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偽物聖女と呼ばれた私は、奇跡ではなく医術で王国を救う  作者: sixi


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第三十九話 文面

紙を作る、と言ったはいいものの、実際に何を書くかとなると、それは簡単な話ではなかった。


昼の西棟は相変わらず慌ただしく、門前の列は短くなったと思えばまた伸びた。熱を出した子、夜通し咳き込んだ老人、食べられなくなった妊婦、付き添いで疲れ切った母親。誰もがそれぞれ違う事情を抱えているのに、その違いを越えて共通する言葉をひとつの紙に収めなければならない。


しかも、その紙は二つの相手を同時に見る必要があった。


ひとつは門前の母親たち。


もうひとつは、その紙を横から覗き込み、揚げ足を取ろうとする者たちだ。


雑すぎれば役に立たない。


生々しすぎれば、そこだけ切り取られて使われる。


優しすぎれば曖昧になる。


硬すぎれば、読まれない。


その難しさを、レティシアは夕方になってようやく実感していた。


「思ったより、厄介ですね」


小机に紙を広げたマティアスが、珍しく弱音めいたことを言った。彼の前には、門前の母親たちがよく口にする言葉を走り書きした紙片がいくつも並んでいる。


困って来た。


朝まで待てと言われた。


水の飲ませ方を教わった。


話を聞いてもらえた。


祈るだけでは間に合わなかった。


どれも真実だ。真実だが、そのまま並べれば強すぎるものもある。


「最後のは外しましょう」


レティシアが言うと、マティアスもすぐにうなずいた。


「ええ。気持ちは分かりますが、文面に乗せるには尖りすぎます」 「嘘ではないのですけれど」 「嘘でなくても、真正面からぶつければ“教会への攻撃文”にされます」


その言い方に、レティシアは小さく息をついた。


昨日までなら、誰かの切実な言葉を、そのまま尊重すればよかった。だが今は違う。言葉が表に出る以上、守るための並べ方が要る。


机の向かいではセラが腕を組み、唸るように紙片を見ていた。


「でも、“話を聞いてもらえた”は入れたいです」 「理由は?」 「ここへ来る人、そこにいちばん驚くんです。手当てもですけど、その前に“まず何に困っているか言ってください”って言われることに」 「……そうね」


レティシアも、それは分かっていた。


症状を聞く。


順番を説明する。


一番困っていることを先に言わせる。


それらは西棟では当たり前になりつつあるが、外ではまだ当たり前ではない。


「なら、感情の言葉ではなく、行動に直しましょうか」


マティアスが筆を持ち上げる。


「“話を聞いてもらえた”ではなく、“先に困りごとを伝えた”」 「それ、少し冷たくありませんか」  セラが眉を寄せる。 「冷たいです。でも、そのぶん揉めにくい」


その会話を聞きながら、レティシアは昨日の書斎でのやり取りを思い出していた。


西棟の言葉は人を動かし、王都の言葉は紙を動かす。


では、門前に置く紙は何を動かすのか。


おそらく、その両方だ。


読み書きのできる者には説明になる。苦手な者には、誰かが読み上げて口伝えできる。さらに、横から見ている者に対しても、こちらが何を目的としているかを示す札になる。


ならば必要なのは、感情だけでも、役所言葉だけでもない。


門前で使える言葉だ。


「最初に、“ここへ来るときに伝えること”を置きましょう」


レティシアが言うと、二人が顔を上げた。


「理由ではなく?」 「理由も大事ですが、まず役に立つ方を先に。来た人がその場で使える方がいいわ」 「……たしかに」


マティアスは納得したように紙を寄せる。


「では、項目は三つくらいでしょうか」 「多すぎると覚えられません」 「少なすぎると役に立ちません」


そこでセラが、ふと指を折って数え始めた。


「一番困っていること」 「ええ」 「飲めたかどうか」 「うん」 「返事があるかどうか」 「……それだわ」


レティシアはすぐにうなずいた。


熱の高さも、咳の多さも、吐いた回数も本当は大事だ。だが、門前でまず揃えたいのはそこではない。どの家でも見られて、緊急性にもつながりやすいもの。それを先に言えるだけで、かなり違う。


