とかする」
「そんなあ」
「それにこれを渡しにきた奴がすぐに来いと言ってた。遅くならねえうち今すぐ行ってくれ。そしてできるかぎり早く帰って来てくれ」
「今って……」
悲しそうな表情をするリサに、
「出ていくときは人目につかねえように裏から行ってくれ。それと……」
弥太郎はそういうと黒い金子を入れる袋を渡すと
「これは領事館までの交通代だ。気を付けていってきな。頼んだよ」
「弥太っ、ちょっと、弥太あっ!」
弥太郎はリサのそれに振り返ることなく部屋を出ていき、店へと戻って行った。
突然のことに呆然とし、部屋の片隅に力なくすわりこむリサ。
それから半時ほどして、リサは部屋の隅に折りたたんだまま置いてあった黒い服をカバンにしまうと、荷物をまとめ、ややうつろな表情で静かに離れの裏にある木戸口から出ていった。
誰もいない離れに風が静かに流れていった。
次回、第一部の山場になります。