九話
急ぐと言う宣言通り、馬車はかなりの速度で州を駆けていた
あっという間に流れる景色を祥蘭はただひたすら見続けた
何もかもを網膜に焼きつけるのだと言うように
過ぎる景色には祥蘭が初めて見るものも多かった
緑の草原にいる生き物
小川に作られた回る音のなる木の輪
前者は放牧された牛で、後者は穀物を粉にする為の水車だと陽から習う
「(見上げた空はおんなじ青なのに、知らないものが、いっぱい・・・あの鳥篭から、五日しか経っていないのに)」
両親と暮らした小さな家も、飼い主に閉じ込められていた石作りの鳥篭も、どちらも如何に小さな世界だったかを祥蘭は認識したのである
そこに喜びよりも、寂しさが浮かんでしまうのは、両親と共に経験したかったと思ってしまうから
相変わらず顔を全く思い出せないが、夢は寂しくて怖くて辛いものだけでなくなった
何より、以前より飼い主が出てくるのが減っていた
陽から聞いた飼い主の未来を聞いて夢に影響する祥蘭の心がかわったのだ
文州と貴州の州境の村の近くを走っていると、空気を振るわせる程に大きな音が突然響きびくりと反応してしまう
「・・・・この鐘は恐らく婚儀を祝うものでしょう」
<夫婦になるための、儀式?>
「作用で御座います。」
儀式という単語に、胸元の守り袋を握る
「紅国では、婚儀の祝い方は村の数ほどあると言います。
この村では村人全員で順に鐘を付き鳴らし、祝福するようですよ」
<凄いね>
皆が、オメデトウと祝う・・・ひょっとして父母もああして村中から祝福されたのかもしれない
<近衛のみんなは結婚してるの?>
「公孫はしていますよ。息子と娘、まだ5歳だったと思います。」
<陽は?>
「私はしていません。他の近衛もしていませんよ
我々近衛隊は、近衛入隊時に生涯の独身を鳳凰様に宣言するのです」
<なぜ?>
「鳳凰様が、唯一無二の守るべき方ですから
公孫は一般武官から引き抜かれたので、妻子が居るのです
一度婚姻を結んだのに分かれる事は創世神に誓う約束を反故にする事と同じですから許されません。
・・あぁ、死別による再婚は許されていますよ・・・
まあそういう訳で、公孫以外の近衛は此処にいるもの、貴州に残ったもの含め未婚者ですね」
武官は、大きく分けて三通り
まず、近衛隊・・・精鋭100人で構成されるこの部隊は隊長の陽を筆頭に、一騎当千の実力者達だ
身分という概念も無く、心も身体もただ鳳凰の為に存在する特殊部隊
次に国武官・・・紅国の貴州に主に勤める武官達で耀明が纏めている
国の有事の際、勅罰、勅命に際し動く部隊で此方は実力も年齢も身分も幅がある
最後に州武官・・・各州の州城並びに州長が任命する武官達で、州によってかなり実力にバラつきが出る
例えば、武人を多く輩出してきた鋼州では国武官の上位に食い込むような猛者が居る
その一方で、文化人を多く輩出してきた学舎の州でもある礼州の武官は少し頼りないといった風に
国武官も州武官もそれぞれに国武試・州武試という試験を受け、受かれば晴れて武官となる
その門戸は広く開かれており文官の試験・・・国試・州試に比べると受かりやすいといえる
対して近衛隊は入隊するには数々の試験を突破しなくてはならない
国武試や州武試のように腕っ節だけ強ければいいというものではなく、知識や常識、礼節も試験される
国の長の側近くに侍るのだから、その選出はかなり慎重なのだ
百人受ければ百人落ちたこともある難関なのである
<とっても大変なのね。それに受かるなんて、皆凄いのね>
試験を受けたことも、学校に通ったことすらない祥蘭には気の遠くなるような事だと思う
彼らが必死に勉学に励んでいる頃、自分は何をしていたのかな、とふと思った
<(きっと、山を駆け回っていたわ)>
自身の嘗ての一日の過ごし方を思い返し苦笑をもらした
何時の間にか太陽は中天を指し、祥蘭たちは貴州と文州の州境にある河を渡り、貴州の端の町、蓮里に入った
蓮里は崋山とは規模の違いもさることながら、静かでのんびりとした町だ
勿論崋山が商業で成り立つ町というのもあるが、決して小さくないこの町がのんびりしているのは気質だろうと公孫は笑った
「蓮里は私の生まれた町なのです祥蘭様。
今は家族皆州都宝林に居を移しておりますが、武官になる前はココで過ごしておりました。人の流れも緩く、農業と狩りで生活をしている町です。」
時間が有れば案内したかったものです、と残念そうに笑う公孫に私も案内してもらいたかったわ、と返す
