2 桜のトンネル
今日みたいに稽古が少し早く終わった日は竹刀を手入れする事にしている。自分の防具は自分で手入れする。私は一人部室に残り竹刀をばらした。家で手入れする人もいるけど、私の場合家に帰ると絶対と言っていいくらい忘れてしまうので、気が残っている内に済ませる。特に竹刀は自分ではなくて相手を怪我させるので念入りにしておかなければならない。
私は左利きなので、かけるヤスリの向きも逆になる。誰かに頼むと細かいところで左右反対になるのが煩わしいから自分のものは自分で手入れするようになった。
「よしッ、と」
私は組み直した竹刀で構えをとり、その出来を確かめてから竹刀を袋に納めた。右利きがほとんどの社会では私の動作がぎこちなく見えると言われることが今まで何度かあるが、自分の中ではこれでもちゃんと規則正しく機能している。
六時のチャイムが鳴った。誰もいない道場に礼をしてから後にした。日常の動作だ。時間通りに事が進んでいるときは調子がいい証拠だ。
* * *
校門には待ち合わせをする人で賑わう。どの部活も似たような時間に終わるので、校門に人が集まるのは自然な成り行きだ。彼氏を待つ人、友達を待つ人、家族が迎えに来るのを待つ人――、待つ理由は人を待つという意味でおそらくみんな同じだろうけど、その相手はそれぞれ違っていて、それぞれにそれぞれのドラマがあって面白い。
「おーい、サラー、ルノーっ」
私は校門の前に立っている二人に向けて声を張り上げた。剣道の稽古の成果なのか、私の声は人よりもなかなか通るようだ。二人は私の声に気付いて手を振ってくれた。
「ごめーん、待った?」
私は待たせていた二人に駆け寄ると、二人は自分の左手首を指差して私に答える。
「うーん、5分くらい?」
「あたしは6分くらい」
「……っていうか二人とも時計してないやん!」
三人は一同に笑い出した。会った時には何か冗談を言う、関西地方の常識であり、ここ神戸でも基本的に同じだ。
私を待ってくれたのは同級生でバスケ部のサラと吹奏楽部で生徒会の役員も勤める晴乃だ。
サラは名前の通り私と同じ、純系の日本人ではない。お母さんは日本人、お父さんがヒスパニック系のアメリカ人で名字はフアレスという。スペイン語の名前なのでスペルはSarah Juarez と書く。基本的に外国語として英語を勉強する日本人には読みにくいので男女問わず彼女は名前で呼ばれている。髪は黒いが一目で分かる容姿、合理的にものを考える辺りは私の知っているアメリカ人の典型である。母語は英語(それもすごく訛っている)だけど日本に来てもう6年になるので言葉の壁は基本的にないが、たまに日本語をど忘れして英語に戻る癖がある。
彼女とは六年生の頃からの付き合いで、お互いに変わった境遇であった事から近づくようになり、喧嘩も衝突もあったけど、今では私にとっても彼女は、倉泉悠里という変わった人物を理解してくれる親友の一人だ。
そしてもう一人、ルノこと牧 晴乃は神戸市の東部、御影で日本酒を醸造する100年以上続いている老舗の会社のお嬢様だ。といっても彼女は決して派手でなく、普段は内気で目立たない方だ。そういう意味では私とキャラが似ているが、晴乃は家柄から醸し出す雰囲気もあって、制服や吹奏楽よりも和服とお琴が似合いそうな、見た目の感じが和風で私とは少し違う落ち着いた感じの子だ。何よりも、なにかと色眼鏡をかけて見られやすい私たち二人の素性を理解した上で、全く同等に接してくれるところが彼女の最大の魅力だ。
私たち三人は、クラスも部活も、もっと言えばキャラも素性もそれぞれ違うけど、なぜかウマが合う。あるきっかけを通じて私たち三人はいつもつるむようになった。お互いがいるからお互いが救われてここまでやって来た。一人が二人について説明するならば、これだけで説明が出来る。
そして私たちは学校のみんなにはまだ知られていないが、もう一つの顔を持っている。それはあともう少しの秘密だ。
「さ、行くよ」
「『桜のトンネル』へ」
「Here we go!」
揃った私たちは校門を出て、いつもとは違う道を歩き始めた。
*
学校は山の麓にあって、下校道は下り坂だ。前を見れば神戸の港が傾いた陽に照らされてよく映えて見える。今日はちょっと寄り道して、摩耶山の麓、ケーブル駅のそばにある「桜のトンネル」を見に行こうと二人を誘っていた。この辺では有名な桜の並木道、一本の長く続く坂道を桜の木がトンネルを作り、そこを通る人の心を和ませる。私は毎年一度は必ずこの美しいトンネルを通る。物心ついたくらいの小さな子供だった頃、まだ家にいた父に手を引かれて見に来て以来すっかり虜になり、自分が日本人で良かったと思えるひとときを堪能できる場所だ。
