十六話
「さて姫様、昨日の続きですよ。気になったところは全て書き残してくださいね」
紫白はそう言って、本をを開く
本は、紅国の中で学舎の州と知られる礼州で実際に使用されている教科書である
学業入門編用に作られた本は絵も多く、字も大きい
学のある人間からすれば逆に見にくい本ではあるが、紫白は苦にした様子はない
祥蘭の勉強の教師役は専ら紫白が引き受けている
紫白は流石にこの国最高位の文官だけあって、教え方が上手く、祥蘭のその日の機嫌や集中具合によって内容を変え、飽きの来ないように工夫していた
祥蘭の即位の儀まで、祥蘭はとにかく文字を覚え、読むことを完璧にする事を目標に掲げた
何をするのも、字が書けないと始まらないからだ
元々字を読めていた祥蘭・・・とは言っても、飽くまで基本の読みだ
複雑なものは読めないので、一ヶ月をかけて完璧にならないといけない
幸い、祥蘭は紫白との勉強以外でも遊び半分、興味半分で自主勉強を行っているようで後一ヶ月もすれば元々読みの基礎が出来ていたこともあり目標達成となりそうだった
また、字のみで一回の勉強時間一刻を使うには、集中力の持続時間がまだまだ短い祥蘭には難しく、合間合間に一般的に知られる常識と呼ばれる類のものを教える
紫白はこの勉強になって、初めて最初の祥蘭との出会い時に凱志が忠告していた知っている事と知らない事の差を実感した
周囲に民家の無い農家で生まれ育った祥蘭は州都やその周辺に暮らす子供ならば誰もが知るような国と世界の常識、御伽噺すら殆ど知らなかった
変わりに知っていたのは、方角の見方、野生の肉食動物に出会ったときの対処法、水の濾過方法、食べられる野草や茸の見方など幼い頃に必要だったから両親に生き残る為に教え込まれたもの
これから必要になるのは、国の上に立つものとして生きる為の知識だ
生き残る為と、生きる為というのは似ているようで全然違うものだ
これに対して紫白は頭を悩ませながら殆ど真白に近い祥蘭の知識を色付けていく
「では、おさらいから致しましょう。この国、紅国を基準に右回りに残りの五つの国、五体の聖獣はなんでしたか?」
「えっと、紅国・鳳凰、白国・風虎、紫国・地亀、黄国・麒麟、蒼国・水龍、黒国・闇獅子です
「はい正解です。紅国は、隣り合う黒国と白国とはけして多くはないものの交流していますね
黒国と唯一交易している港は、文州一の港、釜楊です
白国と唯一交易しているのは燕州の暁山ですね。山という字ですが暁山は港ですので間違えないでくださいね
それ以外の国とは国同士での交流はこの数百年の間殆どありませんね」
「国と国の間だとないの?」
「ありません。しかし、聖獣様同士、というのは過去何件かあるようですね
さて、次に鳳凰様についてです
鳳凰様・・・聖獣様というのは大地の化身です
鳳凰様が幸せな気持ちになると大地は実りを増やし、逆に鳳凰様の心が憎しみや悲しみに飲み込まれてしまうと大地は痩せ細ってしまいます」
紫白の言葉に祥蘭はマジマジと掌を見つめる
自分の身体に、本当にそんな力があるのだろうか
そんな、奇跡のような力が
白鐸から、確かに使い方を頭の中に直接入れられた
実際、出来るのだろう
けれど頭と心の認識は違う
祥蘭は何処まで行っても、あの鳥篭で無力だった自分が脳裏に過ぎるのだ
空に焦がれて手を伸ばすことしか出来ない自分を
「六体の聖獣、それぞれ司る力が異なります。
闇獅子でしたら闇、白虎でしたら風、麒麟ならば光というように。
鳳凰様は焔・・・癒しの焔を司ります」
紫白の声に現実に返る
「癒しの焔・・・?
