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第九話 沖田先生

「クックックック」

 自室から、土方先生の笑う声がする。怖い。

「早く平五郎のヤツに感想を聞きたいものだ」

 ……なんて声が聞こえてくる。どうやら僕が先生の部屋のふすまを開ける時を待っているらしい。怖い。

 今の言葉がまだ部屋を漂っているんじゃないかというほどすぐに、次の言葉が浮かぶ。

「早く来ないか」

 怖い……。

「こないのか!!!!!!!」

「はい!! 如何しましたか!!!」

「来たか」

「来たかというか……」

 コノヒトは絶対、僕がそこにいたことを知っていたようにしか思えない。いや、それどころか、僕がたとえ屯所にいなくても、気合だけで自室まで呼び寄せる気もする。

「待ちかねたぞ」

「はい」

「まさかずっと隣にいたのに入ってこなかったんじゃねぇだろうな」

「滅相もない!!」

 本当に土方先生は怖い人だ。その怖い人が、にっと笑うと別の意味で怖いのだけど、そういう笑顔を見せて言った。

「まぁいい。今日も新作を用意した。食ってみろ」

 先生、どんぶりを差し出す。僕はそれを受け取りながら先生を見た。

「いつも思うんですけど、なぜ自室でうどんが完成しているんですか?」

 前の納豆うどんの時もそうだ。僕の試食はいつも土方先生の自室である。

「なぜ、とは?」

「だって厨房は向かいの屋敷ですよね」

「……」

「わざわざ僕のために自室まで運んでくれているのですか?」

 言いながら知っている。そんなことをする人じゃない。

「まさかご都合主義……」

「死にたいか」

「滅相もない!!!」

 死の宣告をされてこれほど生々しく聞こえる人なんてそうそういやしない。

 僕は天下無双のガン付けに見守られながら(?)新作うどんをすするのだった。

 もちろん味なんてわかりゃしない。


 そんな鬼が、京の都のど真ん中でうどんを打っていることは、実はまったく知られていない。

 いくら新撰組の隣の新鮮組でも、まさか副長自らがうどんを打っているとは思われず、そもそも当時はまだ、副長の顔はそんなに知られていなかった。局長の近藤先生こそ何かと露出が多いものの、土方先生の方はまるで新撰組の影のようにたたずみ、なかなか人目につこうとはしなかったものだし、新鮮組の方でも基本的には厨房にいるから、なおさらわからない。

 なお、新鮮組では新撰組の羽織を着ることと役職で呼ぶことは禁止されていた。

 先生に隠す意図があったわけじゃなく、たんにあの羽織も役職も、うどん屋の雰囲気にあってないという理由だろう。

 とにかく、新撰組色は、新鮮組にはまるでない。

 そのため京に住んでいても、新鮮組は新撰組をもじった、まったく別の店と見る人がほとんどだった。まぁ、そうだろう。まさか鬼の剣客集団がうどん屋を経営しているとは誰も思わない。襲われた尊攘の志士たちは絶命するわけだから、店員の顔を照合することもできないのだ。


 今日も新鮮組は大入りだ。

 文久三年十一月。めっぽう寒くなってきた都の空気に、温かいうどんはよく似合う。おまけに付け合せの種類が豊富で、うどんの新作も続々と登場していたから、昼時はちょっとした行列が出来るようにすらなっていた。

 相変わらず、土方先生沖田先生の組の時は碗が飛ぶ。汁入り熱々の出汁を一滴もこぼざずに、親、人差し、中指の三本指だけで受け止めて客に配る沖田先生の神業は、もはや新鮮組名物であり、まるで大道芸を見にくるかのように通いつめる常連もいる。

