第3話 噂
翌朝早くのちょうど空が赤くなり始めた頃、俺はまさにその時間に起きることが体に染み付いているかの如く自然と目を覚ました。
まだやや重い瞼をゆっくりと開きボーっと天井を眺めながら意識を覚醒させていくと、右腕の辺りに温もりのある柔らかな重みを感じた。
そして右耳に吹き込まれる穏やかな風とはっきりと聞こえてくるすぅー、すぅーと言う聞き心地の良い息遣い。
何となく状況を察しつつも体は仰向けのまま頭だけを右側へと傾ける。
するとやはり、目の前には悠の寝顔があった。
俺はやれやれとため息をつきつつ起き上がろうとするが右腕がガッチリとホールドされていて動けない。
訝しみつつもその原因を探るべく、動かせる左手で寝ころんだまま布団をめくり上げる。
と、俺の右腕は、悠が寝間着として着用している白小袖の、はだけかけた広い襟元からはみ出さんばかりの二つの山の間に挟まりその先へと侵入していた。
別の言い方をすれば、悠が俺の右腕を抱えながら肘から肩にかけてをその大きな胸で挟み込み、肘から下を悠の白小袖の中へと押し込んだ上に指先は太腿の間に埋もれている、という有様だった。
悠は普段から、寝付く前だと追い返されるからと俺が寝静まった後にこっそり布団に潜り込んでくるので、起きたら横に彼女がいたという状況は最初のうちこそ驚いたりしたものだが今では最早慣れ切っている。
そんな俺でも、流石に今のシチュエーションにはお目に掛かるのは初めてだ。
腕を掴まれる程度ならともかく、と言うのも感覚が若干狂っているのかもしれないがそれはともかくとして、だ。
こいつは一体何を思って俺の腕を襟元から奥深くまで突っ込んだのか。
突っ込んでを何をしていたのか。
想像しただけで頭が痛くなってくる。
何にせよ、このままにしておくわけにはいかない。
俺が毎朝わざわざ早起きする理由は限られた一日の時間をより有効に活用するためだからだ。
より具体的には朝の鍛錬をするため。
その時間を一刻も減らすのは惜しい。
しかしこれだけガチガチに固められると悠を起こさずに抜け出るのは不可能だ。
世間一般では可愛いと言われる部類であろうその寝顔からは、眠りながらにして絶対掴んで離さないという意思がどことなく伝わってくる。
ならば叩き起こすしかあるまい。
とはいえ本当に叩くわけにもいかないので空いている左手で悠の無防備な額に人差し指による一撃を見舞わせた。
デコピンである。
「ひゃうん!?」
その一撃をモロに食らい、小さく悲鳴を上げる悠。
びくりと全身を震わせつつ目を覚ました彼女は開口一番呑気な声でこう言った。
「あっ……烈、おはよー」
寝ぼけた顔でニコリと笑いかけてくる。
確かにこれだけ色々と露骨なアプローチをされた上でこんな無邪気な笑みを見せられたら大抵の男は靡いてしまうだろう。
が、生憎俺はそのご多分に漏れる側の人間だ。
「おはよう……取りあえずこれ、離してくれ」
一応は挨拶を返しつつも呆れながら右腕を雑に動かす。
「ひゃうん……んふ、いいよー」
先程と同じ、だが今度は悲鳴と言うよりは嬌声にも聞こえる声を上げる悠。
にへらとしながら間延びした声色で返事をし、ようやく俺の右腕を解放する。
俺は再び眠りに付こうとする悠を放置し、刀を持って庭へと出る。
昨夕のようにひたすら素振りをしている内にすっかり日が昇ってくると、俺より少し遅れて起床し、朝食をつくり終えた悠が俺を呼びに来た。
共に茶の間へと向かい、悠の給仕の元ちょうどそれを食べ終えたところで、ガラガラと玄関の扉を開く音と、こちらへと歩いてくる足音がとてとてと聞こえてきた。
「ただいまー」
音の主はそんな声と共に俺と悠のいる茶の間へとやってきた。
俺の母である。
「お帰りなさいませ、お義母さま」
