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偽物聖女と呼ばれた私は、奇跡ではなく医術で王国を救う  作者: sixi


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第三十六話 広間

侯爵アルベルトが「異議があるなら書面で出せ」と言い放ったあと、門前に残ったのは、勝利の歓声ではなかった。


むしろ、うまく息を吐けない者たちの、奇妙な静けさだった。


誰もが、いま起きたことの意味をすぐには飲み込めずにいたのである。


教会の司祭に向かって、侯爵家があそこまではっきり退かぬ意思を見せた。しかもそれは、怒鳴り合いでも、祈り比べでもなく、領主としての言葉で押し返された。


西棟の前に並んでいた母親たちにとって、それは初めて見る種類の光景だった。


頭を下げるしかない相手に、頭を下げずに済む瞬間。


言い返せぬ決まりごとに、別の決まりごとをぶつけてよいのだと知る瞬間。


その場にいた誰もが、胸の奥で何かを揺らされていた。


「……中へどうぞ」


最初にいつもの声を出したのは、エルザだった。


門の脇に立つ彼女の声は、少しだけかすれていたが、手順を乱さぬよう意識しているのが分かった。


「立っていられない方から先に。子どもを抱えている方、壁際へ。付き添いは一人、症状を先にまとめてください」


その言葉で、人々はようやく自分の足を思い出したように動き出した。


ざわめきは戻ったが、先ほどまでとは違うざわめきだった。怯えの音ではない。興奮とも少し違う。胸の内にしまいきれないものが、ひそひそと漏れていく音だった。


「ほんとうに……止められなかったね」


「奥様が、あんなふうに……」


「侯爵様まで出てこられるなんて」


「書面で、って……」


その最後の言葉が、何人もの口で繰り返された。


書面で。


それは西棟の者たちにとってはもう聞き慣れた言葉だったが、門前に立つ人々にとってはまだ新しかった。祈りでも、コネでも、気分でもない。紙に書いて残すという、逃げ道の少ないやり方だ。


レティシアは西棟の入口近くで、その響きを聞いていた。


自分のしたことが評価されたというより、別の感情が先に来た。


少し、怖かったのである。


ここまで来た。


とうとう、ここまで来てしまった。


侯爵家がはっきりと立った以上、もうただの「屋敷の片隅でやっている親切」では済まない。相手も次は曖昧には来ないだろう。今日の押し問答は終わっても、始まりでもあった。


「お嬢様」


横に来たのはマティアスだった。帳面を抱えたまま、彼は小声で言う。


「裏門側、列が少し伸びています。ですが混乱はありません。むしろ……皆、妙に静かです」


「静か?」


「何かを確かめるみたいに、周りを見ています。たぶん、自分たちがいまどこに立っているのか、測っているんでしょう」


レティシアは門前を見た。


泣きわめく子どもを抱えた母。青い顔をした老人に肩を貸す息子。腕の中でぐったりした赤子を何度ものぞき込む若い父親。見慣れたはずの景色なのに、今日はそこに別の色が混じっていた。


頼るしかなかった人々の中に、見届ける目が増えている。


「……では、こちらもいつも通りに参りましょう」


「はい」


レティシアはうなずき、両手を軽く打って中の者たちへ合図を送った。


「中の寝台を二つ空けてください。飲水の布は交換を。待合の長椅子、奥にもう一本。セラ、初めての方が多いでしょうから、話す順番を先に伝えて」


「はい、レティシア様」


「エルザ、門前では“誰が先に苦しいか”だけ見て。言い争いになりそうなら、私を呼んで」


「承知しました」


「マティアスは、今日のことを記録して」


「今日のこと、全部ですか」


「全部です。誰が来て、何を言い、侯爵様がどう返したかまで」


「……分かりました」


マティアスの返事は短かったが、その顔にはわずかな緊張があった。


記録するというのは、残すということだ。


残すというのは、後で誰かが読めるようにすることだ。


西棟で積み重ねてきた帳面は、熱の上がり下がりや、水を飲めた量や、吐いた回数だけを書くものではなくなりつつあった。人がどう扱われたか。何を拒まれ、何を認められたか。そこまで含めて記録になろうとしている。


