第四話 病は、同じ井戸のそばで広がっていた
最初の家を出てから、レティシアは三つの路地を回った。
一軒目には、高熱で寝込む老人。
二軒目には、腹を押さえて泣く子ども。
三軒目には、顔色の悪い母親と、ぐったりした赤子。
どの家も似ていた。
狭い。
暗い。
空気がこもっている。
寝具は湿り、布は汚れ、飲み水は同じ井戸から汲んだもの。
体力のある者はまだ立っているが、弱い者から順に倒れていく。そんな流れが、嫌になるほど見て取れた。
路地に戻るたび、レティシアの胸の内には、焦りにも似た静かな熱が積もっていった。
「……何人?」
足を止めずに問うと、ダリオが振り返らないまま答える。
「熱を出して寝てるのが、たぶん今見たので五人目だ。ほかにも咳が止まらねえとか、腹を下してるとか、弱ってるやつはもっといる」
「急に増えたの?」
「この三日くらいで一気にだな。最初はただの風邪だって皆思ってた。季節の変わり目だし、元から丈夫じゃないやつも多いから」
ダリオは唇を歪めた。
「けど、続きすぎだ」
レティシアも同感だった。
もちろん、ひとつの病だけで全員が倒れているとは限らない。
元から栄養が足りず、寝床も悪く、疲れがたまっている者たちだ。そこへ冷えや暑さ、汚れた水、別の病が重なれば、症状が似ることもある。
だからこそ断定はできない。
だが、断定できないことと、原因が見えないことは違う。
目の前の通りには、明らかに悪条件が並びすぎていた。
レティシアは再びあの井戸の前に立った。
縄桶は地面に転がり、柄のところに泥がついている。井戸の縁には乾きかけた汚れがこびりつき、そのすぐそばで子どもがしゃがんで遊んでいた。少し離れた場所では、女が洗濯の濁った水を路地に流している。
「この井戸、いつからこうなの」
ダリオが肩をすくめる。
「いつからって……ずっとじゃねえか」
「掃除は?」
「誰がやるんだよ。使える水がここしかないんだ、止めるわけにもいかねえ」
言い分はもっともだった。
水を使うなと言うだけなら誰にでもできる。代わりの水がないなら、それは命令ではなく見殺しだ。
レティシアは井戸をのぞき込んだ。
薄暗い底の水面が、鈍く光っている。
「レティシア」
ダリオが少し低い声で呼ぶ。
「お前、何を考えてる」
「考えているというより、確認してるだけ」
「何を」
レティシアは井戸から視線を上げた。
「この辺りで弱っている人たちの共通点」
ダリオは黙る。
「同じ井戸を使ってる。同じように狭くて、空気の悪い部屋に人が詰め込まれてる。布が洗えていない家も多い。食べられていない人もいる。だから、ひとりの体調だけ見ても意味がないの」
「……全部、悪いって言いたいのか」
「ええ」
レティシアはあっさり頷いた。
「全部、悪いわ」
その言葉に、ダリオは一瞬だけむっとした顔をした。
この場所で生きている人間に向かって、環境の悪さを突きつけるのは残酷だ。分かっている。けれど、ここで遠慮しても意味がない。
「勘違いしないで。あなたたちが悪いって言ってるんじゃない」
レティシアは静かに続ける。
「悪いのは、こういう場所に人を押し込んだまま、祈りだけで済ませようとしてる側よ」
ダリオの眉がわずかに動いた。
そのとき、井戸の向こう側から、年老いた女の怒鳴り声が飛んできた。
「だからその布はそっちに置くなって言ってるだろう! また子どもが踏むじゃないか!」
振り向くと、腰の曲がった老婆が、若い女に向かって杖を振り上げていた。若い女は顔をしかめながらも、汚れた布の山を引きずって路地の端へ寄せる。
「置く場所なんかないんだよ!」
「だからって井戸の横に積むんじゃないよ!」
言い争いはすぐに終わったが、そのやり取りだけで十分だった。
