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偽物聖女と呼ばれた私は、奇跡ではなく医術で王国を救う  作者: sixi


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第二十四話 奇跡より先に広まったのは、“あの屋敷では話を聞いてくれる”だった

次の日の朝、西棟の空気はこれまでとは少し違っていた。


人が多いこと自体は、もう珍しくない。


裏門の前には今日も朝早くから列ができ、子どもを抱いた母親、付き添いの父親、咳をこらえる老人が順を待っている。桶の水音、廊下を行き交う足音、紙をめくる音。そういうものも、もうこの場所の日常になりつつあった。


違っていたのは、人々の顔つきだった。


切羽詰まった不安だけではない。


どこか、“ここなら話していい”と思って来た顔が増えていた。


「レティシア様」


エルザが帳面を手に近づいてくる。


「今朝の列ですが、具合の悪い本人を連れている方ばかりではありません」


「また付き添いだけの方が?」


「ええ。それに……」


エルザは少しだけ眉を寄せた。


「“まず話を聞いてほしい”とおっしゃる方が目立ちます」


レティシアは目を瞬く。


「話を?」


「はい。症状ももちろんですが、それ以上に“昨日こう言われた”“家でこんなふうになった”“どこまで待ってよいのかわからない”と」


その報告を聞いた瞬間、レティシアは少しだけ息を止めた。


ああ、と胸の奥で思う。


広がっているのは、水の飲ませ方だけではないのだ。


話を聞いてもらえること自体が、噂になっている。


最初に入ってきたのは、三歳ほどの女の子を連れた母親だった。


子どもは熱っぽいが、ぐったりしているほどではない。頬が赤く、母親のスカートの裾をぎゅっと握っている。母親自身の方が、よほど張りつめて見えた。


「お座りください」


レティシアが促すと、母親は椅子に腰を下ろしたものの、すぐには症状を話し始めなかった。


代わりに、ためらいがちに口を開く。


「あの……まず、少し聞いてもらってもいいですか」


「はい」


レティシアは自然に頷いた。


「昨日、教会へ行ったんです。娘が熱を出して。でも、まだ返事もあるし、水も飲めてるなら慌てなくていいって言われて」


「それ自体は、間違いではありません」


そう答えると、母親は少し驚いたように顔を上げた。


教会の言ったことを、頭から否定されると思っていたのかもしれない。


「ただ」


レティシアは続ける。


「“慌てなくていい”と、“見なくていい”は違います。何を見ておくかが大事です」


母親の肩が、目に見えて少し下がった。


その反応でわかる。


この人は、正解を押しつけられに来たのではない。


不安を丸ごと切り捨てられない場所を探して来たのだ。


「昨夜、何が一番心配でしたか」


そう尋ねると、母親はようやく息をついた。


「熱が高いこともなんですけど……夜にぼうっとしてる時間があって。それが怖くて。でも、どこまでが様子見で、どこからが危ないのか、自分じゃわからなくて」


「わかりました。では、その話から整理しましょう」


横でマティアスが帳面を開く。


名前。


年頃。


いつから。


飲水。


反応。


でも今日は、それに加えて最初の一行目へこう書いた。


来訪前の主訴:判断の不安。


マティアスは書きながら少しだけ首を傾げたが、何も言わなかった。


すでに彼も気づいているのだろう。


ここへ来る人の困りごとは、病だけではない。


わからないまま待たされることそのものが苦しいのだと。


その母親は、女の子の様子を診てもらい、危ない反応の見方、飲める量の見方、眠っている時にどこを見ればいいかをひと通り聞いてから帰っていった。


帰る時の顔は、来た時より明らかに違っていた。


病気が治ったわけではない。


でも、自分が見ていいものを持って帰る顔になっていた。


二人目は、病人を連れていない老女だった。


近所の者らしく、腰を少しかがめている。部屋へ入るなり、周囲を見回してから、ぽつりと言った。


「本当に帳面があるのねえ」


それからレティシアを見る。


「あんたが、あの“偽物聖女さん”かい」


その呼び方に、もはや露骨な棘はなかった。


「そう呼ばれることはあります」


「じゃあ聞くけどね」


老女は椅子へ腰を下ろし、手を膝に置いた。


「うちの隣の嫁さん、あんたのとこ来て帰ってから、夜も子の顔色を見るようになったんだよ。前は熱が出たら“とにかく寝かせて朝まで待つ”ばっかりだったのに」


レティシアは静かに頷く。


「それで?」


「それで、その子が夜中に呼んでも返事が鈍くなったって気づいて、朝を待たずにまた来たんだって。今は持ち直してるらしい」


老女は少しだけ口元を歪めた。


「皆、“水を飲ませろ”って話ばっかり広がってると思ってたけど、違うね」


「違う、とは?」


「あの屋敷じゃ、ちゃんと話を聞いてくれるって広がってる」


その一言で、部屋の空気が少し変わる。


マティアスの筆が止まる。


セラもトーマの寝台のそばで顔を上げた。


老女はさらに続ける。


「教会じゃ、悪いって言われたら悪い、待てって言われたら待て、祈れって言われたら祈れだろう。でもここへ来た連中は、帰る時みんな“まず話を聞いてもらえた”って言うんだよ」


