第三話 祈りでは治らない熱
その日の昼過ぎ、レティシアは倉庫の棚札を数えながら、同じ場所を三度も見直していた。
乾燥薬草の束、麻袋、記録札。
目の前にあるものは全部読めている。なのに頭には何ひとつ入ってこない。
今朝の処分。
ミアの言葉。
ルカの乾いた唇。
手を動かしながらも、心だけがずっと別の場所にあった。
「……集中しなさい、私」
自分に言い聞かせるように呟く。
けれど言葉に力はなかった。
施療院から外された今、表向きには何もできない。
教会の命令に逆らって動けば、次は本当に籍ごと切られるかもしれない。そうなれば、最低限の寝床も食事も失う。
分かっている。
分かっているのに、胸の奥のざわつきは消えなかった。
あの子だけで終わるはずがない。
そう思ってしまうのだ。
昨夜のルカの様子は、偶然ひとりだけが重くなった子どもの姿には見えなかった。
汚れた布。
濁った桶の水。
母親の疲れ切った顔。
服の端にこびりついた泥。
あれは、ひとつの家だけの問題ではない気がした。
そのとき、小部屋の外をぱたぱたと軽い足音が駆けていくのが聞こえた。
続いて、誰かが廊下の端で言い争う声。
「だから、勝手に入るなって……!」
「でも、さっきここだって……!」
レティシアは顔を上げた。
次の瞬間、小部屋の扉が勢いよく開いた。
「レティシア様!」
飛び込んできたのはフランだった。頬を赤くして息を切らせ、慌てた様子で扉を閉める。
「どうしたの」
「また、あの……ミアさんのお住まいの地区から人が来てます」
レティシアの心臓がひとつ強く鳴った。
「どんな人?」
「若い男の人です。弟だか妹だかが熱を出しているって。施療院に行ったけど、今は聖女様たちが貴族のお方の来訪準備で忙しくて、ちゃんと診てもらえないって……」
フランの言葉は早口だった。
それだけ焦っているのだろう。
「それで、私のところへ?」
「ミアさんから聞いたそうです。あの、昨日、あなたが子どもを助けたって……」
噂になっている。
早すぎる、とレティシアは思った。
けれど、貧しい地区では一晩で話が広がることも珍しくない。助かった子がいる、あの追い出された偽物聖女が何かした、そういう話ならなおさらだ。
「その人は今どこに?」
「裏の、荷運び場のところに。見つかるとまずいと思って、いったん隠れてもらってます」
「……ありがとう、フラン」
レティシアは立ち上がった。
「えっ、行くんですか?」
「行かなきゃ何も分からないでしょう」
フランは不安げに目を揺らした。 「でも、修道女長に知られたら……」
「知ってる。でも、熱を出した子どもがいるって言うのなら、せめて話だけでも聞く」
そう口にしたとき、不思議なほど迷いはなかった。
教会の中で命じられた規律と、目の前に差し出された助けを求める手。
どちらを優先するかなど、昨夜の時点で決まっていたのかもしれない。
フランに見張りを頼み、レティシアは裏の荷運び場へ向かった。
古い木箱と麻袋が積み上げられた薄暗い場所に、痩せた若い男が立っていた。日に焼けた肌、荒れた指先、安物の上着。年は二十前後だろうか。こちらを見る目には、警戒と焦りが入り混じっている。
「あんたが……」
男は言いかけて、少し言葉を選ぶように口を閉じた。
偽物聖女。
そう言おうとしたのだろう。
「レティシアよ。用件を聞くわ」
男は一瞬だけ面食らったようだったが、すぐに顎を引いた。
「ダリオだ。妹が熱を出してる。三日目だ。水を飲んでも吐くし、寝床から起きない」
「年はいくつ?」
「六つ」
「他に同じような人は?」
その問いに、ダリオの表情が変わった。
「……いる」
「何人?」
「分かんねえよ。うちの並びだけでも、妹のほかに二人。向かいの家の婆さんも、昨日から寝込んでる。下の通りじゃ子どもがひとり死んだって話も聞いた」
レティシアの背筋にぞくりとしたものが走る。
「それを、教会は?」
「聖女様が来て祈った。で、終わりだ」
ダリオは吐き捨てるように言った。
