紫陽花の場合
王子様、学校で私はそう呼ばれている。
その呼び名で呼ばれる度に自虐的な笑みが零れるのを毎度必至に堪えているなんて言ったら、皆は悲しむだろうか、それとも幻滅してくれるだろうか。
そう呼ばれることを自分で望んだ筈だったのに、いつしか苦痛になっていた。
皆にちやほやされても、振り向いてほしい人に振り向いてもらえなければ意味がないのに。
あの人みたいになれたら振り向いてもらえるんじゃないかって思ってたんだ。
だけど王子様って呼ばれるようになっても、私の好きになった人は私を見てはくれなかった。
やっぱり見ているのはあの人だけ。
それでもいいと思ってた。だって一番近くにいられるのは私なのだから。
だけど、側にいると欲が出てしまう。
私だけを、見てほしい。
私だけを、想ってほしい。
私を、好きになってほしい。
そんなことばかり思ってしまうんだ。
こんなことを君に知られたら、嫌われてしまう。綺麗で純粋な君が、穢れてしまう気がするから。
私は君へ気持ちを吐露する勇気などない。
なのに振り向いてほしいなんて思うのは、傲慢だろうか。
君は本当に、酷くて愛おしい人。
◇ ◇ ◇
夏真っ盛りのこの頃、学生たちは夏休みが始まり浮かれている。じめっとした暑さが今日も鬱陶しく、それに拍車をかけるように蝉の声が聞こえた。
私の通う花咲学園高等学校も、丁度夏休みが始まったばかりだ。残念ながら赤点があった生徒は補習があるので今日も学園に通っているだろう。
幸い私の友人たちは誰も赤点を取っておらず、それぞれの夏休みを満喫している。
そんな友人の一人と今日は会う予定だ。図書館の入り口で待っていると、聞き慣れた元気な声が聞こえてきた。
「おはよう、紫陽!」
「おはよう、優子」
雪のように白い肌を赤く火照らせ、流れ落ちる汗をハンカチで拭いもう片方の手を振りながら小走りでこちらに向かって来る。水色のワンピースが良く似合う、私の愛しい人。
丁度日陰になっている所まで来ると胸に手を当てて息を整えている。上気した頬を流れる汗があまりにも艶やかで、手を伸ばしそうになるのをぐっと堪える。こんな感情、彼女に知られてはならない。
「お疲れ」
「いやー遅れちゃうかと思った!時間までに間に合ってよかった~」
「寝坊でもしたの?」
「そうなんだよ!タイマーセットしてたのにちょっと時間間違えてて起きるの遅くなっちゃった」
「相変わらずおっちょこちょいだね」
「お恥ずかしい…。よし、じゃあ中に入ろっか」
「うん」
図書館の中に入ると冷房が効いていて、火照った身体を冷やしてくれた。彼女の赤くなった顔が見れなくなるのは少し残念。
開館時間からまだ間もないので人のほとんどいない勉強スペースに行き、それぞれ持ってきた夏休みの課題を取り出した。準備を終えると互いに目を合わせて頷き、課題に取り掛かった。特に会話をするでもなく、黙々と課題を終わらせていく。なんてことない、毎年の夏の光景だ。
私と彼女、赤木優子はたまたま家が隣同士だった幼馴染だ。私が高校生になると同時に私の家族は引っ越してしまったが、引っ越し先が高校から遠くなるので私は学校の寄宿舎に入っている。なので今でも彼女とは仲良くさせてもらっている。
そんな関係だったので私たちは幼い頃に友人となり、共に過ごすことが多かった。だから互いの家に行って遊ぶことが大半だったのだが、夏休みはそれが変わる。彼女はとても真面目で、夏休みの宿題を先に終わらせて夏を満喫するタイプだった。私もそんな彼女に合わせていたので自然と同じスタイルになり、一緒に宿題をすることを持ちかけた。彼女はそれを了承し、それは今まで続いている。
