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2: the werewolf and his magic

 そこは、一見すると雑貨店のようだった。でもよく見ると、普通の雑貨に交じって、妙な形をした置物とか、変な薬のようなものも売られている。布のかかった鳥かごからは、キチキチと鳴き声が聞こえてきもした。私はお化け屋敷でも進むみたいにクロートさんに手を引かれていった。


「ここ、本当に大丈夫なんですか……?」


「ダイジョブだって」


 彼はこの光景に囲まれても全く動じていなくて、どちらかというといちいち肩をビクつかせる私を不思議がっている。

 二人で店の奥へ進んでいくと、突き当たりに木製の扉が見える。彼はそばまで行って、いささか乱暴に扉をノックした。


「ベクター、起きてるか? 目え覚ませ」


 ぶっきらぼうな物言い。少し待ってから扉はゆっくりと開く。扉の奥から姿を現したのは、


「ああん、クロートか。どうしたってんだこんな夜遅くに……ん? この娘は――」


「きゃああああああああああああっ!!」


「ごぶうっ!」


 気が動転して繰り出された私のパンチが、クロートさんの腹部にめり込んだ。


 出てきたのは、短く言って狼男だった。

 頭は鋭い牙を携えた狼で、胴体は人の形をしているも頭と同じく深々と灰色の毛に覆われている。


 悲鳴を上げ踵を返し、元来た道を全速力で引き返す私。無理だ。とって食べられる。焼かれる煮られる、刺身にされてご馳走にされる!


「待てェい」


 けれども狼男の毛深い手が、逃げる私の襟首をがっちりキャッチ。そのままその細身からは想像もできないような力で私の体は持ち上げられた。

 私はもはや無駄な抵抗と知ってなお空中で手足をばたつかせる。


「ひいいい! は、離してください! 私あの、おいしくない、絶対おいしくないですから! むしろもうドブみたいな味しますから! さっき飲んできましたから!」


「無茶苦茶言いやがるな。安心しな、とって食うなんざしねえさ」


「ミ、ミオ、こいつはベクター。確かに「おまえうまそうだな」とか言いそうな見た目してるけど、噛みつきゃしないからそうこわがんなくていい」


「だァれが恐竜だ」


 そんなことを言われても、時折聞こえる「ぐるる……」という喉を鳴らす音にどうしても萎縮してしまう。


「あ、そういえば、ご、ごめんなさいクロートさん、お腹……!」


「うん、大丈夫大丈夫。ちょっとあばら骨二三本へし折れただけで何ともない」


「無事ですか、よかった……」


「お前ちゃんと話聞いてた?」


「いや、軽口叩けるならもう大丈夫かなって」


「覚えてろよクソガキィ……」


「あーうるせえうるせえ。いきなり人んち押しかけてきて茶番劇やってんじゃねェよ。……それはそうとして、今どきオレらみてえなのなんざ珍しくもなんともなかろうに。おい娘、ティールを見んのは初めてか?」


「て、てぃーる?」


 聞き慣れない単語に私は首を捻る。ベクターと呼ばれた狼の人は頬まで裂けた口を開け豪快に笑った。


「ほーう、種族名も知られてねえとは! こいつはショックだなァ」


「すみません……」


「この子、なんか記憶が曖昧みたいでな。おいベクター、もういいだろ。おろしてやれよ」


「ふん。娘、逃げねえか?」


 こくこくこくこく。黙って首を縦に振る。


「ほんとうに?」


「えっ」


「おい犬野郎」


「冗談だワン。今おろしてやるよ」


 悪い冗談に肝を冷やしながら私の足はおっかなびっくり床につく。

 改めて彼の顔を見てみると、確かにそこまで凶暴な目つきはしていない。どちらかというと温和な印象だ。牙は鋭いけれど、その口から餌を待ち侘びるように涎が垂れているわけでもない。私はとりあえず、彼に対する警戒心を解いた。


