中編 1
ある日、目を覚ませば
全く知らない女が自分の妻だと紹介される。
これほどの恐怖があるだろうか。
きみも考えてみてほしい。
妻がピンとこないのなら、こうでもいい。
ある日突然、見知らぬ女が目の前に現れて「私があなたの母よ」と言う。
きみはその言葉を信じられるだろうか。
きみは見知らぬ誰かを愛する事が出来るだろうか。
*
リサ、というこの女性が自分の妻らしい。
「らしい」という言葉を用いるのはどうして自分がリサの事を好きになったのか。どういう過程で自分達が結婚したのか。という事を何も思い出せないからだ。
リサは、典型的な南部の女だった。
黒いウェーブのかかった髪に、茶色の瞳。少し日焼けした肌に、ちらりと見えるそばかすの跡。そして隠しきれていない南部なまり。
はじめ、リサという女性が自分の妻だと言われた時にはとても驚いた。何故なら、この女性と自分はあまりに違っていたからだ。
髪色も違えば、瞳の色も違う。
それでも、はじめて会った時には、見かけが違うと思っただけだ。
しかし、一緒に生活をしていく中で様々な違いが僕を苦しめた。料理が違う。話し方が違う。生き方が違う。
本当に、このリサという女性は僕の妻なのか?
もしかすると、このリサという女性は狂人であって、「自分はイヴァンの妻だ」なんて嘘を付いて僕を囲おうとしているのではないか?
自分の母によると、僕は「リサ以外と結婚する気はない」と言い家を出ていったらしい。
呆れたようにそう言う母。いまさら「リサという女の事が思い出せない」なんて言う事など出来る訳もない。
昔の僕はなぜ、彼女と結婚しようと思ったのだろう。
昔の僕はどうやって、彼女と出会ったのだろう。
それ以前に、自分の母の言っている事は正しいのだろうか。
もしかすると、このリサという女性に操られているのかもしれない。
僕とリサの出会いの話を「ほんとうにシンデレラストーリーだよねぇ」なんてにこにこ笑いながら話してくれる友人たちも、もしかするとこのリサという女性に操られているのかもしれない。
そう思えば思うほど、僕は追い詰められていくのだ。
「イヴァン、私子供ができていたみたいなの」
リサという女性は、お腹を撫でた後「ごめんなさい」と小さく呟いた。
僕は、吸っていたタバコをぐっと灰皿に押し付ける。
その子供は、僕の子供か?というのが一番最初に頭に浮かんだ言葉だった。 僕は記憶を無くしてからというもの、彼女と寝室を別にして生きてきた。
ちなみに彼女の方から「夜は別に寝ましょう」と申し出てきた。記憶を失ってしまった僕に気を使ってくれているのだろう。
「……そうか。名前は、ルカにしようか」
彼女がよく読んでいた小説のヒーローの名前が「ルカ」だったから。彼女はお腹を一度撫でた後に、困ったような笑みを浮かべた。
「君に似た、黒髪になれば良いのに」
そう言って笑えば、彼女は茶色の瞳をぐらぐらとさせた。
その夜、彼女の寝室の前を通れば泣き声が扉越しに聞こえた。僕は、ドアノブに触れようとしてぐっと手を引っ込めた。
君は、どうして泣いているんだ?僕が君と過ごした日々の事を思い出せないからか?
それとも、他の何かか?
