第九話 聖女の奇跡が効かない少年
上の通りへ足を踏み入れた瞬間、空気の匂いが変わった。
泥と淀んだ水の匂いではない。
石畳はきちんと掃かれ、道端には余計なものひとつ落ちていない。家々の壁は白く塗り直され、窓枠には花まで置かれている。
同じ街の中とは思えなかった。
レティシアはセリナの半歩後ろを歩きながら、自然と周囲を観察する。
排水は整えられている。井戸には蓋があり、汚れが近くに積まれている様子もない。通りを行く使用人たちの服も、貧民街のそれよりずっと清潔だ。
――環境は、ここまで違う。
その差を見ただけで、さっきまでいた路地の子どもたちの顔が頭に浮かんだ。
生まれた場所と、使える水と、休める部屋。それだけで命の重さまで変わるような気がして、胸の奥が少しだけ冷えた。
「こちらです」
セリナが立ち止まった先にあったのは、中規模ながらもよく整えられた屋敷だった。
門番こそいないが、玄関前の石段は磨かれ、扉の取っ手にまで手が入っているのが分かる。
「アウレーン家は男爵家です。決して大きなお家ではありませんが、この辺りでは古くからの家柄です」
「そんな説明を私にしていいの?」
「知っておかれた方が話が早いかと」
セリナは淡々と答えた。
玄関をくぐると、すぐにほのかな香が鼻をくすぐった。
中は静かだった。使用人たちの動きも抑えられていて、どこか家全体が息をひそめているように感じられる。
案内されたのは二階の奥まった部屋だった。
扉の前には、いかにも徹夜続きと分かる顔の女が立っていた。三十代後半ほど、疲れてはいるが上品な美しさを残した人だ。化粧は崩れ、髪も整えきれていない。それでも、目元と背筋には、この家の女主人として生きてきた人間の強さがあった。
「奥様、こちらに」
セリナが一礼する。
女主人はレティシアを見て、ほんの一瞬だけ驚いた顔をした。
もっと年上の医者や、もっと“それらしい”聖職者を想像していたのだろう。
「……あなたが?」
「レティシア・エルノアと申します」
「失礼ですが、教会の正式な方ではないのですね」
当然の確認だった。
その一言に嘘はないし、侮辱の色もない。ただ、立場を確かめているだけだ。
レティシアは頷いた。
「教会の正式な許可を受けて来たわけではありません。ですが、熱を出した方をいくらか見ています」
「いくらか、ですか」
「はい」
奥様の目が細くなる。
値踏みするような目ではなく、最後の最後で“誰を信じるか”を決めようとする目だ。
「教会の聖女様もお見えになりました」
奥様は低く言った。
「奇跡は確かに見ました。けれど、息子は良くならない。むしろ時間が経つほど熱が上がり、眠っているのか苦しんでいるのかも分からなくなる」
その声の最後がわずかに震えた。
「……私は何でも試したいのです」
その一言で十分だった。
レティシアは小さく頭を下げる。
「分かりました。診せてください」
扉が開かれる。
中は思っていたより広く、明るい部屋だった。
だが、空気は重い。窓は閉め切られ、厚手のカーテンまで引かれている。暖炉には火が入り、部屋の隅には香が焚かれていた。
そして中央の寝台に、十歳前後の少年が横たわっていた。
顔は熱で赤く、髪は汗で額に貼りついている。唇は乾き、呼吸は浅く速い。布団は重ねられすぎていて、身体にこもる熱が逃げていないのがひと目で分かった。
寝台の周囲には三人も人がいる。母親、侍女、若い使用人。
皆、不安そうに少年の顔をのぞき込んでいた。
レティシアは一歩踏み込み、部屋の空気を吸った。
香。汗。熱。閉じた空気。
目の前にあるのは、貧民街の汚れた部屋とは別の種類の“悪い環境”だった。
清潔ではある。
だが、良かれと思って重ねた配慮が、弱った身体には負担になっている。
「お名前は?」
少年の母に尋ねると、奥様が答えた。
「ユリウスです。昨夜からほとんど目を覚ましません」
「吐いたりは?」
「夕べ少し。今日は水もほとんど……」
「お腹は?」
「ゆるいことが二度ほどありました」
レティシアは頷き、寝台のそばへ膝をついた。
ユリウスの額に触れる。熱い。手首に触れる。熱のわりに末端の冷えが少しある。布団の中を軽く確かめると、寝衣は汗で湿っていた。
「部屋を開けてください」
そう言うと、奥様だけでなく、侍女と使用人も同時に顔を上げた。
「え……?」
「窓を少し。暖炉も弱めて」
「で、ですが」
最初に反応したのは侍女だった。
「身体を冷やしてしまいます。聖女様も、温かくして安静にと……」
「温かく、ではなく、熱をこもらせないことが大事です」
レティシアはきっぱりと言う。
「今のこの部屋は暑すぎます。空気もこもっている。これでは息も苦しい」
侍女が困ったように奥様を見る。
だが、その前に奥様が決めた。
「開けて」
短い一言だった。
使用人がすぐに窓へ向かい、固く閉ざされていた窓を少しだけ開ける。冷たい外気がすっと入り込み、部屋の重い熱気を押しのけた。
レティシアは次に、重ねられた布団を一枚外す。
「汗をかいています。寝衣もできれば替えたい」
「そんなことをして……本当に大丈夫なのですか」
侍女の声は戸惑いに満ちていた。
それも当然だ。