家業の手伝いから帰ってきた母に対して礼儀正しく挨拶をする悠。
外堀から埋めるというのはこういうことを言うのだろう。
「あら悠ちゃん、昨日の夜はどうだった?」
「だめでした!」
「まったく烈ったら……こんないい子のどこが不満なのかしら」
当事者である俺を差し置いて盛り上がる二人。
どうやら悠のしたたかな作戦の第一段階は順調のようだ。
悠はこれだけ俺に尽くしてくれる上に美少女でスタイルも申し分ないし、俺に対する思いも伝わってきてはいる。
確かにそのことだけを見たら文句の付け所が無いのかもしれない。
事実、今の俺の立場を知って羨ましいとか言ってくる輩は結構いる。
だが俺は知っているのだ。
彼女の致命的な欠陥を。
そしてその欠陥は俺にある種のトラウマを植え付けた原因でもあるのだ。
故に俺はいくら自分以外の周囲の人間が乗り気であろうとこの縁談を受け入れる気は無い。
そんな俺からしてみたらこの空間は居心地が悪いので、さっさと外出することにした。
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逃げるようにして我が家を後にした俺は、かつて師事していた剣道場に顔を出すことにした。
「おーっす」
「おっ、烈か。久しぶりだな」
「と言っても三日ぶりくらいだろ」
「弓道場の方には毎日通ってることを思えば充分久しぶりだっての」
「かもな」
多くの弟子がいた弓道場とは対照的に人気の無いこちらの道場にいたのは、一人の若者。
俺の兄弟弟子で悪友である時宗だ。
時宗は特に何をするでもなく、片足を乗せただけでギシギシと軋む程に老朽化した今にも突き破れそうな木の床の上で、暇そうに寝転がっていた。
「鍛錬はどうしたよ?」
「やってられっかよかったるい。
最低限剣の振り方だけ覚えたら細かい型とか技なんてどうでもいいって」
「相変わらずだな」
一応聞いてみるといつも通りの返答をしてくる。
時宗の家は農村の百姓らしいのだが、こいつは「畑仕事なんてつまんねーよ」とそれを継ぐことを放棄。
二年ほど前に腕っ節でメシを食っていこうとこの町に出てきたはいいが、弓を買える金など持っていないのでやむなく剣を学ぶことにしたとのことだ。
もっとも、学ぶと言ってもその態度はお世辞にも良いとは言えないが。
ちなみに、俺がこの道場に何日かに一回しか顔を出さなくなったのは決してこいつのように不真面目だからではなく、既に学ぶべき技や心構えなどは全て学び終えたからだ。
こうしてたまに立ち寄るのは腐れ縁というか、まあ駄弁るためだ。
「じーさんは?」
「さあな……いつも通り寝坊じゃねーの?」
じーさん、とは俺達の師匠のことである。
が、あの御仁も大概適当なので今日もまだ来ていないようだ。
一日中来ないこともあるが。
「そんなことより、だ」
気怠そうに起き上がってその場に座りなおした時宗が、何やら愉快そうな表情を浮かべる。
「実はお前がいない間に面白い話を仕入れたんだが……聞きたいか?」
「いやいい」
いかにも聞いてくれと言わんばかりの態度だったので即答しておく。
特に理由は無い。
別にこいつのことが実は嫌いだとかではない。
だがそれでも時宗は嫌な顔一つせず、変わらずにやにやとしたままだ。
「今回のは取って置きだぞ? 聞かなかったら絶対後悔することになるレベルのな」
そこまで断言されると少しずつ気になってくる。
こいつがここまで自信ありげな時は本当に有益な情報を持っていることも多いのもまた事実なのだ。
「ったく……下らない話だったら途中で帰るからな」
仕方がないので聞いてやることにして、その場に座り込む。
そんな俺の様子を見てか、時宗は満足げだ。
そして大げさに切り出してきた。
「聞いて驚け!
