前編
夜半に降り出した雪は眠るように横たわる一人の女の上へ、まるで薄衣を掛けたようにうっすらと積もった。
一面の白に反射した光が彼女の黒髪を照らしている。
音すらも包み込む静かな雪の中、一人の男が近づきそのまま彼女の脇に屈み込んだ。それに合わせ装身具が冷たい音をかすかに鳴らす。
男は剣をしまうと目を閉じたままの女の息を確認し、彼女を抱え上げた。青白い頬に血の気はないが、少なくとも生きている。急がなければ――。
力強く雪を踏みしめ、男は足早に来た道を戻っていった。
私はわざとらしく自分の好きな小説の一部を読み上げた。
暖炉の中ではぱちぱちと薪が燃えている。私はその暖かみを心地良く感じながらロッキングチェアを少し前後にゆらゆらと揺らす。
「リサは本当にその小説が好きだな」
呆れたようにそう言いながら、自分の夫であるイヴァンが近くのソファーに腰かける。
飲んでいるホットミルクを羨まし気に見れば、彼は「ん」と私にカップを突き出してきた。
私は少し腕を伸ばしそれを受け取る。そして、温かいカップから熱を貰うようにして側面を手で包みこんだ。
彼の腕がにゅっと伸びてきて、私の膝上に置いてある小説を彼が奪おうとする。私は彼の顔を見て少し笑った後、カップを彼に返し自分は小説を手に取った。
ミルクは飲まないのかよ。なんてイヴァンは呆れ気味に漏らす。
「この小説はとてもいいわ」
「……リサのロマンチストっぷりにはもう言葉も出ないね」
呆れた。そう言って彼は笑う。
ロマンチストだなんてそんな大層な。
そう思いつつも外を見ればちらちらと雪が降り始めていた。ああ、もうそんな季節か。なんて少し目を伏せる。
「雪だ」
雪を見てぱぁっと表情を明るくさせるイヴァン。雪でそんなにはしゃぐだなんて。子供じゃないんだから。
私が今日のお昼タバッキで買ってきたタバコを彼はくわえて、火をつける。喫煙最低年齢の16歳の頃からタバコを吸っている彼は根っからのヘビースモーカーである。
彼の吐く白い煙を見ていれば、「ああごめんよ」なんて彼は笑いながら適当な言葉を言う。
別にもう貴方が室内で吸う事なんか気にしてなんかいないけど、わざとらしく彼を咎めてみる。
「別に気にしていないけれど」
「気にしてないなんて嘘つけ」
「……そうよ。本当はやめてほしいの」
「悪い悪い。やめるよ」
「笑ってる。やめる気なんかないでしょう」
呆れたようにそう零せば、イヴァンはくつくつと笑った後に「リサにはお手上げだ」と言う。事実上のタバコ肯定宣言に私はため息を漏らす。
「ああ、子供が出来るまでにはやめてほしいのに」
「子供の名前は何にする? リサなら女でも『ルカ』なんて付けそうだ」
「うるさいな。話を逸らさないでよ」
はぁ、とまたため息が漏れる。確かにルカ、という名前の響きは昔から気にいっているけど。
彼はタバコを止める気は特に無いらしく「考えとく」なんて言葉をどうせ考えないくせに笑いながら漏らす。
私とイヴァンは、それこそロマンチックな出会いをした。
冬場、スペーニャ広場でジェラートを食べていた私がぶつかった相手がイヴァン。
自分の服にべったりと付いたジェラートをまじまじと見つめた後に、彼は冬場にジェラートを食べるなんて、変わった女だと呆れた様子で漏らした。
流石に私とて冬場にがたがたと震えながらも、無意味にジェラートを頬張るような女ではない。
スペーニャ広場に来たからには、どうしてもジェラートを食べたかったのだ。どうしてって?……まぁこれを言うと、イヴァンはまた私をロマンチストだと言うのだけど。
自分の好きな小説の中で、スペーニャ広場でジェラートを食べる印象的なシーンがあった。私はそのシーンに強烈に憧れていたのだ。
