第六話 奇跡を疑わせる女
日が傾きはじめる頃には、貧民街の空気は朝とは別物になっていた。
病が消えたわけではない。
熱も、咳も、呻きも、まだそこらじゅうにある。
路地の匂いだって、少し片づいた程度で急に清潔になるはずがない。
それでも、明らかに変わったものがあった。
人の顔だ。
朝までのこの路地には、諦めた顔しかなかった。
どうせ教会は祈るだけ。どうせ金のある家から先に見られる。どうせ弱い者から死ぬ。
そんな空気が、この辺りには染みついていた。
だが今は違う。
疲れ切ってはいても、皆どこか忙しい。湯を運び、布を分け、寝かせる場所を整え、順番に重い者の様子を見に行く。
やることがある。
それだけで、人はこんなにも顔つきを変えるのかと、レティシアは前世と同じ驚きを覚えていた。
「レティシア、こっちの子も少し飲めたよ!」
イネスが戸口から怒鳴る。
乱暴な口調のくせに声は弾んでいた。
レティシアはすぐにそちらへ向かう。
寝台代わりの藁束の上には、昼に腹を押さえて泣いていた小さな男の子がいた。泣く力すらなかったはずの子が、今はうっすら目を開け、器の縁を唇で追おうとしている。
「よくやったわ」
そう言うと、付き添っていた母親が慌てたように首を振る。
「わ、私はただ言われたとおりにしただけで……」
「それが難しいの」
レティシアは器の中の量を確かめながら答えた。
「怖いと、もっと飲ませたくなるでしょう。でも我慢して少しずつにしたのは、あなたがこの子を見ていたからよ」
母親は泣きそうな顔のまま、口元を押さえた。
その表情を見るたび、レティシアは思う。
奇跡を求めるのは、人が愚かだからではない。
何をしたらいいのか分からないからだ。
だからこそ“やること”が見えた瞬間、人は自分の手で驚くほど強くなる。
外へ出ると、ダリオが桶を持って戻ってきたところだった。
「湯、二回目沸いた。けど薪が足りねえ」
「明日の朝まで持つ量はある?」
「ギリだな」
「乾いてる木片でも布でも、燃えるものは集めて。家の板はだめよ」
「分かってるって」
ダリオはそう言いながらも、視線は乾物置き場の中へ向いていた。
そこでは妹のリナが、まだ熱に浮かされながらも、ときおり目を開けるようになっている。完全には安心できなくても、兄としてはそこから目が離せないのだろう。
「……なあ」
桶を地面に置いて、ダリオが低く言った。
「このまま、うまくいくのか」
レティシアは少し考えてから答えた。
「全部がうまくいくとは言えない」
それが、今言えるいちばん誠実な言葉だった。
「良くなる人もいる。手遅れな人が出るかもしれない。でも、何もしないよりは確実にいい。少なくとも、さっきまでみたいに皆を閉じた部屋で弱らせ続けるよりは」
「……そうか」
ダリオは頷いたが、その表情にはまだ影が残っていた。
それも当然だ。
彼らは奇跡を見てきた。祈りの光が病人を包み、見た目にも分かりやすく傷がふさがるのを。
それに比べれば、レティシアのやっていることはあまりにも地味で、あまりにも回りくどい。
水を沸かす。
布を分ける。
部屋の空気を変える。
少しずつ飲ませる。
そんなことで本当に変わるのか、疑うのは当然だった。
でも、だからこそ今ここで見せている“少しの改善”は強い。
「疑ってもいいわよ」
レティシアは言った。
「でも、疑うなら見ていて。今日の夜を越えたとき、朝より悪くなっている人が減っていれば、それが答えになる」
ダリオが目を細める。 「ずいぶん強気だな」 「強気じゃない。数の話をしてるだけ」
「それを強気って言うんだよ」
彼はそう言って、ほんの少し笑った。
そのとき、路地の入口の方がざわついた。
何人かが、露骨に肩をすくめて道を空ける。
レティシアは振り返り、すぐに顔をしかめた。
白い法衣。
金糸の刺繍。
汚れた路地にそぐわない、整いすぎた足取り。
エヴェリーナだった。
その後ろには、施療院付きの修道女が二人、そして司祭付きの書記見習いが控えている。誰もがこの場を見下ろすような目をしていた。
「……まずいな」
ダリオが小さく呟く。
路地の空気が一気に縮こまった。
動いていた手が止まり、さっきまで声をかけ合っていた人々が急に黙る。
エヴェリーナは泥を踏まないよう慎重に裾を持ち上げながら、乾物置き場の前まで来た。
そして、そこに寝かされた子どもたちと、湯気を立てる桶と、干され始めた布の山を見回し、形のいい眉をゆっくりとひそめる。