マティアスが書きつける。


まず伝えること  一、一番困っていること  二、水や湯を飲めたか  三、呼ぶと返事があるか


「これなら読めますね」  セラが言う。 「読めるし、覚えやすい」 「ただ」


マティアスが筆先を止めた。


「これだけでは、“なぜここへ来たか”の紙にはなりません」 「ええ。次に、そこを書きましょう」


レティシアは新しい紙を手前へ寄せた。


そこから先は、少し空気が変わった。


実務の紙ではなく、立場を守るための紙になるからだ。



夜の帳が降り始めたころ、ようやく侯爵夫人マリアもその場へ加わった。


昼のあいだは本館の調整に追われていたらしい。厨房とのやり取り、布の補充、使用人の割り振り、そして門前で余計な騒ぎが起きた場合の対処。侯爵家が西棟を守ると決めた以上、支える仕事は水面下で一気に増えていた。


「進んでいるかしら」


そう言って小机をのぞき込んだマリアは、並んだ紙片を見て目を細めた。


「ずいぶん悩んでいる顔ね」 「はい」  レティシアは正直に答えた。 「短く書くほど、削ることが増えます」 「それはそうでしょうね。短い紙ほど、何を残して何を捨てたかが出るもの」


マリアは椅子を引き、小机の隣に腰を下ろした。気取らない仕草だったが、その一つで場の空気が少し落ち着く。


「見せてちょうだい」


マティアスが候補の文面を差し出す。マリアはそれを黙って読み、途中で一枚を指先で軽く叩いた。


「この一文は強いわ」 「“困って来ました。祈りを否定するためではありません”のところですか」 「ええ」


マリアは紙を置いた。


「間違ってはいないの。でも、“否定するためではありません”とこちらから書くと、かえってその争いを前に出してしまう」 「では外しますか」 「ええ。こちらから教会を相手にしにいく必要はないわ」


その指摘に、レティシアははっとした。


守るための文面を書くつもりが、いつの間にか相手の土俵へ半歩乗りかけていたのだ。


「では、どう書くのがよいでしょう」 「相手の名前を消すことよ」


マリアはあっさり言った。


「誰に対して言い訳をするのでもなく、ただ“困ったから来た”“ここで覚えて帰った”と書く。その方が強いわ」 「……強い、ですか」 「ええ。言い訳は、相手が主語になるもの。けれど理由は、自分が主語でしょう?」


その言葉に、セラが小さく「なるほど」と呟いた。


たしかにそうだった。


教会がどうだ、と書いた瞬間、この紙は反論の紙になる。だが、困って来た、自分で飲ませ方を覚えた、と書けば、それは生活の紙のままだ。


「それなら」


レティシアは紙の端を押さえ、ゆっくり言った。


「“ここへ来た理由”は、こうしましょうか」


皆の視線が集まる。


「子どもや家族の具合が悪く、家で見ているだけでは不安なときに来ました」 「うん」 「来て、まず困っていることを伝えました」 「はい」 「水の飲ませ方や、様子の見方を教わって帰りました」 「……いいですね」


セラが頷き、マティアスもすぐに書き留める。


だがマリアは少し考える顔をした。


「悪くないわ。ただ、“不安なとき”だけだと弱いかもしれない」 「弱い?」 「ええ。誰だって不安にはなるもの。でも、こちらが扱っているのは、もっと切迫した場面でしょう」


そう言ってマリアは、レティシアを見た。


「あなたたちがずっと見てきたのは、“このまま朝まで持つか分からない”という顔だったはずよ」


レティシアの脳裏に、何人もの夜がよみがえった。


息の浅い子を抱いていた母親。


返事の薄い息子の肩を揺すっていた父親。


祈って待てと言われ、それでも待てずに駆け込んできた足。


あれは、ただ不安だったのではない。


間に合わなくなる怖さだった。


「……“悪くなりそうで、待っていられないとき”」  レティシアが呟く。 「それです」  マティアスがすぐに反応した。 「強すぎませんか」  セラが訊く。 「でも、実際そういう人が多いです」