「ほらほら!キレイだよ」
私とサラは部活の疲れも忘れて坂道を駆け上った。坂のてっぺん、見えなくなるまで続く淡いピンク色、これを見て美しいと思わない人はいるだろうか。
「待ってよぉ」
坂の下から晴乃が追い駆けて来た。
このトンネルは自動車なら下りの一方通行だけど、歩きの私たちには関係ない。対向でゆっくり降りる車や市バスの横を通り抜け、同じように桜を眺めて歩くお年寄りを追い抜き、トンネルの頂点に到達した。
「素晴らしい、これが日本だよ」
一着の私は諸手を上げて美しいことを表現した。
「雨降らんで良かった」
続いて到着したサラと並んで晴乃を待つ。
「ホンマやね、降ったら散ってしまうものね」
三人はトンネルの端っ子に並んで、向こう側が見えないくらい見事に咲いた桜並木を見て、ただ立ちすくしていた。
「さくら さくら 弥生の空は 見渡す限り」
「かすみか雲か 匂いぞ出づる」
「いざやいざや 見に行かん」
私がつい、口ずさむように歌いだすと、サラが流暢な日本語とメロディで私に併せて歌い出す。そして最後に晴乃も加わり、和歌の五七調は見知らぬ通行人を微笑ませた。
「この景色を見たら、つい歌ってしまうねん」
「和歌のテンポはあたしも好き」
「二人が言うと、意味が深いねぇ……」
晴乃は私とサラをの方を向いた。桜の下に並ぶ私とサラ、それを見てここがどこかちょっと錯覚するのは晴乃だけではないと思う。
「日本人じゃないから、日本人であるように努力してるんだ」
サラは白い歯を見せた。
「あたしも似たようなところ」
私が続くと晴乃は何も答えずに微笑んだ。私たちは何の偏見もなくお互いに、倉泉悠里、サラ・フアレス、牧 晴乃という一個人として接する事ができるこの関係が好きだ。
「この素晴らしい『日本の春』を記念撮影しようか」
登りきった坂道を下りる途中、サラがカバンに忍ばせていた使い捨てカメラを出した。
「いいねえ」
私は竹刀袋を前に持ってポーズをとる。
「――で、誰が撮るの?写真」
その横で晴乃が質問した。三人で撮るにはこのカメラでは難しい。なのに私たちは考える訳でもなくなぜか笑いだした。
*
「おーい!」
私たちが気をもんでいるところにトンネルの下の方から、威勢のいい声が聞こえてきた。私よりも遠くまで通る聞き覚えのある男子の声だ。その声の主は私たちを捉えると、まっすぐにこちらの方へ上ってきた。
「何しとう?」
「あ、ちょうどいいところに」サラはニヤリと微笑む。
「なになに?」
「写真撮ってくれん?」
声を掛けたのは篠原健太君、剣道部の主将だ。どういうわけだか高校三年間私と同じクラスでかつ剣道部員なのは私と彼だけなので、いつも同じグループに括られてしまい、さらに、ところ構わず私を見かけたら普通に声をかけてくるので、ちょっと恥ずかしい時がある。
しかし、彼は稽古が終わると一人練習用の木刀で素振りをしてから帰る練習熱心な男子だ。自分的にはチャラチャラした男子より、硬派な彼の姿勢は嫌いじゃない。
「ああ、いいよ……」篠原君がカメラを構えると私たち三人は並んでポーズをとった。「じゃあ、俺の頼みも聞いてよ、倉泉ぃ」
シャッターがおりた直後、私の方を向いた。上手いタイミングでしてやられた。
「撮る前に言うてよ、そういうの」
少し膨れた顔を見て得意気に笑っている。
「あのさ、次英語で当たるんやけど、ちょっと教えてくれへん?」
「えーっ、またぁ……」
「私だったらなんぼでも教えたげるよ」
口を挟んだのはサラだ。
「うーん、サラの和訳って何かちょと変だしなぁ」
「それどういう意味よ」
「まあまあ……」
ちょっと膨れたサラの顔を見て今度は私が間に入った。
「倉泉は英語すごく出来るやん、クォーターなんでしょ?」
「え?……うん」私は下を向いた「確かにそうだけど、私、生まれも育ちも神戸やから、もうひとつピンとこうへんの」
「じゃあ何で英語わかるん?」
「それは家や学校で勉強したからで、クォーターだからコトバわかるってのは大間違いよ」
「そうだよ。外国にすんでたら日本人も日本語話せなくなるよ」
今度は晴乃がフォローしてくれた。
私はクォーターであることは間違いないし、否定をするつもりもない。でも自分から言わないと決めている。言えば答えたくないことも答えなくちゃいけないし、何より面倒だ。そうすることがこの国の社会を円滑にたち振る舞う方法であることは自然に学んだ。