「……なるほど」
静かな声だった。
だが、その一言だけで、彼女が怒っているのだと分かった。
「まさか本当に、こんな真似をしていたなんて」
誰も答えない。
レティシアは一歩前に出た。 「私がやっています」
「見れば分かります」
エヴェリーナは冷ややかに言った。
「施療を禁じられた身でありながら、教会の外で勝手な真似をし、人々に“奇跡では足りない”と思わせる。随分と大きなことをなさるのですね、レティシア」
「足りないものがあるのは事実です」
即座に返した言葉に、周囲の誰かが息を呑んだ。
エヴェリーナは笑わなかった。
その代わり、視線だけがひどく冷たくなる。
「事実?」
「ここを見れば分かります。熱を出している子どもが何人もいて、同じ井戸を使い、狭い部屋に押し込まれていた。祈りを捧げるだけでは、この環境は変わりません」
「あなたは聖女の奇跡を侮辱しているのですよ」
「侮辱ではありません」
レティシアは一歩も引かなかった。
「救えないものがあると言っているだけです」
その瞬間、ざわ、と人々の間に波が走った。
それは怖れのざわめきだった。
誰も口にはしなかったことを、レティシアがはっきり言ってしまったからだ。
エヴェリーナの視線が、そのざわめきに向く。
そしてすぐに笑みを作った。美しい、いかにも聖女らしい、責める気配を表に出さない微笑み。
「皆さん、惑わされてはいけません」
エヴェリーナは通りに向かって声を張った。
「病とは、時に神が与える試練です。焦りや恐れに負け、信仰を見失えば、かえって身を滅ぼします。回復の奇跡は、正しき祈りのもとにこそ宿るのです」
その言葉に、何人かが反射的に頭を下げた。
長年染みついた信仰は、そう簡単には消えない。
だが同時に、誰も前のように完全には従わなかった。
それをレティシアは見逃さない。
皆、今日この半日で見ているのだ。
祈りより先に、湯を沸かし、布を替え、水を少しずつ飲ませた方が、目の前の子どもたちの息が少し楽になるところを。
奇跡の言葉と、目の前の現実。
その二つが初めてぶつかったのだ。
「だったら、エヴェリーナ様」
レティシアは静かに言った。
「今ここで、全員を癒せますか」
空気が凍った。
ダリオがぎょっとした顔をする。
イネスは「ああもう」とでも言いたげに目を覆った。
ミアはルカを抱きしめたまま、真っ青になっている。
それでもレティシアは言葉を止めなかった。
「私は奇跡を使えません。だから、手を動かすしかない。けれど本物の聖女であるあなたなら、この場の子どもたちも、老人たちも、みなすぐに救えるのでしょう?」
「……無礼ですね」
エヴェリーナの声は、ついに笑みを失った。
「奇跡は見世物ではありません」
「ええ。だからこそ、救えないことがあるのだと思っています」
「レティシア!」
今度は修道女の一人が叱責の声を上げた。
「言葉を慎みなさい!」
だが、その怒鳴り声は思ったほど響かなかった。
路地にいる人々の視線が、今は教会側ではなく、エヴェリーナの返答を待っていたからだ。
エヴェリーナはわずかに唇を結び、それから周囲を見回した。
倒れた子ども。
湯気。
汚れた路地。
そして、自分の言葉では動かなくなりかけている民衆。
その目の奥に浮かんだのは、怒りだけではなかった。
焦りだ。
レティシアはその変化を見た。
この人が本当に恐れているのは、自分がここで何をしたかではない。
奇跡ではなく、別のやり方で人が少しずつ持ち直していること。
その事実が、民の中に残ることだ。
エヴェリーナはゆっくりと息を吐き、今度は通りの人々に向かって言った。
「教会は皆さんを見捨ててなどいません。近いうちに正式な施療を行います。それまで、このような勝手な処置で信仰を乱さないように」
「近いうちじゃ遅いんだよ」
ぼそりと呟いたのはイネスだった。
大きな声ではなかった。
だが、静まり返った通りでは十分すぎるほどはっきり聞こえた。
「何か?」
修道女が鋭く振り向く。
イネスは杖に両手を置いたまま、逃げずに言った。
「今朝まで寝返りも打てなかった子が、もう水を飲んでる。あたしらはそれを見た。なら、待てって言われても、もう前みたいには待てないよ」
その一言で、周囲の空気が変わった。
誰も大声では続かなかった。
でも、皆の顔に同じものが浮かんでいた。
そうだ。
見たのだ。