マティアスは少し早口になった。


「しかもこれは教会への非難ではなく、自分たちの状態の説明です。待っていられないから来た。なら文面として立ちます」


マリアも静かにうなずく。


「ええ。主語がこちらのままですもの」


そこで一枚目の下書きが、ようやく形を取り始めた。


ここへ来た理由  家族の具合が悪く、このままでは悪くなりそうで待っていられないときに来ました。  来て、いちばん困っていることを伝えました。  水の飲ませ方や、様子の見方を教わって帰りました。


短い。だが、短いからこそ一つ一つの言葉が重い。


レティシアはそれを見つめ、まだ足りないものがある気がした。


「最後に、もう一行ほしいわ」 「何を足します?」  マティアスが訊く。 「“次にどうするか”です」


セラが目を丸くした。


「次?」 「ええ。この紙は、言い分の紙であると同時に、持ち帰る紙でもあるでしょう。なら、“帰ってから何を見るか”が一つあるといい」


それを聞いたマリアが、少しだけ微笑んだ。


「あなた、本当にそこへ戻るのね」 「戻ります。そこが西棟なので」


レティシアは自分でも驚くほど迷いなく答えていた。


どれだけ言葉の争いが大きくなっても、西棟の芯はそこだ。帰ってから何を見ればよいか。どうやって夜を越えるか。その一歩がなければ、どんな立派な文面もただの旗になる。


「なら、“帰ってから見ること”を別枠で付けましょう」


マティアスがすぐに紙を分けた。


「返事があるか、水が飲めるか、苦しさが増えていないか」 「その三つでいいと思う」  レティシアが言う。 「覚えやすいですし」  セラも同意した。



文面作りが本格的に動き出したのは、それからだった。


誰にでも読めるように、難しい字は避ける。


読み上げたときに引っかからないよう、音の並びを整える。


一文が長くなりすぎないように切る。


けれど短すぎて、誤解される形にもならないようにする。


その作業は地味だったが、不思議と誰も飽きなかった。


セラが「この言い方だとお年寄りに伝わりにくいです」と言えば、マティアスが「なら語順を変えましょう」と直す。マリアが「この一行は言い分に寄りすぎる」と言えば、レティシアが「では使い方へ戻します」と削る。


そうしているうちに、文面は少しずつ丸く、しかし芯のある形になっていった。


途中でエルザも加わった。門前から戻ったばかりで、肩には外気の冷たさが残っている。


「母親方、同じことを言える紙があるなら助かると」 「やはり?」  セラが顔を上げる。 「ええ。特に、家へ帰ってから夫に説明するときに。自分でうまく言えないから、紙があれば見せられる、と」


その言葉に、レティシアは静かに息をついた。


最初は、外からの聞き取りに備えるための紙だと思っていた。


だがそれだけではないのだ。


この紙は、家の中に持ち帰るための紙でもある。


母親が一人で抱えていたものを、家族へ渡すための紙。


祈りしか知らなかった家に、別のやり方を入れるための紙。


ならばなおさら、責める言葉ではいけない。


家に持ち込める言葉でなければ。


「決まりましたね」


マティアスが、ほぼ整った下書きを見て言った。


レティシアはそれを手に取り、声に出して読んでみた。


ここへ来た理由  家族の具合が悪く、このままでは悪くなりそうで待っていられないときに来ました。  来て、いちばん困っていることを伝えました。  水の飲ませ方や、様子の見方を教わって帰りました。


