10 ハッピーバースデー悠里!
道場の更衣室で着替えていると、キムが入ってきた。何やらいいことがあったのかご機嫌でニコニコしている。
「悠里、今日は何月何日?」
「3月31日でしょ、どうしたのキム?嬉しそうな顔して……」
「今日はね、篤信先生の誕生日なんだって」
私は微笑んだ。そうだよね「実はあたしも今日が誕生日なんだ」って教えてないから日付指定のイベント事といって思い付くのはそれくらいだ。今日はイースターでもあるけどそれは新月の日であってたまたま今年が今日だっただけだ。
「さ、行こ!おいでよ悠里、みんな準備できてるんだ、早く」
「ちょ、ちょっとぉキム、どこ行くんよ?」
私は訳もわからないうちにステファンがハンドルを握る車に乗せられた。その間キムに眼鏡を奪われ目を塞がれ、そして数分、車から降ろされた私はキムから眼鏡を返されて周囲を見渡すと、柔らかいピンク色の光が、水に落とした絵の具のように優しく私の目に広がって行くのに気持ちの良さを感じた。
「わぁ……」
池のほとり一面に広がる桜の林。私が以前ここに来た時覚えている風景だ。異郷の地に咲くソメイヨシノ、日本のものと同様に、決して押し付けがましくなく淡く、そして潔い。ここが日本であることを思わせるほどだ。
見とれるあまり時間が止まった。嬉しくなって誰もいない前に向けて一歩踏み出そうとしたら、
「Three two one」
というステファンの声が聞こえた。私もそれに反応して後ろを振り返ったその瞬間、大きな破裂音とともに私の目の前に金や銀の紙テープが私の頭に振り掛かったのだ。
ハッピーバースデー、悠里!
「なな、今度はなに?……何?」
視界を遮るテープを掻き分け取り払い周囲を見回した。みんなめいめいに私に向けてクラッカーを発射したようだ。さっきまで一緒だったキムも後ろから、同じく今日が誕生日の篤信兄ちゃんも真正面から、家でお祝いすると言ってた聖郷は下から、今日は西守邸に来るはずのお兄ちゃんも、お父さんもエディ夫妻もさらには車椅子のお婆ちゃんまで!倉泉の一族が勢揃いではないか。
「だから言ってるでしょ、お誕生日おめでとう、悠里」
まだ整理ができずに呆然と立っている私の後ろからキムに両肩を押され、真っ直ぐ輪の中へ進んでいった。大袈裟な言い方だけどいつの間にかそこが小さな屋外パーティ会場になっている……。
「ほら、悠里。あたしとお父さんとでケーキ作ったんよ」
テーブルの上には手製のケーキが置かれている、朝から私を追い出すように見送ったのはこのためだったようだ。そういやアメリカのケーキは四角だ。ケーキには防具を着けた袴姿の私が描かれた上に「Happybirthday Yuri」と書かれていて、ろうそくもちゃんと17本立ってある。
「ありがとう……、みんな」
ここ10年まともに祝って貰ったことのない私は何と言っていいのかわからず、それ以上の言葉がまとまらなかった。嬉しいのにそれを表現出来ない自分が恥ずかしい。
「悠里のためにこの場所を思い付いたんや」
「見たかったんでしょ?異郷での故郷を」
照れるあまり背後にある桜の木に目を逸らすと、お兄ちゃんとお姉ちゃんに後ろから片方づつ肩を掴まれた。
場所を含めサプライズを計画したのはお兄ちゃん、実行のために連絡を取り合って段取りをしてくれたのはお姉ちゃんだということを今この場で教えてくれた。
「今まで誕生会らしいことしてなかったもんね、悠里は」
「10年分を一回にしただけやから勘違いすんなよ」
口ではそう言うけれど、私には二人の優しい気持ちが強すぎるくらい伝わる。嬉しい以外の言葉で表現しても、ありきたりの言葉しか思い付かず、やがて表現そのものをやめた。
「キレイだ――、キレイだよ」
外見は優しく淡い色をしているにもかかわらず、異郷でも力強く根付く日本のDNA。私は嬉しくなってこの同じ匂いのする並木に駆け寄って思わず抱きついた。
*
異郷に咲く故郷の桜――。
これは祖父の倉泉泰盛始め多くの日本人が異郷に移り住み、故郷を思って植えたものだ。今とは違う激動の20世紀に、この桜の木同様に先人たちはここで日本人であり続けたのだ。
「悠里――」
ゆっくりと私を追いかけて来たのはお父さんだ。さっきの真剣な顔は面を取るといつもの父に戻っている。
「どうだ?合衆国の桜も綺麗だろう」
私は小さく頷く。
