第二話 偽物聖女、施療院を追い出される
司祭マルグスに命じられたのは、日の出から間もない時刻だった。
「レティシア・エルノア。あなたには、しばらく施療院への立ち入りを禁じます」
その言葉は、朝の礼拝堂にひどくよく響いた。
長椅子の並ぶ石の床は、まだ夜の冷たさを残している。高い窓から差し込む光は白く、祭壇の金細工だけをやけにまぶしく浮かび上がらせていた。
レティシアは礼拝堂の中央に立たされ、真正面から司祭を見上げていた。
その少し後ろには、上級聖女エヴェリーナと、施療院付きの修道女たちが並んでいる。
まるで裁きを受ける罪人だった。
「昨夜、あなたは許可なく施療に介入し、聖女の奇跡が不完全であるかのような誤解を招きました。これは教会の規律を乱し、人々の信仰を揺るがしかねない重大な問題です」
マルグスの声はよく通った。
礼拝堂の隅に控えていた下働きの少年や、掃除の手を止めた修道女見習いたちが、息をひそめてこちらを見ているのが分かる。
レティシアは一度だけ目を伏せ、それから顔を上げた。
「誤解ではありません。あの子には、祈りだけでは足りなかったんです」
空気がさらに冷えた。
エヴェリーナがわずかに眉を動かす。
修道女たちの間で、かすかなざわめきが走った。
「まだ言うのですか」
マルグスの声に、今度は明らかな苛立ちが混じる。
「あなたは昨夜、自分が何をしたのか理解していない。聖女様が施された奇跡を、まるで失敗したかのように扱ったのですぞ」
「失敗したとは言っていません。ただ、あのままでは危なかった」
「黙りなさい」
短く、鋭い一喝だった。
レティシアは唇を引き結ぶ。
ここで感情的になったところで、事態は良くならない。それは分かっている。けれど、目の前の男が“人が助かったこと”ではなく“教会の面子”だけを見ているのだと思うと、どうしても腹の底が冷たくなった。
マルグスはひとつ咳払いをして、あくまで荘厳な裁定であるかのように言葉を続けた。
「あなたの処分を申し渡します。本日以降、当面の間、施療院への立ち入りを禁じる。奇跡の補助も、病人への接触も認めません。今後は記録整理、洗濯、倉庫の棚卸しなど、裏方の雑務に従事しなさい」
それは実質的な追放だった。
教会に籍は残す。
だが聖女候補としての役目は奪う。
表向きは“罰”ではなく“配置転換”だとしても、意味は同じだ。
レティシアの手が、法衣の裾の内側で小さく握られた。
偽物聖女。
出来損ない。
奇跡を起こせない半端者。
そう呼ばれてきたことには慣れているつもりだった。
けれど、目の前で子どもが死にかけていた。その命を前にしてさえ、この人たちは自分を黙らせる方を選ぶのだと思うと、胸の内側がじりじりと焼けるようだった。
「何か言うことは?」
マルグスが問う。
言うべきことは山ほどあった。
施療院の空気は淀んでいること。汚れた布が使い回されていること。病人を同じ部屋に押し込めていること。清潔な水も、十分な休息も、食事も足りていないこと。
でも、それを今ここで並べたところで、彼らは聞かない。
レティシアは静かに息を吸った。
「……承知しました」
それだけ答える。
マルグスは満足したように頷いた。 「よろしい。自らの軽率さを反省し、祈りなさい」
祈り、か。
レティシアはうつむきそうになるのをこらえた。
もし祈るだけで子どもが助かるのなら、昨夜あんなに怖い思いをしなくて済んだはずだ。
「では、下がりなさい」
面談はそれで終わった。
礼拝堂を出ると、廊下の空気はひんやりとしていた。壁際の細い窓から射し込む朝日が石床の一部だけを明るく照らし、あとは薄暗いままだ。遠くで鐘が鳴っている。
レティシアはその場で立ち止まり、ゆっくりと息を吐いた。
疲れがどっと押し寄せてくる。昨夜はほとんど眠っていない。あの子が朝まで持つかどうか、気が張り詰めたままだったのだから当然だった。
「……レティシア様」
控えめな声に振り返ると、施療院付きの若い修道女見習いが、おずおずと立っていた。名はフラン。いつも薬草の仕分けや湯沸かしをしている、まだ十代半ばの娘だ。
