第五話 最初に救うのは、たった一杯の水から
共同炊事場の大鍋に火が入ったのは、それから間もなくのことだった。
乾いた薪がぱちぱちと音を立て、黒ずんだ鍋の底を赤く照らす。狭い路地に、普段なら夕食時にしか立たない湯気が昼のうちから立ち上っていた。
「ダリオ、もっと火を強くして」
「分かってるよ!」
不機嫌そうな声のわりに、手は早い。
ダリオは肩で息をしながらも薪を足し、鍋の位置を調整する。もともと力仕事には慣れているのだろう。湯を沸かすくらいなら任せておけ、という顔だった。
その隣では、さっきの老婆──イネスが、若い女たちに向かって怒鳴っている。
「だからそれは“体を拭く布”! 吐いたもん拭いたやつと一緒に積むんじゃないよ!」
「でも、そんなに布がなくて……」
「ないなら少しでも分けるんだよ、混ぜるよりましだ!」
イネスの言い方は荒いが、動き出した人の背中を押すにはちょうどよかった。誰かが仕切らなければ、結局“みんな困っている”だけで終わってしまう。そういう場面は前世でも何度も見てきた。
レティシアは通りの端、使われていなかった乾物置き場の前にしゃがみ込んでいた。
屋根は半分抜け、壁板も歪んでいるが、閉め切った部屋よりはずっとましだ。少なくとも空気が流れる。地面に古い藁が積んであったので、それを寄せて急ごしらえの寝床を作らせているところだった。
「ここには、立てない子を優先して運んで。子どもと老人から。熱がある人を全部同じところに集めたいわけじゃないけど、少なくとも今のまま家ごとに詰め込んでおくよりはいい」
そう言うと、若い母親が不安そうに眉を寄せた。
「うちの子を、家から出して大丈夫なんですか」
「絶対に大丈夫とは言えない。でも、空気の悪い部屋で大人と子どもが何人も寄り添ってるよりはいい。ここなら熱の様子も見やすいし、手伝う人も集められる」
母親は唇を噛み、腕の中の子どもを見下ろした。
それから、覚悟を決めたように小さく頷く。
「……運びます」
「ありがとう」
礼を言うと、彼女は少し驚いた顔をした。
教会の人間に礼を言われること自体、慣れていないのだろう。
レティシアは次の家へ向かった。
扉を開けると、湿った熱気が頬を打つ。床に寝かされた少年が浅い呼吸を繰り返し、そのそばで母親らしき女が布を握っていた。目は真っ赤に腫れ、疲労で頬がこけている。
「湯はもうすぐ来るわ。布を替えて、飲ませられそうならほんの少しずつ。無理に一気に飲ませないで」
「でも昨日、飲ませたら吐いて……」
「だから少しだけ。ひと口でいいの。飲めたら、少し待って、またひと口」
前世で何度もした説明だ。
急いで何とかしたい親ほど、たくさん飲ませようとする。けれど弱っている身体は、それに耐えられないことも多い。
女は不安げにレティシアを見つめた。 「それで……助かりますか」
その問いに、レティシアは一瞬、息を止めた。
何度聞かれても、慣れることのない質問だった。
前世でも、診療所でも、夜間外来でも、家族は同じ顔でこちらを見た。助かるのか、どうか。今ここで、はっきり言ってほしいと。
けれど本当に責任のある人間ほど、簡単に断言などできない。
「助かるためのことを、今から増やすの」
レティシアはそう答えた。
「何もしないより、ずっといい。だから一緒にやって」
女は涙をこらえながら、何度も頷いた。
外へ出ると、赤子を抱えた母親が共同炊事場の近くでおろおろしていた。
第四話の最後に運ばれてきたあの赤子だ。泣き声は弱いが、完全に無反応ではない。まだ間に合うかもしれない。
「こっちへ」
レティシアは母親を乾物置き場の一角へ案内した。
まだ十分に片づいてはいないが、路地に立たせておくよりはましだ。
「名前は?」
「サラです……七か月で……」
「今日は何回くらい飲めた?」
「ほとんど……少し飲んでも、すぐにぐずって……」
レティシアは赤子の口元に触れる。
乾いている。けれど昨夜のルカほど絶望的な感じではない。まだぐずる力がある。
「少しずついきましょう。まず口を湿らせて」
母親の手は震えていた。
レティシアはその手に自分の手を添える。
「大丈夫。慌てないで。あなたが怖がると、この子も飲みにくくなる」
「は、はい……」
