第八話 偽物聖女の施療所
夜明け前の空気は、思っていたより冷たかった。
乾物置き場の隙間から入る風に、レティシアは肩をすくめる。
一晩中動き回っていたせいで、足は重く、頭も鈍い。けれど不思議なことに、意識だけは妙にはっきりしていた。
眠れなかったのは自分だけではない。
乾物置き場の中では、ミアが壁にもたれて浅く眠っている。
その隣でルカは、まだ熱を残しながらも、昨日よりずっと穏やかな寝息を立てていた。
リナも同じだ。
夜の半ばに何度か苦しそうな呼吸をしたが、そのたびに少しずつ水を含ませ、布を替え、休ませる場所を整えた。朝を迎えた今、顔色はまだ悪いながらも、兄の呼びかけにうっすら目を開ける。
全員が助かったわけではない。
それどころか、まだ危うい者は何人もいる。
けれど、昨日の朝より悪い人数は、確かに減っていた。
その事実を確認したとき、レティシアはようやく、胸の奥に溜まっていた重い石が少しだけ動くのを感じた。
「……すげえな」
入口の近くで腕を組んでいたダリオが、ぼそりと呟いた。
「何が」
「朝まで持った」
彼の視線は、乾物置き場の中を順番に見回していた。
「昨日の昼の時点じゃ、妹も、ルカも、向こうの爺さんも、正直だめだと思ってた」
「まだ安心には早いわ」
「分かってる。でも、それでもだ」
ダリオは言う。
「前より、ずっとましだ」
その言葉を、レティシアは否定しなかった。
ここで無理に慎重ぶっても仕方がない。希望が雑になるのは危険だが、現実の改善まで打ち消してしまう必要はない。
イネスが、奥の藁束の上で寝返りを打った老婆を見て鼻を鳴らす。
「ほら見な。死ぬ死ぬって顔してたくせに、まだしぶとく生きてるよ」
「言い方」
レティシアが小さく笑うと、イネスは杖を鳴らした。
「こういうのはね、口汚く言うくらいでちょうどいいんだよ。優しい顔してると、こっちまで泣きたくなるからね」
その言葉に、少し離れたところで布を畳んでいた女たちが、疲れた顔のままくすりと笑った。
空気が、違う。
昨日の昼とは比べものにならないほど、ここには「次に何をするか」がある。
それは回復の気配より、もっと確かなものだった。
と、そのとき、乾物置き場の外から子どもの足音が駆け込んできた。
「レティシアさま!」
振り向くと、昨夜ダリオと話していた“呼びに来る役”の子どものひとり──痩せた栗色の髪の少年が、息を切らして立っていた。名前はまだ聞いていない。
「向こうの家の赤ちゃんが、また泣かなくなってる!」
レティシアはすぐに立ち上がる。
「お母さんはいる?」
「いるけど、起きてない。ずっと看てたからだと思う」
「分かった。ダリオ、そっちに来て。イネスさん、ここお願い」
「はいはい、行っといで」
返事を背中で聞きながら、レティシアは少年の後を追って路地を走った。
赤子のいる家に入ると、若い母親が座ったまま壁にもたれて眠り込んでいた。腕の中ではなく、藁束の上に寝かせられた赤子の顔色は悪いが、昨夜のような張りつめた危うさではない。弱く、細く、けれど泣く力が少し戻っている。
「泣かなくなったんじゃなくて、寝てただけか」
ダリオが肩の力を抜いた。
レティシアも赤子の腹と胸の動きを見て、小さく息を吐く。
「大丈夫。今は休ませて。お母さんも起こさなくていい」
少年がほっとした顔をする。
「よかった……」
その声の響きを聞いて、レティシアはふと思う。
昨日まで、この子はきっと、こんなふうに「誰かを呼べば何とかなるかもしれない」とは思っていなかっただろう。
「あなた、名前は?」
問うと、少年は目をぱちぱちさせた。
「……ニコ」
「ありがとう、ニコ。すぐ知らせに来てくれて助かったわ」
ニコは少し耳を赤くして、足元を見た。
「……うん」
褒められ慣れていないのだろう。
その様子に、ダリオが横でくっと笑う。
「こいつ、走るのだけは速いからな」