私がそんな憧れのシーンをなぞっていた時にイヴァンと出会い、そうして今夫婦として過ごしているのだから神様も相当なロマンチストだとは思うけれど。
「女の子だったらね、ルカという名前を諦める代わりに物凄く甘やかそうと思うの。あそこの香水をつけさせて……」
「香水なんて子供には早い」
「そんな事ないわ」
私がぐっと身を乗り出してそう言えば、彼はどこからくるのかなぁその自信。なんて窓から外を見ながらそう言った。
イヴァンはそれ以上なにも言わなかった。
イヴァンは遠い昔「リサの黒髪はとても綺麗だ」なんて私を口説き落とした。……「金髪の王子」なんてもてはやされるイヴァンから褒められたこの黒髪が自分でも気に入っている。
そう言えばイヴァンはまた誇らし気に胸を張って「リサの魅力に気づけるのはやっぱり僕だけだ」なんて言いそうだから黙っておくけれど。
私とイヴァンは、良い夫婦であった。
そう、この日までは。
イヴァンが怪我をした。
そんな知らせを受けたのは次の日だった。
イヴァンに何があったの。と問えばバナナの皮に滑って階段から転んだという間抜けにも程がある答えが返ってきた。
私は病院までの道のり、白く積もる雪をざくざくと踏みながら「イヴァンに会えばコテンパンにバカにしてやろう」とこっそり企んでいた。
バナナの皮に滑って階段から落ちたなんて、あなた本当に間抜けにも程があるわ。と。
病室のドアを押せば、そこにはベッドの上から窓の外に降る雪の姿をぼんやりと見つめるイヴァンの姿があった。
ドアが開いたのに気が付いたのだろう。包帯をぐるぐると巻かれた頭を少し掻いた後にドアの前に立つ私を見た。
私は、イヴァンのベッドの横に神妙な面持ちで立つ看護師と医者の姿を不自然に思いながらも「あなたって本当にバカねぇ、イヴァン」なんて漏らした。
いつものイヴァンなら少し眉を寄せた後に「バカとは何だ」と返してくる。
しかし、イヴァンは私をぼおっと見つめたまま何も言わなかった。
今思えば、このまま何も言わないでいてくれた方が良かったのかもしれない。
「君は誰だ?」
世界が沈黙した気がした。
私は何も言えなくなってしまってただ、「イヴァン」と彼の名前を茫然と呼ぶ。
先生と看護師さんは困ったような顔をした後、私を部屋から出した。
ぱたぱたとシーツを持った看護師が慌ただしく廊下を行き来するのを見ながら、医師はやけに神妙な面持ちで口を開く。
彼は記憶を無くしてしまった、と。
原因はバナナの皮に滑ったからだ。
あまりにもおまぬけな原因。それでもイヴァンのあの表情を思い出して、何も言えなくなってしまっていた。
イヴァンの私を見る時の表情が好きだった。
呆れたような。でもどこか愛情に満ち溢れているそんな姿。
もう一度、病室に戻ってみればイヴァンは私をちら、と見た後すぐに窓の外に目をやった。
数日後、退院したイヴァンとスペーニャ広場に足を運んだ。
イヴァンはベッドの上で「そうか、君は僕の妻なのか」と言った。思い出したからではない。看護師が「奥さんのリサさんですよ」とご丁寧にも紹介してくれたからだ。
イヴァンは記憶を無くしたくせに、タバコの味は覚えているようでスペーニャ広場の階段に座りながらただ煙を吐いて居た。
私は何も言わず、イヴァンの隣に腰かける。
「ここは人が多いな」
彼はそう呟いた。
イヴァンは、どうにもこのスペーニャ広場の階段から落ち記憶を失ったらしい。
私とイヴァンが出会ったこの場所は、思い出の地ではなく悲しみの地に変わり果てていた。
「僕と君の仲は良かったか」
「さぁ、どうでしょうか」
含みをもたせたそんなもの言い。
イヴァンは私のそんな言葉に「君と僕はあまりに違っている」と煙を吐きながら呟いた。
その言葉は、私からすれば今のイヴァンが過去のイヴァンに「どうしてこんな女を選んだのか」と問いかけているように聞こえた。