そのとき、ダリオが大鍋から湯を運んできた。
もうもうと湯気を立てる桶を二人がかりで抱えている。
「熱っつ……! で、これどうすりゃいい」
「そのままじゃ熱すぎるから少し置いて。飲み水用と布を洗う用を分ける。桶、もう一つない?」
「イネス婆さんが探しに行った」
「助かる」
ダリオが眉を上げる。
「いちいち礼を言うんだな、お前」
「助かったときは言うものよ」
「教会の人間らしくねえ」
「だから偽物聖女なんでしょう」
そう返すと、ダリオは呆れたように笑った。
路地の空気は相変わらず悪い。
汚れの匂いも、病人の呻き声も消えてはいない。
でも、人は動き始めていた。
湯を運ぶ者。
布を仕分ける者。
重い子どもを抱いて乾物置き場へ運ぶ者。
水を沸かし、少し冷まし、順に配る者。
何もかも足りていない。
それでも“足りていないなりにやれること”があると分かるだけで、場は変わる。
レティシアは自分の膝に古布を敷き、その上に小さな器を置いた。冷ました湯を少しずつ注ぎ、指先で温度を確かめる。
「サラのお母さん、これを少しだけ。唇に当てて」
「こ、こう……?」
「そう。無理に流し込まないで。飲み込めそうなら待つ」
赤子の唇がわずかに動く。
ほんのひとしずく。
それでも喉が、小さく上下した。
「……飲んだ」
母親がかすれた声で呟く。
「もう一度いきましょう。でも急がないで」
周囲で見ていた女たちが、息を止めたままこちらを見つめていた。
それは奇跡の瞬間を待つ目ではない。地味で、手間がかかって、でも今ここで自分にもできるかもしれないことを見ようとする目だった。
レティシアは視線を上げずに言った。
「見て覚えて。熱のある子も、年寄りも、一気に飲ませるより少しずつ。吐いたら終わりじゃない。少し休んで、また少し。身体を冷やしすぎないようにして、汗や汚れた布は替える」
「そんなことで、本当に……」
誰かが不安げに言う。
レティシアはその声の方を向いた。
「そんなこと、ではないわ」
自分でも少し驚くほど、声がはっきりしていた。
「こういう“そんなこと”を、今まで誰もしてこなかったから悪くなってるの。派手じゃなくても、命をつなぐことはできる」
沈黙のあと、イネスが「聞いたかい」と鼻を鳴らした。
「ぼさっと突っ立ってる暇があるなら動きな。嬢ちゃんの言う通り、今は手を止める方が損だよ!」
その一喝で、また何人かが動き出した。
レティシアは心のどこかで苦笑する。
イネスがいなければ、ここまで一気には回らなかっただろう。
次に様子を見たのは、最初の家の少女だった。
ダリオの妹、名をリナというらしい。乾物置き場へ移してから、先ほどより呼吸が少し落ち着いていた。目はまだ閉じたままだが、呼びかけに眉が動く。
「どう?」
ダリオが横から覗き込む。
「さっきよりはいい。少なくとも、部屋に閉じ込めていたままよりは」
「……ほんとかよ」
「嘘をつく理由がないわ」
レティシアは少女の手を包む。
熱い。けれど、先ほどより手先の冷えが少し弱い気がした。
もちろん、まだ安心なんてできない。
たったこれだけで治るはずもない。
でも、“悪くなる速度”が少し緩んだ手応えはあった。
そのとき、乾物置き場の入口で小さなざわめきが起きた。
「ミアだ」
「ルカを連れてきたよ」
振り返ると、ミアがルカを抱いて立っていた。
顔色はまだ青白いものの、昨日のあの危うさに比べれば明らかに違う。ルカは薄く目を開け、ぼんやりとこちらを見ている。
「動かして大丈夫なの?」
レティシアが近づくと、ミアは息を弾ませながら頷いた。
「少しだけです。でも、私ひとりじゃ不安で……それに、こっちの方があなたが見てくれるかと思って」
ルカは母親の腕の中で、かすかに口を動かした。
「……みず」
それを聞いた瞬間、近くにいた女たちの空気が変わった。
ルカのことはもう何人も知っている。
昨夜まで死にそうだった子が、自分から水を欲しがっている。その事実が、どんな理屈よりも強く周囲を動かした。
「飲めるようになったのかい」
「朝は粥も少し食べたって」
「本当に……?」
囁きが広がる。
レティシアはルカの顔を見て、そっと頷いた。
「少しずつならいけそうね。無理はさせないで」