「それで、あの、ティールっていうのは?」


「いわゆる獣人だな。こいつみたいな犬面がほとんどだけど、血が血なら猫みたいなのもいる。要するにビックリ動物人間だ」


「へ、へえ……」


 そういえばと、船の上で見た狼の被り物をした人たち思い出す。話を聞く限り、あれらもその『ティール』というやつだったんだろう。本物なんだもん、どおりでリアルなはずだ。あな恐ろしや。

 しかしベクターはクロートさんの雑な説明に不満そうな態度。


「人間かぶれみたいに言うんじゃねェよ。別にオレたちゃ歩いても棒に当たんねえぜ」


「そんなクソ面白くもないジョークばっか飛ばしてっからいい年して嫁の一人もいねーんだろ」


「んだとゴラァ!?」


「キレるのは明るい家庭築いてからにしてくれオッサン」


「喰い殺すぞクソ坊主!」


 言い争いをおっぱじめる二人。私の目の前ですったもんだされても困る。


「けッ……ま、なんだ、付け加えとくとだな。オレらティールは、アンスールよりちょっとばかし鼻が利いて、腕っぷしが強えんだ。が、それくらいであとは見た目の違いだけみたいなもんだからな、こうしてアンスールと同じ国で暮らしてんのがふつうだよ」


 さっきからカタカナが多くて頭がこんがらがってきた。三国志はよく読んだけれど、世界史は苦手だ。

 アンスール? と眉をひそめた私の疑問を汲みとってくれたのか、クロートさんがやんわりと補足する。


「アンスールっていうのは、ミオみたいな普通の人間のことだ。この街でも八割の住民がそれ」


 なるほど、ここでは人間をそのまま人間とはあまり言わないのかな。


「あれ、クロートさんもアンスールじゃ?」


「ん? ……まあ、俺はちょっと、わけありなんだ」


「?」


 何だかばつが悪そうにお茶を濁すクロートさん。黙って首を傾げていると、ベクターが私の頭にその毛むくじゃらの大きい手のひらを乗せた。


「んなことより、改めて自己紹介だ! オレぁベクター・へルベル。娘、名前は?」


「あ、白附巳央です。よろしく」


「シラツキぃ? 変わった名だな。どこの国から来た」


「日本です」


 ニホン? と私の言葉に揃って小首を傾げる二人。なんとなく想像はついていた。


「わかりませんか」


「悪いが聞いたことねえや。クロート、お前は?」


「俺も――」


 知らないなそんな国、と彼らが話している言語こそ、私の知りえる紛れもない『日本語』なんだけれど……指摘すると終わらない水掛け論に発展しそうなので、その違和感はいったん心の隅に仕舞うことにする。