分からない。僕は、君が分からないのだ。
僕と彼女の間に、愛情はなかった。
当たり前だ。僕は彼女という存在を信じる事が出来なかったのだから。
バールで出会った女性を愛していた。綺麗な金髪に、青い瞳。典型的な北部の女。
彼女は僕の左の薬指に光る指輪を見る度に眉を寄せた。
そして、僕が自分の家に帰る前にわざとらしく香水にまみれた体をすり寄せてくるのだ。
彼女からすれば、妻への挑戦状のつもりだったのかもしれない。それでも、僕からすればそんな行動は有難い限りであった。
彼女は、バールで出会って意気投合した末に愛した女なのだ。
家で待っているリサという女性のように、愛した過程すら分からないような女ではないのだ。
「イヴァン、わたしはあなたを愛しているわ」
そう言われる度に怖くなった。
そう言われる度に逃げ出したくなった。
*
その数か月後、産まれた子は青い瞳の子であった。自分の母は、産まれた子供が青い瞳である事を多いに喜んだ。
僕も心の底から、産まれた子供が青い瞳の子で良かったと思った。
ルカと名付けられたその子は、すくすくと育った。
僕によく似た瞳。僕によく似た顔付き。そして僕と同じ金髪。
母の言葉も、友人の言葉も、そしてリサという女性の言葉も信じる事は出来なかったがルカという存在だけは信じる事ができた。
こんなにも僕に似ているのだ。僕は記憶を無くす前に、彼女を愛していたのだ。と。
「ルカ、こっちにおいで」
そう言えば、ルカがぱぁっと表情を明るくさせて「パパ!」なんて言って僕の元へと駆けてくる。
そしてロッキングチェアの上でゆらゆらと揺れている僕の膝の上にルカが座った。
そんな様子を見て、キッチンに立つ彼女は眉を下げて笑う。
ルカも生まれて数年。
ルカが生まれる前の彼女は、よく僕に「愛している」と言ってきた。
それでも、最近はめっきりそんな言葉を言わなくなった。
僕が他の女性と関係を持っている事も、もう彼女は知っているはずだ。
おそらく、彼女は僕に対して「諦め」の感情を抱いている。
僕と彼女の結婚生活を支えているのは、ルカへの愛情であった。
ルカが居れば、良い夫婦で居る事ができる。そう思っているのはきっと僕も彼女もであった。
ルカが14歳になった頃、ルカが遠くの職業校に通う事になり、家を出ていった。
ルカが家を出ていく最後の瞬間にみせた、あの悲し気な瞳を忘れる事ができない。
おそらく、僕達二人以上にルカは感じていたのだ。
僕達二人は、ルカなしではいけない。と。
ルカが出ていった後、ぼんやりと窓の外に降っている雪を見ていた。隣に立つ彼女とこうやって雪を見るのは、何度めであろうか。
何年も同じ時間を過ごしているのに、いまだに彼女の事が分からない。
「イヴァン」
「何だ」
「今まで、あなたを縛っていてごめんなさい」
彼女は、悲し気に目を伏せながらそう言った。
僕は何も言えなくなってしまって、少し荒れた唇を軽く噛み締める事しかできない。
「私たち、もう別れましょう」
彼女の顔を見れば、ぼろぼろと涙を零していた。
そして、なぜかごめんなさい、ごめんなさいと何度も謝罪の言葉を彼女は述べるのだ。
「ルカも一人立ちしたわ。もう、私たちは終わりなのよ」
そんな悲痛な声をあげるくせに、どうして君はそんな気を使ったような笑みを浮かべるんだ。
僕は何も言えなくなってしまって、とりあえず彼女の手首をぐっと掴んでみた。
彼女は、何故かもっと涙をぼろぼろと零す。イヴァン、イヴァンなんて僕の名前を何度も何度も呼びながら。
「最後に、少しだけでいいから貴方を感じさせてほしい」
彼女は、彼女の手首を握る手を優しく振りほどいた後に、僕の左手を両手で包み込んだ。
そして、僕の手を自分の頬に寄せる。
結婚指輪がきらりと光った。
いつの日かの自分が贈った、結婚指輪が。
*
こうして、僕と彼女の結婚生活はあっけなく終わった。
この国は離婚の手続きが非常にややこしく面倒くさい為、まだ籍はそのままであるが。
彼女は、あの僕達三人が住んでいた家にそのまま住んでいる。
僕は、スペーニャ広場の近くに部屋を借りた。
ルカがいる間は、タバコを我慢していた。でも今では、タバッキに気楽に買いにいける。素晴らしいことだ。
スペーニャ広場を歩けば、良く分からない異国の言葉に埋もれる。
外国人観光客が多いから。なんて眉を寄せながらタバコを吸いながらこつこつと音を立てながら石畳の上を歩いて行く。
