第五話 局中法度
一 士道に背くまじきこと
一 欠勤を許さず
一 無気力応対をとるべからず
一 絶対に味をおとすべからず
一 勝手に訴訟とりあつかうべからず
「うむ」
自室に座り、なにやら書き物をしていた土方先生は、満足げに半紙に目を落としていた。
こんなに上機嫌な土方先生の顔はいつぶりに見るだろうか。
「先生、これは?」
僕が聞く。
「局中法度さ」
「なるほど」
つまり隊規だ。新撰組である以上は隊の定めた規則を守らなければならない。
しかし、土方先生にとっては「新鮮組の、局中法度」ということになるだろうが。
「破った場合はどうなるんですか?」
「切腹だ」
「え?」
「すべて切腹」
「……」
「しかし、大病を患った場合は」
「欠勤を許さず」
「ええ!?」
「大病で死ぬか、その前に腹を割るか。選べばよいだけのことだ」
……さすがは土方先生。
「脱隊したい場合は?」
「欠勤を許さず」
「ええええ!!」
さすがは土方先生だ!!
「脱退してもいいが欠勤は許さぬ」
どういう意味なんだ!
「む、無気力応対とは?」
「客に対して誠実であれということだ」
誠実であれば自然、客が入れば挨拶をするだろうし、落ち度があれば謝ることができるだろう。
「だがこれは決して客に媚びへつらえという意味ではない」
「え?」
「誠実の意味を履き違えず、客の理不尽に対しては堂々と腹を立てていい」
しかし……と先生は続ける。
「それで客が訴訟してきた場合は己で判断せず、俺に話を通せ……というのが、第五条だ」
「なるほど……」
「礼のない客に礼を尽くす必要はない。客は別に神明というわけではないのさ」
「士道というのは?」
第一条にあげられている。一番難解そうなので、質問を最後にしてみたけど、土方先生の肝が、ここにあったようだ。よくぞ聞いてくれたといわんばかりに、口角を上げる。
「俺たちは商人じゃねえ。会津中将に取り立てられた、れっきとした武士である……ということさ」
「はぁ。しかしそれとうどん屋とどういう関係があるのです?」
「そうだな」
先生は胡坐をかいたまま腕を組む。答えはやはり難解らしい。
「一言でいえば誇りを持て、ということさ。新鮮組は誠実であればどのような卑賤の者でも隊士として受け入れる。しかし根性が卑賤のままではいけない。武士として、あらまほしい姿を各々で思い描き、新鮮組の士として誇りある仕事をしてもらいたい」
さすれば自然と行うべきこと、また、行ってはいけないことが見えてくるだろう。……どうやら新撰組の魂は他の条項がなくてもこの一か条に網羅されているらしい。
そういうことを、先生は言った。
「しかし、武士であるのなら、商いをするのは矛盾しはしませんか?」
商いというのは、武士の世において、あまり尊ばれる行為ではない。つまり物を渡して銭を手に入れるということは、物乞いに毛が生えただけの行いであり、だからこそ江戸では農民、工人よりも、商い人は身分が低い。そういう行為を武士が行うことこそ士道に反する行為なのではないだろうか。
「そういう考えが太平の世の武士から士道を奪っていったのだ」
「え?」
「今の武士階級に、どれだけ骨太に世を渡っていけるやつがいるか。太平の世にかまけて、いつの間にか世をまことに動かしているのは商人となっている」
商いがどう、ではない。ただ禄を食みのうのうと生きてきた武士と、明日をも知れぬ構えで今日を商う商人とでは、いまや気組が違っている。太平の世で真に闘っているのは、商人なのだ。
「武士も常在戦場であらねばならぬ。日々鍛錬を欠かさず、己を磨きながら、時代を呼び込んでいるものは貪欲に取り入れていく。それでこそ精鋭といえる組織となるのだ」
「……」
僕は見識がないから今の話は半分よく分からなかったが、土方先生が新撰組というものを、僕よりも一歩や二歩先んじて考えていることだけはかろうじて分かり、僕はしばらく呆然としていた。
「誠を持って信を尽くし、商を持って務めを尽くす。士道を持って己に尽くし、義を持って公儀に尽くす。……これでこそ新鮮組は活きるだろう」
「わかりました……」
わからないが、土方先生に任せようという気持ちになった。
しかし一つだけ……
「もし、各々の思う士道が土方先生の士道と合致しない場合は如何なさいます?」
ここが漠然としている気がする。士道って何だろう。僕はそんなに学がないし、きっと今から加入する隊士たちも学のある人ばかりではないだろう。
まさか士道のための勉強会を開くとも思えず、土方先生も言ったとおり、"士道"というのは各々の胸にあるものを実行していくことになる。
すると、そこに掛け違えが出るのではなかろうか。
……しかし先生は事もなげに答えた。
「俺の士道に合致しない場合は俺の士道をもってそれを斬る」
「……」
これが後に、土方先生が鬼の副長と呼ばれるようになるゆえんだ。
ちょっとここで、京で起きていることを書き連ねておきたい。
京は今、雄藩の力関係がひっくり返ったばっかりだった。文字通り一夜にして。
新撰組が結成される十年前に『黒船』といわれる外国船が浦賀に訪れて、幕府は鎖国の政策をあっさりと覆した。
それから先、幕府が外夷の圧力に屈して国を開いたことを潔しとせず、『天子様を頂きて外夷を打ち払うべきだ』という論が活発化した。それを尊皇攘夷思想というらしい。
急先鋒が長州藩。毛利敬親公を藩公とする長門・周防三十六万石の大大名家だ。彼らが主導し、朝廷を牛耳って過激な活動を始めたようだ。よくは知らないけど、一時期朝廷を介して公方様を動かすほどだったらしい。
しかしその活発さに危惧を抱いた会津、薩摩の両藩が、長州藩の地位の転覆を画策する。
それが成功したのが、今年の夏だった。
すべて秘密裏に計画され突如実行に移されたその転覆劇は『八月十八日の政変』と言われ、政治の中心にいた長州藩は一転、京の都から追放されてしまった。以後、都はしばらく会津・薩摩のものとなり、長州藩は事実上の敵となる。
さっき「新撰組の活動は不逞浪士を探索し斬ること」と言ったけど、実際、仕事の半分くらいは長州藩の残党の動向を探ることだった。
そういうこともあって、新撰組局長芹沢鴨先生を討ったのは長州藩の仕業というでっちあげを通すのも、そんなに難しくなかったわけだ。
先生の葬儀は盛大に行われた。近藤先生などは
「長州人の横暴に怒りを新たにした」
などと述べていたから徹底している。
とにかく、「長州人を見たら泥棒と思え」というのが当時の佐幕派の潮流だった。