「すまねェな。こう見えて地理にはそこそこ詳しいんだが」


「いえ。小さい島国ですし、それが当たり前かもしれません」


 そういうことにしておいた。


「さ、自己紹介も済んだし、こんなとこじゃあ込み入った話も出来ねえだろう。来な、シラツキ」


 二人はベクターが出てきた扉をくぐる。私もそれに倣い部屋に入った。仕事部屋と応接間を合わせたらこんな感じになるんだろうな、という感じの空間だった。

 あと、多分ベクターはひとつ勘違いをしている。


「あの、ベクター。私の国では、姓を先に言うんです」


「ん、そうか。こいつあ失敬したな。どおりでかたっ苦しい名前だと思ったぜ。じゃあ、ミオか」


「そう呼べというわけではないんですけども」


「オレは最初からファーストネームで呼ぶつもりだったし、問題ねェよ。……ああ、適当に座ってくれていいぜ。にしても珍しい言い方もあるもんだ」


 こっちとしては、話し言葉が日本語で名前だけ欧米スタイルなほうが珍しさを禁じ得ない……ともあれ私はすっきりして部屋にあるソファに腰かけた。

 あれ、でもそれなら。


「クロートさんは、このこと知ってたんですか?」


 彼は最初、私を姓で呼んだことになる。私の中の勝手な人物像では、この人は変にかしこまらず誰でも名前で呼んでいそうな印象だった。別に悪口じゃないです。


「いや初耳だ。けど……」


 クロートさんは考え込むように顎に手を添える。


「ミオのほうが、呼びやすかった?」


「なんで疑問形なんですか」


 いや確かに、シラツキよりかはミオのほうが言いやすいけれども。あまりそういうことに頓着しない人なんだろうか。


「うーん、呼びやすかったっていうより……ミオのほうがしっくりきた、って感じか?」


「それは――」


「とまあ世間話はこんくらいにしてなァ!」


「うわっ」


 突然、ベクターの黒い鼻が目の前に現れる。鼻孔に届く動物の匂い。犬を飼ったことはないけれど、ペットショップや動物園でこんな匂いがしたのを覚えてる。でもその獣臭に交じって上品なシャンプーの匂いも漂ってくるところに、人間の面影が垣間見える気がした。


「すんすん……匂いはアンスールと変わんねえな。ドブも飲んでないらしい」


「の、飲むわけないじゃないですか!」


「ホント無茶苦茶だなてめえ」


 呆れた声で言いながらも、ベクターは私の匂いを嗅ぎ続ける。

 何だか、触れられてはいないけれど、くすぐったい。いや、この人は狼人間だ。ただの犬ころではない。決して毛並みを撫でたくなってなどいない。ええ、いませんとも。


「おい、鼻息荒いんだが」


「あ、ごめんなさい。じゅるり」


「今なんの涎拭ったんだ。なあクロート、この娘怖いんだが」


「ああうん、そうだな。じゅるり」


「なにお前まで涎垂らしてんだ! まったくそろいもそろって犬みてえに……」


 私とクロートさんは彼の灰色の毛並みを撫でくり回したい衝動を抑え、とりあえず事案は起きずにベクターの匂い嗅ぎは終わる。彼がソファにどかっと腰を下ろして、位置関係で言えば、私が左を見ればクロートさん、正面を見ればベクターが座っている形になった。

 「とりあえず」とベクターが切り出す。


「目立った異臭はないな。記憶が曖昧とかクロートが言ってたが、自分ではどうなんだ?」


「……よく、わからないんです。自分に関することははっきり覚えてて、気づいたら船の上で海を見てました」


「船に乗る前のことは覚えてないのか?」


 私は頭に手を当てて考えた。何だか頭の奥がずきずき痛みを訴える感覚があるのだ。まるで、靄みたいな何かに思考を阻害されているような。

 ベクターのこの何気ない問いには、多分一寸の悪気も含まれてはいない。それは私も彼らもなにがなんだかわからないこの状況下で、気休め程度に聞いたくらいの軽い質問だった。


 だから結果的にその問いが、私の心を抉り、壊すことになるなんてきっと彼は――おそらくは私自身も、想像すらしていなかったのだ。


「おい、どうしたミオ……ミオ!」


 クロートさんの慌てる声が耳に入る。

 けれどもそれ以上に、鼓膜が破れんばかりの五月蠅い耳鳴りが、錆びた刃物で心臓を刺されるような不快な痛みが、止まない。止んでくれない。


「はあっ……はあっ……!」


 船に乗る前? 元の場所で、私は何をしていたか。何を。

 思い出せない。

 否。

 思い出したく、ない。

 頭がぼんやりする。視界がうつろう。呼吸が定まらない。侮蔑の声が聞こえる。嘲笑の声が聞こえる。畏怖の声が聞こえる。

 微睡み混ざってぐちゃぐちゃになった世界には、私の叫び声が強く強く木霊していた。


 ――嫌だ、苦しい、こわい。


 今ようやく、自分自身の断片的な記憶を固い扉の奥に閉じ込めていたのだと知る。それはきっと閉じ込めているものが、ひとたび牙をむけば私の心を容易く喰い千切ってしまえるような、そんな記憶だったから。重く冷たい鎖で繋ぎとめ蓋をした。自身の記憶に、傷つけられないように。