あまりふれて欲しくない情報であることを暗に示して言うのだが、同じ剣道部の主将には私の行間が読めていないようだ。
「ほーら、悠里が困っとうやん」
サラが間に入ってきた。私の心中を察するといつも二人がブロックに入ってくれる。
次の言葉に詰まってしまい私は下を向いたまま何も出来なかった。いつもこうだ、引っ込み思案な自分の性格が恨めしい。
「ホント倉泉は面を取るとキャラ変わるよな?」
篠原君の言う通り、私は内気な方だと思う。目立とうと思うことはないし、目立てるような特技もない。でも、道場で面を付けると活発な悠里に変身するのが自分でも不思議だ。
彼の言葉に悪気はない。むしろ場を和ませようとフレンドリーに話す。しかし、悪気のない言葉は悪意に満ちた言葉より鋭利に人の心に入ってくる時がある。
私たちはトンネルを下りきったところで足を止めた。分かれ道だ。
「行くよ、健ちん」
「わっ、何すっだよルノ……」
「じゃね、サラ、悠里。明日『Q』で」
「オーケイ」
小学校からずっと同じ学校だった晴乃と篠原君はにこれから電車に乗って帰宅するので、駅の方へと坂を降りていった。剣道部の主将も晴乃に弱みを握られているかのように逆らわない。実際に晴乃の方が少しだけ背が高いので、力関係もそのように見えてしまう。
「あーあ」
「ルノは篠原君には強いよねぇ」
「うん、ホンマ……」
普段はおとなしい晴乃、だけど篠原君は知り合って長いのか彼にだけは夫婦漫才の如く当たりが厳しく見えるのが余計に可笑しく見える。
私とサラは坂を下りる二人を見送った。目線の先に見える港の風景から、大きな汽笛の音が聞こえてきた。
*
「悠里……」
「なあに?」
サラと二人になると、彼女の言葉が急に変わることがある。日本に住んで長いけど、家の中では日本語がない事は彼女の家に招待された時に知った。
ここで問題がある、正直私はネイティヴほど英語が理解できない。他の家庭よりは家の中で英語が飛び交う環境にはあるが、それも以前の話で今はそうでなくなって長い。聞けば大体わかるけど、表現するのはもっと苦手だ。
学校でも活発で元気なサラ、だけど本当は繊細なところがあって、私の逆で言いたいことを日本語で表現するのが苦手なのを私は知っている。初めて彼女に会ったとき、それがわからないですれ違っていた時期があった。それを知った私がサラに近づきたくて私から勇気を出して声を掛けたことから今の関係が始まったのだ。
今度は私が中学生の時、困難な時期を強いられていた頃サラが私を救ってくれた。彼女こそ私の仲間だ。そう思って現在に至っている。
彼女が英語で話しかけるのは、私を仲間と認めたからだ。基本サラが人前で英語になるのは私と晴乃の前だけで、晴乃は西側訛りの強いサラの英語を理解しづらいようだが、それでも私たちはサラの言うことをわかるまで聞くことにしている。
「結論、出したの?」
サラは私の前に顔を突っ込んだ。
「何が?」咄嗟にとぼけるけど隠しきれない。
「何がって、『キャプテン』の事よ」
私は愛想笑いをして目線を逸らした。
実は、去年の夏合宿で私は篠原君に「好きだ」と言われたことがあった。突然の告白に驚き、何せ初めての事でどうすればいいかわからずドギマギするだけで、何も答えられなかった。嫌いな訳ではない、むしろ彼の目指す剣道は好きだ。でも特定の人物として交際するのは私には想像がつかないし、自分の中で整理がつかないとそういう考えには至らない。ここまではサラと晴乃だけに話したことだ。
「中途半端なのは良くないよ、どっちにも」
「うん……、それはわかっとうけど――。どっちをとっても気まずくない?」
サラのアドバイスは痛いほどわかる。だけど何の進展もなく現在に至っていて、篠原君も私の性格を知っているのか、今まで通り決してギクシャクすることなく接している。
曖昧にして上手に関係を保つ事ももちろん大切だ、それは篠原君も同じだと思う。何もしないで後悔するのは嫌いだが、何もしない方が良い時だってある。だけど、何も事を起こさないのは自分のルールに反している。結局は現状に満足して、決断しなければならない時に決断できていない自分がとても嫌いだ。
「まぁ、難しいよね……」
「うん――」
考えながら歩いている内に私たちは小さな公園を横切った。細い道路を隔てた向こうに小さな二階建ての古い文化住宅が見える。私の家だ。