「水を飲ませろとか、部屋を空けろとか、そんなこと誰も言わねえ。ただ『神を信じろ』だけだ。信じて治るなら、とっくに治ってる」
その言葉には怒りと、怒ることに慣れすぎた人間の諦めが混ざっていた。
レティシアは少しだけ目を伏せる。
予想していた。
けれど実際に聞くと、やはり苦いものが胸に溜まる。
「ミアから何を聞いたの?」
「水を飲ませたって。布を替えたって。部屋を空けたって。そしたら、あの子が朝まで持ったって」
ダリオは真っすぐにレティシアを見る。
「それが本当なら、来てくれ」
その目は、助けてくださいと素直に言う類のものではなかった。
頼ることにも、期待することにも慣れていない目だった。
それでも、最後の一歩だけは踏み出してきたのだと分かる。
「案内して」
レティシアが即答すると、今度はダリオの方が目を見開いた。
「……いいのか」
「よくはないでしょうね。見つかったら叱られる。でも、話を聞いて何もしない方がもっと嫌」
ダリオの口元が、わずかに歪む。 「変な聖女だな」
「偽物だから」
そう返すと、ダリオは初めて少しだけ笑った。
ほんの一瞬だったが、その表情で彼の年相応の若さが見えた気がした。
裏門を抜け、教会の石畳を離れると、空気が変わった。
貧民街と呼ばれる地区は、教会の建物からそう遠くない場所にある。けれど、景色はまるで別の世界だった。道は狭く、雨の名残でぬかるんでいる。両側に並ぶ家は壁板が歪み、屋根の端はほつれ、窓は小さく薄暗い。生ごみの匂いと、泥と、よく分からない生活臭が混ざっている。
通りを歩く人々の顔色も良くなかった。痩せた母親、肩を落とした男、裸足でうずくまる子ども。教会の前で見た“助けを求める人々”より、さらに一段下の場所にいる人たちだと、ひと目で分かる。
「ここよね、ミアの家があるのは」
「ああ。もっと奥だ」
進むにつれ、水の匂いが強くなった。
いや、正確には、水そのものではなく、淀んだ水の匂いだ。
路地の角を曲がったところに、小さな井戸があった。周囲は泥でぬかるみ、すぐそばには洗い物の汚れを流した跡がそのまま残っている。蓋もなく、縄桶は地面に転がり、桶の口には乾きかけた汚れがこびりついていた。
レティシアは足を止める。
「……これを飲んでいるの?」
「この辺じゃここしかねえ」
「他の井戸は?」
「上の通りのは貴族屋敷の使用人用だ。俺たちは使えない」
ダリオは慣れた調子で答える。
その“慣れ”が、かえって重かった。
井戸の周囲を見回す。
すぐ横の家の前では、汚れた布がまとめて放り出されていた。少し離れた場所には吐瀉の跡らしきもの。通りの端には、排水とも呼べない溝があり、流れず淀んだ水が溜まっている。
レティシアの頭の中で、点がいくつもつながり始める。
もちろん、断定はできない。
熱の原因はひとつではない。食べ物かもしれないし、水かもしれないし、ただ弱っているところへ別の病が重なったのかもしれない。
でも、ひとつだけははっきりしている。
この環境で、祈りだけで何とかなるはずがない。
「妹の家は?」
「こっちだ」
案内された家は、井戸からそう離れていなかった。
低い天井、狭い一部屋、湿った寝具。戸を開けた瞬間、熱と人の匂いがこもった重い空気が流れ出してくる。
寝台代わりの藁束の上に、ひどく小さな女の子が横になっていた。
目は閉じたまま、頬は熱で赤く、唇は乾いている。呼吸は浅く、額に貼りついた前髪が汗で濡れていた。
そばにはやつれた女が座っている。ダリオとよく似た目元をしていたから、母親か姉だろう。こちらに気づくと、驚きと戸惑いで立ち上がりかけた。
「ダリオ、その人は……」
「ミアの子を助けたって人だ」
その一言で、女の顔にわずかな希望と、同じだけの不安が浮かんだ。
「ほ、本当に……?」
「まだ何もしていません」
レティシアは寝台のそばに膝をつく。
熱い。
それだけでなく、手足は妙に冷えている。呼びかけても反応が鈍い。水差しを見れば、ほとんど減っていない。
「最後に飲んだのは?」
「朝……少しだけ。でもすぐ戻して……」
「食べたのは?」
