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偽物聖女と呼ばれた私は、奇跡ではなく医術で王国を救う  作者: sixi


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第七話 それでも私は、見捨てない

夜は、昼よりも容赦がなかった。


日が落ちると、路地のぬかるみは冷え、乾物置き場の隙間風は骨に染みた。

 昼のあいだ人を動かしていた熱気も薄れ、代わりに疲労が一気に表へ出てくる。


それでも、誰も持ち場を離れなかった。


共同炊事場では、弱い火を絶やさないようにダリオと二人の若者が交代で薪をくべている。

 乾物置き場ではイネスが布の仕分けを見張り、母親たちは順番に子どもへ水を飲ませ、熱の高い者の額を拭いていた。


教会の施療院に比べれば、あまりにも頼りない。

 法衣も聖印もなく、白い光も差さない。


けれどレティシアには分かる。

 今この場所を支えているのは、奇跡ではなく、人の手だ。


「レティシア」


ダリオが鍋のそばから声をかけてきた。


レティシアは乾物置き場の入口からそちらへ向かう。

 湯気が立ちのぼる鍋の前で、ダリオは腕を組んでいた。昼間より目つきはましだが、眠気と疲れが隠しきれていない。


「薪、あとどれくらい必要だ」


「朝まで持てば十分よ。明日になったら、まず増えた人と減った人を見たい」


「減った人?」


「熱が高い人が増えてるのか、動けるようになる人がいるのか。その差を見たいの」


ダリオは顔をしかめた。


「やっぱり、お前のやってることは細かいな」


「細かく見ないと、悪くなってるのに気づくのが遅れるから」


「聖女ってのはもっと、こう……」


彼は手をひらひらさせた。


「ぱっと光って終わり、みたいなもんじゃねえのか」


「それができたら苦労しないわね」


レティシアが答えると、ダリオは鼻で笑った。


「じゃあやっぱり、お前は聖女っぽくねえ」


「偽物聖女だから」


「それ、便利な言葉だな」


そう言ったあと、ダリオは少しだけ真面目な顔になる。


「でもよ。今日の昼、あの上級聖女が来たとき……正直、終わったと思った」


「私も少し思った」


「少しかよ」


「かなり、かもしれない」


正直に言うと、ダリオは肩を震わせて笑った。

 その笑いで、張りつめていた気持ちがほんの少しだけ和らぐ。


けれど、現実はまったく和らいでいなかった。


教会は必ずまた来る。

 しかも次は、エヴェリーナ個人の不快感だけでは済まない。司祭を通した正式な圧力になるだろう。


施療を禁じられた身で、教会の外で人を診ている。

 しかもそのせいで、民衆が“奇跡だけでは足りない”と思い始めている。


見逃されるはずがなかった。


「……どうするつもりだ」


ダリオの声が低くなる。


「次に教会が来たら」


レティシアは答えなかった。

 代わりに、鍋の中の湯を見つめる。ぐらぐらと煮立つわけではない、静かな熱だ。だがその静かな熱が、今日一日、何人もの喉を通り、汚れた布を洗い、命をつなぐために使われてきた。


「レティシア?」


呼ばれて、ようやく顔を上げた。


「……やめないわ」


ダリオはまばたきをした。


「簡単に言うなよ」


「簡単じゃない。でも、やめない」


「教会に逆らうんだぞ」


「ええ」


「寝床も食い扶持もなくなるかもしれねえ」


「分かってる」


言いながら、自分でも胸の奥が冷えるのを感じた。

 強がりではない。本当に、その可能性はある。教会の庇護がなければ、一人の若い女がこの王国で安定して暮らすのは難しい。


それでも。


「でも、今日ここで手を止めたら、明日の朝まで持たない子が出るかもしれない」


レティシアは静かに言った。


「それを分かってしまった以上、もう“命令だから”では止まれない」


ダリオは黙り込んだ。


彼の目は、鍋の火ではなく、乾物置き場の奥を見ていた。そこには妹のリナがいる。まだ苦しそうではあっても、昼よりは呼吸が落ち着いているあの小さな身体が。


「……だよな」


やがて彼は低く言った。


「俺でも、今さら前みたいに何もしねえで待てとは思えねえ」


その言葉に、レティシアは小さく頷いた。


そのとき、乾物置き場の方から慌てた足音がした。


「レティシア様!」


ミアだった。顔色を変え、ルカを抱いたまま駆け寄ってくる。


「どうしたの」


「ルカが、また少し熱くて……っ、さっきより息が速い気がするんです」


レティシアはすぐにミアの腕の中を覗き込んだ。


確かに昼より熱が上がっている。呼吸も速い。だが、目は反応しているし、完全に落ちてはいない。


「水はどれくらい飲めた?」


「さっきは少し。でも、そのあと少し吐いて……」


「全部?」


「いえ、少しだけ……」


「じゃあ、まだやり直せる」


ミアの目に涙がにじむ。 「大丈夫でしょうか」


「今すぐ悪くなるとは限らない。落ち着いて、もう一度順番を整えましょう」


レティシアは乾物置き場の中へ入り、藁の横に膝をついた。

 ルカの額を拭き、汚れた布を外し、少し位置をずらす。熱が高いと、家族ほど不安になって必要以上に触れてしまうことがある。悪気はない。だが弱った子どもには、それさえ負担になることがある。