 見て見ぬふりをしたんだ、私は。

 私は――


「ミオ」


 名前を呼ばれて、我に返る。私はクロートさんに抱きとめられていた。


「! っか、は……げほ……!」


「大丈夫。思い出したくないなら思い出さなくていい。そのことは、今は置いとこう」


「……はい……ごめんなさい」


 申し訳なさで胸中が埋め尽くされている。情けない自分をこれでもかと鏡か何かで見せつけられた気分だった。

 私はすくめた身を彼の胸の中にうずめる。同時に身を震わせた。それは、あの記憶自体に対する恐怖ではなくて。

 私は生きている限り、一生それを引き摺っていかなければいけないのだろうか――そういう、自己破綻への怖れだった。いつかはそうなる。私が、私のままでその壁を乗り越えない限り。そしてきっと、私はそれを為し得ない。いずれ訪れる自己の喪失。私は死ぬまでその瞬間に怯えながら生きていく。

 とても怖いことだったのだ、それは――でも。

 今は少し、恐怖が薄らいでいる。なぜだろう、と考えても答えは出てこない。


 ただ、私を抱きとめる彼の体は、とても温かかった。

 次の瞬間、なけなしの理性を取り戻した私は、今の状況に顔から火が出るかと思うくらいの恥ずかしさに襲われる。


「あ、すっ……すみません!」


 体を押しのけるようにしてクロートさんから離れる。


「ああ、俺は大丈夫。それより――」


「血ィ出てるぜ」


 ベクターの指摘に自分の体を見回してみるけれど、別に特に怪我らしきものは見当たらない。

 きょとんとしていると、そんな私を見兼ねたのか、「ここ」と言ってクロートさんが私の唇を指で拭う。彼の指に血がついているのを見て、私はぎょっとして口に手を当てる。

 血は下唇から出ているようで、どうやらさっき強く喰いしばりすぎて切ってしまったらしい。はむっと傷口を咥えると、か細い痛みと血の味が口の中に広がった。鉄臭いその味に、徐々に私は落ち着きを取り戻していく。

 ……この血の味をもって、いったん記憶の引き出しを閉めようか。彼は「思い出さなくていい」と言ってくれた。今は、その言葉に甘えよう。

 とりあえず深呼吸を一つ。


「すうー、はー……お騒がせ、しました。もうだいじょうぶです」


「それならいい。まあとりあえず傷は治しておこう」


「はい……え、治す?」


「ベクター、頼む」


「おうよ。じっとしてな、ミオ」


 消毒とか塗り薬とかをするんだろうか。別にこれくらいほっといてもいいのに。

 私は膝に手を置いて目をきょろきょろさせながら待つ。差し出されたのは消毒液でも塗り薬でもなくて、ベクターの手のひらだった。毛に埋もれた桃色の肉球が少しだけ覗いている。

 ああ、さわりたい。って、そうじゃなくて。


「あの、何を――」


 してるんですか。言い切る前にクロートさんが隣で「しー」のジェスチャー。仕方なく私は閉口して行く末を見守る。目を瞑っているベクターが、その大きな口をゆっくり開いた。


『緑の迷い子たちよ。我が盲目なお前たちの目となろう。痛苦をやわらげ、傷負いし者を癒せ。その力は、我ら隣人のために』


 告げられたのは、呪文のような淡々とした言葉の羅列。さっきまでの乱暴の口調とは似ても似つかない。その文言と喋り方は、私でもクロートさんでもない、けれど確かにここにいる誰かに語り聞かせるようなものだった。


「っ! なっ……なに、これ……?」


 突然、ベクターの手に生えたふさふさとした毛が、風もないのにゆらゆらと蠢きだす。彼の手のひらを中心に、空気が陽炎のように揺らめいている。


 異変が起きたのは空気だけではなかった。

 彼の言葉に呼応するように、ちらちら、小さな緑の光がその手のひらの上を舞いはじめる。光は呼びかけに応えるみたいに次から次へと集まってくる。

 揺らめく宙を飛び回る光は、さながら遊び場の子供たちのようだ。それによって出来た緑の靄は、大きくなったり小さくなったり、私の吐息だけで砂のように散ったりもする。


 それはひとえに、美しさだけを私の瞳の奥に焼きつけた。


「……きれい……」


 思わず口から声が漏れる。

 それほど幻想的で、美しい光景だった。

 ベクターは光の靄をのせた手のひらを、私の唇にそっと重ねる。温かくて、心地よくて、触れているところがじんわりと溶けていく感覚を味わった。できることなら、このままずっと――