教会の祈りではなく、ここでの手当てで、わずかでも楽になる人を。
それを一度見てしまえば、ただ黙って頭を下げるだけには戻れない。
エヴェリーナの頬がぴくりと引きつる。
レティシアは、その変化を見逃さなかった。
奇跡を疑わせる女。
そう、きっと教会は自分をそう見るだろう。
でも、本当に疑われ始めたのは、自分ではない。
“奇跡だけで十分だ”という、あまりにも長く続いてきた当たり前の方だ。
「今日はもう帰ります」
エヴェリーナは唐突にそう言った。
「ですが、レティシア。あなたの行いについては、必ず正式に対処します。教会の許しなく人々を惑わせた罪は軽くありません」
「惑わせてはいません」
レティシアは答えた。
「見えるものを見せただけです」
エヴェリーナはそれ以上何も言わなかった。
法衣の裾を翻し、来たときと同じように泥を避けながら路地を戻っていく。修道女たちと書記見習いも、そのあとに続いた。
その背中が見えなくなったあとも、しばらく誰も口を開かなかった。
最初に沈黙を破ったのはダリオだった。
「……とんでもねえこと言ったな、お前」
「私もそう思う」
正直な感想だった。
さっきの問いは、かなり危険だった。
あの場では必要だったと思う。けれど、確実に教会を敵に回した。
イネスが杖で地面を鳴らす。 「でも、言わなきゃ向こうが好きに話を作ったさ」
「それはそうだろうけどよ……」
ダリオは頭を掻き、乾物置き場の中を見た。
リナもルカも、ほかの子どもたちも、まだ完全には回復していない。それでも、朝よりましだということだけは誰の目にも明らかだった。
通りの人々もまた、教会の背中が消えた方角を見つめていた。
怖れている。
でも、それだけではない。
あの聖女がこの場で何もできなかったことを、皆見てしまった。
それは小さくない。
「……これで終わりじゃないわ」
レティシアは静かに言った。
「むしろ、ここからが面倒になる」
ダリオが苦い顔をする。 「だろうな。あの顔、絶対に忘れねえやつだ」
「こっちも忘れないわ」
そう返して、レティシアは乾物置き場の中を見渡した。
倒れている人たち。
手を動かし続ける住民たち。
小さな改善。
その全部が、もう後戻りできないところまで来ている。
教会はきっと止めに来る。
規律だの、信仰だの、許可だの、いろいろな言葉を使って。
でも、だからといって手を止めれば、今日つないだ命が明日切れるかもしれない。
それだけは、もう許せなかった。
レティシアは袖をまくり直した。
「ダリオ、湯は足りる?」 「夜までは何とか」 「じゃあもう一回、重い人から順番に回る。飲めた量と、吐いたかどうかも覚えておいて」 「そこまで見るのかよ」 「見るの。あと、井戸の周りに子どもが近づかないように見張れる人も欲しい」
ダリオは呆れたようにため息をついた。
「お前、ほんと容赦ねえな」 「手を抜くと、困るのは病人だから」
「……分かったよ」
彼はそう言って、今度はすんなり動き出した。
人々もまた、ゆっくりとだが元の動きに戻っていく。
いや、元の動きではない。さっきまでよりも、少しだけはっきりした動きだった。
教会が来て、脅していった。
それでも、この場は止まらなかった。
その事実が、何より大きかった。
レティシアは胸の奥で、静かな決意がまたひとつ固くなるのを感じた。
奇跡を疑わせる女。
そう呼びたいなら、そう呼べばいい。
けれど、自分が本当にやっているのは、疑わせることではない。
見捨てられるはずだった命を、まだ見捨てないで済む形に戻しているだけだ。
そのとき、ミアがルカを抱いたまま、小さな声で言った。
「レティシア様」
「何?」
「……もう、皆あなたを待ってます」
レティシアは一瞬だけ言葉を失った。
待っている。
奇跡ではなく、祈りでもなく、自分の手当てと知恵を。
教会が聞けば、きっと最も嫌う言葉だろう。
だからこそ、レティシアは静かに頷いた。
「なら、待たせないようにしないとね」
その返事に、ミアは泣きそうに笑った。
路地の上には、夕方の色がゆっくりと落ちてきていた。
まだ熱は下がりきらず、夜はこれからだ。楽観できる状況ではない。
それでもレティシアは、もう迷わなかった。
教会が敵になるなら、それでもいい。
今日ここで助かった人たちがいる限り、自分のやっていることは間違っていない。
そう思えるだけのものを、もうこの場所は返してくれていた。