彼女たちは、病人は暖かく、大切に、静かに、重ねて守るものだと思っている。それ自体は間違いではない。だが、今のユリウスには“守りすぎ”が負担になっている。
「絶対とは言いません」
レティシアは答えた。
「でも、このままよりはいい。少なくとも、呼吸しやすくなります」
そう言いながら、濡れた布でユリウスの額と首筋を軽く拭く。
水は冷たすぎないものを選ぶ。驚かせない程度に、熱を逃がすための拭き方だ。
少年のまぶたがわずかに震えた。
奥様が身を乗り出す。 「ユリウス?」
返事はない。
それでも、まったく反応がないわけではない。
「飲ませた水はどれくらいですか」
「朝からは、ほんの少しだけです」
「器を」
差し出された小さな杯を受け取り、中を嗅ぐ。
ただの水だ。余計なものは入っていない。
「一度に飲ませすぎないでください。今は少しずつ、口を湿らせるように」
侍女がたまらず口を挟む。
「ですが、そんなことでは足りません。もっと飲ませないと……」
「飲ませようとして戻したなら、結果的には減るだけです」
レティシアは視線を杯に落としたまま言った。
「入る分を、確実に入れる方が大事です」
その言葉に、奥様がはっとした顔をした。
昨日から何度も、同じことで失敗してきたのだろう。
「……ええ。そうね」
静かに、だがはっきりと頷く。
その瞬間、レティシアはこの家で自分がやるべきことを悟った。
ただ診るだけでは足りない。
この家の中で“何が負担になっていて、何を変えればいいか”を通す必要がある。
つまり、ここでもまた必要なのは奇跡ではなく、環境を整えることだ。
「この部屋に人が多すぎます」
レティシアは言った。
「付き添いは二人で十分です。ほかの方は少し外へ」
使用人たちがたじろぐ。
奥様は一瞬だけ迷ったが、すぐに決断した。
「セリナと私が残ります。あなたたちは外へ」
侍女は不満そうだったが、逆らえない。
数人が下がるだけで、部屋の圧迫感が少し薄れた。
レティシアは杯の縁をユリウスの唇に軽く当てる。
ほんのわずかに、湿らせる程度。少年の喉が微かに動いた。
「……飲んだ」
奥様が小さく息を呑む。
「もう一度いきます。でも急ぎません」
レティシアは静かに続けた。
この場では焦りが一番の敵だ。貧民街でもそうだったが、上の通りでは焦りが“上品な心配”の顔をして現れるぶん、なお扱いにくい。
少しずつ唇を湿らせる。
間を置く。
反応を見る。
呼吸はまだ浅い。
でも、ほんの少しだけ乱れが減ったように見えた。
「……レティシア様」
奥様が、ためらいがちに呼ぶ。
「なんでしょう」
「あなたは、何者なのですか」
その問いに、レティシアは一瞬だけ答えに迷った。
偽物聖女。
追い出されかけの下級治癒師。
前世の記憶を思い出した、ただの町の医療者。
どれも本当で、どれも少し足りない。
「派手な奇跡は使えません」
結局、そう答えた。
「その代わり、悪くなる理由を見るのが少し得意です」
奥様はそれを聞いて、ふっと目を細めた。
納得したのか、していないのかは分からない。けれど少なくとも、今この場で必要なのは肩書きではないと、彼女も分かっているのだろう。
そのとき、背後で扉がノックされた。
セリナが出て、すぐ戻ってくる。
「奥様。教会から使いが」
部屋の空気が、ぴたりと張りつめた。
奥様の顔色が変わる。
レティシアも手を止めはしなかったが、内心では冷たいものが走った。
早すぎる。
こちらへ来たことが、もう教会に伝わったのか。
「……どうして」
奥様が低く言う。
「分かりません。ただ、上級聖女エヴェリーナ様からの言伝だそうです」
セリナの言葉に、レティシアは目を伏せた。
やはり来た。
貧民街だけでは済ませないつもりだ。
奥様はしばらく沈黙したあと、ゆっくりと息を吐いた。
「今は会いません」
セリナが一礼する。
「ですが」
「今、私の息子を見ているのはこの方です」
その声には、疲れの中に芯のある強さがあった。
「教会には、後でこちらから話します」
セリナが再び下がる。
その背中が扉の向こうへ消えてからも、部屋の空気はすぐには戻らなかった。
奥様はレティシアへ向き直る。
「申し訳ありません。面倒に巻き込んでしまって」
「最初からそのつもりで来ています」
レティシアが言うと、奥様はほんの少しだけ、苦い笑みを浮かべた。
「肝が据わっているのね」
「据わらないと、教会の外ではやっていけません」
そう返しながら、レティシアはユリウスの額の布を替えた。
まだ熱い。まだ苦しそうだ。
でも、ここでもやることは同じだ。
奇跡を見せることではない。
悪くなる理由をひとつずつ減らしていくこと。
この家で、それが通じるのなら――。
レティシアは、少年のかすかな呼吸を見つめながら、静かに思った。
貧民街の施療所だけでは足りない。
もし上の通りでも、自分のやり方が必要とされるなら、教会はもっと本気で敵になるだろう。
けれど、その敵意より先に、目の前の少年は確かに存在していた。
「ユリウス様」
そっと呼びかける。
返事はない。
それでも、まつげがわずかに震えた。
「今はそれでいいわ」
誰に聞かせるでもなく呟いて、レティシアはもう一度、杯を唇へ寄せた。




