4: restaurant 『Barene』
目を開けると、見知らぬ天井が広がっている。縫うように描かれた模様は単調ながら美しく、天井という、普段人の目に触れない部分にあるのを惜しく感じるくらいだ。
ここは、どこだろう。
微睡む意識の中、眠りにつく前の記憶を反芻。次第に目も冴えてくる。
「そうだ、私、異世界に来たんだ――」
その事実は、意外とすんなり私の中に溶け込んだ。
昨日の出来事は夢ではない。それを目の前の景色は伝えてくる。私はそれを黙って受け入れるだけだった。
ゆっくり上体を起こして、目を擦りながらベッドの横のカーテンを開ける。窓から白い日が差し込んでくると、その眩しさにここが地下だということを忘れそうになる。
私はおぼつかない足取りでうろ覚えの洗面所へ向かった。
「……見慣れないな、やっぱり」
寝起きの自分のみっともなさはいいとして、問題は色。鏡に映る、白く染まった寝癖頭と金色に光る半開きの目だ。これには、文字通り一朝一夕では慣れそうもない。
ため息をついて、冷たい水で顔を洗い、設置してあった櫛で髪を整えていく。若干の寝惚け具合は残るものの、見れるくらいにはなっただろう。
ぺちん、頬を両手で叩いて、とことことまだ少し心許ない足運びでダイニングへ。
「クロートさーん……まだ起きてないのかな」
呼びかけてみても返事はない。私は今のうちと足早に朝食の準備を始める。
昨日気づいたことだが、幸いなことに元いた世界とこの世界の食材は大方共通しているようだ。
私が炊事の役割を自ら申し出たのは、昨日の一件があってのこと――言ってしまえばクロートさんの料理がそれはもう想像を絶するほど不味かったからである。
ある意味これ以上ない身の危険を感じた私は、先んじて料理番に名乗り出たのだ。
そんな経緯を思い出しているうち、鍋の中のスープがぐつぐつと沸き立ち始める。
すると、その匂いにつられてきたのか、クロートさんが寝ぼけ眼を擦りながらダイニングへ入ってきた。
「おはようございます、クロートさん」
「なんかいい匂いしね?」
「もうちょっとで出来ますよ、座って待っててください」
「ん」
どうやら彼は私よりも寝起きがよくない様子。
腰かける彼を横目に私は鍋に牛乳を流し込んで、残りの食材を放り込む。そこから一分。あとは塩などの調味料をふって、味を整えれば完成。
おたまで掬って味を見る。うむ、中々の出来ではなかろうか。
「出来ましたよ」
「なんだこれ?」
目の前に置かれた器の中身を、クロートさんは訝しげに覗く。
「クラムチャウダーです。温まりますよ」
「ほう、見たことねえ料理だな」
言って、私はチャウダーをスプーン一杯掬って口へ運ぶ。アサリの風味がきいていて、とても美味しい。
クロートさんのほうを見ると、
「なかなかいける。まあ俺のシチューにゃ劣るが」
ほう、と恍惚そうに白い息を吐いている。というかこの期に及んでそんなことを言うとは、どうにもこの人の味覚は元来死んでいるらしい。
よかった。というかベクターたちも、少しはこの人にまともな料理を教えてあげたらいいのに――いや、もしかしたらこの世界は、共通して料理が不味いとかそういう特徴があるんだろうか。嫌だそんな世界……。
一人で想像して震え上がっていると、徐にクロートさんが口を開いた。
「ラドの爺さんはいつ来るかわからん。来たら手紙寄越すように知人に頼んどいたから、それまでゆっくりしてていいぜ」
「あ、はい。わかりました」
聞いて、器を両手に抱え傾ける。チャウダーが喉に流れ込むのと同時に、体の芯が温まる感じがした。
この世界には、電話がない。だから手紙なんだと思うが、それは魔法でちゃちゃっとできないんだろうか。目の前に文字を映し出す――みたいな感じで。
「風呂はさっき沸かしといたから、好きに入ってくれ」
そういえば、昨日は心身ともに疲れ切っていて、倒れ込むように眠ってしまったんだっけ。
「ありがとうございます。じゃあ、お先にいただきますね」
言って私はチャウダーを飲み干し、食器を片付けたのちバスルームへ赴く。
ちゃぷ、とお湯に頬まで浸かって、これからのことを指折り数える私。
『ラドの民』なる占い師……この目の色についても、まだわからないことだらけだ。
まだまだ、異世界生活の始まりは忙しない。私の吐息は水面で束の間の泡となり、弾けた。
******
昨日みたいに夜ならともかく、日中に出歩けば何か見えてくるものはある。
この世界の住人の移動手段は大体が徒歩だけれど、たまに大きな犬に乗った少年少女やら馬車などもちらほら。見たところ、元の世界に比べてあまり文明は発達していない模様。
世界観は私の主観や知識を主としたぱっと見、スチームパンク。流石に中世ほどは文明も後退していなくて、地球の世界史で言うと産業革命を迎えている途中あたりの時代背景。蒸気船もあるくらいだし、遠くの大都市とかでは蒸気自動車の開発もされている気がしないでもない。