「神戸の桜はどうだ?」
「ここに来る前はまだまだだった。もうちょっと先かな」
桜の下で、私たちは違う国にある同じ桜の木を頭に浮かべた。それと同時に、あの時の自分が父の手を引っ張ってそこへ連れて行こうとする姿が目の前に見えたような気がしたが、それはやがて消えた。
「神戸の桜を見ると、ここの桜を思い出していたんだ――」
お父さんが神戸で桜を見たがっていたのは、遠い故郷を思ってのことであると今初めてわかった。同じものを見ていても、その向こうにある思いは違う――。確かにそれはすれ違いではある、だけど、今日の自分はそれをそれとして認めてることで分かることがあるのだと感じたような気がした。
「悠里、こっち戻って来なよ。写真撮ろうか」
後ろからカメラを持ったお姉ちゃんの呼ぶ声が聞こえた。私とお父さんは再びテーブル周りに戻ると
「面白い物があるんだ」
そう言ってお父さんは古い写真を見せてくれた。10年前のちょうど今日、この桜の下で撮られた写真だ。
「わぁ、懐かしい!」
きょうだい三人で写った写真。右端のお兄ちゃん、真ん中でお姉ちゃんに抱っこされた私。みんな満面の笑みを浮かべて良く撮れている。今はそれぞれアメリカ、東京、そして神戸と離れているが、久々にきょうだいが遠い異郷で、そしてこの日本生まれの桜の木の下で一つになった。
そして今日はお父さんもいる。あの時はお母さんがお父さんの横で私たちに笑顔を見せるようジェスチャーしていた事を思い出した。
探したら家のどこかにもあると思うこの写真、楽しかった家族の記録はこの辺で途絶えたのだ。それからちょうど10年――、絶望的状況ではなくなったが倉泉家全体はあれからまだ一つになっていない。
「へぇ、これってあれじゃん『タイムスリップ写真館』できるやん」
後ろからお兄ちゃんが私が手にした写真を覗いて見ている。
「何それ?」
「全く同じアングルで写真を撮るねん。その写真からちょうど10年後のやつ」
「ははーん、それ面白そうやん」同じく後ろにいたお姉ちゃんは相槌を打った「だけど、私は悠里をだっこできないなぁ」
お姉ちゃんは自分のお腹を擦った。
「じゃあ俺がしようか?」
お兄ちゃんが私の肩を掴み、もう片方の親指を自分に向けてこっちを見てきまってない決めポーズを取っている。この当時は身長差がかなりあったけど、今じゃお互い大きくなったから私を写真のように抱っこ出来る筈がない。ま、頑張ったら出来るかもしれないけど。
「じゃあ、お願いしようかな。お・に・い・ちゃん!」
明らかに目が嘘っぽいお兄ちゃんを見て冗談で返してやった。
「ごめん、勢いで言っただけ……。だいいち重いやん、おまえ」
「ひどーい!」拳で二の腕を思いっきり殴ってやった。女子にその言葉は言っちゃ駄目でしょ!
このやり取りを見てお姉ちゃんやお父さんだけでなく、言葉の壁を越えてここにいる人みんなが笑っていた。それだけを捉えたら私個人は面白くないけれど、こうして和やかに笑える雰囲気の中にいられる自分が幸せだった。
「まあまあ、三人で並べばいいやんか」
お姉ちゃんが私とお兄ちゃんの肩を後ろからつかんだ。
「はいはい、ま、そうなるわな」
「じゃあ悠里は真ん中ね」
そう言いながら私は二人の両腕を取って、しっかり並んでお父さんの方を向いていた。間が途切れると次への切り換えが早いところはやっぱりきょうだいだなと思う。
「Say cheese」
シャッターが下りたと同時に、さっきお兄ちゃんの言った言葉が再び頭に浮かんだ。それが引き金になったのか、私自身は10年前に気持ちがタイムスリップして、あの時の風景が見えた。
周囲に広がる同じ桜、亡くなったお爺ちゃん、まだ杖もなく歩けたお婆ちゃんも、エディの家族もまだかわいいステファンとキムもいた、両脇には同じきょうだい、そして目の前でカメラを持つお父さん。そして――、
「悠里、どうした?」
横から聞こえるお兄ちゃんの声で、10年前にいた私は現在に戻ってきた。
「足りない――」
*
「何が?」
心配そうに私の顔を見るお兄ちゃん。私の微妙な気持ちの変化が分かるようだ。
「ううん、何でもない」
兄の顔を真っ直ぐ見ることができずに背中を向けた。その反対側には姉がいる。
もう一度周囲を見た。あの時にはいたのにここにはいない人がいる――。