それはもう、ただの看病の覚え書きではない。


小さな制度の形だった。



その日の西棟は、いつも以上に人の出入りが多かった。


噂を聞きつけて新たに来た者もいれば、今朝の騒ぎを遠巻きに見ていた近隣の使用人が、夕刻になってから主人の許しを得て駆け込んでくることもあった。


「朝、司祭様が来たって聞いて……もう駄目かと思っていたんです」


「でも、まだ診てもらえるって……」


「ここ、閉じないんですよね」


そう尋ねる声が何度もあった。


レティシアはそのたび、同じように答えた。


「本日は受け入れています。ですが、急ぐ方から順です。お名前より先に、いま一番困っていることを」


その言葉を聞くたび、来た者たちは少しだけ表情を変えた。


名乗る前に、困りごとを言っていい。


叱られる前に、症状を言っていい。


その順番ひとつが、人をどれほど落ち着かせるかを、レティシアはもう知っていた。


午後遅く、広間の隅に座っていた若い母親が、膝の上の息子に薄く水を含ませながら、おそるおそる口を開いた。


「あの……」


相手はセラだったが、声が小さく、西棟の空気がその周囲だけ少し細くなる。


「はい」


「今日、門のところで……侯爵様が、止めないって言ってくださったでしょう」


「ええ」


「じゃあ、もう……ここに来るのを、隠さなくていいんでしょうか」


セラはすぐには答えなかった。


その問いが、単なる確認ではないと分かったからだ。


いままでこの母親は、ここへ来たことを近所に知られぬようにしていたのかもしれない。教会に逆らったと思われるのが怖かったのかもしれない。夫に、姑に、雇い主に、余計なことをしたと責められるのが怖かったのかもしれない。


西棟へ来るというだけで、人は何かを覚悟しなければならなかった。


「……完全に安心してよい、とまではまだ申しません」


セラは慎重に言った。


「でも、少なくともこの屋敷の中では、追い返されません。今日、それを侯爵様が皆の前でお示しになりました」


「そう、ですよね……」


若い母親はうつむいた。安心したような、まだ半分信じきれぬような顔だった。膝の上の子に布を当てる手だけが、少し柔らかくなる。


それを見ていたレティシアは、部屋の奥に立つ侯爵夫人マリアと目が合った。


マリアは何も言わず、静かにうなずいた。


その小さなうなずきには、今日一日でいくつもの決意を重ねた者の重みがあった。



夕方になると、アルベルトは西棟の一階広間を一時的に空けさせた。


普段は待合として使う場所に、長机がひとつ運び込まれ、燭台が並べられる。呼ばれたのは屋敷の主要な使用人たち、執事、出納係、厨房長、門番頭、そして西棟に出入りしている面々だった。


レティシアも末席に立った。


広間には緊張があった。今朝の件を受けての話し合いだと、誰もが分かっていたからだ。


アルベルトは席につかず、机の前に立ったまま皆を見渡した。


「長くは話さぬ」


そう前置きしてから、彼はまっすぐ言った。


「本日、教会側より、西棟の施療行為について停止の要求があった。私はこれを退けた」    広間の空気が、しんと引き締まる。


「理由は単純だ。ここで行われていることが、屋敷内の秩序を乱すどころか、実際に人命と安寧に資していると判断したからだ。私の息子ユリウスの件もある。しかし、それだけではない」


アルベルトはそこで言葉を切り、一人一人の顔を見た。


「西棟は、祈りの代わりを称しているのではない。奇跡を商っているのでもない。症状を聞き、風を通し、水を飲ませ、熱を見て、夜を越す工夫を重ねている。それを私の屋敷で禁ずる理由はない」