夏休みの宿題もそんな訳で一緒に片付けることになったのだが、互いの家でやるのは夏は暑い。クーラーがあるとしても家の中にいると誘惑が多く宿題は難航した。そんな時、彼女が市内の図書館に行こうと言い出した。図書館に行けば冷房が効いているし、何よりゲームや漫画やアイスといった誘惑が近くにない。私はそれに即同意し、夏休みは自然と毎年図書館に来るようになっていた。
だから、この光景は昔からある夏休みの私たちの光景だ。今では互いに図書館に行こうなどと直接的なことは言わず「10時に集合しよう」と行くのが前提にある会話を終業式の日に交わすようになっていた。
私はそれが、互いの暗黙の了解となっている約束事であることがとても嬉しかった。
数学の課題を半分終わらせ、キリが良くなったので背伸びをした。チラッと彼女の方を見ると、彼女は真剣な表情をして課題に黙々と取り組んでいる。
そんな彼女の顔がとても綺麗で、机に肘をついて彼女を眺めた。眉の所で整えられた前髪は綺麗に切り揃えられ、彼女に良く似合っている。だけど、そんな彼女に一つだけ気に入らない所があった。
髪を、伸ばしていること。
昔は肩の所まで伸ばしていつもそれ以上は伸ばさなかった。なのに彼女は、去年から髪を伸ばすようになった。別に彼女が髪を伸ばすのが気に入らない訳じゃない。寧ろ彼女は髪を伸ばして益々女性らしく美しくなった。彼女によく似合っている。
気に入らないのは、髪を伸ばす理由。
彼女をボーっと眺めていると、それに気付いた彼女が顔を上げる。ぱちくりと目を瞬かせる姿は何かの小動物を連想させた。
「どうかした?」
「…いや、髪伸びたなって思って」
「に、似合わないかな?」
「そんなことないよ。とてもお似合いですよ、我が姫」
「ありがと…って我が姫って何よ!姫じゃないから!」
小声で顔を真っ赤にして否定しているのが可愛い。可愛いからつい、いつもからかい過ぎて怒られてしまう。だけどそれも、仲が良いからこそできることのようでどうしようもなく嬉しいのだ。
「もう…紫陽は高校生になってからそういう恥ずかしいこと平気で言うようになったよね」
「そうかな?」
「そうだよ!…でもそういうこと言っても様になってるから凄いなぁ。流石王子様だね!」
「ありがとう。嬉しいな、優子にそう言ってもらえると」
にこりと微笑めば彼女は顔を真っ赤にして照れた。すぐ顔に出ちゃうところが、本当に可愛い。
でも彼女が王子様って言う時は、必ずあの人が出てくるから嫌なんだ。ああ、憎たらしいなもう。
「でも、王子様かぁ…」
「…どうかしたの?」
「あ、あのね。私の入っている美術部にもいるじゃない?王子様」
「”美術部の王子様”って呼ばれてる梅宮葵先輩だっけ?」
「うん。その…梅宮先輩もカッコいいなぁって」
「確かにね。背が高くて綺麗な人だった」
「そうなの!でも紫陽も同じくらいカッコいいよ!」
「ありがとう」
苦笑しながら私のフォローをしてくれた彼女を見る。美術部の王子様を思い出している彼女は、うっとりとした顔をして心ここにあらずな状態になっていた。これだから私はあの人が嫌いなんだ。
梅宮葵と呼ばれる美術部に所属している3年生の先輩。美術部では副部長をしていて、私と同じで女性にしては背が高い。髪も短くて少し儚げな中性的な顔をしており、花咲学園ではその容姿故に人気の人だ。
王子様なんて大層な呼び名を付けられているのは勿論見た目だけではなく、中身も起因している。誰に対しても優しく、物腰穏やかな人物なのだ。
私は最初、別に梅宮先輩を好きでも嫌いでもなかった。私は美術部には所属していないし、特に接点もなかったのでそもそも知らなかった。梅宮先輩を知ったのは、優子から聞いたからだった。
絵を描くのが好きで中学でも美術部に所属していた彼女は、高校でも美術部に入るつもりらしくその日美術部に見学に行った。そして彼女が興奮しながら見学した時の内容を私に報告してくれたのだ。
『紫陽!美術部凄く良かったよ!先輩たちは皆素敵な絵を描くの!』