「昨日の夕方に薄いスープを……でもそれも、ほとんど……」
女の声はかすれていた。
眠れていないのだろう。目の下に濃い影が落ちている。
レティシアは部屋の中を見回した。
窓は閉め切られ、空気は淀んでいる。寝具は湿っていて、替えの布も少ない。奥の桶には汚れた水。狭い部屋に熱気がこもり、病人にとっては息苦しい環境だった。
「……よく、ここまで持ったわね」
思わず小さく漏らすと、女はびくりと肩を震わせた。
「た、助からないんですか……?」
「そんなことは言っていません」
レティシアは即座に否定した。
「ただ、このままじゃ苦しい。まず空気を入れて。戸か窓を少し開けて、人が多いなら減らす。汚れた布は別にして、体を拭く布はできるだけきれいなものを」
女はぽかんとしていた。
ダリオもまた、怪訝そうに眉を寄せる。
「聖女って、そういうこと言うのか」
「言わない聖女が多いだけ」
レティシアはそう返した。
「水はある?」
「井戸のなら……」
「いったん煮て。冷ましてから少しずつ飲ませる。無理にたくさんはだめ。ひと口、ふた口でいい。吐くなら少し間を置いて、また」
自分の口から出てくる指示は、特別なものではない。
前世の診療所なら、もっと早く、もっといろいろな道具を使えた。
でもここには何もない。だからこそ、できることを積み上げるしかない。
女が戸惑いながら頷くのを見て、レティシアは静かに言った。
「同じように熱を出している人、ほかにもいるんでしょう?」
ダリオが舌打ちするように息を吐いた。
「いる。だから来てほしかった」
「何人いるのか教えて。大人と子ども、どの家か、動けるかどうか」
「……全部か?」
「全部」
ダリオは一瞬、レティシアを見つめた。
試すような目だった。
「そんなこと聞いてどうする」
「広がっているなら、一人だけ見ても足りないから」
部屋の空気が、ぴたりと止まったような気がした。
女がゆっくりとレティシアを見る。
ダリオの表情からも、警戒が少しだけ消える。
「……あんた、本気なのか」
「本気よ」
レティシアは答えた。
「この熱が何なのか、今ここで断言はできない。でも、同じ場所で似たような人が増えているなら、ひとりを診て終わりじゃ意味がない。水のこと、布のこと、部屋のこと、ちゃんと見ないと」
自分で言いながら、胸の奥が熱くなるのを感じた。
そうだ。
これだ。
昨夜からずっと胸の内で形になりかけていたものは。
ルカを助けて終わりではない。
同じ場所で、同じやり方で、同じように弱っていく人たちがいるなら、その“場所”ごと見なければいけないのだ。
「ダリオ」
「……なんだ」
「案内して。歩ける限りでいい。どこで何人が倒れているのか見たい」
ダリオはしばらく無言だった。
それから、ゆっくりと頷いた。
「分かった。けど、見たって気分悪くするだけだぞ」
「それでも見る」
「……変な女だな」
「偽物聖女だから」
またそれか、と言いたげにダリオが鼻で笑う。
だが今度の笑いには、さっきより少しだけ敵意が少なかった。
部屋を出る前に、レティシアは熱を出した少女の額にもう一度触れた。
熱い。
でもまだ、終わった熱ではない。
「煮た水を、少しずつ。布を替えて、空気を入れて。私が戻るまで、それだけ続けて」
女は今度は迷わず頷いた。
外へ出ると、曇った空の下で井戸の縄がぎい、と鳴った。
別の家の前では、誰かが咳き込み、別の路地では子どもの泣き声がした。
ひとり。
ふたり。
それだけではない。
レティシアは狭い通りを見渡す。
祈りでは治らない熱。
きっとこの路地のどこかに、その原因がある。あるいは、悪くする理由がいくつも重なっている。
どちらにせよ、見つけなければならない。
「こっちだ」
ダリオが先に立って歩き出す。
レティシアはその背中を追った。
教会の裏手で帳簿を数えているだけでは、絶対に見えないものが、この先にはある。
胸の奥で、昨日とは違う緊張が脈を打っていた。
目の前の一人を助けるだけでは足りない。
そのことを、今やっと、自分の足で確かめに行くのだと分かっていた。