「あ、ごめな、さい」
どん、と当たる感覚の後にそんなたどたどしい言葉が聞こえる。
ぱっと目をやれば、自分の着ているコートにべったりとジェラートが付いて居た。
僕にジェラートを付けたらしい女の子は、あわあわと茶色の瞳を泳がせた後に「ごめんなさい」ともう一度言った。
僕の目からは涙が零れていた。
その女の子はきっと、この国の子ではないのだろう。突然僕のよく分からない言葉をあわあわとしながら言ってきた。
そりゃそうだ。自分がジェラートをべったり付けてしまった相手が泣きだせば、誰だって焦るに決まっている。
――ごめんなさい、私あなたの服汚しちゃったわよね――
そうだ、このスペーニャ広場で僕は君と出会ったんだ。
僕のコートにべったりジェラートを付けるなんて、最低な出会い方だったけど。
リサ、そうだ。
君と出会ったのはこの場所だ。
リサとの思い出が、頭を走っていく。
僕はとにかく君に会いたくて、ぼろぼろと涙を零しながら、あの三人が住んでいた家に向かった。
僕の革靴は、こんなにも音を立てるものであったか。
周りの人が僕を見るたび、不思議そうな顔をする。当たり前か。いい年した男が涙を零しながら走っているのだ。注目の的になるに決まっている。
コートにはまだジェラートが付いたまま。
急いでバスに乗り込めば、隣の女性に少し嫌そうな顔をされた。
リサと出会ったのは、スペーニャ広場でだった。
僕のコートにベッタリとジェラートを付けた南部の女は、お礼に。と何故かジェラートを買ってくれた。なんでこんなクッソ寒い中で僕は南部の女とジェラートを食べているんだ。なんて思っていたあの日。
――あなた、いいおとこね。モテるでしょう!!――
こういう能天気発言、本当に南部の女っぽい。なんて僕は呆れていた。
からっとした笑顔に、陽気で明るい話し方。黙々とジェラートを食べている僕の横で、自分の飼い犬「ブルーナ」の話までしきった君は相当だ。本当に。
ここに来るのは初めてだから分からない。だから案内してほしいと言ってきた君。
それを断れなかったのは、君の茶色の瞳が驚くくらい綺麗だったからだ。
バスの窓に映る、自分の青い瞳。
君の故郷の海を一緒に見た、あの日を思い出す。
――イヴァンの目は、海みたいよ。とてもとても綺麗な青色。羨ましいわ――
そう言って笑う君に、僕は君の茶色の瞳の方が綺麗だよ。なんてこっそり思っていた。
きらきらと太陽の光を反射させていたあの海。僕の瞳はあんなにも綺麗ではないよ。
そういえば、君の家族は本当にみんながみんな、底抜けに明るい人たちだったな。
出会って数時間なのに、何年も同じ時を過ごしたかのごとく笑顔で接してきて。
イヴァン、イヴァンなんて、酔ったせいで真っ赤な顔でガハハ、と笑いながら君の父さんは僕の肩を組んでくるし。
バカみたいな量のオリーブオイルをぶち込んだ料理ばかり並ぶ食卓。
眉を寄せる僕に「北部の男にはキツかったか?」なんて君の兄さんが煽ってくるのが悪いんだ。
結局、あの後調子に乗って食べまくったせいでリサに背中をさすって貰いながらトイレで吐いてたな。あれは本当に申し訳なかった。
その後、外の空気を吸いに行こうとフラフラした足取りで玄関まで歩いたあと、木の扉を押した。
リサの家の畑の近くを、黙って2人で歩いていたけど、そんなリサが僕の肩を叩いてきた。
え、と思って振り返ればリサはぴっと上を指差していた。
見上げれば、そこには満点の星空が。
僕は、夜空の青がこんなにも深くて。そして夜空の星がこんなにも明るいという事を初めて知った。
僕は、都会な北部出身だったからか田舎くさい南部が嫌いだった。それでもこの夜空を見て初めて、北部が嫌いになった。
なんだか泣き出しそうな僕の横で、リサは笑ってた。
南部も悪くないでしょう、と。
僕は、北部の良家出身であった。
過度な親の期待と、周りからの目。
いつもいつも、抜け出したかった。
だからこそあの日、僕はリサに惹かれたのかもしれない。
出会って数時間だというのに、なんの怖気もなく僕に観光案内を頼んできて、ベラベラとどうでもいい話ばかり楽しげにしていた君に。
君と結婚する。と決めてからは本当に君に苦労をかけてばかりだったな。
僕の母親は、リサを見て「なんでよりにもよって南部の女なんか」と言い捨てていたよな。
君のあの悲しみに染まる瞳を思い返すだけで胸が焼けるように痛い。