置く場所がない。
捨てる場所もない。
洗う水も限られている。
だから汚れは人のそばに積もり、病人のそばに残る。
レティシアは老婆に近づいた。
「あなた、この辺りのことをよく知ってるの?」
老婆はじろりとレティシアを見上げる。
法衣を見てすぐ、顔に警戒が浮かんだ。
「教会の人間かい」
「半分だけ」
「はあ?」
「教会からは追い出されかけてるの」
そう言うと、ダリオが吹き出した。
老婆はしばらく怪訝そうにしていたが、やがて鼻を鳴らした。
「妙な嬢ちゃんだね」
「よく言われる」
「で、何が聞きたい」
レティシアは周囲を見回した。
「熱を出してる人、どこに多い? いつ頃から増えた? 子どもと老人ばかりなのか、元気な大人も倒れてるのか」
老婆は目を細めた。
試すような沈黙のあと、顎で路地の奥を示す。
「多いのは井戸の下側だよ。水が流れる先の方だ。三日……いや四日前からかね。最初は腹を下すのが何人か、次に熱。丈夫な男はまだ動いてるが、女と子どもが先に寝込んでる」
「咳は?」
「いるよ。けど多いのは腹と熱だね」
レティシアは頷く。
腹。熱。水。汚れ。弱い者から倒れる。
まだ病名を当てたいわけではない。
ここで必要なのは、“今この場所で死なせないために何を優先するか”だ。
ダリオが不思議そうにレティシアの顔をのぞき込む。
「何か分かったのか」
「分かったこともあるし、まだ分からないこともある」
「どっちだよ」
「両方よ」
レティシアは井戸の横へ戻りながら言った。
「何の病か断定はできない。でも、このままだと増える。少なくとも、それははっきり分かった」
「じゃあ、どうすんだ」
その問いに、レティシアはすぐには答えなかった。
通りの様子をもう一度見る。
井戸。
汚れた布。
吐瀉の跡。
閉め切られた戸。
疲れ切った母親たち。
ぼんやり座り込む子どもたち。
ひとりひとりに回復魔法をかけるだけでは、絶対に追いつかない。
たとえ本物の奇跡が使えたとしても、この環境そのものが人を弱らせ続けるなら、倒れる者はまた出る。
つまり必要なのは、治療だけじゃない。
「まず、井戸のすぐ横に汚れたものを置くのをやめたい」
レティシアは言った。
ダリオが顔をしかめる。 「そんなこと言われても、置く場所がないって……」
「分かってる。だから“やめろ”だけじゃ駄目。どこへ動かすか決める必要がある」
老婆が杖をつきながらふんと鼻を鳴らした。 「言うのは簡単だよ」
「簡単じゃないわよ。でも、やらないともっと面倒になる」
レティシアは続ける。
「次に、熱のある人をなるべく同じ部屋に押し込めない。難しくても、寝る位置を離す。窓か戸を少し開ける。飲み水はできるだけ一度沸かす。布は体を拭くものと、吐いたものを片づけるものを分ける」
ダリオも老婆も黙って聞いていた。
「……そんなので変わるのか」
ダリオの問いは、疑いというより願いに近かった。
レティシアは首を振る。
「劇的には変わらないかもしれない。でも悪くなる速さは変えられる。少なくとも、何もしないよりずっとまし」
前世の記憶が、言葉の端々で自然に形を持つ。
完璧な治療ではない。けれど、現場で命をつなぐための当たり前は確かにそこにある。
「……人手がいるわね」
レティシアは小さく呟いた。
「は?」
「一人じゃ無理。どの家が重いか見て回る人、湯を沸かす人、布を分ける人、井戸のそばを片づける人。誰かに手伝ってもらわないと」
ダリオは腕を組んだ。 「そんなの、誰がやる」
「あなた」
「は?」
「あなたと、さっきの老婆と、子どもが寝込んでない家の大人。動ける人だけでいい」
ダリオは露骨に嫌そうな顔をした。 「なんで俺が」
