序章 第1話 弥太郎と茜
吸血鬼の世界には数百年に一度、太陽の光も十字架も効かない最強の吸血鬼「アルティメット・ヴァンパイア」が出現してきた。それらはその圧倒的かつ強大な力により、あるときは世を甚だしく混沌に導いた。中でも17世紀にあらわれたアルティメット・ヴァンパイアは、殺戮の限りを尽くした「狂帝」とよばれ、全吸血鬼の八割、そして他の多くの魔族もその凶刃にかけていった。
その後影響は人間にも及びはじめ、当時敵対していた魔族と人間、さらにこの状況に恐怖を感じていた異世界グラーヴェが手を組み、激しい戦いの末、この「狂帝」をうち滅ぼした。
それ以来、アルティメット・ヴァンパイアの出現が確認されしだい、大事に至らぬ前に処刑せよという命が全魔族に下されることとなった。
それから大きく時代が経った幕末の日本。そこにまもなく着こうという船が一隻。その船上に金色の髪に碧い瞳を輝かせた人影がひとつ。
この話は、それから半月ほど後の京都よりはじまる。
天気も穏やかなお昼時の京都。幕末の物騒な時期にもかかわらず、ひとりの男が鼻歌を歌いながらひょうひょうと歩いてくる。
「いやあ、いい天気だなあ。そろそろ桜の季節。まあ最近物騒な話をよく聞くけど、こうしてあちこち歩いてるとそんな話もどこ吹く風。それにしてもいいことをした後は気持ちがいいなあ」
これといった特長のない顔つきのこのどこにでもいる若旦那風の男。
名前は弥太郎。
江戸の大店「越野屋」の次男で、一か月前に越野屋の京都にある分店「竜王寺屋」の店主が辞めたことから、父に言われ今その店主に一応なっている。
「しかしうちの店。かなり儲かってるはずなのに、番頭の甚兵衛はなんで遊ぶ金をくれないのかねえ。まあ、店のあちこちにいろいろと帳簿にのってない金を隠してるのは分かってるし、そっちからちょいちょいくすめちまってるから店には帳簿上影響もないし、今のところ誰も何も言ってこないから、それはそれでいいんだけどさ」
相変わらずの遊び好きでいつもふらふらふらふら。周りはこんな弥太郎を江戸から来たこともあり、江戸落語の登場人物になぞらえ「与太郎」とよんでいる。そこへ、
「あっ、与太郎」
弥太郎が振り返るとひとりの男の子がこっちを指さしていた。
「おお、ケン坊じゃないか。どうした」
「与太郎、また遊んでたのか。」
「いやあ面目ない。おっしゃる通り」
「ダメだなあ与太郎は、みんなにばかり働かせてお前も働けよ」
「ははは、いやあ今日はやけに手厳しいねえ」
「そんことより与太郎、お前の店の裏で女の子が泣いてたよ」
「ん?」
「よくわかんないけど、怖いおじさんに掴まって、それをかばってくれたくれた女の人となんかもめてたって」
「それ、いつ頃の話だい」
「半時程前だよ。んで、その女の人、お前の家の中に怖い人たちに連れていかれたって。泣いてた子が言ってた」
弥太郎の顔色が一変した。
「ありがとよ。これでアメでも買いな」
そういうとケン坊に小銭を渡し、弥太郎は店に小走りで向かった。
弥太郎は店の近くまで行くとそのまま店には入らず、もめ事があったという裏手にまわった。
すでにそこには誰もいなかったが、地面には複数の人が争ったような足跡がうっすらと見受けられた。
弥太郎は店の「離れ(はなれ)」に続く木戸に手をかけると、ふだんは開かないように戸締りがされているはずの木戸があっさりと開いた。
怪訝に思いながら中へ入ると弥太郎は遠くから何かを叩く様な異様な物音に気付いた。
音は離れのある方から聞こえ、近づくにつれその音は鈍く重い音に変わっていった。
「これは人を叩いてる音……まさか」
弥太郎は急ぎ足で離れの入り口に向かうとそこには風体の悪い男が立っていた。
番頭の甚兵衛がやとっている者のひとりで、甚兵衛は何かあったときの用心として雇っていると弥太郎には言っていた。
「おまえさん、こんなところで何してるんだい」
「わ、若旦那! ここへは何しに……っ」
「いやあね。たまには離れでのんびりしようかなと思ってたんだが……」
といいながら弥太郎は男の目を急に鋭く見つめ、
「ところでこの中で何をやってるだい」
弥太郎はあいかわらず断続的に中から響いてくる何かを叩く音を聴きながら、それまでとうってかわった低くゆっくりとした声で男にたずねた。
「いや、そ、それは……」
男が口ごもるのをみて弥太郎は
「ま、お前は何も見なかった。そういうことでいいな」
と言うと、男にちょっとした金を握らせた。
「い、いや若旦那しかし……」
弥太郎は男にかまわず中に入っていった。
弥太郎は廊下を音のする方に向かい、土間のある部屋の前で立ち止まった。
ビシッ! バシッ!
何かを叩く音が大きく強く聴こえた。
そして、
「しぶてえ奴だ」
「これでもか、てめえ!」
中から罵声が聞こえてきた。そして、
「番頭さん、こいつまったく吐きやしませんぜ」
「しかたないねえ。それじゃあそいつの身体にきいてやりな」
「へへへ、それじゃあお言葉に甘えて……」
弥太郎はその言葉を聞くと同時に思いっきり部屋の引き戸を開けた。
バン!