レティシアは返事をすぐにはできなかった。


話を聞いてくれる。


あまりに当たり前のことのようでいて、この世界ではそれ自体が希少なのだと、改めて突きつけられた気がした。


ルシアンが、少し離れた机でその言葉を聞きながら、静かにメモを取っている。


彼もおそらく、これが単なる情緒的な評判ではなく、場の機能として重要だと見ているのだろう。


老女は用件を終えたように立ち上がると、帰り際に言った。


「奇跡があるかどうかは知らないよ。でも、話を途中で切られない場所は貴重だ」


その言葉は、妙に重かった。


昼前になると、付き添いだけで来る者が続いた。


熱のある夫を家に寝かせてきた女。


子どもと母親が一緒に弱っていて、どちらを先に見ればいいか困っている父親。


数日前にここで説明を受け、今日は“昨夜こうなった”と経過を話しに来た母親。


皆に共通しているのは、最初の言葉が「診てください」ではなく、「少し聞いてください」になりつつあることだった。


それを見ながら、レティシアは帳面の欄が少し足りない気がしてきた。


病の状態を書く欄はある。


したことも、その後の変化も書ける。


だが、“何に困って来たか”をもう少しはっきり残した方がいい。


「マティアス」


「はい」


「欄をひとつ足そう」


「何をです?」


「来訪時の困りごと」


マティアスがぱちりと瞬きをする。


「症状じゃなくて?」


「症状も含めて。でも、“何がわからなくて来たか”“何を不安に思っているか”を分けて書きたい」


ルシアンが、その言葉に顔を上げて頷いた。


「良い判断です。受診理由の細分ですね」


難しい言い方だが、意味はわかる。


何に困って人が来るのかが見えれば、この場の役割ももっとはっきりする。


マティアスはすぐに新しい紙へ見出しを書き足した。


来訪時の困りごと。


判断の不安。


飲水の仕方。


夜間の見守り。


教会での待機指示後の相談。


まだ仮の言葉だが、それだけでも輪郭が変わる。


午後、ある父親がやってきた。


背中に四歳の息子を負ぶい、妻は家で赤子を見ているという。子どもは熱があるが、受け答えはできる。緊急ではない。


だが父親は部屋へ入るなり、思い詰めた顔で言った。


「すぐどうこうじゃないかもしれないんです。でも、昨日、教会で“父親がうろたえるな”って言われて」


その一言に、レティシアの眉がわずかに動く。


父親は苦く笑った。


「うろたえてるつもりはないんです。ただ、何を見ればいいか知りたかっただけで」


「それで、ここへ?」


「……はい。ここは、ちゃんと最後まで話を聞いてくれるって」


その言葉に、今度はマティアスがはっきりと息を呑んだ。


もう、母親だけではない。


“話を聞いてくれる場所”として、西棟が認識され始めている。


レティシアは父親を座らせ、息子の様子を見ながら、どこが心配で、昨夜どうだったか、今朝はどうかを順に聞いた。


その途中でふと思う。


自分がしていることは、特別なことではないのかもしれない。


最初から話を最後まで聞く。


途中で切らない。


決めつける前に、様子を確認する。


それだけのことだ。


でも、その“だけのこと”が足りない場所が多すぎたのだろう。


夕方近く、ルシアンがふと帳面をのぞき込んできた。