私の誕生日をこんなに祝ってくれているのに、今まで長い間、それこそ10年前の今日以来こんなに嬉しい誕生日はない。贅沢なのはわかっている、だけど、やっぱり足らないものがある。
「お母さんがいない――、ここに……」
嬉しいのか悔しいのかわからない。だけど目から自然に込み上げてくる。私は自分の環境について何度自分という人間の運命を恨んだろうか
「悠里……、おいで」
「お姉ちゃん」
目の前にはお姉ちゃんがいる。そう言って姉は私の眼鏡を取って顔を脇に押し付けた。あの時は子供だったけど、今はもう大人になりかけた年頃だし、自分よりも若いステファンたちや聖郷だっている。人前でカッコ悪いところは見せられない、
「いいよ、よく我慢したよ。ここまで――」
背中をポンと軽く叩かれると、今は我慢しなくていいと思った。それでも声は殺し続けたが、目から出てくる感情は止めようがない。
この時私の英語モードは完全に停止した。周囲から耳に入ってくる言葉は聞いてもわからなくなっていた。視界もない、お姉ちゃんの胸の中だ。ただ私の耳に入ったのは、お婆ちゃんが「スティーヴン!」と声を張り上げてお父さんを呼びつけている声が聞こえた。
「悠里――」
お父さんの声がこちらに近づいて来る。まだ感情は高ぶっているが、このまま間を延ばすのは自分の道に反する。私は小さく返事をして後ろを向いた。
「お父さん……」
「悠里にこれを、あげよう」
「これは……?」
揃えた掌の上に茶色い鍔が乗せられた。丈夫な革でできていて、桜の花弁と漢字で「守破離」の文字があしらわれている。私のレベルでは付けるのにはまだまだ早い代物だ。
「私が五段を取った記念に作った鍔なんだ」
「いいの?そんな大事なもの」
「当然だろう。悠里にはもっと強くなって欲しい」
「お父さん――」
私は鍔を握りしめた。革の手触りに重みを感じる。
「素晴らしいメンだったよ、一本目であれを出されたら私が負けていた。だけど勝負は最後まで諦めてはいかん」
悪い言い方だけど10年の間親らしい事をほとんどしてくれなかったお父さん。恨んではいないけど満足していると言えば嘘になる。どうにもならない境遇は受け入れる以外に方法はなく、その中でも何かがあるのだと自分に言い聞かせ続けてきた。
そして今、父から初めて剣道の指導をしてもらった。口下手でシャイなお父さんだけど、そう長くない言葉は私の長く暗かったあの時に止まったままで動かそうと何度も頑張ったけど動かなかった自分の時計がお父さんの短い言葉で動き出したのが感じられた。
「それと……、約束――」
「何だったっけ?」
「悠里が負けたら、私の条件を飲むと言ったな」
「うん、言ったよ」
男だけでなく女にだって二言はない。正々堂々と勝負して負けたのだから当然のことだ。心の準備は全くできていないけど私は父の言葉をじっと待った。
「昌代……、お母さんに伝えて欲しい」
「お母さん?」
私に条件をつけると思っていたのに拍子抜けした、それもこの場にいない唯一の身内の名前が出るとは。
離婚後両親はコンタクトを取ってるのかは私にはわからない。でも、お姉ちゃんから間接的に母がどんな状況なのかは知っているはずだ。なぜ私に言うのかあれこれ考えたが答えはなかった。
「いいよ、何を伝えたらいい?」
お父さんは私の目を見るとクスッと微笑んだ
「もし私のことを聞いて来たら『特にない』って答えて欲しい」
「いいの?そんなんで」
目を丸くして聞き直したけど失言でも皮肉でもなさそうだ。
「ああ――」いつもの照れ笑いを浮かべて私から視線を逸らした。
「それが、約束?」
お父さんはハイともイイエとも言わなかった「ずるいよ、それは」と顔を作る前に正面から両肩を掴まれてそれもできなかった。
「それができたら、もう一度勝負をしよう。今度は日本で」
「えっ?」
「それが約束だ、いいね?」
「お父さん……」
気付けば私は父に抱きついていた。
ねじまき式の時計はネジを巻けば動き出す。しかし、時計が壊れていればどれだけネジを巻いても動かない。お父さんが私の時計にネジを巻いたように私は止まったままのお父さんの時計のネジを巻いた、すると時計は動き出した。壊れてもなく動き出した。自分じゃなくても大切な人に動かしてもらうことって、あるんだ。それを確信できただけで嬉しいやら悲しいやらの感情は飛び越えて、私は顔をクシャクシャにして父の中に聞こえる時計の音を聞いた――。