大きな音が部屋中に響く。
見ると弥太郎のやや左前に番頭の甚兵衛が立っていたが、あまりのその音の大きさに、甚兵衛は腕を組んだままの姿勢で驚きの表情でこちらを振り返り、弥太郎の厳しい表情を見、硬直した。
弥太郎は甚兵衛の顔を一瞥し土間の方をみると、着物姿の若い娘が手首を縄でくくられたまま天井からぶら下げられ、側には何人かの男達が棒や竹刀をもっているそれが見えた。
男達も今の音に驚いたのか、皆、弥太郎の方を呆然とみつめていた。
「何をしてるんだい。あんたたちは!」
弥太郎は部屋の中の全員を一喝し、その顔を睨みまわした。
「だ、旦那様、これには訳が……」
「聞かせてもらおうじゃないか甚兵衛さん。よってたかって女の人に拷問とはどういう事だ」
「こ、こいつは家に忍びこもうとした盗人でして……」
「盗人? この真昼間にお店にかい」
「へ、へえ、ほんとに大胆不敵な女でして」
弥太郎は一瞬考えた後
「お前たち、ちょっとこちらに来てくれないかい」
そういって部屋にいた全員を部屋の外に連れ出した。
部屋を出て廊下のつきあたりまでくると、弥太郎は甚兵衛に問いかけた
「もう少し詳しく話を聞かせてもらおうじゃないか」
「じ、じつはあの女が店に忍び込んでいるところをこいつらが捕まえまして……で、最近荒らしまわってる盗賊の手先かと思い、そのお……」
「ほお。じつはさきほどある人から店の外でいろいろとあったことを聞かせてもらったんだが、ここにいる人たちがそのとき小さな娘さんに怖い思いをさせたというじゃないか。いくら捕まえるためとはいえ、そんなこと許されると思うかい」
「ですが旦那様」
「それにだいたいなぜ番所にすぐ届け出ないんだい。あそこには左衛門もいるだろう」
「そ、それは……」
「番頭さん。あんたとんでもないことしてくれたねえ」
「へっ?」
「あれは忍びだ。盗人はだいたいお店には人気が少なくなる夜中に忍び込むもんだ。こんな白昼堂々忍びこむというとことは、捕まっても大丈夫、つまり後ろにそういう誰かがついているという事だ。おそらくあれはその人の差し金でここに忍び込んだろう。それを拷問までして……。もし帰ってこないとなったら、あの忍びをここに差し向けた人がそのまま黙っていると思うかい」
「あっ……!」
「それが誰かは分からないが、どちらにせよどういう理由でもつけてそいつらは踏み込んでくる。もしそれがお上の関係だったらこの家の者すべてがお裁きにかけられるかもしれない。おまえはそんな事すら分からないでこんなことをしてくれたのかい」
「そ、それは……」
「バカな事をしてくれた。番頭さん、それにお前たちも今すぐここから出て行っておくれ。そうしないと河原にあんたたちの首も仲良く並ぶことになるかもしれない。それでもいいのかい。ここはとにかく私がなんとかする。さあ早く出て行っておくれ!」
そういうと男達は外へ蜘蛛の子を散らすように逃げていった。
甚兵衛もそのあとをついて出ていこうとすると、
「番頭さん。あんた何か探られると困る事でもあるのかい」
弥太郎がたずねると一瞬甚兵衛は立ち止まり、顔をこわばらせると両の手を強く握りしめた。
「いや、もう聞かないよ。長い間ご苦労だったね」
弥太郎のその声を聞くと甚兵衛も外に出ていった。
(甚兵衛。ずいぶんただならぬ雰囲気だったがやはり何かあるのか。だが今は)
弥太郎は甚兵衛達が出ていくのを見届けるとすぐにさっきの部屋に戻り、部屋の隅にあった鎌をもちそして吊るされている若い娘の所にいった。
娘はかなり激しく殴られ続けたのか、衣服はボロボロになり、身体はピクリともしていなかった。
弥太郎がその綱を切ろうと近くにあった踏台に上ると、ちょうど娘の顔が自分の目の前に来た、その時、
「あっ! この娘は!」
思わず弥太郎は声を上げそして顔の近くに耳を近づけた。
娘は弱々しいもののかろうじて息をしていた。
弥太郎は物凄い勢いで鎌で縄を切りはじめた。
「旦那さま、旦那さま、どうなさいました」
外から飯炊きのお貴と女中のお絹が入って来た。
吊るされている娘を下ろそうと懸命に縄を切ろうとしている弥太郎をみて、
「こ、これは、旦那さま。いったい何が」
二人が驚き絶句すると、
「いいところに来た、お貴ちょっと手を貸してておくれ。それからお絹、大急ぎで玄斎先生をよんできておくれ。いきなりの仕事がこれでたいへんかもしれないが大急ぎだよ」
「わ、わかりました」
お絹は小走りで部屋を出ていき、お貴と弥太郎は娘をゆっくりと土間に下ろしたが、身体がとても冷たくなっているのに驚いた。
(なんとしても助けるからな。茜!)
主人公まだ出てきません。今しばらくお待ちください。