「十分よ。今はそれが必要なんだから」
そう言って家を出ると、朝の光はもう路地の上まで降りてきていた。
汚れた水たまりも、乾ききらない泥も、そのままの姿でそこにある。なのに、昨日よりもこの場所が崩れそうに見えないのは、人の動きがあるからだ。
共同炊事場では、すでに誰かが二度目の湯を沸かし始めていた。
井戸の横に積まれていた汚れた布は、風下の端へ移されている。
乾物置き場の周りには、通りがかった人間が不用意に近づかないよう、棒と古布で印まで作られていた。
「……勝手に進化してる」
レティシアが思わず呟くと、ダリオが肩をすくめる。
「お前が全部言わなくても、皆もう分かってきてる」
それは良いことだった。
いや、良いというより必要なことだ。
自分が一人で全部を指示し続ける形では、絶対に続かない。
誰かが倒れれば終わる。
だから、ここを動かすには“皆が分かる形”にしなければならない。
レティシアは通りの真ん中に立ち止まり、乾物置き場を見た。
そこはもう、ただの使われていない物置ではなかった。
病人を集め、様子を見て、湯を運び、布を替え、順番に手当てをする場所。
名前がなくても、役割はもうはっきりしている。
「……施療所ね」
「は?」
ダリオが聞き返す。
「ここ。もう、そう呼んだ方がいい」
「こんなボロ小屋をか?」
「ボロ小屋でも、人を寝かせて、様子を見て、水を飲ませてる。だったら施療所よ」
レティシアは少し考えてから続けた。
「ただし、教会のじゃない。私たちの」
その言葉に、ダリオは目を丸くした。
「私たちって、ずいぶん勝手に巻き込むな」
「嫌なら抜けてもいいわよ」
「今さらかよ」
呆れた声だったが、完全に嫌がっているわけではない。
乾物置き場へ戻ると、イネスが入口の柱にもたれて待っていた。
「今、あんたに会いたいってのが来てるよ」
「誰が?」
「商売女みたいな派手な格好の姉ちゃんだよ。けど身なりは安っぽくない。たぶん、上の通りの使いっ走りだね」
レティシアは眉をひそめた。
「教会の人間?」
「いや、違うと思うね」
イネスが顎で通りの向こうを示す。
そこに立っていたのは、たしかにこの路地には似つかわしくない女だった。二十代半ばほどだろうか。きちんと手入れされた髪に、質はいいが目立ちすぎない衣服。町娘にも見えるし、裕福な家の使用人にも見える絶妙な身なりをしている。
女はレティシアに気づくと、一礼した。
「あなたが、レティシア様ですか」
「ええ。あなたは?」
「私はセリナと申します。上の通りのアウレーン家で働いております」
貴族家の名だ。
レティシアはすぐに表情を引き締めた。
「ご用件は」
「奥様が、こちらの噂をお聞きになりました」
噂、という言葉に、乾物置き場の中がわずかにざわつく。
セリナはそれに気づいていながら、表情ひとつ変えなかった。
「熱を出した子どもたちが持ち直していること。教会ではなく、ここで手当てを受けていること。井戸の周りまで片づけさせたこと」
思った以上に具体的だ。
つまり誰かがかなり細かく見ていたということになる。
「ずいぶん耳が早いのね」
レティシアが言うと、セリナは淡々と答える。
「困っている家の使用人には、親類や知り合いもおりますので」
なるほど、とレティシアは思った。
貧民街と上の通りは完全に切り離されているわけではない。洗濯女、荷運び、厨房手伝い、雑役。下の路地で暮らしながら、上の家に出入りする人間はいくらでもいる。
そこを通じて噂が流れたのだ。
「それで?」
「奥様が、一人お子さまのことで案じておられます。教会の聖女様にも既にご相談はされていますが……どうにも落ち着かず、こちらの話を聞いて、ぜひ一度見ていただきたいと」
ダリオが隣で小さく息を呑んだ。
昨日まで、教会から追い出された偽物聖女。
それがもう、上の通りの貴族家から呼ばれ始めている。