白鐸様が喉を治して下さったように・・・?」
「えぇ
大地を癒したり、怪我を癒したり・・・単に癒すといっても様々です
ただ、とても気力を使うとも伝え聞いております。それに、過去、人前で癒しを見せた鳳凰様は余りいらっしゃらないので何処までが伝説なのか分かっておりません」
「・・・・・・・・」
「姫様?」
「あ、何でもないです。ごめんなさい、ぼうっとして」
「おさらいの前には字の勉強もしましたからね。集中力も切れてくる頃でしょう・・・
丁度八つ時です。鳴殻が直に茶菓子を持ってやって来るでしょう。
お茶にしましょうか。」
文官長が手ずから淹れる、その様子を見ながらも祥蘭はどこかぼうっとしていた
頭の中では癒しの二文字がぐるぐる回っている
「姫様?」
突然声をかけられて思わず肩が揺れる
「驚かせてしまいましたか・・・何度もお声をかけたのですが・・・」
「え・・・本当・・・?ごめんなさい、全然気が付かなかった」
「なにか気になることでも?」
「・・・・・・ちょっとだけ。でも、未だ全然、頭の中で纏まっていないから、纏まったら、聞いて欲しい」
「えぇ、そういう事でしたら幾らでもお待ちいたしますよ」
「ん・・・良い匂い
お茶の匂い?」
「えぇ、先に茶が入ってしまいましたね。
姫様はお茶が本当にお好きですね。」
「白湯しか飲んだことなかったもの。味のある飲み物って、とても良いなぁって思うの
此処に来るまでに飲んだ、竹筒の白湯は美味しかったけれど」
「ほう・・・?」
「竹のね、いい匂いが白湯に染みこんでいたの。」
「なるほど、それは私も飲んでみたいものです。耀明にでも言って竹を刈らせましょうかねぇ」
クスクスと、二人の静かな笑い声が響く
「失礼致します
鳴殻です。八つ時の菓子をお持ちいたしました」
扉を叩かれ、鳴殻が菓子の乗った盆を両手に頭を下げていた
「遅かったですね鳴殻。お茶のほうが先に入ってしまいましたよ」
「申し訳御座いません」
大きな身体を小さくして謝る鳴殻に冗談ですよ、と紫白は微笑む
「お茶をゆったり飲みながら、菓子を楽しみに姫様と会話を楽しむのも中々良いものです
貴方は妥協しませんからね、満足いくまで配合を変えたのでしょう?」
「仰るとおりで・・・紫白様には敵いませんね」
「貴方を知っているものならば誰でも想像付くことですよ
・・・余り長話をしていてはいけませんね。姫様の瞳が菓子に釘付けです」
クスクス笑う紫白の言葉に、視線を祥蘭に向けた鳴殻は目元を和らげ一礼する
キラキラとした視線は一心に鳴殻の持つ盆の菓子に注がれている
「姫様、お待たせいたしました」
「美味しそう・・・有難う、鳴殻。とっても楽しみにしていたの」
祥蘭が白雲城にやってきて二週間・・・眠っていた三日間は別にして・・・毎日の一番の楽しみは八つ時の菓子だ
菓子を食べるという習慣があるのは、街に住む比較的裕福なものか、貴族位なもので、農民などは一日二食の食事にあり付く事が出来るだけ良かった
冬の時期には山から獣も消えるので、一日二食が一日一食になることも、あった
空腹は切ないものだ
祥蘭も、石牢での三日に一度の食事に慣れるまで隋分辛かったものだ
それが一転、今は一日三食に菓子までついている
飢えないという事は、幸福な事だ
こんなにも幸せが一月に満たない間に続くと、逆に不安すら覚えてしまう
こんなにも幸福で、自分はこの先どうなってしまうのかと
そんな事をつらつらと考えるのだが、目の前で湯気が上がる菓子を見ると考えるのは後にしようと思ってしまうのだ
揚げたての胡麻団子の香ばしい香りにうっとりしながら一口
蕩けるような笑みに紫白と鳴殻は顔を見合わせ微笑みあう
そして二人は願う
祥蘭が、何時までも、素直にころころと表情を変える、このままの祥蘭であって欲しいと