「何?」
「その、あの……」
フランは周囲を気にするように視線をさまよわせてから、そっと声をひそめた。
「昨夜の、あの子……朝方、自分で少し水を飲めたそうです」
レティシアは目を見開いた。
「本当に?」
「は、はい。熱はまだ高いですし、苦しそうなのは変わりません。でも、夜のうちよりは顔色が……その……」
フランは言葉を選ぶように口ごもった。
大っぴらには言えないのだろう。レティシアのやり方が役に立ったなどと知られれば、彼女まで咎められるかもしれない。
それでも伝えに来てくれたのだ。
「ありがとう、フラン」
そう言うと、フランはほっとしたように小さく笑い、それから慌てたように背を向けた。
「で、では、失礼します……!」
ぱたぱたと足音が遠ざかっていく。
その背中を見送りながら、レティシアは胸の奥に、ほんの少しだけ温かいものが灯るのを感じた。
まだ安心はできない。
あの子が完全に助かったわけでもない。
けれど、少なくとも朝は越えた。
それだけで十分だった。
レティシアは与えられた新しい仕事場──倉庫の隣の小部屋へ向かった。
中には古い帳簿の山と、湿気を吸った麻袋、使い古された布、棚卸し用の札束が無造作に積まれている。窓は小さく、空気は埃っぽい。
「ここで反省していなさい、ということね」
皮肉を呟いてみても、返事をする者はいない。
机代わりの箱の上に古い帳簿を広げる。
けれど文字はまるで頭に入ってこなかった。
子どもの乾いた唇。
母親の泣き声。
礼拝堂での処分。
そして、思い出した前世の記憶。
どれもが頭の中でぐるぐると回り続ける。
前世の自分は、決して特別ではなかった。
大病院の名医でもなければ、誰もが知る研究者でもない。町の小さな診療所で、熱を出した子ども、転んで膝を切った子、食べられなくなった老人、寝込んだ母親を相手に、毎日ばたばたと走り回っていただけだ。
それでも、知っていることがある。
清潔な水が命をつなぐこと。
汚れた布や淀んだ空気が人を弱らせること。
病人を同じ場所に押し込めれば、悪くなる者が増えること。
ほんの少しずつでも、飲ませ、食べさせ、休ませることが大事なこと。
奇跡みたいな話ではない。
でも、だからこそ確かなことだ。
「……こんなもの」
レティシアは帳簿を閉じた。
今この瞬間にも、施療院の外で祈りだけでは足りない誰かがいるかもしれないのに、ここで布の枚数を数えている場合ではない。
そう思ったとき、小部屋の扉がこつこつと叩かれた。
「誰ですか」
「……わ、私です」
聞き覚えのある声だった。
扉を開けると、そこには昨夜の母親──ミアが立っていた。
ひどく緊張しているのが一目で分かる。着古したスカートの裾をぎゅっと握りしめ、目元は泣きはらしたように赤い。けれどその腕の中で、昨夜の子どもは眠っていた。まだ顔色は悪いが、少なくとも昨日のような危うい浅さでは呼吸していない。
「……入っても、いいでしょうか」
レティシアは周囲を見回した。
廊下に人の気配はない。
「早く、中へ」
扉を閉めると同時に、ミアは深々と頭を下げた。 「ありがとうございました……! 本当に、ありがとうございました……!」
「頭を上げて。まだ安心はできないわ」
「それでも……それでも、昨夜までと全然違うんです。今朝は自分で少し水を欲しがって、目も開けて……!」
声を震わせながら、ミアは子どもを見つめた。
その表情に浮かんでいるのは、安堵と、まだ消えない恐怖と、それでも確かにすがる先を見つけた人の顔だった。
「名前は?」
「え?」
「この子の名前」
「あ……ルカ、です」
「ルカ」
レティシアはそっと呼びかける。
子どものまぶたがかすかに動いた。
「昨日よりは良さそうね。でも、まだ油断はできないわ。ちゃんと飲めているか、吐いていないか、身体が熱すぎないか、夜のうちにまたぐったりしないか、見ていて」
「は、はい……!」
「布はできるだけ清潔なものに替えて。難しければ一度よく洗って、熱い湯をかけて、乾かしてから。部屋は人を減らして、空気をこもらせない。食べられそうなら、薄い粥でも、汁でもいい。少しずつでいいから口に入れて」