それをクロートさんが知らないのは、恐らくこの街――ヴィルエルが、今一つ田舎に類するからだろう。この世界には人間……『アンスール』以外にも、ベクターのような『ティール』を始めとした様々な種がいるらしいし、普及にもそれなりに時間がかかると思われ。
なんて考察を繰り広げているうちに、どうやら目的地へ到着したようだ。
そもそもなぜ外を出歩いているかというと、私を街の人に紹介するのも兼ねて昼食に行こうとクロートさんが言い出したからだ。
「ここですか?」
目の前には、『Barene』という看板のかかったお店がある。中は賑やかなようで、扉越しにも声が聞こえてくる。大勢の人の気配に、私は頭の赤帽子をきゅっと被りなおす。クロートさんもいるし、大丈夫と願いたいが。
「そ。いろんな料理を取り扱ってるし、頼めば食材も売ってくれる。店主と知り合いになっといて損はないしな……それにその店主は耳が早いから、早めに紹介しとこうと」
それはそうかもしれないけれど……。
私は外食と聞いて、ある一つの不安に駆られ続けている。
「ここの出す料理もクロートさんのみたいに激マズだったらどうしよう……」
「おい、生意気だぞ居候が」
実際激マズだった。あの味がスタンダードなものとして扱われているなら、私はもう引き籠る。
「そうなの! クロの料理はマズいんじゃないの、芸術的な味なだけなの!」
「いや、あれはもうそういう次元通り越し――えっ?」
後ろからの謎の声に、思わず振り向く。
シャツの上にエプロン姿の少女がクロートさんに抱きついていた。黒色の髪の毛に緑の瞳。そして――
「み、耳?」
彼女の頭には、ぴょこぴょこと動く二つの耳がある。『猫耳』というやつだ。しかし彼女の恰好はメイドというよりは居酒屋の女亭主のような感じ。背は私より若干低いけれど、同じくらいの年だろうか。
猫耳少女はクロートさんに抱きついた姿勢のまま大袈裟に手を振って、その高いテンションを振りかざす。
「ハーイ、仔猫ちゃん! 見ない顔なの。アタシはレストラン『Barene』の店主、エニ・クローサーなの! ヨロシク!」
「ふぁ……いつの間に……」
ぐるぐる目を回す私を他所に、クロートさんはエニと名乗った猫耳少女を自分から引き剥がそうとする。
対してエニの方は、頑として彼から離れようとしない。
「はーなーれーろーこの」
「いやん、そんな乱暴にしないでなの!」
「どっこいせー!」
クロートさんは肩に回された手を掴み、エニを背負い投げ。
結構な勢いで店の方向へ吹っ飛んだエニだったが、くるくると空中で三回転してから見事に着地した。身体能力も猫そのものみたいだ。
「クロのイケズ―!」
「いちいち抱きつくな気持ち悪い。さっさと店入らせてくれ」
「りょ! でも……そちらの子は、どちら様なの?」
呆然と二人の様子を見ていた私は、突然自分にフォーカスが当たってびくりと肩を揺らした。エニの不思議そうな緑色の視線が刺さる。
「この子はミオ。迷子だ」
いや、いくらなんでも要約しすぎでは。
そう訴えようとしたところで、自分の今の状況が迷子と遜色ないという事実に気づく。仕方なく、開きかけた口を結び直した。
「ほーん、わかったの。よろしくなの、ミオ!」
近づいてきて私に握手を求めるエニ。恐る恐るそれを握ると、ぶおんぶおんと上下に揺さぶられた。振動の衝撃にガクガクしながら、私は自己紹介をする。
「よ、よろしくお願いします……エニ?」
「うんうん! ま、こんなとこで立ち話もなんなの。とりあえず入るの!」
快活に笑ったエニは、軽い足取りで店内へ駆けていく。
私はその後に続きながらクロートさんに聞く。
「あの方も獣人……ティール、なんですか?」
獣の耳があるということは、そういうことではないのか。
少し考えて、彼は頷く。
「それは合ってる。けど、あいつには獣人と別に、人間の血も混ざってる」
「――それって」
「エニは、ティールとアンスールの間に生まれた子だ。まずティールとアンスールの間に子供ができるなんて普通ないんだが……出来たとして、ちゃんとあそこまで育って社会に溶け込むことができてるっていうのは、ほとんど奇跡だ。特例中の特例なんだよ、エニは」
「…………」
私は、この世界でそういう人への接し方がどうなっているのか知らない。たとえ愛くるしい形をしていても、集団の性というのは恐ろしいものだ。
周囲の人々からの、忌避、侮蔑の厭うような視線。酷ければ、迫害、追放。
私の脳裏にはそんな暗いビジョンが矢継ぎ早に通り過ぎる。
どこの世界でも、『違う』というのはそれだけで罪となる。私はそれを身をもって知っている。違和感は違和感として終わらせられないのが人間だ。
私たちの先を行く細い背中。そこに背負ってきたのは当然、祝福ばかりではなかったはずだ。