『良かったね。じゃあ早速入部するのかな?』
『うん!…それでね、あの』
珍しく歯切れの悪い様子に不審に思いつつも優しく先を促した。
嫌な予感が全身を駆け巡り、心拍数が上昇している。
『どうしたの?』
『……美術部に、王子様がいたの』
顔を真っ赤にして照れながら言った彼女の言葉に、表情に愕然とした。
今まで見たことのない顔で”王子様”のことを伝えてくれた彼女。
その顔はまるで、恋する女の子。
『おう、じさま…?』
『うん。梅宮先輩って言う人なんだけど、凄くカッコいいの』
私の目を見て話をしているのに、私を見ていない。ドロドロとした黒い感情が胸中を覆い尽くし、戸惑った。この状態を彼女に悟られないように必死に心を鎮める。
『梅宮先輩って言うんだ』
『うん!美術部の王子様って呼ばれてるみたいなの。本当に王子様みたいで素敵だった…』
『そっか』
そこで梅宮先輩の話は終わった。
その後の会話でも黒く渦巻く感情をひた隠し、いつもと変わらない何食わぬ顔で他愛無い会話を続けた。
寄宿舎の自分の部屋に戻り、ドアを閉めた瞬間にその感情は溢れ出た。
羨望、憧憬、愛情、執着心、恋情、憎悪。
私は自分自身に何が起きているのか分からなかった。
認めたくないし、認めることなどできない。
私たちは幼馴染で友人同士。互いを親友と呼べるほどには仲が良い。
これは友情のはずなのだ。友情の、はずなのに。
どうして、どうして友情をまるで否定するかのように私は彼女に恋情を抱いているのか。
それと同時に、今まで抱いてなどいなかったはずの憎悪を少しでも感じるようになってしまったのか。
彼女の口から”美術部の王子様”の話を聞いてから抱いているこれは。
嫉妬、なのだろうか。
今まで私に向けられていたはずの彼女の視線を奪われたから。
彼女の関心の一番が、私でなくなったから。
だから私は、嫉妬しているのだろうか。
そもそも嫉妬しているのは、私が彼女を好きだから?
では今まで彼女に抱いていたのは、友情ではなかったのか?
混乱する頭では胸中に渦巻く感情を整理できず、私はとりあえずシャワーを浴びた。一旦さっぱりすれば少しは落ち着くと思ったのだ。
だけどシャワーを浴びた後は疲れていたのか、考えることを放棄してベッドで眠ってしまった。
自分の気持ちがよく分からないまま、私は次の日を迎えていた。
それからしばらくは表面上いつも通りに過ごしつつも、私は自分の気持ちを整理し続けた。
彼女と話す度に、顔を見る度に少しずつ確信を得ていくこの気持ちの名前。
決定的だったのは、初めて王子様を見たときだった。
放課後、美術部に入部届を出しに行く彼女になんとなくついて行った私は美術室の前で彼女が出てくるのを待っていた。なんとなくと言いつつも、やっぱり王子様とやらを見てみたかったのだと思う。
美術室の中から彼女の笑い声が聞こえてきたので話が弾んでいるのだろう。もう少しかかるかな、と思って窓の外を眺めていると近くで声がした。
「入部希望者かな?」
声の方を振り向くと、そこには確かに王子様がいたのだ。
短い艶のある黒髪に、私と同じくらい高い背。中性的な顔立ちのクールな優しそうで儚げな人、だった。
「…いえ、友達が入部するので、入部届を出すのを待ってて。一緒に帰る予定なんです」
「そうなんだ。せっかくだから中に入って待ってる?」
「大丈夫です。すぐ来るって言っていたので」
「そっか」
笑うと益々儚く感じられる。これは確かに、惹きつけられるかもしれない。
なんというかこう、病弱な優しい王子様みたいな雰囲気。好きな人は好きだろうな、こういう人。
カッコいい、とは違う気がするけどカッコいいと言えばカッコいいかもしれない。身長があるとカッコよく感じる人も多いみたいだしね。
「背、高いね」
