第三十話 門前
西棟の中でどれだけ場が回り始めても、すべての始まりは門前だった。
扉の内側へ入る前に、人はそこで立ち止まる。
具合の悪い子を抱いたまま、どこへ立てばいいのか迷う母親がいる。
家の者を置いて一人で来た父親が、自分だけ先に話していいのかとためらう。
何度も教会へ行って、それでも足りなかった者が、今度こそ追い返されないかと身構えて立っている。
門前は、まだ不安が一番濃い場所だった。
朝、レティシアが西棟へ入る前から、裏門にはすでに数人の姿があった。
陽はまだ低く、石畳には夜の冷たさが残っている。門番が厚手の外套の襟を立てながら列の様子を見ていて、エルザはその横でいつものように静かに人の顔を見分けていた。
「今日は早いですね」
レティシアが声をかけると、エルザは小さく頷いた。
「夜のうちに具合が変わった家が多かったようです」
その言い方の中に、もう“ただ押しかけてきた人たち”という響きはなかった。
家で一晩見て、迷って、朝を待って来た人たち。
そういう意味が、ちゃんと乗っている。
門前にいる中でも目についたのは、若い母親だった。
まだ二十にもならないように見える。腕の中には一歳半ほどの子ども。泣く元気もないのか、母親の胸へ額を押しつけてじっとしている。母親の方はひどくこわばっていて、列のどこへ入ればいいかも決めきれず、少し端の方で立ち尽くしていた。
レティシアが近づく前に、先に並んでいた年配の女がその母親へ声をかける。
「おいで。そういう時は前だよ」
若い母親が、びくりと顔を上げる。
「でも、皆さん並んで……」
「子どもの顔見な」
年配の女は、責めるでもなく言った。
「立ってるのもしんどそうだろ。そういうのは前でいいんだよ」
周囲の者も当然のように道を空ける。
若い母親は何度も頭を下げながら前へ出てきたが、その動きはぎこちなかった。譲ってもらうことに慣れていないのだろう。
レティシアは門前まで出て、その子の様子を見る。
「名前は?」
「ハンナ、です」
「ハンナちゃん、聞こえるかな」
顔色は悪いが、完全に反応がないわけではない。熱はある。口元も少し乾いている。急いで中へ通した方がいい。
「中へ入りましょう」
若い母親が、泣きそうな顔で頷いた。
「すみません……」
「謝らなくて大丈夫です」
そう言うと、彼女は一瞬だけ目を見開いた。
門前では、謝ることから始まる人が多い。
遅く来たこと。
一人で来たこと。
子どもが苦しそうなこと。
順番を乱すかもしれないこと。
そういうもの全部に、まず「すみません」と言ってしまう。
でも本当は、謝る必要なんてないのだ。
ただ困って、来た。それだけなのだから。
その朝は、門前で同じようなやり取りが何度もあった。
父親ひとりで来た男が、列の後ろで立ち止まり、「本人じゃなくても聞いてもらえますか」と小さく尋ねる。すると、前の方にいた老婆が「だから来たんだろ。聞いてもらいな」と返す。
熱のある娘を連れた母親が、「昨夜から吐いてて」と言いかけたところで、隣の女が「吐いた回数、覚えてる?」と助け舟を出す。
足の悪い老人が列の途中でふらつけば、誰ともなく壁際へ寄せ、座れる箱を運んでくる者がいる。
門前は、ただの入口ではなかった。
不安が、一番最初に人の言葉になる場所だった。
昼前、少し列が引いた頃に、レティシアはエルザと一緒に門前の脇へ立った。
「前より、皆さんここで落ち着けるようになってきましたね」
そう言うと、エルザは門の外を見たまま答える。
「ええ。ですが、まだここが一番つらい場所でもあります」
レティシアはその横顔を見る。
「つらい?」
「扉の内側へ入る前は、まだ何も始まっていませんから」
その言葉は、妙にまっすぐ胸へ入った。
たしかにそうだ。
中へ入れば、椅子がある。水がある。帳面がある。話を聞く人がいる。
でも門前には、まだ何も確約されていない。
だから皆、いちばん硬い顔で立っている。
「ここで何を言っていいかわからない人も多いですし」
エルザが続ける。
「“また追い返されるのでは”と思っている顔も、まだ多い」
レティシアは列の後ろの方を見た。
たしかに、そういう顔はある。
順番を待っているというより、試されているような顔。
ここで何か足りなければ、自分はまた“待て”と言われるのではないか、そんな不安を抱えた顔だ。
だから門前で交わされる一言一言が、大きいのだろう。
前でいいよ。
一番困ってることからでいいよ。
本人じゃなくても話していいよ。
そのひとつひとつが、“ここではまだ帰されていない”という小さな確認になる。
午後、また列が伸びた時、ひとりの修道女が門前を通りかかった。
地方教会の者だった。
西棟へ入ってくるわけではない。ただ、表通りから裏手へ抜ける途中でこちらが見えたのだろう。足を止めたのはほんの一瞬だけだったが、その視線にははっきりしたものがあった。
嫌悪。
警戒。
そして少しの戸惑い。
門前にできた列は、教会の者から見れば好ましいものではないはずだ。
だが厄介なのは、そこに怒号も混乱もないことだった。
人々は静かに並び、静かに譲り、静かに言葉を渡している。
無秩序として咎めにくい。
しかもその列は、“話を聞いてもらうため”にできている。
修道女は何も言わずに去っていったが、レティシアはその背中を見送りながら、門前そのものがひとつの主張になり始めている気がした。
ここに人が並ぶという事実。
それだけで、“教会だけでは足りていない”と示してしまう。
夕方近く、最後の方に来たのは中年の男だった。
顔色は悪くない。本人の具合ではなさそうだ。
門前で少し立ち尽くしていたので、門番が声をかける。
「どうしました」
男は帽子を胸の前で揉みながら言った。
「来るかどうか、迷ってて」
「どなたのことで?」
「母です。熱があって、でも本人は“こんなことで騒ぐな”って」
その返答に、列の後ろにいた女がぽつりと言う。
「そういう人ほど来た方がいいのよね」
男は困ったように笑った。
「いや、本当にその通りで」
レティシアは門前へ出て、その男に言った。
「迷ったこと自体を話して大丈夫です」
男は目を丸くする。
「迷ったことを?」
「はい。何が心配で、何で迷ったか。それも大事な情報です」
男はしばらく黙っていたが、やがて深く息を吐いた。
「……じゃあ、そこから話します」
その瞬間、門前で固まっていたものが少し崩れたのがわかった。
症状だけじゃない。
迷いそのものも持ち込んでいい。
その言葉が渡ると、人はようやく中へ入ってこられる。
その日の終わり、レティシアは帳面を閉じる前に、門前のことを書き足した。
裏門前にて、初来訪者への声かけ・優先順の調整・伝える内容の整理、継続して見られる。
来訪者、“迷ったこと自体を話してよい”との言葉により緊張軽減あり。
少し考えてから、さらに一行。
門前は、来訪者の不安が最初に言葉になる場所として機能しつつある。
書いてから、その文をしばらく見つめた。
門前。
ただの入口だと思っていた。
でも違った。
あそこで人は初めて、自分が何に困っているのかを言葉にし始める。
その言葉が中へ運ばれ、帳面へ残り、また次の誰かへ渡る。
そう考えると、西棟は扉の内側だけでできているわけではなかった。
門前からもう、始まっているのだ。