「えい」
「うごっ」
頭に強い衝撃が走り、私は驚いて隣を見る。
「な、何するんですかクロートさん!」
「憐れむんじゃないぞ、あいつを」
「……え」
「エニはあんなアホみたいな感じだけど、裏では結構悩んでるんだ。数年前と比べたら多少マシにこそなったけど、世間のあいつへの風当たりはまだ強い。何でもない普通の子として接されることが、あいつにとって一番の薬だ。侮蔑はもちろん、同情もいらん。だから――」
くるりと、見つめていた背中が桃色のエプロンがはためかせて振り向いた。クロートさんは言いかけた言葉を飲み込んで、閉口する。
「何してるのー? 早く来なさいなの!」
「……今、行きます!」
返事をして私はクロートさんに向き直る。
「私は、憐れみません。そんな理由ないですから。ただの、可愛い女の子にしか見えないので」
「……そうか。それなら、安心だ」
そう言って微笑むクロートさんを尻目に、私は黒い猫耳を追うように早足で駆ける。
ふいに、背後の呟きが耳に届いた。
「…………俺も――――か?」
風に掻き消え、彼が何を呟いたかは聞き取れない。
ただ、言葉に込められた寂寥が、その風に乗って私の頬を撫ぜたのがわかるだけだった。
******
「おいしい!」
口の中で弾ける旨味に、思わず感嘆の息を漏らす。
テーブルの上にあるのは、ごつごつした野菜の具材がたっぷりのスパゲティ。野菜の甘み、麺のコシ、バジル風味の酸味が見事にマッチした一品で、私が異世界に来てから食べた中で間違いなく一番美味しいものだ。初めて出されたまともな食事とも言える。
「そんな美味しそうに食べられるとなんだかもっとサービスしてあげたくなっちゃうの」
「じゃあ勘定なしでいいか?」
「つけ込もうとしたってダメなの。お代金はちゃっかりかっきり頂くのがモットーなの」
「俺とお前の仲じゃねーか」
「都合がいいだけの女にはなりたくないの」
「どこでそんな言葉覚えてきたんだ……」
閑話を続ける二人。私はそれに脇目もふらず、一心にご馳走を頬張っている。頬いっぱいに詰め込んでいるから、ハムスターみたいになっているかも。
私がえも言われぬ美味しさに存分に舌鼓を打っていると、突然、近くの窓がこつこつ叩かれる音が聞こえた。
見ると、梟のような鳥が、首を傾げながら黄色い嘴で窓をつついている。
「もっ……むもーもむ、もみあ、もむあ!」
「ミオ、ちょっと口にモノ詰めすぎなの」
「ん? ああ、手紙鳥か。ってことは、爺さんが来たのかな」
れたーばーど? 言われて見ると、梟は口に丸めた手紙らしきものを咥えている。この世界では手紙は鳥が運んできてくれるのか。
「め、まもまあもまもも?」
「お前はとりあえず口の中の物飲み込め。エニ、手紙見てくれるか?」
「オーケーなの。えーとどれどれ……」
エニが窓を開け、梟から手紙を受け取る。私は、紐を解いてそれを読み始めた彼女の表情が変化したのがわかった。どっちかというと、悪い方に。
「どうした?」
クロートさんもそれを感じ取ったのか、席を立ち彼女の手元のそれを覗きこむ。
「……これは」
「少々、マズい事態なの」
「もむ……ごく。マズい事態って、どういうことですか?」
ようやく口の中を空にして二人に問うも、返事は帰ってこない。
しばらくして、エニが手紙をたたみ、クロートさんは私に向き直った。
「ミオ、ちょっと席を外す。ここで大人しく待っててくれ」
「は、はい……でも、席を外すって、どこに」
私の問いに答えることなく、二人は足早に店の奥へと消えていった。取り残された私とスパゲティ。ぽつり、やけに寂しくなった食事を再開する。
それにしても、いったい何が起こったんだろう。
悶々と疑問が渦巻く中、フォークに絡めたスパゲティを口へと運ぶ手が――
バキイッ!
破壊音に、ぴたりと止まる。見るとそれは、入り口付近からの音で、つまりは扉が壊された音だった。
私の手だけではなくその場のすべての人が動きを止め、店内は水を打ったように静まり返っていた。
そして、
「――――てめえら大人しくしろやぁッ!!」
静寂を鈍器で壊すように響いた怒号。それを皮切りに、壊れた玄関からぞろぞろと『悪漢』を体現したかのような男たちが入ってくる。
強盗。
その二文字が頭を過った途端、私の思考は急停止する。
脳内に大量のエラーが泳ぎ回り、警報は鳴りっぱなしだ。が、それに反して体はピクリとも動かない。
私だけではない。お店の客のほとんどが、状況を正確に把握、理解できず固まっている。
否、理解したくないのだろう。
しかし、少なくとも私の場合、不幸というのは往々にして重なるものだった。
「――あ」
店に押し入ってくる悪漢たちの中、見覚えがある顔と目が合った。
それは他と比べたら比較的人相がいい顔で――――人相がいいと言っても、クッキーとビスケットの違いみたいなものだけれど。