「のばら」ただいま準備中(その一)
「イヴ、そろそろ起きないと開店準備が合わないよ?」
夫のアルフに何度かそんな言葉を耳元でささやかれて、ようやくイヴは目をさます。
夫が、アルフが居る――ではあれは夢か、とイヴはまだ意識が眠気のヴェールに覆われた状態で考える。
悪い、夢をみた。とてもとても悪い夢。
いや、正確には夢ではない。
あれは過去だ、イヴがもう戻りたくない過去のこと。そう、過ぎ去ったこと。終わったこと、終わったことのはず、だ。
イヴが身を起こすでもなくぼんやりと横になったままでいると、すでにベッドから出て着替え中だったアルフが振り返りそっと顔に触れてくる。彼の指先は、イヴの涙をぬぐい、イヴの頬の涙の痕を優しくなでた。
夫はそれだけで何かを言うでもなく、また着替えに戻ってしまったが、イヴはその背中から彼が言いたいことを理解していた。
「私、またあのころの夢を見て泣いてしまっていたのですね」
「……イヴ」
「あのころは、辛いとも悲しいとも苦しいとも思わなかったのに」
「……」
「ねぇアルフ、痛いですわ。胸のこのあたりが、剣で刺されたように痛いの。剣で刺されたことなんてもちろんないのだけど、だけど、きっとそれに負けないぐらい痛いと思うのよ」
夫は振り返り、苦いものが入り混じった微笑みを、横たわる妻へ向ける。
「私、今はとても幸せだというのに、どうしてこんな風に痛いのかしら……?」
何度目にかなるかもわからぬ問いかけをしてからベッド上で体を起こし、亡国の女王は可愛らしく夫――自らを玉座から引きずりおろした敵国の男――におねだりをする。
「抱きしめてくださいな、旦那様」
「……キスもつけなくていいのかな?」
今度はイヴが笑う番だった。
「えぇ、そちらも所望いたしますわ、旦那様」
それから、少しの時間が過ぎて、ようやく二人は朝の挨拶をする。
「おはようアルフ。今日も一日よろしくおねがいしますね」
「おはよう、イヴ。すぐに朝の紅茶を淹れてくるからいい子でまってるんだよ?」
「子供扱いですか、私をいくつだと思ってるんですか」
「三十四歳」
「年齢をいわれたかったわけではないです! というかかなり気にしてるんですからやめて!」
おもわずアルフを枕で殴りつけてしまった。しかし、これは誰がどうみたって正当防衛、イヴの無罪だろう。無罪に決まっている。女性の年齢を真っ正直に言うとはなんという恐ろしい賊が居たものだろうか。ああ怖い。
殴りつけるそのままの勢いでアルフを寝室から追い出す。
せいぜい、美味しい紅茶を淹れてくるがいい。と、その背中を見守りながら、イヴはようやくベッドから降りる。
なんとか二人で眠れる大きさのベッド、クローゼットふたつ、小さな書き物机と椅子に、背の低い本棚。それにイヴが使っている鏡台。それらを詰め込んだらほとんどすきまなどない小さな部屋。
それでも、ベッドのリネン類はいかにも清潔そうに白く、クローゼットはちゃんと金具が磨かれ、書き物机と本棚の上には名も知らない花が活けられた花瓶がある。鏡台はそれだけは良質のものをというわけで部屋に不釣り合いでない程度にいい品物にしたのだが、この鏡はいつもメイドのラヴニカが特別に念入りに掃除してくれているらしく、指紋ひとつない。
イヴはこの部屋が好きだった。この建物が好きだった。この家が好きだった。
小さいけれど、狭いけど、かつての自分の居城よりも、ずっとずっとずっと「自分のお城」という言葉がしっくりくる。
石鹸などを取り出したり、髪を束ねたりして洗面の準備をしているうちに、部屋の扉からノック音がする。いや、ノック音というのは正しくはない、正確には「扉を蹴っている音」である。紅茶の入ったカップを二つ両手に持っているアルフは手がふさがっているので、礼儀作法には反するがそうせざるを得ないのである。この小さな家の狭い廊下でティーワゴンなどは当然使えるわけもないのだから仕方がない。ともかく、イヴは部屋の扉をあける。
ふわり、と紅茶の香りが漂う。
お盆を持ったアルフが部屋の中に入ると、扉を閉めてからイヴはベッドサイドに腰かける。この部屋には椅子は一脚しかないので二人が同時に座るためには、どちらかが、あるいは二人でベッドに座る必要があるのだった。
ティーカップを受け取り、そのぬくもりで両手を温める。夫が朝起きてすぐに淹れてくれる紅茶は、濃いめのミルクティーで砂糖無し。朝に飲む紅茶はミルクをいれることで空っぽの胃袋に優しく、とも言われるし、濃いめのストレートティーにしてすっきりと目覚めるように、とも言われている……らしい。相反する二つの意見。結局は茶というものは正解や最適解などはなく、結局最後は飲む者の好みなのかもしれない。とイヴは思っている。とりあえず、二人が朝のいちばんに飲む紅茶はミルク入りということに決まっていた。
「今日もありがとうございます、いただきます」
「どういたしまして、どうぞ」
紅茶とミルクの織りなす甘い香りをいちどだけ吸い込んで、冷めないうちにと口をつける。
口の中にまろやかな味わいと香りとそれに心地よい熱さがとびこんできて、胃袋にすべりおちていき、体も心もあたたまっていく。
「おいしいですわ、今日の紅茶もおいしくてあったかいです」
書き物机でなにか書類を見ながらおなじ紅茶を飲んでいるアルフに、イヴはまっすぐに美味しさを伝える。そんな妻に夫は少し照れたような顔をしながら、
「それはよかった。茶を美味しく淹れるのは、私の数少ない特技なのでね」
「もう、アルフったら」