私は、南部のド田舎出身の女である。
髪の色は黒。作る料理はオリーブオイルたっぷり。
友人達にはよくからかれたもんだ。「金髪の王子をよく落とせたな」と。それほどにイヴァンは皆の憧れの的であった。
きっと、あの日あの時この場所で、イヴァンとぶつからなければ私はこの人と結婚できていなかった。
「君は、こんな僕の事を愛してくれているか」
「はい、私はずっと貴方の事を愛しています……」
たとえ、貴方の記憶が無くなろうとも。私の中にイヴァンを愛した記憶は残っている。
彼は、煙をまた吐いた後に、少し笑いながら「ありがとう」と言った。
「そうか。君は下生まれなのか」
私の料理を見たイヴァンがそう言った。
下、というのはおそらく南部の事を指しているのだろう。彼は水を少し含んだ後、彼の前に座る私を見た。
私と過ごした記憶は忘れているくせに、こういう料理を作る女は南部出身だ。なんていうどうでも良いことは記憶に残っているらしい。
「すみません田舎くさい料理で」
「すまない、そういうつもりで言ったんじゃない。……気分を悪くさせたなら謝る」
イヴァンが急に焦ってそう言うので、私は少し笑えてしまう。
彼が私の料理を口に運びしばらくしたのち笑いながら「僕好みだ」と言った。
「君はその小説が好きなのか?」
私が夕食の後、ロッキングチェアでゆらゆら揺れながら小説を読んでいた時だった。
私は小説を閉じ、自分の膝の上に小説を置く。
イヴァンはそんな私の行動を不思議に思ったようで少し首を傾げていた。
「凄く好きよ」
「……どんな話なんだ?」
「……あまり上手く言えないけれど、良い話よ。素敵なハッピーエンドなの」
彼はふうん、と呟いた後に外を見て「雪だ」と呟いた。
この季節だから珍しい事ではないと思うけど。
「この小説のヒーローの『ルカ』はとても格好いいのよ」
「そうか、僕もまた読んでみよう」
彼はそう言って笑った。
私はぐっと立ち上がって、彼が座っている横に腰かける。ソファがぎし、と軽く軋んだ。
イヴァンは私が突然隣に座ってきた事にかなり驚いていたようで、また少し首を傾げた。
「子供が出来たらね、男の子なら『ルカ』って名前にして。女の子ならそれを諦める代わりに香水を付けさせてあげるの」
「その話は聞いた事があるぞ」
イヴァンは、少し得意げにそう言った。
まぁね、私は貴方が記憶を戻してからもこの話をした事があるし。
私は、彼の愛情をねだるようにイヴァンの胸元のシャツをぎゅっと握り、そこに顔を寄せた。彼らしからぬ、柔らかで甘い香水の香りがした。
「香水の匂いがするわ」
「君があまりにもその話をするから、今日は店で香水を見ていたんだ。高くて買うのはやめたけど」
彼はくつくつと笑いながらそう言った。
「イヴァン、私はあなたを愛しているわ」
「ああ、僕もだよ。僕は君を愛している」
そう言う、イヴァンの顔を私は見る事が出来なかった。
夫婦というものは、愛し合った過去があるからこそ一緒に居る事が出来るのだと私は思う。
私と愛し合った過去を失ってしまったイヴァン。ある日目を覚ませば、突然この女が自分の妻だと言われる、そんなイヴァンの気持ちはきっと私には一生分からない。
あなたは、私の作る料理は田舎くさいといつも不満げに言っていたよ。
あなたは、ロマンチストな私をバカにしていたよ。
あなたは、私の事を「リサ」と呼んでいたよ。
もはや、彼にとって私は「愛した妻」ではない。
いつかの自分が選んだ「前妻」でしかないのだ。
私にはイヴァンと愛し合った記憶がある。
だから私はイヴァンを愛している。
イヴァンには私と愛し合った記憶がない。
だから彼は私を愛していない。
私は、彼が嘘をつく時に笑うという事を知っている。