「妹を助けたいんでしょう」
即座に返すと、ダリオは口をつぐんだ。
レティシアは少しだけ身を乗り出す。
「私は教会の聖女みたいに、ひとりで全部を光らせて終わり、なんてできない。でも、この辺りを少しでもましにするには、ここで暮らしてる人の手がいる。あなたたち自身が動かないと、間に合わない」
ダリオの目が細くなる。 「命令かよ」
「お願いよ。現実的な」
しばらく無言が落ちた。
先に動いたのは老婆だった。 「やることをはっきり言うなら、あたしはやるよ」
レティシアが振り向くと、老婆は杖を鳴らして言う。
「どうせこのままでも寝込むやつは増えるだけだ。口だけの祈りより、よっぽどましだろうさ」
その言葉に、路地のあちこちから様子をうかがっていた視線が動いた。
気づけば、何人かの女や子どもが戸口からこちらを見ていた。
皆、疲れ切った顔をしている。
けれどその目の奥には、ほんのわずかな期待が宿っていた。
ダリオが頭を掻く。 「……分かったよ。何をすりゃいい」
レティシアは静かに頷いた。
「まず、熱が高くて起きられない人を教えて。子どもと老人を優先する。次に、空いてる小屋か物置がないか。病人を少しでも分けたい」
「物置……」
老婆があごに手を当てる。 「使ってない乾物置き場があったはずだよ。屋根は半分抜けてるけど、今の家よりは風が通る」
「それで十分」
レティシアは言った。
「それから、大鍋は?」
「共同炊事場にある」
「湯を沸かせるなら沸かして。飲み水用と布を洗う用を分けたい」
言葉にしていくたび、やるべきことが形になる。
重症者の確認。
場所の確保。
湯。
布。
井戸のまわりの片づけ。
何もないと思っていた。
でも、完全に何もないわけじゃない。動ける人がいて、鍋があって、場所が少しでもあって、そして“やらなければいけない”と感じている人がいる。
「……教会は来るかね」
老婆がぼそりと言った。
レティシアは一瞬だけ黙る。
「来るかもしれない。でも遅いわ」
その答えに、誰も反論しなかった。
それが答えだった。
教会は“来るかもしれない”。
だが今必要なのは、“いつか来るかもしれない救い”ではなく、今日ここで水を飲ませ、熱を拭き、寝る場所を分けることなのだ。
ダリオがため息をついた。 「偽物聖女って聞いて来たのに、やることが妙に細かいな」
「本物の奇跡がないから、細かくやるしかないの」
「夢がねえな」
「生き残るには必要よ」
そう返すと、ダリオはまた少しだけ笑った。
そのとき、路地の向こうから、かすれた泣き声が聞こえた。
若い女が赤子を抱え、慌てた足取りでこちらへ向かってくる。
「誰か、誰か見て……! この子、さっきから全然泣かなくて……!」
赤子はぐったりしていた。
泣き声は弱く、顔色も悪い。
レティシアの背筋が伸びる。
「ダリオ、鍋。湯を沸かして」
「今かよ!?」
「今よ!」
彼は舌打ちしながらも駆け出した。
老婆も「女たちを集めるよ!」と怒鳴りながら杖を鳴らして動く。
路地に、急に熱が入った。
人が動き出す。
戸口が開く。
誰かが桶を運び、誰かが布を抱え、誰かが場所を空ける。
レティシアは赤子を抱えた母親のそばへ膝をつき、その小さな顔をのぞき込んだ。
病は、同じ井戸のそばで広がっていた。
でも、ならば。
広がる場所ごと、変えていけばいい。
それは奇跡なんかじゃない。
泥だらけで、地味で、誰にも神々しく見えないやり方だ。
それでも確かに、ここから助かる命はある。
レティシアは赤子の額にそっと触れながら、静かに息を吸った。
「大丈夫。まずは落ち着いて。できることからやるわ」
その言葉は、赤子の母親だけでなく、自分自身にも向けたものだった。