ミアは涙ぐみながら言う。 「この子だけじゃないんです。隣の家の子も、向かいのおばあさんも、みんな熱を出して……。昨日までは、どうしたらいいのか分からなかった。でも今は、やることがあるって分かるから……」
その言葉に、レティシアの胸がわずかに熱くなる。
やることがある。
それは医療者にとっても、家族にとっても、どれほど大きいことかを前世で知っていた。
助かる保証はない。
でも何をすればいいか分かるだけで、人は絶望の底から一段上に上がれる。
「レティシア!」
今度はダリオが通りの方から叫んだ。
「井戸の横、少し片づけた! でも汚れたもんを持ってく場所がねえ!」
レティシアはすぐに立ち上がる。
「通りのいちばん端、風下側に寄せて。子どもが近づかないように縄か何か張れない?」
「縄なんて立派なもんねえよ!」
イネスが怒鳴り返す。
「布でも棒でも何でもいい。とにかく“近づくな”が分かるように!」
「はいはい、分かったよ!」
人の動きが、少しずつだが秩序を持ち始めていた。
それは大したことではない。
王都の大病院のような設備も、立派な聖堂の奇跡も、ここにはない。
それでも、間違いなくさっきまでとは違う。
「……おい」
ダリオが少し低い声でレティシアを呼んだ。
振り向くと、彼は乾物置き場の入口に立ち、通りを見回していた。そこには、湯を運ぶ女、布を抱える子ども、互いに声をかけ合う住民たちがいる。
「なんだか、本当に違うな」
「何が?」
「空気が」
レティシアは少しだけ目を見張った。
同じことを、自分も感じていたからだ。
匂いはまだ悪い。
熱も下がっていない。
倒れている人もたくさんいる。
でも、絶望だけが沈殿していた路地に、今は“やること”が流れている。
それだけで空気は変わる。
「……まだ始まったばかりよ」
レティシアは言った。
「今は一杯の水を飲ませて、一枚の布を替えてるだけ。これで全部が解決するわけじゃない」
「それでも、何もしねえよりずっといい」
ダリオは静かに言った。
その声に、もう最初の棘はほとんど残っていなかった。
そのとき、乾物置き場の奥から小さな声がした。
「にい……ちゃん……」
ダリオがはっとして振り向く。
藁の上に寝かせられていたリナが、うっすらと目を開けていた。
声は掠れていて、ほんのかすかだ。
でも確かに、自分で呼んだのだ。
「リナ」
ダリオが駆け寄る。
その顔には、驚きと安堵と、信じきれないものを前にした戸惑いが一気に浮かんでいた。
レティシアもそばにしゃがむ。
まだ熱はある。けれど、反応はさっきより明らかに良い。意識が少し戻ってきている。
「水、少しならいけるかもしれない」
そう言うと、ダリオは慌てたように器を差し出した。
「こ、これで?」
「落ち着いて。ほんの少しでいい」
リナの唇に器を寄せる。
ほんのわずかだが、喉が動いた。
その瞬間、乾物置き場の中にいた皆が息を呑んだ。
誰も大声では喜ばなかった。
まだ安心には遠いことを、皆うすうす分かっているからだ。
それでも、確かにそこには“戻ってきた”ものがあった。
水ひと口。
それだけのことだ。
奇跡と呼ぶには、あまりにも地味で、泥臭くて、時間がかかる。
けれど今この路地で、最初に救われるのは、たった一杯の水からだった。
レティシアはそっと器を置き、周囲を見回した。
見ている人たちの目が、昨日までとは違っている。
半信半疑だったものが、“もしかしたら”に変わっていた。
そしてその“もしかしたら”は、この場所では十分すぎるほど大きい。
なら、次にやるべきことも決まっている。
一人を持ち直させて終わりではない。
このやり方を、ここにいる全員が使えるようにしなければならない。
レティシアは立ち上がり、静かに言った。
「聞いて。ここから先は、誰がどの家を見に行くか決めるわ。重い人から順番に回る。私一人じゃ足りないから、できることを皆で分ける」
路地にいた人たちが、一斉にこちらを見る。
偽物聖女。
教会から外された半端者。
それでも今だけは、その呼び名よりも先に、目の前で水を飲めるようになった子どもたちの方が強かった。
レティシアは、自分でも驚くほど落ち着いた声で続ける。
「助けられる命は、まだあるわ」