執事が静かに頭を下げた。厨房長は眉を寄せ、しかし深くうなずく。門番頭は腕を組んだまま、表情を固くした。


「ただし」


アルベルトの声が一段低くなる。


「ここから先は、善意だけでは守れぬ。ゆえに運用を定める」


マティアスがすぐに筆を取った。


「第一に、西棟への出入りは記録する。名、用向き、付き添いの数、持ち込み品。必要な範囲で構わぬが、曖昧にはするな」


「はい」


「第二に、夜間の門の扱いを変える。急を要する来訪があれば、門番は西棟へ直接伝達せよ。判断は西棟側に委ねる」


「承知しました」と門番頭。


「第三に、教会側から再度申し入れがあった場合、現場で応酬する必要はない。すべて私か、執事へ回せ」  


 レティシアはその言葉を聞き、胸の奥が少し熱くなるのを感じた。


現場で守らせない。


責任を、屋敷の上が引き取る。


それは、ただ許されるのとは違う。守るための線が引かれたということだった。


「第四に」


アルベルトは一瞬、レティシアの方へ視線を向けた。


「西棟で行うことは、引き続き記録として残す。症状の変化も、対応も、来訪の経緯もだ。今後は必要に応じて写しを作る」


広間の隅で、出納係がわずかに顔を上げた。写しを作るには紙も人手もいる。金がかかる。しかし彼は何も言わなかった。むしろ、もうその段階に入ったのだと理解した顔だった。


「以上だ」


アルベルトはそこで終えかけたが、マリアが一歩前へ出た。


「私からも」


侯爵夫人の声に、広間の全員が姿勢を正す。


「今日、門前で私は、母親たちの顔を見ました。以前の私と同じ顔でした。何をしたらよいか分からず、祈るしかないのに、その祈りも間に合わないかもしれないと怯える顔です」


マリアは広間の中央を見たまま、静かに続けた。


「西棟は、その者たちに“何もしない時間”を減らしました。私はそれを、この屋敷の大きな務めだと思っています。ですから、私も支えます。水、布、食事、人手——足りぬものがあれば、遠慮なく上げなさい」