レティシアの胸の内に、冷たいものと熱いものが同時に走った。
これは好機かもしれない。
そして同時に、罠かもしれない。
教会が面白く思うはずがない。
しかも貧民街だけでなく、貴族家まで自分を頼るとなれば、エヴェリーナも司祭も黙ってはいないだろう。
「今すぐに、ですか」
「できれば本日中に」
「……分かったわ」
言うと、ダリオがすぐに横を向いた。
「おい」
「何?」
「行くのかよ」
「行くわ」
「こっちはどうすんだ」
その問いに、レティシアは乾物置き場の中を見る。
ルカも、リナも、ほかの病人たちも、まだ危ない橋の上にはいる。
けれど昨日と違って、今はここに手を動かせる人がいる。
イネス。
ミア。
ダリオ。
ニコみたいな走れる子どもたち。
そして、自分の言ったことを少しずつ覚え始めた住民たち。
「ここを空けるのは長くても半日」
レティシアは落ち着いて言った。
「その間にやることを、今のうちに決める」
「……まじか」
「だって、こっちはもう“私一人の場”じゃないもの」
その言葉を口にした瞬間、レティシアははっきりと分かった。
昨日までと、もう違う。
ここはただの応急処置の場ではない。
人が集まり、役目が分かれ、誰かが戻ってきてまた続けられる場所になり始めている。
ならば、この拠点には名前が要る。
「聞いて」
レティシアは少し声を張った。
乾物置き場の中と、通りにいる人たちが一斉にこちらを見る。
「ここは今日から、施療所にするわ」
ざわ、と小さな波が広がる。
「教会の正式な許しはない。でも、今ここで必要なのは、許しを待つことじゃなくて、倒れている人の様子を見て、水を飲ませて、熱を拭いて、寝る場所を整えることよ」
誰も口を挟まなかった。
だからレティシアは続ける。
「私はこれから半日だけ上の通りへ行く。けれど、その間もここは止めない。イネスさんが布と人の出入りを見る。ダリオは湯と薪。ミアは子どもたちの飲めた量を見る。ニコたちは、急に悪くなった家があれば走って知らせて」
ニコが目を丸くする。
ミアは戸惑いながらも、しっかり頷いた。
イネスは鼻を鳴らす。
「人使いの荒い施療師だねえ」
「引き受けてくれるんでしょう?」
「今さら投げるわけないだろうさ」
イネスがそう言うと、乾物置き場の中にくすりとした笑いが広がった。
ダリオは盛大にため息をついた。
「はいはい、分かったよ。お前が勝手に施療所だとか言い出したんだ、もう好きにしろ」
「好きにするわ」
「ほんと遠慮ねえな」
「必要だから」
そう返すと、ダリオはもう何も言わなかった。
代わりに鍋の火の具合を見に行く。つまり、引き受けたということだ。
セリナは少し離れた場所で、その様子を静かに見ていた。
貴族家の使いとして来たはずの女が、泥にまみれたこの場所を見て、軽蔑の顔ひとつしないのが少し不思議だった。
「お待たせします」
レティシアが言うと、セリナは首を振る。
「いいえ。むしろ、来ていただけるだけでありがたいです」
その返答の丁寧さが、かえって今度の呼び出しの重さを感じさせた。
貧民街の施療所。
上の通りの貴族家。
教会の敵意。
全部が、少しずつつながり始めている。
レティシアは乾物置き場──いや、施療所をもう一度見回した。
まだボロボロだ。藁は足りず、布も足りず、湯を沸かす薪さえ心もとない。
けれどここには、昨日までなかったものがある。
人が戻ってこられる場所。
助けを求めていいと思える場所。
祈るだけではなく、手を動かす場所。
「……行ってくるわ」
小さくそう言うと、ミアがルカを抱いたまま顔を上げた。
「待ってます」
それは送り出す言葉であり、同時に、この場所がもう消えないと信じる言葉でもあった。
レティシアは頷き、セリナの後を追って歩き出した。
施療所の背後で、湯の沸く音が静かに続いている。
その音は、奇跡の鐘よりもずっと地味で、でもずっと確かなものに思えた。