「おら、もういいぞ」


「え? あっ」


 元の不愛想な話し方にはっとして目を開けると、ベクターの手はすでに私の口から離されている。緑の光も、いつのまにか跡形なく消えている。

 もう終わりか、と若干の名残惜しさに口元を撫ぜた私は、そこである違和感に眉をひそめた。


「痛く、ない? ……な、治ってる……そんな、なんで?」


 下唇の傷が、きれいさっぱりなかったことになっていた。


「ん? どうした、ベクターのアホがヘマでも」


「してねェよ」


「こ、これ、傷が……! それに、さっきの光も、いったいどうやって」


「変なこと聞く娘だな。見ての通り、治してやったんだよ」


 私の唇がつんつんと毛むくじゃらの指先でつつかれる。当の私はというと、煩悶して頭を抱えていた。

 話がかみ合わない。もういろんなことが起こりすぎていて、正直キャパオーバーだ。こんな現象どう納得しろと? だって、


「呪文で光が出たりそれで傷治ったり、そんな魔法みたいな――」


「なんだ、わかってんじゃねェか」


「……え?」


「ミオ、ホントに知らないのか?」


 揃って怪訝な目を私に向ける二人に、余計頭が混乱する。

 なにこれ、ひょっとして私がおかしいの? でも常識的に考えてこんなのあり得な――


「自分で言ったろ。魔法。ベクターは魔法を使って、ミオの傷を治したんだ」


「――」


 私は黙ってベクターとクロートさんを交互に見やる。

 ふるふる。私は、ないないと首を横に振る。

 ふるふる。二人は、あるあると振り返してくる。


 そして、部屋に落ちる沈黙。ベクターの尻尾がピコピコ動いていなければ、時が止まったのではないかと錯覚するほどの静寂だ。

 その間、私の口は開いたままだった。


「……世界地図とかって、ありますか」


 しばらく続いた沈黙を最初に破ったのは、私だ。


「ん? あるが、なんだってそんな深刻そうな顔してやがんだ」


「いや……と、とにかく、あるなら見せてもらえませんか」


「へいへい。えーとどこにあったんだっけか」


 ガサゴソ棚の回りを探り始めるベクター。私は隣に座るクロートさんに向き直った。


「あの、クロートさん。今から私が言うものを知ってるかどうか、答えてもらってもいいですか」


「なんだ、えらく真剣だな……ま、いいよ別に」


「じゃあまず、インターネット」「知らない」


「自動車」「知らない」


「飛行機」「知らない」


「エベレスト」「知らない」


「徳川次郎三郎源朝臣家康」「ごめん今なんて!?」


 徳川家康の本名です。

 私はそこで、渋っていた言葉をようやく彼に投げかける。


「……地球」


「知らない」


「アース。Earth」


「知らない」


「……いやああああああぁぁぁぁ…………」


 泣きそうだった。

 日本語でもカタカナでもネイティブっぽく発音してみても、クロートさんの頭の上にはハテナが浮かんだままだった。おまけに「なんかごめんな」と肩に手を置かれる始末。慰めてくれたのだと思う。残念ながら追い打ちにしかなっていない。


「おい、あったぞ――」


「ありがとうございますっくそっ!」


「なんでそんな荒れてんだよ」


 涙目でベクターから地図をひったくり、そばにあった丸いテーブルに広げる。なんだなんだと首を伸ばして覗きこんでくるベクターとクロートさん。

 しばらくそれを見つめてから、私は地図を手にとって、逆さにしたり、左右逆から見たりしてみる。

 が、考えつく限りの見方を試しても結局、私の知る日本列島は――いやそれどころか、地球を代表するかの六大陸と三大洋も、紙上にその姿を見せることはなかった。

 虚脱を体で表すように背もたれに倒れ込み、天井を仰いで唸る。


 これって、もしかしなくても。



「――異世界、来た」


 私の目にした現実は、そんな馬鹿げた結論しか写し出していなかった。


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