その言葉に、厨房長が深く頭を下げた。


「かしこまりました、奥様」


広間にいた使用人たちの顔が、少しずつ変わっていく。


命令を聞く顔から、関わる顔へ。


ただの厄介事ではなく、屋敷の仕事として受け止める顔へ。


レティシアはその変化を見て、思った。


門前で起きたことの本当の余波は、こういう場所に出るのだ、と。


人前で守ると言われたことが、屋敷の中で仕事になる。


仕事になれば、続く。


続けば、誰かの一時の気まぐれではなくなる。



話し合いが終わって人が散ったあと、広間には燭台の火と、紙の擦れる音だけが残った。


マティアスは記録を清書し始めていた。エルザは門の引き継ぎを書きつけ、セラは布と水差しの数を見直している。


レティシアは長机の端に立ち、今日一日の重みをようやく自分の中へ落としていた。


「疲れましたか」


振り返ると、マリアがいた。


「……はい。少し」


「そうでしょうね」


「奥様こそ」


「私も少し。でも、不思議と、今日の疲れは前とは違うのです」


マリアはそう言って、まだ余熱の残る広間を見渡した。


「ユリウスの時、私はただ怖かった。失うことばかり考えて、部屋の空気も、布の重さも、水の一口も見えていませんでした。でも今は、怖さの中に、することがある」


「……はい」


「それをあなたが教えたのよ、レティシア」


まっすぐにそう言われて、レティシアは少しだけ視線を伏せた。


褒め言葉を受けるのは、まだ苦手だった。


「私は、大それたことをしているつもりはありません」


「ええ。だからこそ、強いのでしょう」


マリアは柔らかく笑った。


「奇跡を名乗らず、できることを積む。紙に書いて、人に渡し、同じようにできる者を増やす。そういうものの方が、案外、古い大きなものを揺らすのかもしれませんね」


その言葉は、慰めというより確認だった。


レティシアは静かに息を吸った。


今日、侯爵家は立った。


だがそれで終わりではない。むしろ、ここからはもっと丁寧に積まねばならない。感情で勝ったのではなく、役に立つから守られる。その形を崩さぬように。


「明日から、さらに来る方が増えるかもしれません」


「でしょうね」


「門前だけでは回らなくなる日も来ます」


「なら、その時は広げましょう」


マリアの言い方は穏やかなのに、決意が揺らがなかった。


「広げる……」


「ええ。門前で起きたことは、たぶん、もう屋敷の外だけの話では済みません。今日見ていた者が、それぞれの家で話すでしょう。“止められなかった”“続けると言った”と」


「……はい」


「なら、次に来るのは病人だけではないかもしれないわ」


レティシアはその意味を考えた。


診てもらいたい者。


確かめに来る者。


探りに来る者。


そして——つぶしに来る者。


マリアはレティシアの顔を見て、彼女がそこまで考えたのを察したようだった。


「怖い?」


「少し」


「私もよ」


二人は、ほんの短く笑った。


その笑いは軽くはなかったが、同じ怖さを分け合った者の笑いだった。



夜、最後の来訪者が帰ったあとで、レティシアは一人、西棟の小机に向かった。


帳面を開く。


今日の頁は、いつもより多くのことを書かねばならなかった。


午前、教会側来訪。


停止要求あり。


門前にて応酬。


侯爵夫人、現場に出る。


侯爵、継続を明言。


以後、来訪者らの反応に変化あり。


「閉じないのか」という確認、多数。


不安の種類、従来と異なる——。


そこまで書いて、レティシアの筆が一度止まる。


言葉を選ばねばならないと思った。


何が起きたのかを、熱の記録と同じくらい正確に残さねばならない。


感情の勢いで書けば、後で読める記録にならない。だが乾いた事実だけでも足りない。今日変わったのは、出来事だけではなく、人の顔つきや、問いの種類や、待ち方そのものだった。


レティシアは少し考え、筆を置き直した。


そして、新しく一行を書いた。


——門前の不安が、屋敷の広間で仕事に変わった日。


それを書いた瞬間、胸の中で何かがすとんと落ち着いた。


たぶん、これが今日の核なのだ。


外で起きたことが、中で受け止められた。


騒ぎで終わらず、運用に変わった。


ならば、今日の勝ち負けは、門前の押し問答ではなく、この一行の方にある。


窓の外では、夜風が木々を揺らしていた。


西棟の明かりはまだ落ちない。奥では誰かが布をすすぎ、どこかで水差しの蓋が触れ合う音がした。遠く、門の見回りの足音もする。


守ると言った言葉に、もう音がついている。


手がついている。


仕事がついている。


レティシアは帳面を閉じる前に、頁の端へ小さく書き添えた。


——明日は、来訪理由の分類を増やすこと。  ——見物・確認・相談のみ、を分けること。  ——門前での説明役を、一人固定した方がよい。


そこまで書いてから、ようやく筆を置く。


次に来る波は、今日までと同じではない。


病だけではなく、視線も来る。


その視線にさらされながら、それでも中を崩さず回せるかどうか。


問われるのは、たぶんそこだ。


静かな部屋で、レティシアは閉じた帳面の上に手を置いた。


今日、侯爵家は西棟を守ると示した。


では明日、西棟は何を示すのか。


答えはひとつしかない。


守られるに足るだけ、役に立ち続けること。


そのとき、廊下の向こうで小走りの足音がした。


「レティシア様、まだ起きていらっしゃいますか」


エルザの声である。少し急いでいる。


レティシアは顔を上げた。


「どうしました」


「門前に……変わった来訪者が」


その一言で、部屋の空気が細く張る。


「病人ですか」


「いえ……それが」


エルザは扉のところで一度息を整えた。


「王都からの使いだと名乗っています」

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