ミアは必死に頷いた。
何度も繰り返しながら、言葉を覚えようとしている。
「でも、教会の方たちは……あまり余計なことをするなって」
「ええ」
レティシアは短く答えた。
ミアが顔を曇らせる。 「私、怖いです。聖女様に逆らったなんて思われたら……でも、昨日、あなたが来てくださらなかったら、ルカは……」
そこで言葉が詰まり、ミアの目にまた涙がにじんだ。
レティシアは少し迷ってから、静かに言った。
「私は聖女様に逆らいたいわけじゃないの。ただ、助かる方法が他にもあるって知っているだけ」
ミアは唇を震わせながら、こくりと頷く。
「……なら、私はあなたを信じます」
その一言は、不意打ちみたいに胸に刺さった。
信じる。
教会でも、礼拝堂でも、ずっと与えられなかった言葉だった。
奇跡を起こせないから、足りない者。半端者。偽物。そう見られてきた自分に、目の前の女はただ「信じます」と言った。
レティシアはうつむきそうになるのをこらえる。
「ありがとう」
ようやくそれだけ返した。
ミアは持っていた小さな包みを差し出した。 「お礼なんてできるものじゃないんですけど……家にあった乾いた豆を少しだけ。もし、受け取っていただけるなら」
「そんな、大事なものを」
「受け取ってください。私、何か返したいんです」
断る方が失礼だと思い、レティシアはそっと受け取った。
軽い包みだった。けれど、その重みは不思議と大きく感じられた。
そのとき、廊下の向こうで誰かの足音がした。
ミアがびくりと肩を震わせる。
「行って。見つかると面倒になるわ」
「は、はい……! あの、また、もし様子が変だったら……」
「来て。時間は気にしなくていい」
ミアは何度も頭を下げて、小部屋を出ていった。
扉が閉まる。
その向こうに遠ざかる足音を聞きながら、レティシアは包みを胸元に引き寄せた。
教会は自分から施療を取り上げた。
人を助ける場から遠ざけた。
偽物聖女と呼び、口を塞ごうとした。
それでも。
助かった子どもがいる。
感謝を伝えに来た母親がいる。
そして自分の中には、確かに知っていることが残っている。
奇跡ではなく、手を動かすこと。
祈りではなく、見て、考えて、整えること。
そのとき、再び扉が叩かれた。
今度は先ほどよりも遠慮のない、強めの音だった。
「レティシア・エルノア。中にいるのでしょう?」
修道女長の声だ。
レティシアは包みを素早く机の下に隠し、扉を開けた。
修道女長は厳しい顔で言う。 「倉庫の裏で、あなたを訪ねる平民がいたそうですね」
早い。もう耳に入ったのか。
「少し言葉を交わしただけです」
「今後はおやめなさい。あなたは罰を受けている身です。施療に関わるような真似は許されません」
「……分かりました」
「本当に反省しているなら、その態度を行動で示しなさい」
そう言い残して、修道女長は去っていった。
扉を閉めたあと、レティシアはしばらく動かなかった。
室内は静かで、外の鐘の音だけがかすかに聞こえる。
やめろと言われた。
関わるなと言われた。
それでも、もう知ってしまった。
教会の外にいる人たちは、祈りだけでは足りないことを。
そして、自分にはそれを見て見ぬふりできないことを。
レティシアは机の下から豆の包みを取り出し、そっと開いた。
乾いた小さな豆がころりと掌に転がる。
ほんの少しの礼。
ひどくささやかで、でも確かに“救われた側”から渡されたもの。
「……そう」
小さく呟く。
「私がいなくてもいいなら、こんなもの、届くわけないものね」
教会は自分を雑務係にした。
けれど、人はもう、助けられたことを知ってしまった。
なら、この先どれだけ隠そうとしても、きっと無理だ。
レティシアは静かに豆の包みを握りしめた。
偽物聖女。
そう呼びたいなら、好きに呼べばいい。
でも次にまた、祈りだけでは救えない命が目の前に現れたなら。
今度も自分は、きっと黙っていられない。
胸の奥に生まれたその確信は、昨夜よりもずっと、はっきりとしていた。




