一話
紅国の南、文州と燕州の州境に、その屋敷はある。
嘗ての栄華を思わせる広い屋敷だが、今はもう、主人と数名の下男下女が過ごしているのみで
近くに人里は無く、鬱蒼とした森に囲まれている。
屋敷は、数代前までは手入れをされた美しい屋敷であったのだが今はもう、見る影もないほど荒れ果てていた。
そんな屋敷の端にある石造りの部屋に、娘はいた
格子の嵌められた小さな小窓から空を眺め、痩せ細った腕を格子の隙間から出して空に掲げる。
翳した掌に、紅い血潮を確認するのが、娘の日課であった。
・・・・今日も生きているのだと、知るために。
春の柔らかい空も、夏の青い青い空も、秋の少しさびしい空も、冬の凍えるような冷たい空も一体何度この石牢で見たことかと娘は重く息を吐いた。
部屋にたった一つある小さな小窓は娘に季節を教え、天気を教える。
何かに遮られる事もなく空を見上げたのは遠い、遠い昔・・・・
覚えているのは鮮やかに染まった葉の色山の色、母と父に手を引かれ歩いた畦道、稲穂の黄金
あまりにも遠く懐かしい記憶、年を追うごとに薄れる記憶、 もう優しい母の顔も声も思い出せない。
少し厳しかった無口な父の顔も声もまた然り。
暗い部屋で過ごして10度目の春。
壁に石の欠片で刻んだ線の数が唯一娘に年月を教えていた。
徐々に、徐々に<私>が消えていく、消されていく・・・・
娘は、鳥篭に入れられ風切羽根が切られた小鳥のように、・・・・・・・・・・・空に焦がれて、外に焦がれてこの部屋(鳥篭)で何れ朽ちていくのだろう。
そう、疑わなかった。
「(・・・・・・今日は、遅い)」
私を閉じ込めた張本人。
何故私を閉じ込めているのか、理由なんか知らない。
ある日、普通に毎日を生きていた私と両親の暮らしを突然壊した男。
・・・・今でもその光景は夢に出てくる・・・・
父は頭と身体が離された、 母の胸には鈍く光る銀が生えた。
声を出すことも出来ず抵抗できず、幼い私は飼い主に連れ浚われて、以来ずっとこの冷たく暗い部屋に閉じ込められている。
食事は三日に一度、水は毎日。
殺さない程度に生かされている。
私には飼い主が私をどうしたいのか欠片も分からない。
飼い主は何故私の両親を殺したのだろう?
何故私だけ連れ浚われたのだろう?
何故、何故、何故・・・答えの出ない疑問ほど苦しいものはない。
だから、何時からか、考える事をやめてしまった。
私はただ、鳥篭から世界を眺めているだけ。
飼い主は毎日太陽が中天に差し掛かる頃この鳥篭を訪れる。
何をするでも、何を喋るでもなく、ただ酷く無感情で無機質な瞳でじっと一定の時間、鉄格子越しに私を眺めた。
それが苦痛で、いつも早く去らないかと蹲るのだ。
だというのに、今日は太陽が傾きこの鳥篭から見えなくなってもこない。
珍しいというより、今まで有り得なかったことだ・・・・
疑問に思いながらも部屋の隅で襤褸布に身を包み目を閉じた。
目が覚めたのは本当に突然だった。
大きな音が響いて次いで怒声に沢山の足音。
この鳥篭がある建物は、普段飼い主しか居ないのじゃないかと思うほど気配が欠片もない・・・・
声も聞こえなければ足音も勿論、扉が開く音すらしない。
・・・・それなのにこの騒ぎは何なのか、何が起こっているのか。
私はどうせこの鳥篭から逃げ出すことなんて出来ないのにオロオロとしてしまう。
「そこに入るな!!!!!!」
目が覚めてあまり経たない内に男の叫び声が聞こえた。
思っていたよりずっと近くで聞こえた声に驚いていれば突然、鉄扉が開いた。
扉の内側にある鉄格子越しに立っているのは、ボロボロになって膝を着き後ろ手に両手を縛られる飼い主と、はじめて見る飼い主以外の男・・・・
カタカタと身体が震えるのは、男が持っている鈍く光る銀の剣のせいか、それともこの鳥篭において絶対の存在だった飼い主が酷くボロボロなせいか。
身体は自然と、ただでさえ端に居たのに背を石壁に押し付けるように離れようとする。
「見つけた・・・」
「ソレに近寄るな!!!!!!」
「黙っていろ!!」
初めて飼い主の声を聞いたと思ったら直ぐに男に殴られ廊下の壁にぶつかって蹲って呻いた。
私はその光景をひたすら震えて見ておくことしか出来ない。
「鳳凰の姫君をこのような場所によくも長く閉じ込めたな黎音」
「其れを出すな!!!!」
「まだ言うのか・・・・!