帰ってから見ること  一、呼ぶと返事があるか  二、水や湯を少しずつ飲めるか  三、苦しさが増えていないか


読んでみると、妙な静けさがその場に落ちた。


誰もすぐには口を開かない。


華やかな文ではない。胸を打つ名文でもない。だが、今の西棟にはこれ以上なく似合う紙だった。


「……いいと思います」


最初に言ったのはセラだった。


「泣けるような文じゃないですけど、使えます」 「それで十分よ」  マリアが言う。 「泣かせるための紙ではないもの」 「はい」


エルザも腕を組んだまま、深くうなずいた。


「門前で読んでも、そのまま使えます」 「なら、これでいきましょう」


レティシアが言うと、マティアスはすぐに清書用の紙を引き寄せた。


「何枚作ります?」 「まず十枚。足りなければ増やします」 「読み上げ用も別に必要ですね」 「ええ。大きめの字でも一枚」


筆の音が、夜の西棟にさらさらと広がる。


その音を聞きながら、レティシアはふと、奇妙な感覚を覚えていた。


これは帳面ではない。


だが帳面から生まれた紙だ。


門前で聞いた言葉。寝台の横で拾った言葉。何度も繰り返された困りごと。そうしたものが、いまようやく他人へ手渡せる形になろうとしている。


記録が、外へ出る。


その最初の一歩だった。



清書が終わるころには、もう夜も深くなっていた。


最後の一枚を乾かすために机の端へ置き、マティアスが肩を回す。


「思った以上に時間がかかりました」 「でも、必要でしたね」  セラが言う。 「はい。雑に作らなくてよかった」


マリアは立ち上がり、整えられた紙を見下ろした。


「明日、門前へ出すのね」 「ええ」  レティシアは答える。 「まずは西棟へ来た方に渡して、必要なら読み上げます」 「では、その反応も見なければ」 「記録します」 「そこまでやるのね」 「やります」


マリアは小さく笑った。


「本当に、紙を増やしていくのね」 「教会が帳面を嫌うなら、こちらは増やすしかありませんから」


その返しに、マリアだけでなくエルザまで少し笑った。


けれどその空気はすぐ、扉の外から響いた足音で引き締まる。


夜番の若い使用人だった。息を急がせている。


「レティシア様、門前ではなく表門の方に」 「何があったの」 「使者が」


レティシアは反射的に、昨夜の王都の使者を思い浮かべた。だが若い使用人は首を横に振る。


「今度は教会です」 「……司祭?」 「いえ」


使用人は一度唾を呑み、言いにくそうに続けた。


「修道院付きの書記官だと名乗っています。西棟で配る文書があるなら、先に内容を確認したいと」


部屋の空気が、すうっと冷えた。


早い、とレティシアは思った。


こちらが紙を持とうとした、その時点でもう嗅ぎつけてくる。


やはり相手も分かっているのだ。門前の口伝えが紙になれば、ただの噂ではなくなることを。


マティアスが、乾きかけの紙へ反射的に手を伸ばす。


エルザの顔はもう門へ向かう者のものになっていた。


マリアだけが、驚くほど静かに口を開いた。


「……ちょうどいいわ」 「奥様?」 「向こうも分かっているのでしょう。紙が増えると面倒だと。なら、こちらも分かりやすくなったということよ」


その声に煽りはなく、ただ確信だけがあった。


レティシアは机の上の文面を見た。


短い紙だ。


けれど、この短い紙ひとつで、もう向こうは無視できなくなっている。


「どうしますか」  マティアスが訊く。


レティシアは迷わなかった。


「まず侯爵様へ知らせて」 「はい」 「それから、この紙はまだ渡さない。今夜のうちに一枚、控えを別に取って」 「分かりました」 「明日、相手が何を言ってきても、こちらは“来た人が帰ってから困らないための紙です”とだけ答えましょう」


セラが強くうなずく。


「それなら門前でも言えます」 「ええ。言い争わないで済む形にします」


そう言ってから、レティシアは小さく息を吸った。


やはり次の争いは、紙の上に来た。


奇跡かどうかではない。


正しい祈りかどうかでもない。


誰が何を書くのか。


何を、残る形にするのか。


その争いだ。


机の上で乾きつつある文面を見つめながら、レティシアは静かに思った。


この紙は、門前の母親たちのために作った。


だが同時に、ここから先の西棟そのもののための紙にもなるのだろう。


誰かが勝手な名前をつける前に、自分たちで、自分たちのしていることを書いておくための。


そのとき外で、夜風に扉が鳴った。


まるで新しい段の始まりを告げるような、乾いた音だった。

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