「面白いですね」


「またそれですか」


レティシアが少し呆れると、彼は薄く笑った。


「ええ。今日は特に面白い」


「何が見えました?」


「来訪理由の変化です」


彼は指先で新しい欄を示した。


「ほら。“高熱”“嘔吐”“咳”だけではなく、“判断の不安”“教会での指示後の相談”“夜間対応への不安”が増えている」


レティシアはその文字列を見下ろした。


たしかにそうだ。


ここはもう、ただ病人を寝かせる場所ではない。


人が、自分の見たことや不安を話し、整理しに来る場所になり始めている。


「奇跡より先に広がるのがこれとはね」


ルシアンが静かに言う。


「これ、とは?」


「あの屋敷では話を聞いてくれる、です」


その言葉を聞いた瞬間、今日一日見てきた顔が頭の中に並ぶ。


椅子に座る前にまず「少し聞いてください」と言った母親。


帳面があることを確かめに来た老女。


“うろたえるな”と言われて困っていた父親。


彼らは皆、答えだけではなく、途中の話を置ける場所を求めて来た。


マリアが、ユリウスの様子を見に来たついでにその会話を聞いていたらしく、静かに頷いた。


「それは、とても大きいことよ」


「奥様もそう思われますか」


「ええ。わたくし自身がそうだったもの」


彼女は少し遠くを見るような顔をした。


「最初、わたくしは“聖女様がいらしているのだから大丈夫”と自分に言い聞かせるしかなかった。でも本当は、怖かった。何が起きているかも、何を見ればいいかもわからないまま、ただ祈るしかないのが」


その言葉に、部屋が静かになる。


侯爵夫人が自分の弱さをこうして口にするのは、やはり重い。


「でも、レティシアはまず見て、それから話してくれたでしょう」


マリアは続ける。


「だから、わたくしはようやく自分の目で息子を見ることができたのよ」


レティシアは返す言葉を失った。


それはたぶん、西棟へ来る人たち全員にも少しずつ起きていることなのだろう。


見てもらうことと、話を聞いてもらうこと。


その二つが揃って、初めて自分でも見ることができるようになる。


夕暮れ時、最後の来訪者を送り出したあと、レティシアは新しい頁へ今日のまとめを書き始めた。


本日、来訪者の主訴に“話を聞いてほしい”が目立つ。


病状そのものに加え、判断の不安・教会での指示後の相談・夜間の見守りへの不安が増加。


近隣住民より、“あの屋敷では話を聞いてくれる”との評判あり。


書いてから、その最後の一行を何度か見返した。


奇跡より先に広まったのは、“あの屋敷では話を聞いてくれる”だった。


それは派手さのない評判だ。


物語にするなら地味すぎるくらいかもしれない。


でも、この領で人を動かし始めているのは間違いなくそれだった。


誰かの言葉を途中で切らないこと。


不安を笑わないこと。


わからないまま待たせるだけで終わらせないこと。


そういう当たり前が、奇跡よりずっと先に人の口から口へ渡っていく。


そしてそれは、きっと教会にとって、また別の意味で厄介な広がり方なのだろう。


なぜなら、“話を聞いてくれる場所”を知った人は、もうただ黙って従うだけには戻りにくいのだから。

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