姫様を掌中に治めていい気になっていたんだろうが・・・・」
「隊長、連れて行きます。隊長は姫君を」
「あぁ」
また一人、違う男がやってきた。
短い言葉を交わし飼い主を引きずっていった。
飼い主は何か叫びながらギラついた目で何時までも男を睨んでいる。
無表情しか見た事がなかったから酷く衝撃を受けた。
こんな飼い主を、私は知らない
この人は、誰・・・・
男は引き摺られて行く飼い主を見送って鉄格子越しに再び私を見た。
その視線にまた震えが酷くなる・・・・
男は何者なんだろうか?
飼い主を、何処に連れて行くのだろう?
私を、如何するのだろう?
・・・・私は、どうなるんだろうか?
外に焦がれ続けて朽ちると思っていた。
こんな展開、欠片も望んでいないのに・・・・!
男の表情が光の加減で見えなくなる。
無表情でこちらを見てくる飼い主も怖かった・・・・
でも、全く知らない人間が、銀に光る剣を下げる男が、飼い主よりよっぽど怖い・・・・!
怖くて、震えはどんどん酷くなった。
「姫、鳳凰の姫・・・どうか怖がらないでください。
私は陽と申します。
助けに来るのが遅れて本当に申し訳御座いません」
男は剣を遠くに投げ、私に視線を合わすようにしゃがんで謝罪した。
漸く、男の表情が見えた。
心底申し訳ないというように、眉を下げ口をへの字にして、とても大きい人のように見えるのに、そんな表情のせいで小さく見えてしまう。
私には、何を謝罪されているのか全く身に覚えがない。
彼は、陽と言う男は何者で、一体何故彼は私を鳳凰の姫などと呼ぶ?
何故助けに来た等というのか?
疑問ばかり頭に浮かび混乱する。
こんなに頭を使ったのは久しぶりで、頭が痛い。
本当は聞けば早いのだろう・・・聞いた内容が正しいかはともかくとして、一人悩み頭が疲れるより余程良い。
だがココに入れられ早十年。
初めの頃ならいざ知らず、この数年は声を出すことすらなかった喉は機能していない。
私の惑いに陽という男は顔を上げた。
「とにもかくにも、御身を安全な場所へ。
お身体の調子も心配です。
傍近く寄る事を許していただけませぬか」
その返答より何より、どうやってという疑問が浮かんだ。
この部屋の鉄格子は何らかの仕掛けにより電流が流れているのに。
私の疑問に答えるように、男はなにやら小声で喋りだす。
あいにくと位置が遠くその内容は聞こえないが、次の瞬間鉄格子が消えて私の眼は零れんばかりに見開かれた。
「姫、お傍に行っても構いませぬか」
飼い主より横にも縦にも大きな男が何故私に伺いを立てるのか全く分からないが、首は知らず縦に振られていた。
男はゆっくりこちらに近寄り後数歩という所で方膝を地に付け視線を合わせてくる。
「姫、御身を安全な地へお連れいたします。
決して、恐ろしい思いをさせません。
全力でお守りいたします。
・・・・・・・・お許しいただけますか」
余りに必死な様子に、男が怖いと思うのに、再び首を縦に振っていた。
「有難うございます」
ゆっくり近寄り、私を幼子のように抱き上げる。
誰かに触れられたのは、人の体温を感じたのは私を抱きしめ絶命した母以来だと思い出しながら、急な展開に限界だったのか視界は白濁していった。
「・・・・姫・・・?」
男の気遣うような声が、聞こえた気がした。
突如気絶した娘。
女と言うには余りにその色を感じさせない姿、手足はか細く、栗色のはずの髪はほつれ、色もくすんでいる。
頬はこけ、顔色も青白い。
春を迎えたとはいえ、石牢はとても寒く娘が被っていたような襤褸布では真剣に命に関わる。
よくまぁ今の今まで無事生き永らえてきたものだと思った。
陽は羽根のようなその体重に、余りに哀れなその姿に、瞳を歪め胸中には後悔が渦巻く。
「隊長、姫は・・・?」
「気絶なされた」
「きっと、安心なさったのでしょうね。
こんなところに閉じ込められて・・・きっと凄く心細かったはずですから」
陽が部屋のあった場所から揺らさないように移動すれば、先ほどこの館の主を連れて行った部下が駆け寄り、陽の腕の中の娘を見て目元を和ませた。
そんな部下の言葉に陽は首を振った。
「それは、どうだろうな・・・この方からすれば私達もまた警戒するに値する存在だろう。
何年閉じ込められてきたか定かではないが、一年や二年では済まないだろう。
この方にとって、きっと自分以外が敵だろうさ。
私にその身を預けてくれたのも、また違う人間が連れ去るのか位にしか思わなかったはずだ」
「そんなっ」
「・・・黎音は?」
「副隊長が当初の予定通りに」
「そうか。
・・・・・・・・・・今は、誤解を解くよりもすぐに城に向かわねばならない。
この痩せよう・・・身体に不調があってもおかしくない。早急に医官に見せて処置をしてもらわないと。
事の詳細を、速鷹で紫白殿宛てに文を送れ」
腕の中の頼りない存在を揺らさないよう気を張りながら陽はその足を速めるのだった。