「…先輩も同じくらいじゃないですか」
「そうだね。でも私以外で女子でこんなに身長ある子珍しいからさ」
「私も自分以外では初めて会いました」
私は身長が170cm程ある。女性にしてはかなり背が高い方で、なかなか同じくらいの身長の女性を見たことがないのは確かだった。なので先輩と高身長トークが思わず弾み、廊下で立ち話をした。
クールな空気を纏っていたけど話してみると結構面白い、トークの上手な人だった。
やっぱりこの人が、王子様なのだろうか。
彼女が言っていた情報と一致することが多い。
だとしたら、私は…。
「お待たせ紫陽…と、梅宮先輩!?」
「やあ、こんにちは。優子ちゃんの友達だったんだね」
「は、はい!」
名前を呼ばれて真っ赤な顔をする優子。
ああ、やっぱりこの人が例の王子様なのか。
「彼女も私と同じで背が高いから高身長あるあるトークしてたんだ」
「そうだったんですね!」
「優子ちゃん、入部してくれるんだ?彼女…紫陽ちゃん?から聞いたよ」
「はい!今後ともよろしくお願いします!」
「あはは、元気いいね。よろしく。じゃあ私は展覧会に向けて描いている絵があるからこれで。また明日ね、優子ちゃん」
「はいまた明日!」
彼女の輝いた瞳に映るのは王子様。
それがとても、羨ましい。
「紫陽ちゃんも、またね」
「え、はい、また…」
まさか自分に声を掛けられると思っておらず、たじたじになりながら返事をした。
先輩はにこやかに微笑みながら別れを告げ、美術室に入って行く。それを彼女が名残惜し気に見ていた。
その時、確かな確信を得た。
私の彼女に対するこの気持ちの名は、恋だ。
ここまでくればもう、否定することなどできはしなかった。
◇ ◇ ◇
それから私は梅宮先輩のようになりたくて、先輩のマネをするようになった。
優子と同じように肩まで伸ばしていた髪を切り、少年のようなショートへ髪型を変えた。振る舞いも物腰穏やかに、皆に平等に。同級生のちょっとした変化に気付くたびに褒めた。まるでお姫様を口説く王子様のごとく。
そしたら面白いくらい、皆私に夢中になった。
男子がいないこの学園の中では、男子っぽい女子というのは自然と人気が出る。身近にいる異性のような同性というのは貴重な存在なのだろう。
彼女たちは、私を使って恋に恋をする。
憧れを抱き、黄色い声を上げる姿はまるでアイドルのファン。男性的な要素を持っていれば彼女たちは誰でもよくて、似たような人がいればすぐに他の人に靡くだろう。
なんて身勝手で、手軽な恋なのか。
決して本気にはならない、あくまでお遊びの恋だ。簡単に芽吹き、枯れてゆくような子供のちょっとした火遊び。女性同士という障害があるが故に火遊びを尚更に盛り上げているのかもしれない。
別に皆がそうだとは思っていない。私みたいに、本気で恋をしている人もいるとは思う。
それでも虚像の王子様を演じていると、思ってしまう。
女性って簡単だな、と。
私は彼女を好きになってから、酷く歪んだように思う。彼女を友人だと信じて疑わなかった頃の純真さは失ってしまった。だけど別にそれを後悔しているなどとは思っていない。
自分から望んで、歪んでいったのだから。彼女の一番になりたくて、彼女の視線を独り占めしたくて、彼女の心が欲しくて。
その為に”王子様”などと鼻で笑いたくなるような呼び名が付くくらいまで、私は変わったのだ。
それでも、彼女は私を見てはくれなかった。いや、ずっと見てはくれているが、私の彼女の中のカテゴリは友人。
結局今も彼女はあの人を見ているけれど。
いつか彼女が私を見てくれるまで、私はこれからも歪んでいくだろう。
一生友人のままかもしれないけれど、いつまでだって粘ってみせるよ。
君に、恋しているから。
君を、愛しているから。
花言葉
紫陽花:移り気、七変化、高慢、無情、辛抱強い、愛情