俯いて、何も言わずに唇を噛んでいた君の横で僕は「リサ以外と結婚するつもりはない」と言って、君の手首を掴んでサッサと実家を後にしてしまったね。
――イヴァン、あなたって本当バカねぇ――
君はそう言うくせに、笑ってた。
小説に出てくるヒーローみたいね、って笑ってた。
僕の実家から嫌われたって、僕は一生君を思い続ける。
僕は、何があっても君の味方だ。
そんな誓い。何一つ守れていない。
なぁリサ。
僕と初めて会った日、君が僕に案内させたヴィネチアの美しさを覚えているか。
2人で近所のパン屋でパンを買って、鳩に餌をやった事を覚えているか。
初めて唇を重ねたあの日の事を覚えているか。
いつも底抜けに明るい君がみせた涙に、僕までもらい泣きしてしまった事を覚えているか。
僕のプロポーズの言葉を覚えているか。
君のウェディングドレス姿を見て、泣いてしまった僕を「情けない」なんて笑っていた事を覚えているか。
子供が巣立てば、2人で南部でノンビリ過ごそうなんて約束を、君は覚えているか。
アパートの階段を、二段飛ばしで駆け上がっていく。
そして僕とリサとルカが暮らしたあの部屋の扉を押す。
しっかり鍵をかけろよ。なんて叱る暇もない。
僕は「リサ!」なんて君の名前を呼びながら転がるように部屋の中に入る。
リサは、ぼんやりと立ったまま窓の外を見ていた。ようやく僕に気づいたらしい彼女は、イヴァン?なんて漏らした後に、心底驚いたような表情で僕を見てきた。
「リサ、リサ」
君を強く、抱きしめた。
君は、こんなにも細い人だったか。
ルカが生まれて14年か。そうか。もうこの感触は、14年振りになるのか。
「イヴァン……どうしたの?」
君の手が、僕の背に回ることはなかった。
リサは少し僕の肩を押し、体を離した後にそう言って僕を見上げた。
「リサ、リサ。悪かった、悪かった……」
もう何を言えばいいのか分からない。
胸には様々な言葉が溢れ出してきているというのに。
そんな僕を見て、リサは少し目を伏せる。
「おかしな人。なんですか。急に私を抱きしめたりして」
リサは、そう言って笑った。でも、笑えていたのはほんの少しのあいだだけであった。
おかしな人、ともう一度呟くと彼女はボロボロと涙を零した。
「思い出したんだ、きみの事を。きみと過ごした日々を」
そう告げれば、リサは自分の顔に手をやった。ひぐ、ひぐと彼女が泣く音がただ響く。
「あなたは酷い人よ。あなたみたいな北部の王子様と結婚しなきゃ良かった」
「あなたは、いつだって私の味方でいてくれると言ったじゃない。うそつき、うそつき」
リサはとん、とんと僕の胸を叩きながらそう言った。
その姿に、ただただ泣けてくる。
「すまない。ほんとうにすまない」
そう言って、もう一度リサを抱きしめる。
今度はリサもぎゅうっと僕の背中を握った。
「リサ、僕は……」
「イヴァン、もう何も言わなくていいわ。ただ、黙ってその顔を見せて」
僕は、君の言っている事が分からなかった。
僕が君を抱きしめる力を少し緩めると、君は僕を見上げて「笑ってないのね」なんて言って、泣いた。
「ばかなひと、ほんっとうにばかなひと」
そう言って、君は笑った。
そうだ。君はよく笑う人だった。
いつも底抜けに明るくて。
周りにどんなに不釣り合いだと言われても、君はいつも「そんなの知ってるわよ」なんて笑い飛ばしていた。
この14年間、僕はリサという女性は静かでどこか冷めた女性だと思い込んでいた。
僕が不貞を働いても、何も咎めない。そんな冷めた女であると。
そうではなかったのだ。
この14年間、君は君自身を殺していたのだ。
「あなたは、自分で思っている以上に分かりやすい人なのよ」
リサはそう言った。
僕は泣いた。
リサ。
君の愛したブルーナはもう死んでしまったか。
それなら、また新しく犬を飼おう。
あの抜けるような青空の下で、 舗装もされきっていない道を散歩させよう。
麦わら帽子をかぶって、カゴに農作物をブチこんでいく隣のおばさんに「お熱いねぇ」なんてからかわれても、恥ずかしい!なんて怒ったりしないから。
こんな冷たい北部の街なんか、君には似合わない。
あの笑顔のあふれる南部の街に、帰ろう。
僕のこれからの人生は、すべて君への罪を償う為に費やすよ。
14年間も、僕は君をひとりにしてきた。
僕のことは許さなくていい。
一生憎んでいても構わない。
それでも、僕が君をもう一度愛する事は許してほしい。