「ミア、今からは飲ませる量をもっと減らす。一滴でもいいくらいのつもりで」


「で、でも、それじゃ足りないんじゃ……」


「足りないからって一気に飲ませると、余計に戻すことがあるの。今は入る分だけでいい」


ミアは唇を噛み、震えながら頷いた。


「……はい」


「それと、あなたも少し座って」


「私は大丈夫です」


「大丈夫じゃない」


レティシアははっきり言った。


「ずっと起きてるでしょう。あなたが倒れたら、この子を見られる人がいなくなる」


ミアは目を見開いた。

 それから、堰を切ったようにぽろぽろ涙をこぼす。


「私、怖くて……目を離したら、そのまま……って思って……」


「分かるわ」


レティシアは静かに答えた。


「でも、少しだけでいいから、交代しなさい。イネスさん」


呼ぶと、入口の方で布を畳んでいたイネスが顔を上げた。


「何だい」


「ミアを少し休ませたい。ルカを一刻だけ見てもらえる?」


「一刻もいらないよ。半刻も寝かせりゃ顔色が変わる」


そう言って近づいてきたイネスは、ミアの背中をぽんと叩いた。


「座んな。母親がぶっ倒れたら話にならないだろ」


乱暴な言い方なのに、不思議と逆らえない。

 ミアはしゃくり上げながら、その場にへたり込んだ。


レティシアは、ルカの喉の動きと呼吸を見ながら、器にほんの少しだけ水を取る。唇を湿らせるように含ませると、ルカは弱々しくも飲み込んだ。


「……よし」


小さく息を吐く。


劇的な回復ではない。

 むしろ夜に入ってからは、ぶり返すように見える瞬間もある。

 それでも、だから終わりではない。


前世でもそうだった。

 持ち直したと思ってもまた悪くなる。

 夜になると熱が上がる。

 家族はそこで心が折れそうになる。


だからこそ必要なのは、“一度うまくいかなかったら終わり”ではないことを知っている人間だった。


「レティシア」


今度は乾物置き場の外から、別の女の声がした。


「向こうの小屋のおじいさんが、水を飲んでもすぐ咳き込むの。どうしたらいい?」


「今行くわ」


立ち上がりながら、レティシアはルカのそばに器を置いた。


「ミア、ひと口でいい。焦らなくていいから、間を空けて続けて」


「……はい」


今度の返事は、さっきより少しだけ落ち着いていた。


乾物置き場を出ると、夜風が頬を撫でた。

 冷たい。けれど頭は冴える。


呼ばれる先が次々にできる。

 あちらでは老人、こちらでは赤子、向こうでは熱の高い子ども。

 全部を一人で抱えることはできない。

 それでも、今この場で自分が要になるしかないのだと分かる。


「……忙しいな」


ダリオが、半ば呆れたように言った。


「ええ。最悪」


「顔はそう見えねえけど」


「嘘。疲れてるわよ」


「疲れてる顔でそれだけ動けるのが変だって言ってる」


レティシアは少しだけ笑った。


「前世でも、たぶんこんな顔してたんでしょうね」


「ぜんせ?」


「何でもない」


説明している暇はない。


老人のところへ向かう途中、通りの端に、小さな影がうずくまっているのが見えた。七つか八つほどの男の子だろうか。膝を抱えてじっとしている。近くに大人の姿はない。


「あなた、どうしたの」


声をかけると、少年はびくりとした。


「べつに」


「熱は?」


「ない」


「家族は?」


少年は少し黙ってから言った。


「母ちゃん、向こうで寝てる。妹も」


その視線の先には、戸の閉まった小屋がある。


レティシアは息を呑んだ。

 こんな子までいる。

 病人を看る人がいない家。

 倒れた母親と妹のそばで、どうしていいか分からず座り込むしかない子ども。


ここで本当に必要なのは何だろう。

 ひとりの名医?

 万能の奇跡?

 それとも、せめて“誰がどこにいて、どこが一番危ないかを見て回れる仕組み”ではないか。


答えはもう出ていた。


「ダリオ」


振り返って呼ぶと、彼はすぐに来た。


「なんだ」


「動ける子どもで、大きい子はいる?」


「いるけど……何に使う気だ」


「使うんじゃない。頼みたいの」


レティシアは通りを見回した。


「走れる子に、呼びに来る役をしてもらう。誰かが急に悪くなったら、ここまで知らせに来るの。そうすれば少なくとも、静かに手遅れになる家を減らせる」


ダリオは目を丸くした。


「そんなことまで考えてたのか」


「今考えたの」


レティシアは正直に答えた。


「でも必要でしょう?」


ダリオはしばらく黙ったあと、ゆっくりと頷いた。


「……必要だな」


その返答を聞いた瞬間、レティシアの中で何かがすっと一本につながった。


やはり、自分はここを離れられない。

 ただ人を見るだけではなく、この路地で人が死なないための形を作り始めてしまっている。


教会が禁じようと。

 エヴェリーナが怒ろうと。

 司祭が処分を重くしようと。


もう、見なかったことにはできない。


レティシアは小屋の方へ歩き出した。


「それでも私は、見捨てない」


気づけば、声になっていた。


誰に聞かせるでもない。

 けれどその言葉は、夜の冷たい空気の中で、不思議なほどはっきりと自分の耳に届いた。


ダリオが少し後ろで言う。


「……何か言ったか」


「覚悟の確認」


「変なやつだな、お前」


「知ってる」


レティシアは止まらなかった。


次の小屋には倒れた母親と妹。

 その先には咳き込む老人。

 さらに向こうには、まだ教会へ行く気力すらない家があるかもしれない。


夜は長い。

 でも、長いからこそ、一つずつつないでいくしかない。


その手間を、奇跡と呼ぶ人はいないだろう。

 それでいい。


呼ばれなくても、褒められなくても、今ここで必要なのは間違いなくこれだった。

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