「いつか必ず、致しましょう。それまでに最新の名所を調べておかなければなりませんね」
ハハハ、と笑う公孫に頷いて返した
「あぁ、そうだ・・・祥蘭様、ちょっとお側を離れますね」
何か思い出したのか公孫は祥蘭と陽に断ると人の波の中に消えていった
静かでのんびりした街
この街の雰囲気はどこか居心地よくて、こんな町で育ったのだから公孫はきっとああも親しみやすい雰囲気を持っているのだろうと祥蘭は思った
「姫様、この町には昼食に立ち寄っただけですので対して長くは居れませんが・・・」
<わかっているわ陽>
「申し訳ありません・・・四半刻後に出発いたします。李伯達が昼食を買いに行っておりますので少々お待ちください」
一礼し、道の確認に行く陽を見送る
崋山ほどの賑わいでは無いが活気はあって良い町だと祥蘭は思った
皆笑顔にあふれ日々を生きている
幸せそうに歩く家族連れに夫婦、恋人
夢物語でしか描けなかった風景がそこにあった
じいっと町の様子を見ていれば人の波に逆らって公孫が駆け戻ってくる
額に滲む汗に急いだのが分かって首をかしげた
「祥蘭様、甘いものお好きですか?」
息を一つ吐いた公孫が笑顔で問う
<あまいもの?>
「えぇ。ちょっとひとっ走り行って来ました。この町は農業と狩りで生活していると申しましたが、農業の一部に養蜂をしているのですよ
これは、蜂蜜を使ったお菓子です。」
差し出された菓子は何時戻ったのか陽がまず齧る
「これは、花の匂いのするな」
「えぇ。蓮華の蜂蜜を使っているんです」
「甘いが、美味いな。どうぞ姫様」
陽から菓子を受けとって一口齧れば、酷く甘美な味わいが口に広がる
甘く、ほのかに香る蓮華の匂い
食べたことの無い甘さに祥蘭は思わずニコニコと笑う
「甘いものを食べると、幸せになれるんだと。妻からの受け売りなんですがね・・・
急ぐ旅です、きっとイロイロお辛いでしょう?せめてもの心の糧にしていただければと思います」
<ありがとう>
花が綻ぶ様に笑う祥蘭に陽も公孫も笑顔になる
「姫様、何食べてるんですー?昼餉、簡単なものですけど買って来ましたよ」
笑いあっていればそこに李伯達が合流する
李伯が手にもっているのは湯気のたっている白い塊
<これはなに?>
「あぁ!姫様の故郷の文州は米食ですもんね、饅頭は初めてですか?」
<まんじゅう?>
「えぇ。これには調味された肉が包んであります。貴州は麦食なので、市井の食事は基本的にこういった小麦を練って蒸した饅頭なんですよぅ」
ニコニコしながら簡単に説明する李伯にへぇ・・・と饅頭を見る
「饅頭は、飯にも菓子にもなるんですよ」
<そうなの?>
「ええ!自分は肉饅頭も好きですけど、餡子入れた餡饅頭も好きです。美味しいですよ」
<美味しそう>
「さあ姫様、温かいうちに召し上がってください」
陽に促され、既に陽によって端が欠けた饅頭を齧る
小ぶりな祥蘭の掌位の饅頭は、胃の小さくなっている祥蘭には十分な大きさで、溢れる肉汁に目を白黒させながらも完食する
陽たちは祥蘭が食べたのよりも倍はある饅頭を五つ平らげていた
<沢山食べるのね・・・>
「体が資本ですから、それなりには・・・しかし単純に姫様の食事量が少ないというのもありますよ。」
「そうですね。私のまだ幼い子供でも二つは軽く平らげますよ」
公孫はそう言うと、心配そうな目を向ける
祥蘭は、彼らと過ごし未だ5日・・・心配されることには慣れないままだ
モゾモゾとしたくすぐったさを感じてしまう
「姫様、本当にもう宜しいのですか?」
<お菓子ももらったもの。満腹よ?>
「分かりました・・・・では、出発準備をいたします」
一礼した陽は、すぐに近衛に指示を出し始め、近衛達は指示に従って素早く荷を纏め休ませていた愛馬の首を叩いて労わる
流れるような一連の動作に目を奪われる
この旅の間ずっと見てきたが、何度見ても無駄の無い綺麗な動作だ
おまけに近衛同士、隊長の陽と部下達、それぞれの信頼が見て取れた
そこに祥蘭の立ち入る隙は無い
<(少し寂しい気がする・・・)>
近衛達はお互いに切磋琢磨し、年月も掛けて築き上げた結果の信頼だ
そこについ五日前に初めて出会った祥蘭がどうして入っていけようか
心に突き刺さる棘に気付いていながらもどうする事も出来ないことを知っている祥蘭は、苦笑した
あっという間に準備を終わらせ、蓮里を後にする
どんどん遠くなる町の影に、祥蘭は目を細めそれを見つめた
5/19蒼国→紅国