 しかしある時、沖田先生が初めて仕損じた。

 碗が手に収まる直前に、肺から吐き出されたような大きな咳をしたのだ。

 碗は先生の脇を通り過ぎ、しかし彼はその様を横目に映し、左手で口を押さえたまま、右のかかとをひょいと上げる。

 とん、と、碗はかかとに接触。真上に浮き上がったのを見て先生は半回転すると、それをまるでけん玉の球をすくうようにして、大きく開いた右手に乗せた。

 巻き起こる大歓声。

「あ、どうもどうも」

 と愛嬌のある笑顔を見せた沖田先生だったが、何度か喉を鳴らす先生の表情がその後さえない。

「大丈夫ですか?」

 僕が駆け寄れば振り返ってにこりと微笑む。

 ……しかし決して、「大丈夫だ」とは言ってくれなかった。


 後に分かるんだけど、沖田先生は労咳に冒されつつあった。

 労咳とは肺の病であり、咳を伴って熱を引き起こす。だるさが徐々に増して、次第に血を吐くようになり、やせ衰えて、やがて死んでしまう。

 治らないとはいわないが、限りなく治りづらい、不治の病として恐れられていた。

 原因は過労にある。沖田先生の一日の仕事量は半端じゃない。

 一番隊隊長として市中を巡回し、帰れば若手に剣術を教え、うどん屋を手伝う。

 御用改め(強行捜査)となれば必ず要員として参加し、まるで戦であるような決闘に幾度となく刈り出されていた。毎日ろくに寝てないんじゃないだろうか。

 しかし沖田先生は、一度も弱音を吐いた試しがない。いつもいつも冗談を言って、汚れ仕事に、いつも率先して手を上げて、疲れた顔ひとつ見せないで、うどん屋で笑っている。

 労咳のことも、身体が本当に動かなくなるまで、自分からは誰にも明かそうとはしなかった。ここから一年後には、笑うだけでひどく咳き込むようになったから、その頃には平隊士含めて知らない人もいなくなってしまったんだけど、それまで……人知れずに血を吐きながら……彼は一日とて休もうとはしなかった。

 一度、頑張りすぎる沖田先生に声をかけたことがある。あれは鴨川の見える小道具屋に、二人で使いにいった時だ。

「ちょっと川を見ていこうよ」という沖田先生と二人で土手に座った。日が傾いて、空が赤く染まっている。

「少し休まれたらどうですか?」

 しかし彼は笑って、

「僕は止まると死ぬ体質だからねぇ」

「しかし無理がたたれば身体を壊します」

「壊れてる暇なんてないよ」

 川の風が二人にそよぐ。冷たい風だった。

 しかし沖田先生はそれを気持ちよさそうに受けていた。今思えば身体が少し火照っていたのかもしれない。

「僕はね、幸せ者なんだ。近藤さん、土方さん……すごい人に囲まれて、今や花の都で堂々の立ち回りを演じてる」

 あの人たちはどこまでも走っていける人なんだ。立ち止まったら、すぐに置いてかれちまう……沖田先生は遠ざかるものを追うような目をして一度空を仰ぎ、そして僕の方へ視線を戻す。

「それを絶対に見失いたくないからね。何のとりえもない僕はとにかく一心不乱だよ」

「とんでもない……」

 本当の、剣の天才だ。なんというか、たとえ百人と対峙しても、勝負の賭けをするのなら、僕は確実に沖田先生に賭ける。

 土方先生や近藤先生との勝負だといつも互角となるんだけれど、それは沖田先生の優しさのようにすら思える。それくらい沖田先生の身の捌きは、他の人と次元が違うんだ。

 そんな風なことを言えば、先生はまた笑った。

「そういうことじゃない」

 近藤さんには将たる素質がある。土方さんには大軍を掌握する器がある。二人には時代を動かす力があるが、僕は人を斬る力しかない。

 先生は、そう噛み締めて、また微笑みかけてくれる。

「だから僕は絶対に役立たずにはなりたくない。あの人たちと、最後まで一緒にいたいんだ」

 だから頑張るのだと。

 ……あの時の僕には本当に理解のできない話だったけど、その後、先生がほとんど寝たきりとなった時に、この日の笑顔が思い出されて涙が止まらなかった。

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