俺は先日、この町の近くに魔道具が存在しているという情報を入手したのだ!」
魔道具とは、大昔に魔の国を発端として世の中を力と恐怖で支配しようと目論み、世界中を股にかけて猛威を振るった結果魔王と呼ばれた男の、配下である魔族の魂を何かしらの物体に封印した道具のことだ。
手にすれば封印された魔族の能力を扱えるようになる、なんて言われのある優れものだ。
魔族の魂を封印した器、即ち魔道具には衣類やらまな板やらの日用品からその辺に落ちてそうな石、はたまた剣や鎧など多岐に渡って存在している。
魔族なんて、ある種の危険な連中の魂を封印しているという特殊な事情もあって、魔道具は通常人が滅多に寄り付かないような洞窟なんかの奥に隠すようにしてひっそりと保管されている場合が多い。
故に、洞窟や深い森のような《《それっぽい場所》》にはその手の噂が付き物ではあるのだが、殆どの場合誰かが面白がって考えた作り話で実在しないというのが落ちである。
恐らく時宗もホラを掴まされて来たのだろう。
心優しい俺はそれを指摘してやることにする。
「そんな下らない話、考える方も考える方だが騙される奴はもっとアホらしいぞ」
「まあそう言われるとは思っていた……だが! 今回のは確かな情報だ!」
こいつが馬鹿なのは今に始まったことでは無いが、ここまで酷かっただろうか。
将来詐欺とかに易々と引っかかりそうで心配になってくる。
「おい、なんだその顔は。信用してねえな?」
どうやら顔にも出ていたらしい。
まあもう少し付き合ってやるか。
「……じゃあ確かな情報だって言い切れる根拠はあるのか?」
「あるとも! 何といってもこの目で見てきたのだからな!」
よくぞ聞いてくれたとばかりにノリノリで話す時宗。
しかし見てきたとは正直驚いた。
だがそれならと、一つの疑問が浮かび上がる。
「だったらなんで取ってこなかったんだよ」
普通そんなお宝を発見したら持って帰って使うなり自慢するなり売るなりするだろう。
「それには深い理由があってだな……」
「ああ、だからその理由を聞いてるんだよ」
一転して声のトーンが下がる時宗のこともお構いなしに追及する。
ここまできて言わないというのは無しだ。
「まあなんだ、そのー……力不足とでも言っておこうか」
歯切れの悪い回答だが、それなら何となく納得できる。
魔道具があると言われるような場所は、さっきも言ったが普通の人は寄り付かない。
代わりに、暗い所なんかを好む魔物がうじゃうじゃと住み着いている。
恐らく時宗は魔道具が見えるまさに目前まではたどり着けたが行けたのはそこまで、あと僅かを魔物に阻まれてしまったのだろう。
それなら何となく話が見えてきた。
「だから俺に協力しろってことか?」
「いや。手に入れることが出来た暁には、お前の好きにしてくれて構わない」
「随分と太っ腹だな」
「ああ。俺ではどうしようもないが、
烈ならもしやと思ってこのことを話しているってのもあるしな」
聞く限りだと、相当難しい話に思える。
余程とんでもない魔物が番人のように待ち受けていたりするのだろうか。
もしそうだとしたら、一応時宗よりは腕の立つ俺でも手に余る相手な気がしなくもない。
が、もし魔道具を手にすることが出来ればかなりオイシイことは確かだ。
自分で使うにせよ、売るにせよ、あって困るということは無い。
「実は見に行くだけなら簡単なんだよ。
だからもしちょっとでもその気があるならまずは行ってみないか?」
なるほど。
だったらアリかもしれない。
まずは見に行くだけ。
要は偵察に行ってみようという話だ。
意を決した俺は時宗の言葉に頷いて答えると、支度をするため出直すことにした。